特別


次の日曜に遊びに行っていいですか。
その凡庸過ぎる文面が気に入らなくて、譲介は舌打ちをして書いていた文章をデリートした。
今日は、一体何度同じことをしているだろう。
ため息を吐きながら、冷めたコーヒーを飲んだ。
シャワーを浴びてからTETSUの勧める店で買ってきたコーヒーを淹れ、収録が済んだ脚本の中に、今夜の芝居の不味かったところ、出来の悪いところを台詞やト書きの横に緑のペンで書き、他の出演者の演技で気が付いたところ、TETSUが褒めていたことを青のペンで書き出す。
演技をしている間の、隠されてない方の輪郭、メスを握る指先、杖を握る手。
カチンコが鳴った後の、緊張の解けた瞬間の横顔。
よくやったと譲介を褒めるときの顔を思い出すと、注意が散漫になる。
そんな風にしているうちに、いつの間にか十二時を回っていて、そろそろ一時になろうという時間になっていた。
寝てたら、起こしてしまうな。
もし起きていれば、メールに気付いて返事をくれるかも。
その二つの可能性の間で、譲介は揺れていた。もう、お互い顔合わせしたばかりの時期とは仕事の量も生活時間も違っている。このところは忙しいと言っていたし、こちらから行動しないと、とは思っていても、しつこく思われたら困るな、と思えば、メールひとつ送るのも難しかった。



夕方からの収録は、元々、撮影されても採用されない可能性が高い、と言われていた。
譲介と出会った頃には使っていなかった杖を突いて歩くTETSUが、マンションのエントランスに現れたところを、玄関扉付近の離れた場所で見ている譲介の姿が画面に映る。
夕食の買い物を終えた譲介は、TETSUに何気ない顔をして近づく。
杖を突いていない方の側に並び、譲介が何事かを口にすると、TETSUはいつもの、ふてぶてしい笑みを浮かべて、譲介と共にエレベーターに乗り込む。
それは、譲介の想像の中の行動で、実際の譲介は、玄関付近にただ立ち尽くし、彼が気づかずにエレベーターに乗って視界から消えるまでを、ただ離れた場所から見ているだけだ。
ト書きばかりのワンシーンの脚本を読んだ譲介は、TETSUと普通の家族のような顔をして生活する様子を想像している青年は、限りなく僕に似ているな、と思った。子どもになりたいわけではないけれど、恋人として、あるいは近しい友人として、あの人のことを深いところまで知りたいし、当然のように隣を歩く権利が欲しい。
カメラのアングルを変えて、三度収録したけれど、皮肉なことに、どれも一発撮りだった。
役に入り込んだのは譲介だけではない。
TETSUの芝居もまた、譲介と並んで歩く、その歩き方、言葉の間の取り方ひとつとっても、いつものように完璧だった。あるいは、いつも以上に、だろうか。
そもそも、自分自身の年齢よりも上の年の人物を、戯画的にならぬよう演じると言うのが難しい。
医師として、その年代の男としての矜持があり滅多に弱みはを見せないドクターTETSUという人物は、しかし、長い間患っている病のことを観客に忘れさせてはならない。
その絶妙な匙加減が、TETSUらしさなのだ。
譲介は原作を読んで知っているが、TETSUとの生活の綻びが大きくなっていった末の、あの荒れた部屋が出来るまでの譲介の様子は、あまり記述がない。あのノートを書いた心情が一直線状に繋がっていると思うくらいだろうか。日本に住んでいれば、受験に失敗したというその一事が人生の大事であることは共通の理解としてあり、その想像が容易だからだろう。
であれば、あの芝居は、譲介の心の動きを追うシーンでもあるけれど、TETSUの弱さの輪郭を視聴者に見せることになる。
今日の撮りは恐らく、正式採用はされずに、ディスクや写真集などが出るまでのお蔵入りになるに違いない。
それでも、残念ではなかった。
僕たちの家に帰りましょう、と囁く譲介の顔を見たTETSUの、ほころんだ口元。
あの瞬間が、自分だけのものだというのは、悪くない気分だった。


一也でもからかって寝るか、と思って譲介は短いメールを打った。
『起きてるか?』と送信ボタンを押すと、光の速さで返信が来る。
『今まだ車の中だな。後十分。明日の仕事は午後からだから延長は三時まで。』
『了解。』
大学生っていいよなあ、と思いながら、譲介はノートを閉じて、読みかけの脚本を手にベッドに寝転がった。
ぱらぱらとページを捲ると、存外に読みやすいTETSUの字が書かれている。
譲介とTETSUが出会った時期の、ほとんど一年前の脚本だった。
時々、ホンの上で提示される『譲介』とドクターTETSUの関係を見ていると、譲介は、袋小路に迷い込んだような気持になる。

自分の意思とは何だろう。

今、譲介は、自分の意思であの人に惹かれ、好きだと思っているけれど、それは、あの人が、今この時だけでも、役柄上の関係性以上のものを譲介と築こうとしているからで、その意思が介在していなければ成り立たない関係だった。
ちょっと来い、とTETSUから呼ばれた時、最初はどうなることかと思っていた。譲介はこの顔のせいで年上の男女問わず、色の誘いを受けたことが何度もあり、そのたびに以前業界に居て顔が広いマネージャーが盾になってくれていた。
そのたぐいの話であれば蹴倒してでも逃げてくるつもりだったが、事務所はこの人に限ってはノーマークで、聞けばKEIさんと付き合いが長く、時折噂が流れるとしても、やはり同じ年頃の女性に決まっているのだという。二十代の頃は二十代の、三十代になれば三十代の。そして、四十代では同じ年頃の、三十代後半の人と噂になった。気になるなら日の明るいうちに一也と来い、と言われたのもあって、譲介は手書きの地図を渡された通りにTETSUの家に行った。そうしてあの、本の林のような部屋に出会ったのだった。
譲介は、彼の部屋に出入りするようになった頃、気に入りの本の中に挟まれた一枚の写真を見た。
人物は三人。真ん中にいるKEIさんと、あの人と、KEIさんが腕を組んでいる誰か。切り取られた三分の一の部分からはみ出した、インバネスコートのような色の濃いマント、異国の街並み、観覧車。
写真を元の場所に挟み直したタイミングで、コーヒーを淹れたTETSUが譲介を呼びに来た。
その時の、動揺した顔を見て分かった。
あの人が、本の林の中でずっと、昔の夢を見ていることに。


着信が鳴ったので、電話を取った。
「お疲れ。」というこちらの声が少し眠気交じりになっているのを、世話好きの一也は聞き逃さなかった。
「譲介、ちゃんと寝た方がいいんじゃないのか?」
「無理……。会ったの久しぶりだし、暫く会えないのに、寝てる場合じゃない。」
TETSUとの記憶を、譲介は何度も反芻している。遠目に一也と並んだところを見ると、二十歳になるかならずの一也と比べてもあの人は腰が細い感じがして、若い頃はさぞモテたんだろうと思う。
譲介が詳細を省いて話をしたにもかかわらず、一也は「そんな風に観察されてるなんてきっと考えてないんだろうなあ。」と言って笑っている。
さすがに付き合いが長いだけあって、こちらのことを良く分かっている。
一也のことは、譲介は、互いに子役と呼ばれていた時代から名前くらいなら知っているという間柄だった。友だちの友達、くらいの距離感。
あの頃にしがらみが出来るほど距離が近くなかったからこそ、今の共演で距離が詰まったのだろうと譲介は思っている。一也には、現在進行形で好きな女子がいて、一也の方も、僕に好きな人がいることも、それが誰かも知っている。
所謂、共犯者の間柄だ。
連絡を頻繁に交わすようになったのは、何かの打ち上げの時に譲介がスマートフォンの画面を見ていると、あんまり夜更かししてたら肌荒れするぞ、と隣の一也からメッセージが来たのがきっかけだ。いい化粧水とか知ってるのか、と返事をしたら、いくつかの銘柄を上げて、親か恋人に買ってきてもらったら、と書いて来た。一也はどこからかこういう情報を仕入れて来て――きっとこの間話していた年上のスタイリストからだろうが――譲介に色々話している。男の化粧品事情には、一席ぶてるほどの知識があるのに、男女のことはてんで疎いのはなぜなのかと思う。そうでなければ、こんな風に気軽には付き合えないだろうとは思うけれど。
「一也から客観的に見て、あの人と僕のこと、どう思う?」
キタンノナイゴイケンヲオキカセクダサイ、と覚えたばかりの謙譲語で年下の後輩らしく聞いてみると、一也は、困ったように笑っている絵文字に似た表情と波動を電波越しにびゅんびゅん送って来た。
「むしろ、オレが逆に聞きたい。譲介が、今の自分に脈があると思うかどうか。僕とTETSUさんとの話は、寝ながら聞いてたんだろ。あの人、塩対応で評判の和久井譲介から懐かれてること、全然特別に思ってないみたいだぞ。」
「う………。」
そもそもそれは聞く前から分かっていたことではあった。
あの人は、譲介が男であるという以前に、子どもが守備範囲外なのだ。
譲介は、川の中に浮いたオフィーリアのようにベッドで仰向けになって、はあ、とため息を吐いた。
顔を見たばかりだというのに、また会いたいと思うのは譲介ばかりだ。
譲介の思い人は、譲介よりずっと年上で。腹立たしいほど大人なくせに、腹立たしいほど鈍感だった。
あの人が僕に見せる顔は、田舎の勘当息子だった人が、毎日淡々と仕事に関係する知識を取り込み、美しい女とではなく、禄でもない貧乏と苦楽を共にする人生。
彼女作らないんですか、と探りを入れたら、まあ、この部屋見せたら大概の女は引くからなァ、オレのイメージとは違うんだとよ、と言っていた。そもそも、おめぇみたいな男のガキが出入りする場所に惚れた女を連れ込めるか、と言われた後でだけど。
「明日、朝起きたら、僕が突然三十になってたらいいのに。」
そうしたら、あなたが好きですと言っても、笑われはしないだろう。
身長二メートルの大男になってあの人のつむじを見下ろすんだ、と譲介が言うと、一也は短い沈黙をその返事に代えたようだった。
どうせ、可哀想な人を見るような目でこちらを見ているに違いない。
「ちなみに、譲介のその理屈だと、TETSUさんも五十代後半になるけどいいのか。」
「渋くてカッコよくなってると思うから超見たい。」
「まあ、それはそうだな。」
「お前は見なくていいよ、あの人が減る。」と言うと、一也はプッと吹き出した。譲介のそういうとこ、もっとTETSUさんに見せたらいいのに、と言われたことがある。それは譲介自身も分かってるけど、年の差が縮まらないから大人ぶりたいという気持ちの方が強いのだ。
「TETSUさんって、このままいったら、五十になってもあのブーツと白コートは着せられてそうだな。あの格好、似合いすぎる。」
「十年先も一緒にいたい。」と譲介はため息を吐く。
「譲介、人生の先輩としてアドバイスしておくけど、そういうときは、一緒にいたいと思ってる方が、めいっぱい努力することが肝心だからな。それでダメになっても、オレが骨を拾ってやるから。」
「………。」
努力なんて、ほんとは苦手だった。けど、自分より一也に、やっぱり駄目だったか、という顔をされるのも、それはそれで腹が立つことだろう。
譲介は、手元の脚本に書かれた彼の字に触れる。
高校三年生の『和久井譲介』がドクターTETSUと一緒にいるようになってから書き始めたノートは、もう二冊目とも思うし、まだ二冊目でもあった。
『僕』は、この先どれだけの時間を積み上げ、どれだけのノートを埋める言葉を、あの人と綴って行けるのだろう。
「譲介、寝た?」
おやすみ、と一也の声が聞こえてくる。
僕もあの人におやすみと言いたい。
いつか言えたらいいな、と思いながら、譲介は身体を包む眠気に身を委ねた。



powered by 小説執筆ツール「notes」

183 回読まれています