【原利土1819IF】頸と心2


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二 軽い頸・重い心


 数日が過ぎた。
 男の熱は徐々に引き、傷も少しずつ塞がり始めている。右脚はまだ動かせないが、上体を起こして壁に凭れることはできるようになった。片足が使えなければどの道まともに逃げようがなく、脚の拘束だけは解かれた状態で男は変わらず利吉の監視下にあった。
 両手首は前でまとめられている。縄は短く取られ、余りが岩壁の環へ一度通されている。引けば締まり、捻れば噛む。口元へ食べ物を運べる程度の遊びだけを残しながら、抜け道だけを丁寧に潰す括り方だ。粥椀はいつも利吉が同じ位置に置いた。ぎりぎり届く距離。不意を打てるほど近くもない距離。

 利吉はいつも必要最低限の世話だけを淡々とこなした。朝と夕に粥を与え、傷の手当てをし、時折水を汲みに出ていく。それ以外の時間は洞窟の入り口付近で気配を殺したまま外を監視する。横顔はいつも同じ角度で、同じ冷たさを湛えていた。
 会話らしい会話はなかった。互いに必要なことだけを必要なだけ話す。それ以上でも以下でもない関係が、奇妙な均衡を保ったまま続いていた。洞窟の中に流れる時間は緩慢で、男はただ己の身体が癒えていくのを待つことしかできなかった。
 ──その均衡が崩れたのは、七日目の朝のことだった。

「まずは名を言え」
 利吉が目の前に立って言った言葉に、男は粥を啜る手を止めて名を問うた相手を見た。朝靄のような薄い光が洞窟の入り口から差し込み、利吉の輪郭を曖昧に縁取っている。
「……言わない」
「なぜだ」
「言えば足がつくと言っただろう。お前にも私にも得がない」
 利吉は眉一つ動かさなかった。その無表情さも、男にはもはや見慣れたものになりつつある。
「だが、不便だ」
「何がだ」
「『お前』では呼びにくい」
 利吉は淡々と続けた。
「尋問で引き出したことは、整理して残す。必要なら報告に回す。呼称がないと記録が歪む」
 男は薄く笑った。唇の端が僅かに持ち上がる。野良が「名」を求める理屈は、情ではなく管理の手つきそのものだった。呼ぶことは関係を固定することでもある。それを男は好まなかった。
「野良も、私に名乗らなかっただろう」
「私は捕虜ではない」
「……道理だな」
 男は粥の残りを飲み干し、椀を傍らに置いた。木椀が岩肌に触れて、乾いた音を立てる。
「だが、答えは変わらない。名は言えない」
 利吉は暫く男を見下ろしていた。焚き火の残り火が、時折思い出したように赤く明滅する。名乗れないならば偽名でも言えばいいものを適当に流さないあたり、この男にとって名とは重要なものなのだろうかと利吉は思う。しかし利吉にとって名は相手を『扱える形』にする札だった。札がなければ盤面に置けない。そういう曖昧さは綻びになる。
 男は変わらず黙っていた。やがて利吉は小さく息を吐いて言った。
「お前が名乗らないのなら、呼び名は私がつける」
「お前が?」
「これからお前を『クロ』と呼ぶ」
 男は目を瞬いた。
「……人を犬か猫みたいに」
「犬や猫なら懐くだけ可愛げがある」
 抑揚のない声は硝子のように澄んでいて、触れれば切れそうな冷たさを湛えていた。利吉は男の忍服に一瞬だけ視線を移して言う。
「お前の装束は黒だ。それ以上の理由はいらないだろう」
「……」
 男は――否、黒と名付けられた男は、暫し沈黙した。クロ──黒。野良の口から出た音は軽いのに、自分を記号化する札のように皮膚に、耳にへばりつく。きっとこの名を呼ばれるたびに関係は固定されるだろう。捕虜と監視役。逃げ道がないほどに。男はかすかに奥歯をあわせた。
 ──黒。
 血と煤に塗れた、あの夜の色を思い出す名だ。焼け落ちる屋敷。逃げ惑う人々の悲鳴。足元を照らす炎の赤と、その向こうに広がる夜闇の黒。そしてあぜ道に咲き乱れていた曼殊沙華の――。
「…………」
 黒は、遠い記憶を振り払うように目を閉じた。瞼の裏に焼きついた赤が、ゆっくりと闇に溶けていく。
「……好きに呼べ」
「ああ。言われなくてもそうする」
 利吉は椀を下げ、焚き火の傍らに戻った。薪を足し、火の具合を確かめる。その所作は無駄がなく美しいとさえ言える。暫しの沈黙が落ちたが、今度は利吉の方から口を開いた。
「一つ聞く」
「……何だ」
「なぜ抜けた」
 黒は目を開けた。野良はこちらを見ていない。火の番をしながら、ただ静かに問うている。その横顔に、揺らめく炎の影が踊っていた。
「組織を抜ける理由は二つしかない。裏切りか、役に立たなくなって逃げたか」
「……」
「お前はどちらだ」
 黒は天井を見上げた。洞窟の奥に垂れる鍾乳石が、焚き火の光を受けて鈍く輝いている。長い年月をかけて少しずつ伸びてきたのであろうそれは、まるで凍りついた時の石碑のようだった。
「……後者だ」
「役立たずだったと」
「ああ」
「具体的に言え」
 黒は暫く黙っていた。
 言うべきか。言わざるべきか。だがいずれにせよ野良は情報を引き出すつもりでいる。ならばこれくらいは餌として撒いておいても損はない。それに――どこかで、誰かに言ってしまいたかったのかもしれない。この胸の奥で腐り続けているあの日のことを。
「……子供を、切れなかった」
 利吉の手が、一瞬止まった。
 僅かな硬直。それは本当に刹那のことで、見逃してもおかしくないほどの変化だった。だが黒は見逃さなかった。ほんのわずかな、野良の動揺。
「……子供?」
「忍務の標的に、子供がいた。殺せと命じられた」
 黒の声は平坦だった。まるで他人事のように。遠い昔の話をするように。
「私は……できなかった。刃を向けることが」
「標的相手の子か」
「いや。見ず知らずの子供だった。忍務に無関係の、ただそこに居合わせただけの」
 黒は言葉を切った。脳裏に組織を抜けた夜の光景が蘇る。燃え盛る屋敷。逃げ惑う使用人たち。瓦礫の下から這い出してきたのは煤だらけの小さな顔だった。怯えた目。震える唇。それは遠い日の誰かをひどく思い出させた。
 目撃者は消せ、と命じられていた。自分は刀を抜いた。抜いたが――。
「……あの子供を殺すことが、どうしてもできなかった」
「それで抜け忍に」
「ああ。忍務放棄は死罪だ。逃げるしかなかった」
 沈黙が落ち、焚き木がひと欠け大きく爆ぜた。火の粉が舞い上がり、暗い天井へと消えていく。
「……愚かな話だな」
 利吉は低く呟いた。その声には先ほどまでとは違う何かが混じっていた。冷たさの奥に潜む、刃のような鋭さ。
「見ず知らずの子供一人を殺せなかったがために、自分の首を差し出したのか」
「差し出してはいない。まだ繋がっている」
「時間の問題だろう」
「……かもしれんな」
 黒は薄く笑った。自嘲の色を帯びた、乾いた笑み。
「だが、首の方が軽い」
 利吉がはっきりと黒の顔を見据えた。その瞳が初めて――本当に初めて――明確な感情を宿す。怒りとも軽蔑とも違う、もっと複雑な何か。まるで古傷を抉られたかのような、そんな色だ。
「――軽くない」
 その声は低く、硬かった。
「軽いさ。子供の命と、私の首。天秤にかけるまでもない」
「……」
「私の首など、誰も困らない。だが子供は違う。あの子にはまだ、生きるべき時間があった。それを奪う権利は私にはなかった」
 利吉は黙って黒を見つめた。その視線は冷たいままだったが、どこか探るような、或いはただすような色を帯びている。焚き火の明かりが、利吉の瞳の奥でゆらりと揺れる。
「……子供のために──」
 やがて、利吉は静かに言った。一語一語を噛み締めるように、ゆっくりと。
「大人が命を差し出す。それが正しいことだと、本気で思っているのか」
 黒は僅かに眉を寄せた。その問いには、単なる詰問以上の何かがあった。野良の声の奥に、抑え込んだ熱のようなものを感じる。
「正しいかどうかは分からない。ただ、私にはそれしかできなかった」
「……」
「私の命など軽いものだ。守る価値のある子供の命に比べれば――」
「軽くない」
 利吉が遮った。その声は先ほどより鋭く、まるで刃を突きつけるようだった。
「お前は自分の命が軽いと、本気で思っているのか」
「思っている」
「嘘だな」
 黒は目を見開いた。
「本当に軽いと思っているなら、迷わない」
「……」
「お前は迷っている。今も。子供を殺さなかったことを、正しかったのかと、自分の命を差し出したことを間違いではなかったのかと思っている」
 黒は息を呑んだ。
「『軽いということにしておけば、迷わずに済む』」
 利吉の声は、氷よりも冷たかった。
「そう思っているんだろう。自分の命に価値がないと信じ込んでおけば、躊躇わなくて済む。考えなくて済む。そうやって、お前は逃げている」
「……私は、逃げてなど」
「逃げている」
 利吉は断言した。その瞳が、暗い光を湛えて黒を射抜く。
「本当に自分の命が軽いと思っているなら、今それを口にするだけで息を詰めたりしない」
 黒は言葉を探したが、舌の先で崩れた。否定の形だけが浮かび、声にならない。
「子供の話をした時もそうだ。『軽い』と言いながら、お前の呼吸は一度乱れた」
「……」
「軽いなら、乱れない。乱れたのは、重いからだ」
 黒は口を噤んだ。反論できなかった。野良の言葉が胸の奥深くに突き刺さる。鋭く容赦なく、真っ直ぐに。その様子を眺めながら、利吉はほんの僅かに眉根を寄せた。
(……妙だ)
 この男は優秀だ。言葉の選び方も、沈黙の置き方も、必要な時にだけ刃を抜く間合いも知っている。内心がどうであれ、これほどの者が「この程度」で乱れを見せるのは不自然だった。黒の動揺が芝居なら見事だ。だが芝居にしては雑が混じる。呼吸の乱れは一瞬で、本人すら気づかぬほどに小さく、わざわざ見せている種類のものではない。
 利吉は焚き火の赤を見た。赤は同じ形を作らない。ただ揺れて影を刻み、刻んでは消す。
 ──子供。
 その言葉に触れた瞬間、黒の呼吸が乱れた。利吉自身の胸の奥も、わずかに硬くなったのを自分でも誤魔化せない。子供を守るという行為に、こいつは何かを背負っている。
 利吉は自分の喉の奥に残る苦味を、言葉で押し流すように続けた。
「……お前は命を軽く見ているんじゃない」
 言いながら、背を向ける。野良の肩が僅かに強張っているのを、黒は見た。
「重いから──考えたくないだけだろう」
 そう言い捨てて、利吉は洞窟を出ていった。その足取りは普段より速く、何かから逃げるようだった。
 残された黒は、暫くの間動けなかった。
 ──重いから、考えたくない。
 それは選択の苦しみから逃げているだけの行為だと、そう、見抜かれていた。あの冷たい目に。出会って僅か数日の、本当の名も知らぬ男に。
 黒は天井を見上げた。
 視界が滲んでいるのは、熱が戻ってきたせいだろうか。野良の声が、耳の奥で反響していた。
『子供のために、大人が命を差し出す。それが正しいことだと、本気で思っているのか』
 あの問いには、怒りがあった。冷徹な合理主義の裏側に隠された剥き出しの感情。まるで自分自身に問いかけているかのような、あれは何だ。
 黒は目を閉じた。
 野良の過去は知らない。知る術もない。だがあの反応には何かがあった。子供という言葉。犠牲という概念。それらがあの男の中の何かに触れたのだ。
「……似た者同士か」
 黒は、自分が刃を止めた理由が優しさだけだとは毛頭思っていない。あの子供を殺せば、子供の命を否定することになる。そうしてしまえば、あの日自分を守ろうとした者たちの命まで否定してしまう。
 血の匂いは、そう簡単に消えない。あの冷たい月と炎の記憶。夜襲の夜、自分は眠っていた。あの瞬間までは──少なくとも自分の名が護りになるのだと信じていた。
 破られたのは門だけではない。叫び声が上がり、梁が鳴り、闇が一気に赤へと変わった。走り込んできた家臣の手がおのれの襟を掴んだ。乱暴で、震えていて、だが決して離すまいとする腕だった。
 逃げてください、と言われた。若様早く、と呼ばれた。背中を押された。自分は振り返った。振り返ってしまった。燃え盛る屋敷の向こうに剣の光が幾つも走り、知っている顔が切られ、次々に倒れていくのが見えた。
 誰かが自分の代わりに刃を受け、誰かが自分の代わりに名を名乗り、誰かが自分の代わりに死んだ。父も母もそうだった。自分に生きろ、と言い残して。
 その命が無駄にならなかったと信じるために生き延びてきた。生きることが弔いだと、そう言い聞かせてきた。だから、もしも自分が子供を殺せば──あの日の自分を殺すことになる。あの夜、命を投げうって子供の命を守ることを選んだ者たちの意思を、ここで裏切ることになる。
 刃を止めたのは、優しさではない。あの日の彼らの手を否定できなかっただけだ。
 黒は焚き火の赤を見た。赤は温いのに、どこか残酷だった。燃えているのは薪だけではなく、胸の奥にしまい込んだ夜の方だ。
 焚き火は静かに燃え続けている。赤い炎が岩肌をゆらゆらと舐め、不規則な影を踊らせていた。


 ***


 黒の容態が安定してから、二日ほどが過ぎた。右脚はまだ動かせないが、痛みも常に意識を支配するほどではなくなっている。生き延びたという実感が、ようやく身体の内側に追いつき始めていた。
 その日、野良が珍しく洞窟の奥まで入ってきた。普段は入り口付近で外を監視しているか、水汲みや食料探し、もしくは偵察に出ているかのいずれかで、奥まで足を踏み入れるのは傷の手当てをする時くらいのものだ。だが今日の彼は薬も包帯も持っていない。
 黒は岩壁にもたれ、乾かした布の縁を手慰みに指先で弄っていたが、その足音に気づいて顔を上げた。男の足運びは相変わらず静かで、殺気もない。それだけで今日の訪れもまた『処分』ではないことが分かる。
「……何の用だ」
「回復具合を見に来ただけだ」
 利吉はそう言いながら、黒から三歩ほど離れた岩壁の傍に腰を下ろした。近すぎず遠すぎない距離で、逃げも攻撃も許さない管理者の間合いだ。岩肌に背を預ける姿勢にも隙はなく、いつでも動ける態勢を崩していない。
 黒はその距離を測り、内心で小さく息を吐いた。やはり──隙がない。
「見に来たついでに、尋問か」
「話が早い」
 否定はなかった。男の声は平坦で、そこに感情の色は見えない。
「動けるようになった。意識も明瞭だ。情報を引き出すには今がいい」
「合理的だな」
「お前が言うな」
 黒は小さく笑った。喉が鳴る。笑うという行為自体が久しぶりで、その音が自分のものではないように思えた。
「では、何から聞きたい、野良」
 その呼び方に、利吉の視線が一瞬だけ鋭くなる。黒はその揺れを逃さず指先で掬い取るように見た。小さな反応の一つ一つが、この男の輪郭になる。
「……まずは追っ手だ。あの時、何人いた」
「六だな。表向きは四だが。残り二は、逃走経路を塞ぐ役だった」
 即答だった。利吉の眉が、ほんの僅かに動く。
「なぜ分かる」
「足音の間隔と、合図の癖だ。私を追っていたのは素人ではない。裏切り者を始末するのに、不確実な策は取らない」
 利吉は顎に手を当てた。崖下で始末したのは二人。崖上から降りてきた追っ手だ。逃走経路を塞ぐ役の二人は位置取りの関係で追撃には加われない。ならば、残りの二人は――。
「……私が仕留めたのは二人だったが」
「知っている。銃声が三発聞こえた。一発は外したか」
「外してはいない。一人に二発使った。確実に仕留めるためにな」
 黒は僅かに目を細めた。その視線には、相手の手の内を量るような色がある。
「……なるほど。腕は確かなようだ」
「それはこちらの台詞だ」
 利吉は黒を見据えた。
「六人のうち、私が仕留めたのは二人。逃走経路の二人は追撃に加わっていない。ならば、残りの二人はお前が片付けたということになる」
 黒は答えなかった。だが、その沈黙が肯定だった。
 利吉は内心で計算を塗り替える。この男の右脚の抉れは崖を落ちた時のものではない。黒は崖から落ちる前に二人の追っ手を始末し、更にこの脚を抱えながら二人の手練れの追跡から逃げていた。それだけの実力があるのなら、情報源としての価値だけでは足りない。忍としての危険度も、想定よりも遥かに高い。
「……お前の組織は、追撃に必ず二重の網を張るのか」
「必ずではない。だが、『確実に仕留めたい』場合はその通りだな」
「つまり、お前はそれだけ重要だった」
「逆に厄介者かもしれんぞ」
「どちらにせよ価値は高い」
 利吉の声は淡々としていたが、その言葉選びは正確だった。感情を排した純粋な評価としての言葉は刃物のように薄く冷たく、だからこそ余計に胸に残る。黒はそこに、わずかな満足を覚えた。
「……そう言われるのは久しぶりだ」
「何だ」
「価値があると言われるのは」
 これは一度目の試しだった。野良がどう反応するか。否定するか、切り捨てるか。相手の反射を見れば、その人間の癖が分かる。
「……事実を述べているだけだ」
 利吉は視線を逸らし、感情を切った。
 ――なるほど。褒められることに慣れていない。あるいは褒められることを警戒している。どちらにせよ、これまであまり人の中にいた訳ではないらしい。
「そうか」
 黒は深追いしなかった。まだ踏み込む段階ではない。
 その後も情報のやり取りが続いた。部隊編成、補給路、合図の癖、指揮官の性格。黒は淀みなく答え、利吉は遮らず、必要な時だけ短く問うた。拷問ではなく、脅しでもない。それは盤上で石を打ち合うような知的な応酬で、互いの一手一手が火の粉のように静かに散っていく。
 黒は答えながら、利吉の問い方を観察していた。この男は無駄な質問をしない。一つの答えから次の問いを導き出し、情報を立体的に組み上げていく。まるで頭の中に地図を描いているかのようで、その線は迷いなく引かれていった。
 ──優秀だ、と黒は思った。
 そして同時に、この会話を楽しんでいる自分にも気づく。そんな感覚は久しく忘れていたはずなのに、胸の奥のどこかが、小さく熱を持った。
「……野良」
 ふと黒が言う。
「喋りすぎだと思わないか」
「何がだ」
「質問が、必要最低限を少し越えている」
 利吉は黒を見る。その瞳は相変わらず冷たかったが、冷たさの底にわずかな警戒が混じっていた。
「必要だ」
「いいや。さっきの『確認』はいらなかったはずだ」
 利吉の動きが止まる。焚き火の音が、二人の間に静かに満ちる。
「お前がした質問だ。『必ず二重の網を張るのか』。私は『裏切り者を始末するのに不確実な策は取らない』ともう言った。だからあれは情報収集ではない。推論の答え合わせだろう」
 沈黙が落ちる。炎が揺れて利吉の顔に複雑な影を落とす。影がまた揺れて、表情の欠片のようなものを作っては消していく。
「あの時点で、もう答えは出ていた。だがお前は私に訊いた。自分の読みが合っているか、確かめたかった」
「……それがどうした」
 黒は、ほんのわずかに口角を上げた。
「評価だ。無駄が嫌いな人間が、確認のために一手使う。それだけお前は慎重で、正確なんだろう」
 言い切らず、褒めすぎない。ただ事実としての言葉を置く。それがかえって利吉にとっては逃げ場のない形の刃先になる。利吉は何も言わなかったが、焚き火に向けていた視線がわずかに揺れた。
「──安心しろ、野良」
 黒は声を落とした。低く、静かに、火の音に溶かすように。
「これは媚でも世辞でもない。私は、使えない相手にはここまで話さない」
 それは評価であり、同時に宣言だった。『お前は使える。だから私は話している』――この男がその裏を読めないはずがない。
 利吉は立ち上がった。その動作が、ほんの一拍遅れた。普段の無駄のない動きとは僅かに違う。何かを飲み込むような間がそこにあった。
「……裏切る気があるなら、今すぐ始末する」
「分かっているさ」
 黒は素直に頷いた。
「だから今は、話している」
 利吉はそれ以上言わず、洞窟を出ていった。その背中が入り口の薄い光に溶け、輪郭だけを残して消える。
 残された黒は、息を整えながら天井を見上げた。
 ――よし。
 小さな試しをいくつか重ねた。狙いどおりだった。完璧主義の人間ほど評価に敏い。それが己による評価か外部からの評価かは半々だが、あの野良は実力のある者からの評価に反応する。そしてそれを欲している自覚は薄い。完璧であろうとするあまり、他者からの承認を求めていることに気づいていない。
(使えるな)
 そう思いながらも、黒は自分の胸の奥に別の感情が芽生えていることを否定できなかった。あの男と話すことが、純粋に面白い。それは久しく忘れていた感覚で、忘れていたからこそ、少し怖かった。



 一方、外に出た利吉は、冷たい空気を肺に入れながら歩いていた。
 (取り入ろうとしても、無駄だ)
 尋問のはずだった。捕虜から必要な情報を得て忍務に活かす。それだけの合理的な作業のはずだ。
 だが――思考を読まれ、それを肯定される感覚が妙に引っかかっている。
 『それだけ、お前が慎重で、正確だという話だ』
 あの言葉が耳の奥で反響していた。媚ではない。世辞でもない。あの男は、ただ事実を述べたに過ぎない。感情の色を排した純粋な評価としての言葉だった。
 だからこそ厄介だった。否定する理由が、どこにもない。
 利吉は歩みを止め、空を見上げた。曇天の向こうに、太陽の気配がある。
 あの男は危険だ。頭が良く、人を読む力がある。そして――話していて、退屈しない。
 雇われている国の補給部隊と合流するまで、あと一月。その間の黒との距離感を、利吉は何通りにも頭の中で思い描いた。





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