ちゃんと待ってて




 広報担当者が満面の笑みで「トガシさん!」とこちらに近寄ってくるのが目に入り、トガシは後ずさった。嫌な予感がしたからだ。
「いやー、トガシさんが我が社を選んでくれて本当に良かったなあ…」
「なんなんですか、目的はなんです」
「目的だなんてそんな、本心です! ——ところで、トガシさん、来週くらいにS社の記者からの取材を受ける時間をとっていただけませんか?」
 本心と言った直後に目的が伝えられて、トガシは思わず小さく笑ってしまった。
 この広報担当者の快活さを、トガシは決して嫌いにはなれない。
 彼は契約書類の締結の際にもその場に居合わせたが、名刺をトガシに手渡した時から、すでにこのように親しみのある態度だった。
 トガシが今のように、手続きのために本社に訪れるたび、かなりの頻度でひょっこり現れては、挨拶がわりの雑談をしてから去っていく。

 今日は、社内向けの処理に必要な書類を提出するために、本社に訪れていた。郵便でもよかったが、近くに来る用事があったので寄ることにした。
 そのためメディア対応の仕事の話が出てくるとは、トガシは全く身構えれていなかった。
 ただ、トガシの新しい会社との契約それ自体の手続きはすでに終わっている。
 今現在は、正式にこの会社の所属ということになるため、広報担当が所属選手のメディア対応を調整するのは不思議な話ではなかった。
 それに加えてスケジュールに関しても、まだ治療中のため練習で埋まっているわけでもない。断る理由はなかった。
「あー、はい。大丈夫ですよ」
「わあ!ありがとうございます!」
「何故そんなに過剰なんですか……」
「というのもですね」
 広報担当者はニヤリと笑う。
「なんと、今回は小宮さんとの座談形式を予定してるんですよ!」
 それを先に言え、とトガシは思った。
 嫌な予感はこっちの方だったか。
「もお、小宮さんはメディア対応をほとんど受けてくれないんです、練習の時間がなくなってしまうからと……それでもしつこく頼んでいるとそのうち、サトウさんが飛んできて怒ってくるんですよ。あ、サトウさんというのは、陸上部のチームマネージャーの一人なんですけどね、厳しい方で。おっとこれは秘密にしてくださいね。で、それがなんと!今回トガシさんとの取材ならと、小宮さんがOKしてくださったんですよ!いやあ、日本選手権の優勝争いをしたお二人揃っての取材が叶うなんて、広報担当としても|誉《ほまれ》です!」
「ああ、はい。小宮選手もたまたま時間が空いてたんでしょうね……」
「いやいや!トガシさんのおかげですよ!」
 トガシは張り付いた愛想笑いが剥がれないように気をつけた。この広報担当者に捕まるといつも話が長い。世辞も尽きない。
 おそらくS社の記者は、前にトガシにオンラインで取材をした記者だろう。
 前回、対談をしたいだとか言っていたが、こうやって有言実行なところは信用されるポイントなのかもしれない。
「金曜日はいけます?あ、よかった。では弊社で場所は用意させていただきますね。午後イチを予定してますので、とりあえずそこは空けておいてください」
「はい」
「カメラが入るとは思いますが、写真撮影程度だと。詳細はまた追ってご連絡します!」
 広報担当者はまだ話を続けようとしていたが、いまちょうどオフィスを出ようとしていた、ジャージ姿の女性を目に留めて「あ!ハセガワさん!」と声を出した。
 おそらく陸上部所属だろうがトガシは見かけたことのない選手だった。
「トガシさん、それではありがとうございました、また後日!」
 広報担当者はそう言って、そのままその選手の方へかけていった。

 トガシが彼のことを嫌いになれないのは、トップ選手など関係なく誰に対してもあの態度だからだ。もしかして、あの小宮にもこのテンションで接してるのかと思うと、ちょっと見てみたくもなる。
 新しい会社は、まあ今のところ、トガシを悩ませる要素はなかった。



 ——どうせ記録を出すならウチとの契約期間中に出せよな、トガシさんも

 トガシは聞こえた声に、足を止めた。
 それは、再契約の説明のためクサシノ本社に訪れたときのことだった。
 トガシは受付で指定された会議室へひとりで向かっていた。外部の人間となっても、案内なしで歩けるほど慣れた道だ。
 声の主の姿は見えないが、廊下を曲がった先に自販機があり、そのそばにソファが据え付けられていることは記憶にあった。そこで休憩している社員たちの会話だろう。
 なんとなく、そのまま、その場で耳を澄ませてみる。会議相手を待たせてしまうな、と頭の片隅で思った。
「あれ、トガシさんって大会ではうちの社名で出てなかったっけ」
「シーズン中で変更できなかっただけで、大会のちょっと前に契約自体は終了してるよ。ほら、うちが故障した選手を無理やり出場させたってことになると体裁が悪いだろ」
「へー、でも何年もウチ所属だったんだから、再契約はするっしょ」
「まあな、今更、他社には行かないだろ。でもさ、来年からまた前のような成績に戻ったりして」
「何年も結果出てなかったもんな」
 話はその程度で、声はそのまま遠ざかって、聞こえなくなった。
 トガシはしばらく、その場から動く気がしなかった。
 彼らの言い分も一理ある。
 長年契約をしてきた会社だったが、トガシはなにひとつ貢献できなかった。契約を切られたとはいえ、ここで再契約をせずに他の会社へ行くというのは、義理堅くは見えないだろう。
 そして再契約を果たしたとしても、記録が出せなかったら前と同じだ。
 断っても断らなくても、重くのしかかるものはトガシを決して逃さないことは明白だった。
 ただ、だからこそ、こうも考えた。つまりこういうことだ。
 どうせ次、結果が残せるかわからないのなら、どこの会社と契約してものしかかる重圧は変わらない。
 新しい会社と契約して、そこで結果が残せないと、どうせまた同じように失望されるだけだ。
 それなら、短い期間でも使えるリソースが多い選択が賢明ではないか。「うちに来なよ、トガシくん」という小宮の声が記憶の中から話しかけてくる。
 他にもそうすべき理由は色々と浮上してきて、結局、トガシはクサシノと再契約はせずに、小宮と同じ所属先に落ち着くことになった。
 新しい場所で新しい悩みでも見つければいいと決断できたのは、確かに小宮の言葉に影響を受けたのだろう。




 取材は見晴らしのいい上階の会議室で行われるという。
 トガシが初めて訪れたそこは、コーポレートサイトで写真がそのまま使われそうなほど広く、壁一面の窓ガラスからオフィス街が臨める眺めのいい場所だった。
 外は快晴で、室内は日差しの強さで暑いくらいだ。
 すでに記者と小宮は到着していて、トガシが最後だった。
「すみません、お待たせして」
「ああ、どうもトガシさん!本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 記者に促されて、トガシは小宮の横に配置された椅子に座った。
「小宮くん、トラックより先に再会しちゃったね。今日はよろしく」
「うん、よろしく」
 小宮は珍しくスーツ姿だった。
 吊るしではないと一目でわかるほど体格に、というより彼のスタイルに合っている。
 メディア対応向けの洒落た服を持っていたのかと、想定していなかった姿に、トガシは思わずまじまじと見つめてしまった。
「どうしたの、トガシくん」
「いや、スーツかっこいいね。俺はリハビリ帰りだから、スポーツウェアで来ちゃったよ」
 すかさず記者が「いえいえ、トガシさんがスポーツウェアというのはむしろ良かったですよ!」とフォローの一言を差し込んだ。
「陸上選手らしく見えたほうが、怪我を心配しているファンは安心します」
「あ、そういうもんですか」
 今回、記事に掲載するため写真撮影を行うとは、詳細な連絡を受け取った時にも聞き及んでいた。ただ、特に格好は気にせず自然体でいいと言われていたので、トガシは、生地がよれていない服を選んだ程度にしか服装については気に留めていなかった。
 心配をしてくれるほどのファンがいることに実感はいよいよ伴わないが、メディアの専門家がそう言うなら、気後れする必要はなさそうだ。

 
 準備が整ったあと、記者から質問が開始された。
「ではよろしくお願いします。先日のですね、トガシさんの連載記事は好評だったんですよ」
「ありがとうございます」
「小宮さんのお名前を出させていただくということで、小宮さんには事前にゲラを読んでいただきましたが、トガシ選手の記事はどうでしたか?」
「……はい、あまり他の選手の…インタビューを読むことはなかったので……」
「新鮮でしたか?」
「はい、そうですね」
 トガシは感心した。
 記者は、小宮の言葉を無理に繋げるのでなく、意図を察して正確に補っていた。メディアを避けていたという小宮が、この記者のインタビューなら受けたという理由が明らかになった気分だった。
 おそらく小宮との付き合いの長さというのもきっとあるのだろう。
 そう思うと、トガシはふと、小宮と自分が決して親しい友人ではないという事実がこの場で妙に浮き上がる気がした。
「あの……ひとつ訂正、あるいは補足したいことがあります」
「なんでしょうか」
「どんどんタイムを更新したという部分ですが、小学生の頃、自分は本当に遅かったです。いつもビリでした」
「えっ、そうなんですか?」
「元が遅かったので指導によってタイムが更新されるようになったのであって……はい、あの頃のタイムはまだ覚えてます」
 そういって、小宮はスラスラと小学六年生の初期の頃のタイムを口にした。
 よく覚えているな、とトガシが横でぼんやりと聞いていると、何故かその時のトガシの全国大会の記録まで話し始めるので、面食らった。
「そのあとトガシくんにフォームを見てもらってからまずは十六秒台になって……」
「え、トガシさんに?指導というのはトガシさんからだったんですか?」
「はい」
 トガシは慌てて口を挟んだ。
「あの、そう言うと大袈裟なんですが、ちょっとアドバイスしたくらいなんです。帰る方向が同じで、放課後一緒に帰ることもあったんですよ」
「へえ、それはすごいですね。小宮さんの家庭の事情で、同級生だったのはほんの数ヶ月とききましたが、そのたった数ヶ月のうちに日本陸上界の未来が作られたんですね」
 トガシが何と言おうと記者は大袈裟に捉える。気まずさから、苦笑いしか返せなかった。
 横では、小宮がじっとトガシを見ていた。
 トガシの話を繋げるふうでもなく黙り込んでいるが、小学生の時のような、人と対面した際の緊張した面持ちはもうない。
 トガシは、半分こうなるとは思っていたが、もう残りの半分は小宮ならそう深く話すことはないだろうとも思っていた。願っていたともいう。
 無闇に自分のことを話すのは好きではないだろうし、だが結果は、まあ、過去の話を披露する羽目になっている。小宮の方もこんな調子で、今やリラックスしているようにも見えるのだ。
 かつての河川敷の暗いトンネルから、こんなにも太陽光の差し込むビルの上階の会議室まで、ずいぶん遠くまで走ってきたな、と感じた。
 それなら、小宮の方に多少話を振っても恨まれまいと、トガシは口を開いた。
「小宮くんは、中学校では陸上をしていなかったんだよね」
「うん」
「部活は何してたの?手芸部とか?」
「え?」
 手芸部……と固まる小宮に、トガシは笑った。説明のため記者に向けてトガシは話す。
「当時のインハイでは急に大記録が出たんで、何の競技から転向してきた選手かって話題になってたんです」
「それはそうでしょうね!」
「まあ、手芸部ってのは冗談だよ。実際、小宮くんは中学の頃に他のスポーツをしていたのかなって」
「ううん、部活は入らなくて個人で練習してたよ」
「中学ずっと?」
「うん、うちは|山間《やまあい》にあるから、坂道ダッシュのメニューが多かったかな。高校は、それで一般の枠で入部試験を受けて……」
「ああ、小宮選手の出身校である西沢高校は、あの財津選手の出身校でもありますが、九州を代表する強豪校ですもんね。多くの記録を誇っていますが、その立役者はふつうは推薦入部だと聞きます」
「そうでしたね」
 とトガシが相槌を打つ。
「対してトガシ選手は、強豪校でなく地元の高校に入学されてましたよね。推薦などは受けるつもりはなかったんでしょうか?」
「ええ、なんというか……自分は環境の変化に弱いのだと思います。小中高とずっと地元でした。ああ、そういえば、西沢高校で指導をしていた方からも、中学の時は声はかけていただいて、ありがたい話でしたね」
「え、ではもしかしたら、お二人が九州で同じ学校生活をしていたこともありえたんですね」
「ははは、そんなことにはなりませんでしたが、まあでも確かに、大学でも可能性はありましたよね。あの頃、小宮選手の進路はとても注目されていましたし」
 実際には小宮は実業団にそのまま入り、トガシは大学へ進学したため、遠ざかる結果になったが。
 そのまま、小学校から中学、高校と話を繋ぐことで、自然とインカレや実業団での話——最近の練習方法や今後の大会に向けてなど、話題は現在へと移っていった。

 しばらくして、少し離れた場所で待機していた社員のうち、ひとりの女性が「そろそろお時間です」と声をかけた。首からかけた社員証には|サ《﹅》|ト《﹅》|ウ《﹅》と書かれているのが見える。広報担当者の話していたチームマネージャーか、とトガシは思い当たった。
「ああ、そうですね、では名残惜しいですがお話はこれくらいで。本日は、お忙しい中お時間をいただきありがとうございました。まだもう少しお付き合いいただきたいんですが、そうですね、このまま写真撮影にうつらせて……ちょっと準備があるかな?そうだね」
 記者はボイスレコーダーを止めながら、後ろのカメラスタッフたちに話しかけた。
 それを合図に、隅で待機していたスタッフが機材の準備や、場所作りの相談を始める。
「数分休憩しましょうか」
 と声をかけられ、トガシは、ふう、と息を吐いた。
 小宮は、サトウとは別の社員に呼ばれて、一時的に席を外した。
 それを目で追っていたトガシに、記者がなんでもないように、そっと話しかける。
「おふたりにとって大事な部分はふたりの中でしまっているんですね」
「え」
「僕たちはいろいろ聞き出すのが仕事だから、今回はそれをすこしでも聞かせてもらい本当にありがたかったです」
 トガシが何か返事をする前に、記者はスマホを取り出して「ところで、連絡先、いいですか」と話を続けた。
「選手の皆さんとはときどきご飯を一緒にさせてもらって、近況を伺ってるんですよ。トガシさんもぜひ、アスリート向けのうまい店も紹介したいですし」
「あ、ああ。はい。大丈夫ですよ」
 連絡先を交換しながら、今更聞き返せず、トガシは戸惑った。
 ——大事な部分をしまっている?
 大した用ではなかったらしく小宮はすぐに戻ってきて、そのまま撮影が開始された。休憩というほど時間はないまま、指示された場所に立つ。その間も、トガシは記者の言葉を反芻した。
 初めての勝敗への恐怖、楽しさ、熱。
 確かに彼とはいろいろなことがあったが、|大《﹅》|事《﹅》と称するのは|大仰《おおぎょう》だ。しまっているのでなく、見せるにしては拙いから、避けていた。
 トガシは隣に立つ小宮の顔色を確認する。たまたま小宮もトガシに視線を向けていた。今日はやたらと目が合うが、相手はいたっていつも通り表情に乏しい。
「もう少し左の景色をバックに撮りたいんですが、このコードが映り込んでしまいそうで、これって取り外せますか」
「ああ、お待ちください」
 カメラマンと社員たちとで場の調整が入り、少しの間ができた。
 その隙に、トガシは小宮に小声で問いかけた。
「小宮くんは、幼い頃のことをたいして話さないのは、大事にしまいたいところがあるから?」
「別に……」
「そうだよなあ」
「でも、聞かれたこと以外を答えたのは今回が初めてだと思う」
「それはすごい。ああ、そうか、記録は君にとって大事な部分だもんな、じゃあしまってないか」
「たしかに他に話せる部分はあるだろうけど、僕は今までは自分を振り返って話す必要がなかったし、さっきは、君にしたがって、僕も何も言わなくていいと判断したんだ」
 こちらを見ていたのは様子を伺っていたのか、とトガシは腑に落ちた。
 別に、いくらでも話していいと前回伝えた通り、何を言っても小宮本人をとがめる気持ちは一切おきない。それなのに律儀なことだ。
 そうはいっても二人の間に、これ以上だれかに披露したい話題もないか、とトガシは思い直す。
 長く短い生々しい数ヶ月だった。やはり|大《﹅》|事《﹅》というには——
「たとえば」
 小宮がそう言った。
「僕のフォームは体の振れが大きいけど、体格に見合ったこれに行き着くには、まず正しいフォームを身につけてからでないといけなかった。道筋は省くことはできない。トガシくんが教えてくれたことは、陸上競技にとって根幹の部分で、それを大事という言葉で表すことは可能だと思う」
 そういわれると、すとんとトガシの胸に溶け込んだ。
 拙くても、走りに執着を覚えたのはあの頃からだ。人生の|礎《いしずえ》だと思えば、決して大仰な言葉ではない。
 トガシは首の後ろを手でさすりながら「照れるな」とだけ返した。
 
 
 
 サトウに声をかけられて、トガシだけその場に引き留められた。
 先に外部のS社陣を見送って、内々の締めも終わった頃合いだった。
「トガシさんを施設にご案内するときに、正式に挨拶させていただこうかと思っていたんですが、順番が前後してしまってすみません。改めて、チームマネージャーのサトウです。今後ともよろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
「うちのチームの紹介もさせてください。まずこちらがヤマグチで——」
 そのまま順繰りにその場にいた社員と個々に挨拶して、軽く組織体制の説明も受けた。
「入館カードが発行された際に、詳しい書類もお渡ししますので、今はこんなものかと認識していただくだけで大丈夫です」
「ご丁寧にありがとうございます」
 そのあとは最近では誰と会うにしてもお決まりになっている怪我の具合について状況を伝えて、サトウが会議の時間だというので先に会議室から退室した。
 すると他の社員が、わっとトガシの方にまた寄って、今度は気さくに話しかけ始めた。見るからに若手の面々であったので、上司がいない場で気が緩んだのだろう。
「トガシさんのリハビリが順調なようで本当に安心しました。それにうちに移籍いただいて、お話できてこんな嬉しいことはありません」
「ああ、いや、そんな」
「ヤマグチなんて学生の頃短距離をやっていたんで、トガシさんの移籍の話を聞いた次の日、全中の頃の雑誌を持ってきて見せてくれたんですよ」
「ちょっと、トガシさんにバラさないで!どうもすみません、僕は三学年上にはなりますが、僕にとってもトガシ選手は憧れでして」
「あはは、とても光栄ですよ、ありがとうございます」
「それに驚きましたよ、小宮選手と親しかったんですね」
「小宮さんの声をあれほど聞いたの久々です」
 トガシは戸惑った。共通の話題があるだけでそう見られるらしい。
 そろそろ場を解散にさせてもらおうかと考える。年近い社員ばかりではあるが、持ち上げられるのはやはり慣れない。記録が伴わない場合の反応を容易に想像できるからだ。
 だがトガシが何か口に出す前に
「よかったらなんですが」
 と、うち一人が提案をした。
「このあと練習施設の方に行く用事があるんですが、トガシさん見学しますか?契約前に見ていただいたところ以外もご案内できるかと。もし、ご予定がなければですが」
 
 
*
 
 
 小宮はウエイトルームを出て、薄暗い廊下を突き進んだ。
 トレーニング施設まで寄ったのは忘れ物をとりにきたからだ。だから格好は取材用のスーツのままで、ウエイトルームに居合わせた顔見知り程度の選手には奇妙な顔で見られた。
 他人に馴染むのは小宮にとってまだ難しい。偉大な記録は、その他全てより優れているから偉大といえる。つまり、その他のものが無価値になってしまえば、相対的に記録それ自体も霞んでしまう。少し前の小宮にはそのことがわからなかった。
 周りにある優れたものを差し引いてでも手に入れたい勝利の熱を、決して失わないために、記録以外に目を向けようと決意したのは少し前のことだ。だが、十年もの長い間、多くを遠ざけて生きてきた小宮には、何をするにしても、あらゆることに戸惑いがある。
 今日は久々にたくさんの人のいる場に出て、気疲れがあった。顔見知り程度の相手への挨拶すら気力が起きない。まだ殻の外に慣れるのには時間がかかりそうだ。
 来た道を戻るとするなら本来は右に向かうべきだが、小宮は左へと曲がった。少し遠回りになるが、こちらはおよそ利用者を見かけることのない通路にあたる。今日は、そこを通って、出口へ向かうことにした。
 そのまま薄暗い通路を歩いていると、前方から、鉄製の扉がばたん、と閉まる音が聞こえた。
 小宮は顔を上げる。あたりは管理室や人の出入りの少ない部屋ばかりで、普段なら物音すら珍しい。見渡しても、人影は見えなかった。
 つい先ほど閉まったであろう防火戸の先には、一階へと続く階段がある。誰かがそこへ抜けたらしい。
 小宮はここではなく、さらに進んだ先にある階段を使う予定だったので、気にせず通り過ぎようとした。
 しかしその時、なにか大きな音が鉄製の扉越しにも聞こえた。
 厚い金属越しであれば、実際耳に聞こえたより、もっと大きかっただろう。
 人の倒れた音だ、と遅れて気がつき、小宮は慌てて扉を開いて、階下を確認した。
「いたたた…」
「トガシくん?」
 小宮は、一階へと続く階段の踊り場に、倒れ込むトガシを見つけた。
 驚いて、すぐにトガシのそばに駆け降りた。足に自然と目がいく。トガシは肉離れした方を庇うように手で抑えていた。
「あれ?小宮くんだ」
「痛めたの」
「ああ、いや」
 起きあがろうとするトガシが、すこし身体を傾ける。小宮は咄嗟にその背中に手を回した。
「ありがとう」
「いや、ちょっと、無理に動かない方がいいんじゃないかな」
「いたた」
 ぎょっとした小宮は、トガシの肩を掴んで、また座らせた。
「あ……いや、違うんだよ、ちょっと滑って、足をぶつけたらやばいと思ってさ、咄嗟に受け身を取ったら、変に腕の方を殴打しちゃったんだ。そんな、大袈裟なものじゃないよ」
「足は全然?腰も?」
「うん、なんにも」
 念のため片手で足全体をかるく叩いて確かめたトガシは、「やっぱり大丈夫そう」と振り返って小宮に言った。
 再び立ちあがろうとするトガシを、狼狽えながら小宮は見守った。
「きちんと病院に行った方がいいよ」
「ちょうど明日が診察の日なんだ。いろいろ検査するから、そのとき今日のことは報告しておくよ。まあ、大丈夫だとは思うけど……それより、一日に二回も会うなんて思わなかった。あれ?でもスーツだから練習じゃないのか」
「午前中にトレーニングしてたんだけど、ジャージを忘れて、取りに寄ったんだ」
「なるほど」
「君は……トガシくん、君はトレーニングを再開するには早いと思うんだけど。誰かコーチの指示?」
「あ、違う違う。社員の人にさ、見学させてもらってたんだ。車に乗せてもらえるし、こっちからのほうが家に近いから、ちょっと見て帰ってもいいかなって。ほら、ビジター」
 トガシは胸にかけた来客用のネックストラップを見せた。
「まだ入館システムの登録が終わってないから、俺はここを使えないよ。君の言う通り、負荷の少ないものしかできやしないからね」
「そう」
 小宮は今になって、トガシと所属が被るということは、こうやって同じ施設で出会うこともあるのだと理解した。
「それで、小宮くんも帰るところ?」
「うん」
「じゃあ、悪いんだけど、外まで案内してくれないかな。迷っちゃって……」
 小宮はいいよ、と答えて、トガシを連れ立って廊下まで戻った。この階段の先は実際、出入り口には続かない。
 階段を登る際も、ちらりと、トガシの様子を伺う。いたって普通そうで、歩調はゆっくりしたものだが、歩くことに不便はなさそうだ。それでも先ほどの階下に|蹲《うずくま》る姿が頭をちらつく。
「社員の人は」
「向こうも仕事があるから、途中で別れたんだ。帰るくらいなら一人で大丈夫だと思ったんだけど、ここ広いね」
「そうだね、フィットネス施設は社員も使うっていうし」
「へえ」
「帰り、車じゃないの」
「元からここで仕事があるから乗せてもらっただけで、家まで送ってもらうのはないよ、だから電車だね。小宮くんは?」
「僕も電車」
 話していると、トガシ相手になら不自由なく言葉が出てくることに気がついた。小宮に友人はいない。トガシが今日、記者に連絡先を聞かれているのを見かけたが、小宮はそういうことがあるたび断ってきたし、誰かと食事に出かけたこともしばらくない。
 周りが自分と出かけたがるとも、小宮は思えなかった。
「現実がぼやけるってちょっとわかったな。転けた時ほんとゾッとしたよ。今日の疲れが吹き飛んだね」
 小宮の昔の言葉を借りるトガシを、小宮は不思議そうに見た。
「疲れてるの?」
「俺の必死のメディア対応を見ただろ、君みたいにこなせればいいんだけど。やっぱり気疲れするし、ほんと、走りもせず何してるんだろうって考えちゃったりさ」
 来館証を返却して、外にまで出た。もうあたりは暗く、静寂だ。金曜の夜なので、駅に近づけば騒がしさが戻るだろう。
「○○線はこっちかな。小宮くんは?」
「JRだから、反対方向」
「じゃあここまでだね。今度こそ、会うのはシーズン明けになるかな」
「……最後に聞いてもいい」
 小宮は自分の口からついて出た質問に戸惑った。そのまま別れるつもりが、やはりトガシ相手だと、言葉が難なく紡がれる。
「なんだい」
「他人と関わるというのはどういうことなんだろう」
 トガシは、意外そうに目を丸めた。
「前は他人に目を向ける、と言っていたけど、そこから関わるにまで移行したんだ」
「オフシーズンだから、僕も考え込んでいるのかもしれない。大会の熱が遠くなり、目的と手段がまた明瞭さを失ってくる気がして、ルーティンと外れたことをしたいけど、方法がわからないんだ」
「うーん……それこそオフシーズンなんだし、ご飯の誘いでもあれば受けてみたらどう?今日の記者とだって短い付き合いじゃないだろ、そういう知り合いに連絡とってみてもいいし」
「いや、誰の連絡先も知らない」
「ええ……」
 困惑されたってそうなのだから仕方ない。だから小宮はトガシに尋ねているのだ。
「まあ決めるのは君だから、案はあるけど。君が今したいことをするのがいいんじゃないか?無理をしてやることは結構、成果がない」
「……したいこと」
「そう、今君がしたいこと。もちろん、自分以外に対してね」
 脳裏にまた、階段の下、踊り場の床に投げ出されたトガシの四肢がよぎる。すると、どうも落ち着かない気分になる。これをどうにかしたかった。
「改札まで一緒に行っていい?」
「え?」
「あの駅、エレベーターもなくて、階段だけだから。しかも結構長いし」
「……え?俺の心配?」
 問われて、それが心配にあたる感情なのだと小宮も理解した。
「俺が難しく考えすぎてたのかもしれない。君、思ってる五十倍、人と関わってるよ」
「……なんだっけ、あっ、仁神さん?」
「そうそう。いや、言っておいてなんだけど、記憶力いいな。そんな昔の、仁神さんが言ったことなんて、よく覚えてるね」
「それはトガシくんもじゃない?」
「まあそうか」
 トガシはポケットからスマホを取り出して、パスコードを入力しながら、小宮に「ID教えて」と言った。
「ID?」
「インスタでもラインでも。……えっ、やってないの?ラインも?」
「うん」
「ええ!?たまに仕事の連絡でも使わない?」
「メール使ってるよ」
「そう……」
 会社のSNS講習は小宮だけ免除されたことがある。
 トガシは「じゃあ、電話番号でいいから」と、スマホを小宮に手渡した。画面には、電話アプリのキーパッドが表示されている。
 断らずに入力して返すと、そのままトガシはその番号に電話をかけた。
 小宮のスマホの画面に、トガシの番号からの着信が表示される。どうしようかと見つめていると、トガシはすぐに切った。
「はい、じゃあ必要な時はショートメールを送るよ、その番号が俺のだから、登録しておいてね」
 トガシはスマホを操作しながらそう言った。小宮の電話番号を連絡先に登録しているようで「番号の登録なんて、仕事相手以外には何年ぶりだろ」とぼやいている。
「それで案なんだけどさ」
 そのままトガシが続ける。
「俺と一緒に、同窓会行かない?」
「——同窓会?」
「小学校のさ、やるんだって。連絡先がわからない相手には知ってる人から連絡してくれって、ムラタくんに言われたよ。ムラタくんは覚えてる?」
「うん、一〇〇メートル走が十八秒だった……」
「ま、待って、タイムで人を判別してるの?」
「いや、たまたま記憶にあっただけだよ、一〇分の一秒以下は覚えてないし」
「当たり前だよ」
「自分のタイム以外だったら、あのときのトガシくんのタイムも一〇〇分の一まで覚えてるんだけど」
 トガシは呆れたように、取材のときに横で聞いていたから知ってる、と笑った。
「でも、僕はほんのちょっとしかいなかったから、行ってもみんな分からないと思う」
「小学生の頃だぜ、俺も同級生のことなんかあんまり覚えてないよ。それに、成人式以来、同窓会の話なんてなかったから、多分、ちょっとミーハーな気持ちもあるんじゃないかな。連絡先がわからない相手のリストも見せられたけど、小宮くんの名前もあったよ、有名人に会いたいんだろ」
「……」
「だから俺は行くつもりなくて」
「え?」
「でも小宮くんが行くっていうなら、一緒に行く。どうする?」
 小宮は当惑した。
 誰かと関わるというのは、まさしくこういうことなんだろう。
 しかし、同窓会なんて人生で一度も参加することがないと思っていた行事だ。まず誘われることがあり得ない。誰も小宮に連絡を取る手段がないからだ。
「ま、良い思い出ばかりじゃないもんね。無理に行く必要はないし、まだ日程も決まってないらしいから、もし行く気になったなら、今月中に連絡して」
「……行こうと思ったことがないから、行きたいかどうかわからないな。前までなら断っていたけど、今はどうしたらいいかわからない」
「なんだ。じゃあ、行こうよ。楽しくなかったなら、次からは行かなかったらいいんだ」
 そうやってトガシは判断しているのか。小宮はなんとなくで、頷いてみせた。
 
 地下の改札前に辿り着き、トガシは小宮を振り返って「一応ムラタくんには、小宮くんも来るって伝えるね」と言った。
 ここに辿り着くまでの長い階段を、トガシは手すりを持ちながらゆっくり降りた。
 それを見て、小宮は足を滑らせた理由を察した。登る時より、降りる時の方がまだ動かしづらいらしい。
「日程の候補が来たら伝えるよ。行けなくなったら、言ってくれれば、断っておくから」
「うん」
「じゃ、シーズン明けじゃなくて、次は同窓会だね」
「……シーズン明けっていっても、どこで復帰する予定なの」
 この日、一度も怪我の調子を聞かなかった小宮が、本当の最後にトガシに尋ねた。
「日本選手権。来年はこのままでも出場権があるようだし、でも間に合えば地区大会にするよ。そのあとはもちろん世界」
 トガシは世界大会に出場したことはないがそれでも確信を持った「もちろん」だった。復帰後、今年と同じ以上に走るつもりの、迷いのない瞳が小宮を射抜く。
「納得してないんだ、記録を出してもまだ。君もだろ、小宮くん?」
「……うん」
「俺たちは一体どこまで走るんだろうね」
 憂いを感じさせる言葉に対して、トガシは爽やかに笑う。
「まあ、さっさと治して行くから、トラックでちゃんと待ってて」
 対戦相手。日陸後に行われた大会にはいなかった彼が、それでもきちんと対戦相手として、小宮の前にいる。
 十年間置き去りにしていた妙な高揚が、いま小宮の瞳を瞬かせた。


 翌日、トガシから、内出血した腕の写真が送られてきて、小宮はスマホを落としかけた。「青あざになっちゃったけど、数値には何の問題はなかったよ。筋肉の損傷も回復中」と青いふきだしでメッセージが添えられている。
 小宮は散々悩んで「よかった」とだけ返した。

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