休日



「譲介、なんだよこれ!」
湯上りで肩にタオルを掛けた一也は、そう言って譲介の部屋の扉を開けた。
午後十時を回っており、診療所は静まり返っている。
K先生は、きっちり週に二度、ふたりで風呂を先に使うといい、と言って風呂桶を抱えて不死の湯に行くので、譲介と一也はじゃんけんで順番を決めて、順番に――ドライヤーの時間が長くなるので、秋口から冬に掛けては譲介が一也に先を譲ることが多い――風呂に入りあるいはシャワーを浴びてさっさと寝てしまう。つまり、いつものシャドーを終えた後、一也が夜に譲介の部屋に顔を出すことは殆どない。
譲介はちらりと時計を見た。
先生が戻ってくるまで、後三十分か。
それまでにこの頑固者の話をうまく切り上げられるかどうかは厳しいところだ。
「……気付いたか。」
「いきなり知らない人からメールが来たんだぞ!」
一也はスマートフォンを掲げると、こちらにメールアプリを開いて見せた。
湯上り、という訳でもない、頭から湯気を立てている。

『恋愛一年生様 いきなりメールしてすいません。端端吻合が得意な女性が好み、ということですが、かなりニッチな好みですね。私の友人にもひとり、まさにそういう男子がいます。私は吻合より部活の方が好きな医大生です。部活は剣道部。気の強さでは誰にも負けません。大好きなカレーのお店を紹介します。もし良ければ、一度会っていただけませんか?』

スマートフォンの画面にはそう書いてあった。
「――まさかあの自己紹介で引っかかる女がいるとはな。」
譲介は驚いた。
・医大生
・身長は自動販売機と同程度の高さ
・自分より端端吻合が得意で気が強い女性が好み
・カレーの美味しい店を探している

これが恋愛一年生という初期設定アバターに付けられた説明の全てだ。
最後は譲介がおまけで付けた。実際、譲介自身がこれまでの人生で他人に披歴した自己紹介と言えば、ほとんど名前と出身地を言うくらいのものだが、医大生という肩書がその自己紹介の欠点を全て補って余りあるポイントということだろう。
「なんでそんなに冷静なんだ。」
「他人事だからな。」
「……オレはこの人とは会わないからな。」
「それはそれでもいいけど、返事はしておけよ。好きな人がいるのであなたに興味はない。恋愛は出来かねるが、良ければこちらに傍から見て不純には見えない男女の付き合いをご教授ください、って。」
一也はこちらを睨んでいる。
高校時代から、こちらが何をしても大概は怒らず受け流してきた男だったが、流石に今回は腹に据えかねたらしい。
「朴念仁は黙ってろ。一度くらい、他の女を見てきたらどうだ? 宮坂ほど肝が据わってて我が強いのがいるとは限らないが、一回くらい肩の力を抜いたら楽になるぞ。」
不純異性交遊だなんだと、いつまでカマトトぶってるつもりだ、と指を指すと、一也は明らかに力を入れていた肩を落とした。
「お前は……肩の力を抜けとか、他の人を見ろ、とか人を好きになるってそういうことじゃないだろ。そんなことが言えるのは、譲介に好きな人がいないからか?」
うわ、とドン引きした。
分かっちゃいたけど、宮坂が絡むと、驚くほどの恋愛脳になるな。
恋愛が絡むような意味で好ましいと思える相手は今現在はいないが、僕にも大事な人間くらいいる。
K先生に、村井さんに、麻上さん、あの人と、それから………まあいい。
「僕に好きな相手がいようが、いまいが、今のお前には関係ない。そもそも、お前が宮坂と進展しないのが悪い。」
「そ、……れは、関係ないだろ。」
「ないと思うか?」
宮坂詩織という女は、確かに黒須一也の目に留まるだけあって、そんじょそこらにいる女とは違っている。
譲介自身ここで暮らして長いとは言えないが、こんな僻地で修行を積んで、いつかはK先生みたいなお医者になるんです、とイシさんと麻上さんの前で公言するような女が、そこらにいてたまるか、とも思う。
むしろ宮坂の方こそ、医者になりたてのこの時期、不純異性交遊やら結婚やらに時間を取られている場合ではないだろう。
譲介には、ただ付き合いの長くなってきたというだけでもない腐れ縁の男が、このままなら圧倒的にフラれるだろう方向に天秤が傾いているように見える。それを円満に回避するためにあちこちつっついてやってるっていうのに。
「何を騒いでる?」
「先生!」
「先生、お帰りだったんですか?」譲介は直立不動の姿勢になってしまう。
「ただいま。」
風呂桶を持っていようがいまいが、威厳が損なわれないとはさすが先生だ。
このままベッドにもぐりこみたい気持ちを抑えながら、ちょっと一也と意見の相違が、と言い訳をしようとしたら、先生は一也が持っていたスマートフォンを取り上げた。
「……これは?」
ティンダーというやつか、と先生が言った。
一昔前に流行ったマッチングアプリの最大手である名が先生の口から出るとは思わなかった。
「宮坂くんとのことはどうするつもりだ? 告白もせずに諦めるつもりか。」と先生が一也を睨んだ。
「「え!?」」
「……なんだ、譲介まで。」
まさか先生にも気付かれているとは思っていなかたらしい。一也は青くなったり赤くなったり顔色が変わっている。
「いえ、あの、これは……。」
「おい、一也!」
まさか一也がでかいなりをして、譲介がやらかしました、とK先生に泣きつくとは思っていなかったが、この流れでは結局は先生の視線がもたらす圧力に耐え切れず、事の顛末を報告することになってしまった。
「……なるほど。」
先生の声は、一月のN県の平均気温くらいの冷やかさだった。
「オレには荷が重すぎます。それに、心に決めた人がいるので。」と一也は言った。
その決め顔を宮坂の前で出来るようになれよ、とツッコミを入れながら、僕が浅慮でした、と頭を下げ、先生の前で反省の念を見せた。
あの人ならニヤニヤしながら、まあこの辺にしといてやる、と許してくれるんだけど……先生は……無理だろうな。
まあ、許すも許さないも、今回は一也の方に火の粉が降りかかった人災だ。
謝るのなら一也に直接謝罪した方がいいは分かっているけれど。
恐る恐る顔を上げると、先生はまだ怒っているらしい様子で腕を組んでいる。
「譲介、ちゃんとした返事をして、次の休みにはその人と会って謝って来なさい。」
「え?」
「一也のことを気に入った人なら、悪い人間ではないだろう。とにかく、相手は女性だ。」
責任は取れ、という一言が重い。
「はい。」と本気でうなだれていると、そんな譲介を横から面白がって指でつついてくる馬鹿がいる。
「譲介、オレが付いてってやろうか?」
お前は中学生か。
ここぞとばかりに言い返して来た一也に肘をくれてやると、間髪入れずにゴンゴンと頭に拳骨の雨が降って来た。
「一也と譲介、明日と明後日は診療所で待機。往診は休止だ。スマートフォン用のセキュリティ教育を受けておくように。宮坂君と麻上君にもそのように伝えておく。」
「……え?」
「今夜はすぐに寝るように。ふたりとも、返事は?」
「「……はい。」」




「………疲れた。」
先生の言うセキュリティ教育というのがどういうものかと思ったら、二時間半みっちりのWEB配信の講義を終えた後で、一問一答の設問方式のテストでまた二時間、途中休憩を挟んでほぼ五時間が座学というスケジュールは、机に縛られる学生生活とは縁遠くなってしまった譲介にしてみれば、いつもの先生のオペに立ち会うよりずっと気疲れしてしまった。
「譲介は自業自得だろ。オレを巻き込んでおいて、良くそんなことを言えたな。」と言いながら、一也もこめかみを揉んでいる。誰の真似をしているのかは知らないが、一也はときどき驚くほど年寄りくさい仕草をすることがある。
「いいだろ、今日の昼間も飯がゆっくり食べられたんだから。」
譲介がそう言うと、一也はまあそうだな、と口を噤んだ。
最近、朝から昼にかけての急患が多かったせいか、最初からインスタントラーメンにでもしておいた方が完食は出来たな、と言うことが良くあった。譲介が村にやって来た一時期など、ほとんど急患が出なかったというのに。
(しかも、あの頃は、経験不足かつ浪人生でもあった譲介の代わりに、村井さんやイシさんを筆頭に、ここから近い家の人が診療所に呼ばれ、先生の第一助手として立ち会うことが多かったのだ。当たり前だが、本当に悔しいことに。)
一也が出戻り、宮坂が後を追って来た途端に、毎日こんな風なのだから少し恨み言を言いたくもなる。
「結局、いつ会いに行くことにしたんだ。」
「いつって、……ああ、あれか。」
マッチングアプリのサイトで出会った相手とは、あれから日程を詰めた。
こちらが、夜の移動が無理だというと、平日の一時間でランチをという話になった。そのランチも、譲介がすっかり正直に話してしまってからという予定になっているので、どうなるかは分からない。
とはいえ、そんな日の予定は、手帳に書いてしまってから、安心したのか、すっかり忘れていた。
「そういえば、来週の水曜だな。久しぶりだし、泉平駅の辺りに新しく出来たパキスタンカレーでも食べてくる。お前、何か買い出しに行って欲しいものとかあるか?」
自分で必要なものは自分で買い出しに行く、が診療所の決まりだけれど、互いに村に出られる用事がある日も休みも限られていて、そもそも一也は基本的には往診にひっぱりだこなのだ。宮坂は女なので遠慮がある、と言うわけでもないだろうけれど、先生が帰れない場合も考えて、必然的に西海大などの用事で先生に付いて外に行くのは、前と同じように、譲介に役目が振られることが多い。そのため、宮坂に必要なものがあれば麻上さんが、一也に必要なものがあれば、譲介が買って来ることもある。
「本当に行くのか?」
「行くけど……何だよ。まさかマッチングアプリでデートの予約をしたら殺人鬼が出て来るとでも?」
ホラー映画の見過ぎじゃないのか、と譲介が言うと、一也は「いや、そういうわけじゃないけど。」と言葉を濁した。
口を開き、また言葉を選びあぐねて口を閉じ、一也は眉を寄せた困り顔になっている。
こいつが僕を心配するなんて……いや、僕は一也として行くことになっている。
その場合、もし僕がこいつの立場なら、何をもって危険と予測する?
相手がナンパ男に制裁を加えたいような馬鹿連中だったところで、こいつなら一発でのしてしまえるはずだ。
相手が、そう、一般人でさえあれば。
「まさかと思うけど……お前のスマートフォンを逐一ハッキングしているカルト集団が、この機会にまたお前の暗殺を狙ってくるとでも思ってるのか?」
「う、いや……。」
図星か。まあ、こいつも生まれの特殊さから、少なくとも三度、あるいはそれ以上、死線をさまよっている。あの人の経験ほどじゃないが、それでも普通の人間からしたら、多すぎるほどだ。
「考え過ぎ、でもないのか。」
これまでの経緯を考えると、一概に否定もできない。白昼堂々の攻撃は考えづらいが、そもそも敵がカルト「集団」だった場合、譲介と一也がどれだけ場数を踏んでいたところで、数の論理で負ける可能性もある。
けれど、忙しい先生に正式にバックアップを依頼するのは馬鹿げている気がする。
うーん。
譲介には、もうひとつ頼みの綱となりそうな心当たりがないでもない。十一桁の番号が指し示す連絡先。先生がくれたその紙片は、譲介の新しいノートの最後のページに挟んだままになっている。もしもの時にしか使うことはないだろうと思っている、その番号。
まあ、そこまでの心配はせずとも大丈夫だろう。はあ、と譲介はため息を吐いた。
「休みを取って僕についてくるならそれでもいいけど、目立たないようにしろよ。あと、宮坂に恨まれないような言い訳を考えておけ。あっちにしてみれば、まあお前が僕と出掛けるのになぜ自分は仲間外れになるのかってところだろう。」
「……あ、そっか。そうだな。」
そういうところが、と言いかけて、一也の融通の利かなさと言い訳の下手さは、何も恋愛に限った話ではないことに思い至った。
まあ、初めての手術をした相手は誰だ、上手かった下手だったなどと、いつまでも話のタネにするような大人に囲まれていては、こんな風に育ってしまったのも無理はないのかもしれないが。
「そういえば、譲介とふたりでどこかへ行くのって初めてじゃないか?」と一也は今気づいたように言った。
「いや、そもそもお前と出掛けるってよりは、僕が出掛けるのにお前が付いてくるだけだからな!」とツッコミを入れつつ「高校生の頃に、先生の手術を見学するのに病院に行っただろ。」と返事をすると、一也は、そういえば、という顔をした後、こちらを見て「あれを出掛けた数にカウントするなよ。」と眉を寄せた。
「じゃあ、夏の間は、重広さんのところにトマトとキュウリ貰いに行った。」
「……譲介、一応言っておくけど、オレはお前の荷運び要員じゃないからな。」
ふうん。
「いいようにこき使われている自覚はあったのか。」
「お前な……!」
「冗談だ。まあ、一年以上の風来坊で行方をくらませておいて、あのくらいで許してやったんだ、むしろ僕に感謝すべきだろ。」
「……お前も心配した?」と一也が言うので、ハッ、と譲介は腹を震わせて笑った。
心配は、そう、譲介自身がしたわけではない。
そういう心遣いは、K先生と村井さん、麻上さんとイシさんの領域だ。
譲介は毎日、イシさんの作ったカレーを食べて、食べて、食べて。
このカレーを食べに来ないのは馬鹿のすることですよ、と言っていたくらいだ。
まあ、旅先から、手紙のひとつくらい寄越せ、と思った時期に便りを寄越したことは褒めてやってもいい。
「夏の冷やしトマトとカレー、美味かっただろ。」
労働の対価だ、と譲介が言うと、「冷やしたキュウリも。」と一也は言った。
「まあそうだな。」
宮坂と一也と一緒になって、争うようにして、もぎたてのキュウリを味噌を付けて食べた。塩分過多にならないよう気を付けるようにと先生には言われたが、僕たちがほんの子どもだった頃とは違って、最近の夏の暑さは異常だ。流した汗の分だけ塩分を取る必要があります、と麻上さんもいつになく真面目な顔で言っていた。
「……あっという間だな。」
「何が? あ、相手に会って謝ってさっと戻って来るってことか、まあ、譲介の方に気が乗らないならそうしたらいいんじゃないか。」
僕の気が乗るとか乗らないとか、そういう話がどこから出て来るのか。
「……なんでそういう話になるんだ。」
「だって、譲介がこの人に会ったら、もしかしてお互い気に入るかもしれないだろ?」
「気に入る?」
「カレーが好き同士で、気が合うかもしれないじゃないか。」
譲介もっと友達を作ってもいいと思うぞ、と一也はあっけらかんとした顔をしている。
「万一上手くいったら、次に出掛けるときに、お前に好きな食事を奢ってやるよ。」
「上手くいかなかったら、……?」
「そりゃ、勿論、お前が僕にカレーを奢るんだ。」
「それって、こっちばかり分が悪い賭けに聞こえるけど。」
「じゃあ、暗殺者集団とか、そういう物騒なのじゃなくても、……男が来たらお前の勝ちでいい。」
「男?」そもそも勝ち負けの問題でもないだろう、と一也は言った。
「相手も冗談でこっちをだまそうとしていることはあるかもしれないだろ。」と言うと、腑に落ちない、という顔をした。
そんなことをして何の得があるのか、という顔だ。
このお坊ちゃんめ。
一也のその顔が妙にムカつくので、教習で使うためにプリントアウトしたテキストをくるりと丸めて肩を押してみる。
「何だよ、」
「今夜のシャドー、何にするか考えてあるのか?」と譲介が言うと、一也はちょっと怯んだような顔をした。
「そうだな……。夕飯食べ終わるまでに考えておく。」



Xデー。
譲介がいつものパーカーを着て出かけていったのは、目当てのカレーの店の近くにある公園だった。
店の中で話がこじれてせっかくのカレーが食べられなくなったら困る、という配慮からだ。
結局、現れたのは濃紺のワンピースを着たモデル体型の女の子で、世を忍ぶカルト集団とも、おふざけが好きな悪ノリの男とも関係がない様子だった。譲介がかいつまんでことの成り行きを話すと、なんだかおかしな話だと思った、と言って、彼女は譲介の嘘を笑い飛ばしてしまった。
私も医大生じゃないし、カレーよりイタリアンの方が好きなの。そう言って、譲介が会ったばかりの女の子は、にこにこと笑って去って行った。
「……出会ってから五分か。」と木陰に隠れて一部始終を見ていたらしい一也が出て来て、譲介の隣に立った。
憐れむような顔をしているのが妙に腹立たしい。
「この場合も、オレが譲介にカレーを奢ることになるのか?」
「まあそうだな。」と譲介は言った。
余計なことをしてしまった、と反省はしたけれど、、あまりにあっけなく予定が終わってしまったので、むしろあの店のカレーを食べるために来たと言えないこともない。
「カツでもチーズでも餅でも、今日は何でもトッピングしていいぞ。」
一也は自信ありげに言っているが、普通、インド系とかパキスタン系のカレー屋に、そうしたトッピングはない。せいぜい、ランチにタンドリーチキンを選べるとか、ナンの代わりにライスに出来るとかそのくらいだ。
「譲介、嬉しそうだな。そんなにカレーが食べたかったのか?」
それはそうだろう。カレーと見知らぬ女を天秤に掛ければ、カレーの方に天秤は傾く。
フラれたけど、落ち込んではないな、と言うと、そうなのか、と一也は目を剥いた。
これは、オレが宮坂さんにあんな風にさよならって言われたら、二度とは起き上がれない、という顔だろうか。
(こんなところで僕と油を売ってるくらいなら、宮坂にデートのひとつでも申し込んだら良かったじゃないか。)
普段はポンポンと出るそうした憎まれ口は、視線の先から流れて来るカレーの匂いにかき消された。
店はあっちだ、と言って譲介が歩き出すと、一也は譲介の隣に並んで付いてくる。
一分すれば、歩幅の違いから、一也が若干ペースを落とそうとしているのが分かる。
負けてはいられない、と譲介はK先生の往診についていく時のスピードで競歩のように歩いてはいるけれど、一也は余裕だ。
隣を歩む男とのコンパスの違いが憎らしいが、今日はそれほど気にならない。
工事現場によくあるバラックのような、目的地の特徴的なトタン屋根が見えてきた。
「ビリヤニと、マトンのカレーが美味いらしい。」
「ビリヤニって?」
「スパイスと肉を入れた炊き込みご飯。」
「ふーん。イシさんのカレーとどっちが旨いかな。」と一也は独り言のように呟いている。
休日の空は、驚くほどに青かった。

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