パーマネント・バケーション(ハンゾウとコール一家)

 元々凝り性のところもあったのだろう。求道者というか、毎日のたゆまぬ鍛錬によって技術を磨き、高みに到達することによろこびを覚える性質だ。「われわれの住む社会ではやたら刃物を振り回したり人殺しの技術を磨いたりするものではないんです」とコールに釘を刺され、修練がしづらい環境になったので、ほかのことに身を入れることで気を紛らわしている面もあるのかもしれない。とにかくハンゾウがこんなことに夢中になるなんて、コールをはじめヤング家の誰も想像もしていなかった。

 きっかけはなんだったのか今となってはわからない、朝食をとりに行った近所のダイナーだったのかもしれない。初めて見る真っ黒な液体にハンゾウは尻込みしていた。だが恐る恐る口にした途端に顔が輝いたのをコールはよく覚えている。悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、恋のように甘いその液体にハンゾウはあっという間に魅せられた。豆の種類によって果実のような爽やかな酸味のあるものやナッツのような香ばしさのあるもの、やわらかな苦みのあるもの、さまざまな風味や香りや味があるのも探求しがいがあったのだろう。どの店に行っても必ずコーヒーを注文した。安ダイナーのおかわり自由のたっぷりした薄いアメリカンも、イタリアンレストランで食後に出される子どものままごとの道具のような小さなデミタスカップの泥のように濃いエスプレッソもハンゾウは同じように愛した。自分でも淹れてみたい、と言い出すのも時間の問題だった。

 あれこれ質問しているうちに顔見知りになった専門店のバリスタに勧められた道具を一揃い買い揃え、ハンゾウにコーヒーを淹れる趣味ができた。そのこと自体はヤング家にとって僥倖であった。何しろべらぼうに美味いのだ。才能もあったのだろう、情熱もあった、何より日々のたゆまぬ鍛錬をよろこびとする生来の気質があった。訓練すればするほど上達するところが彼の性質に合っていたのだろう。剣の稽古や飛び道具の鍛錬を「近所迷惑ですから」とコールに止められ、情熱を持て余していたところにぴったりと代替行為としてのコーヒーが嵌った。やればやるほど上手くなる、ハンゾウが淹れる毎朝のコーヒーはコールとアリソンの何よりの楽しみになった。聞けば生前、茶の湯を嗜んでいたそうだ。茶道の精神と、コーヒーを淹れることとはどこかで通じているのだろうか。コーヒーを淹れる時のハンゾウはひどく真剣で、緊張に満ちていて、静謐で、そんな彼の姿をカウンターのこちら側から眺めるのもコールは好きだった。たぶんアリソンも、そして、エミリーも。

 問題はエミリーだ。毎朝、大好きな祖父が大好きな両親のために淹れるコーヒーを自分も飲んでみたいと思うのは当然のことだろう。両親があまりに美味しい美味しいと褒めそやすハンゾウのコーヒーを、だがエミリーだけは飲めない。ほかならぬハンゾウに禁じられているからだ。

 カフェインが成長期の子どもの成長ホルモンの分泌をさまたげ、利尿作用が脱水を引き起こし、カルシウムや鉄分の排出を促すことをなにかで読んだハンゾウはエミリーにコーヒーを禁じた。専門知識のあるアリソンが、「一応、小児医学学会の見解としては子どもが摂取していいカフェインの量は一日に100mg、一杯だけだったら大丈夫だと思うけど」と言いはしたのだがハンゾウは聞く耳を持たない。「エミリーの成長を妨げたらどうする。夜眠れなくなることで生活習慣に支障が出てはいかん」と頑迷なまでに主張し譲らなかった。毎朝毎朝、手を替え品を替えエミリーがねだるのを、いつもは不承不承了承するのにこの件だけは絶対に認めなかった。そしてとうとう今朝、エミリーが爆発した。

 「グランパなんか大嫌い」と言われ、ドアを大きな音を立てて閉められ、カウンターの向こうでハンゾウが傷ついた顔をしたのをコールもアリソンも目撃し、気まずい空気に耐えかねたアリソンが車のキーを取り、エミリーを学校まで送って行くという名目で席を外した。残されたコールもなんと声をかければいいのかわからず二人は沈黙する。意を決してコールが口をひらいた。

「……どうしてもコーヒーが飲みたいって訳でもないと思いますよ。単に仲間はずれにされたのが寂しかっただけで」

 だからハンゾウさんのせいではありません。どちらかと言うと俺たち全員に怒ってるんだと思う。目の前で三人して盛り上がってるのに自分だけ見てるだけなんて。だから俺たちも悪かったと思います。あまり気にしないで。

「確かにエミリーの前で軽率であった。儂が悪い」
「そんなことないですってば、あの子はあなたのことが好きだから」
「……あの子がすこやかに育つことを願っておるだけなのだが」

 それはそうだろう、とコールは思う。我が子の成長を二人とも見届けることができなかったこのひとにとって、エミリーの成長がどれほどの救いになっていることか。教育方針そのものは間違いだとは思わない。これがコーヒーだから「おじいちゃんは大袈裟なんだよ」と非難されるものの、アルコールやドラッグだったら?厳然と禁じるべきだろう。ハンゾウの淹れるコーヒーがあまりに美味で、そしてハンゾウがコーヒーを淹れる姿があまりに毅然と美しいので、ついはしゃぎすぎてしまった後ろめたさもある。四百年前の封建社会を生きたこの男に、「保護者に向かって大嫌いと言うのも子どもの成長過程のひとつなんですよ」と言っても通用しないだろう。スポック博士の育児書にも三百年ほど間に合わなかった。エミリーの方も今頃車の中でアリソンがフォローしてくれているはずだ。だが気にするな、とコールが何度言ってもハンゾウは受け入れまい。この調子で子育てしてたら実のお子さんたちも成長したらさぞ反発したことだろうとはひそかに思うが。

 肩を落としながらもキッチンでコーヒーを淹れるのに使った道具を洗って片付ける几帳面な姿をカウンターで眺めながらコールはため息をつく。天涯孤独の身であったが、自分に祖父がいればこんなに面倒だっただろうか、と思いながら。



 昼過ぎに出かけてくる、とハンゾウがフードをかぶって告げた時、コールはあえて行き先を尋ねなかった。気晴らしが必要なのだろうと思っていたからだ。学校から帰ってきたエミリーと鉢合わせするのが気まずいのだろうとも思っていた。帰宅したエミリーが一目散に自室にこもってしまったのでまだへそを曲げたままなのだろう。面倒な二人だ。そっくりだな、とコールはひそかに微笑ましく思う。もっともアリソンに言わせれば「あなただってそっくりだよ、その頑固なとこ」ということらしいが。

 だからいずこから帰宅したハンゾウがエミリーを呼んできて欲しい、と言った時、内心気が進まなかった。「放っておけばいいんですってば」とよっぽど言ってやりたかった。だがハンゾウの真剣な目にふと心打たれてしまった。少なくともエミリーの不機嫌を成長期特有のものだと切り捨ててしまわず、真剣に対応しようとするハンゾウの誠意のようなものが、なかばおかしくもあり、そして得難い善性であるように思えたので。冥界に四百年いて恨みと憎しみを限界まで煮詰めていたとしても、ハンゾウの魂の奥底の美しさというものは変わらないのではないかと思えたので。だから娘の部屋のドアを叩くべく、コールは立ち上がった。



「そこに座って欲しい」

 カウンターを指され、ふてくされた顔のままエミリーがそれでも黙ってスツールに腰を下ろす。まだ許した訳じゃないんだからね、と言わんばかりの厳しい表情をしているエミリーの横顔と、キッチンのハンゾウの顔をコールと同じく帰宅したアリソンは交互に眺め、顔を見合わせる。何が始まることやら。

 二人の見守る前でハンゾウは新しい紙袋の封を切った。スケールに載せた皿に中身をスプーンであける。……コーヒー豆だ。

 目の前でハンゾウのあの魅惑的な儀式が始まったのを三人は同時に理解する。ハンゾウがスケールで豆の量を正確に測り、ミルに開け、ハンドルを回す。豆の砕ける音に乗って、芳ばしい香りがカウンターのこちら側に漂ってくる。三人は同時に深く息を吸い込む。三人とも何も言わない。ハンゾウがコーヒーを淹れる時、それこそ茶室にいる時のように三人は声を出さない。コーヒーを淹れるハンゾウは茶室の主人で、カウンターのこちらにいるのは客なのだ。豆を挽く心地よい音がする。コーヒーケトルの湯がシュンシュンと沸く風が吹くような音がする。三人とも、行ったこともない竹林の奥の茶室にいるような神妙な気分になる。隣のコンロで小鍋で牛乳をあたためる。舌触りの悪いガゼイン膜の張らない絶妙な温度で火を止める。ハンゾウがフィルターを水で濡らす。実験器具のような花器のようなケメックスのコーヒーメーカーに挽きたての豆がたいらに均される。ケトルのほそい口から湯がそそがれる。豆が湯を吸ってふくらむ。濃い琥珀の水滴がガラスのくびれた部分を通って下に溜まる。ふくらんだ粉が縮む。また湯をそそぐ、ふくらむ。

 コーヒーを淹れるハンゾウの動きは舞踏のようでもあり、武術の演舞のようでもあった。ここちよい緊張に満ちていて、静謐だった。ケトルを持つ腕の発達した腱のうかびあがる様子やとがった肘、伏せた横顔の憂いにすら見える真剣な面持ち、額に落ちる前髪をかきあげる仕草、最後の雑味が落ちる直前にフィルターを外す絶妙のタイミング、納得のゆくコーヒーが淹れられたことへの、ほんのかすかな満足げな笑み。豊かで静かな時間。

 あたためたカップにコーヒーがそそがれ、ミルクがなみなみと満たされる。ハンゾウはそのカップをソーサーに載せ、カウンターで待つエミリーの前におごそかに置いた。エミリーがおそるおそるハンゾウを見上げる。

「……いいの……?」

 ハンゾウが頷いた。豆の袋を手に取り、パッケージをこちらに向ける。

「『でかふぇ』じゃ」

 もったいぶって言うのがおかしくて思わず吹き出しそうになるコールの脇腹をアリソンがつついて止めた。

「豆を買う鋪の主人に相談した。子どもが飲める豆はないかと。そうしたらこれを教えてもらった」

 エミリーがうつむいてカップの表面を見つめている。しばらくして顔を上げ、ハンゾウを見る。

「……なんだかもったいない。飲むの」
「熱いうちに飲みなさい」

 ハンゾウに促されエミリーがカップを持ち上げる。ふちに触れた唇が意外に熱く、息を吹きかけて表面を冷ます。コールも、アリソンも、ハンゾウも固唾を飲んでその様子を見守っている。エミリーの唇の切れ間に熱い液体が滑り落ちてゆく。喉が動く。顔を上げる。目が輝いている。

「……美味しい……」

 三人が同時に止めていた息を吐いた。特にハンゾウはまるで刀を鞘におさめたあとのような安堵の顔をして大きく肩をゆらす。エミリーが笑う。

「すっごく美味しい!」
「そうか、それは何よりじゃ」

 微笑みながらハンゾウが言う。

「おぬしさえよければ毎朝淹れてやろう」
「ほんと?」
「本当じゃ。ただし早起きをしてくるのだぞ。今、見たろう。珈琲を淹れるのはとても時間がかかる。どの行程も省くことはできぬし、どの行程もおろそかにはできぬ。寝坊をする子には作れぬよ」
「わかった!」

 あまりにも調子の良すぎる返事にコールもアリソンも顔を見合わせる。エミリーの朝寝坊には二人ともほとほと手を焼いていたからだ。大好きな祖父が自分を特別扱いしてくれたことがよほど嬉しかったのだろう。実際に早起きできるかどうかは別として、気分だけはすっかりその気になっている。コールもアリソンも微笑んでいる。ハンゾウの存在がヤング家に欠かせないものになっていることを二人とも感じている。自分たちら両親として不完全だが、それを補ってくれる、頑固で昔気質でコーヒーを淹れるのがうまい男の存在が。

「ハンゾウさん」

 アリソンが笑いながら話しかける。

「よければ夕食を作る前に、わたしたちにもコーヒーを淹れてもらえるかな。お預けにされたエミリーの気持ちが今やっとわかったわ。あなたのコーヒーがとても飲みたい」

 それはコールも同じ気持ちだった。あの美しい一連の儀式を見たあとでそれが飲めないのは辛すぎる。二人の要求にハンゾウは微笑む。

「喜んで」

 湯を沸かす風のような音が聞こえる。豆を挽く弾けるような音が聞こえる。芳ばしい香りがする。ハンゾウの、舞を舞うような優雅で静謐な動きが空気を切るのが、聞こえる。

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