弟チワワとクソデカ矢印ゴリラ
昨今の分煙意識と猛暑は耐え難いもので、外を走り回ることの多い稼業である八神探偵事務所の面々は、涼とヤニを求めてシャルルに立ち寄ることがままあった。
今日も今日とて平日の午後の早い時間、客のいない場末のゲームセンターにどやどやとやって来た。
店番をしていたのは東だけだった。常駐の店員として店を任せている舎弟はつい先ほど、休憩に行かせている。
たった二人であるのに、海藤と八神は存在がうるさい。階段を降りているだろう時点で、東は来訪に勘づいていた。カウンターの後ろに最近の暑さに耐えかねてひっそりと設置した小型冷温庫にお茶のペットボトルと缶コーヒーは何本残っていただろうかとぼんやり考える。
「あっついなぁ! おい!」
「ほんと、いい加減涼しくなってくれないかな」
真っ赤に顔を上気させた海藤がドアを開け、入って来る。シャツは汗で透け、短髪からは雫が垂れていた。大きく逞しい身体は蒸気機関車が突っ込んできたかのようだった。続いて入って来たのは八神……ではなく杉浦だ。白いTシャツが汗じみており、いつもはつるりと白い顔がやや紅潮している。
珍しい組み合わせだと思いつつ東は冷温庫から缶コーヒーと緑茶のペットボトル、舎弟の誰かが入れたのだろうスポーツドリンクを取り出す。
「兄貴、お疲れ様です。好きなのどうぞ」
ベンチに腰を下ろす前に海藤だけを見つめて声を掛けると、杉浦が早速とばかりにスポーツドリンクに手を伸ばす。
「てめえは後だ」
ピシャリと告げる。
「海藤さんはスポドリ飲まないんだからいいでしょお!?」
「よくない。てめえは後だ。さ、兄貴、好きなの選んでください」
キャンキャンとやかましい杉浦には目もくれず、海藤のみを見つめる東は、それぞれをカウンターに置いた。選ぶであろう緑茶を海藤が手を伸ばしやすい位置に置く。
しかし、海藤は珍しくスポーツドリンクを手に取る。そして、取ったばかりのそれを杉浦にひょいと投げ渡した。難なくキャッチした杉浦は、海藤さんは優しいねえと東に向かって言うと、すぐに開栓し半ばまで一気に干した。相当喉が渇いていたのだろう。
「意地の悪いことしてやるな」
緑茶のボトルを手にからりと笑って諌められ、東は一瞬、憮然としたがる頬を内側の肉を軽く噛むことで収めてすぐにはいと頷いた。海藤が杉浦に甘いのはいつものことだと飲み込みつつ。
かつては八神探偵事務所の手伝いをして小遣いを稼いでいた杉浦も、いまでは横浜に事務所を構える探偵事務所の共同経営者としてそれなり以上に食えていることを、九十九にあれこれ頼み事をしている東は知っていた。経営状況は八神探偵事務所より随分と良好だった。それでも海藤にはまだ尻に殻のついたヒヨコに見えるのだろう。杉浦も海藤がそう思っていることを察してわざとそう振る舞っているように思える。こういうところが九十九いわく愛され弟“キャラ”らしい。
俺だって弟分だ。などと東は思っても言わない。万が一にも情の深い海藤がちゃちな悋気に呆れて東に分け与えてくれる関心が目減りしてはかなわない。
いや、どうにも近頃はかつて東が受け取れていたそれが薄くなっているような気がしていた。
二度に渡る大きな陰謀を含んだ事件の解決に尽力し、八神とともに随分と名を上げた海藤には頼ってくる者が増えたように思う。いまでは海藤を指名する依頼人もいると、八神が以前嬉しそうに言っていた。勿論、東はそれを当然だと思っている。海藤ほどの好漢はそういないと本心から思っている。
けれどそうやって海藤が東の知らない連中から頼りにされると、海藤の心のなかから東の存在が自然と軽く、薄くなっていくのではないかと不安になる。
そんなことはない。否定をしてみても実際のところ、海藤は近頃、東が八神といつものように軽口の応酬をしていても、まず先に東を諌め、それから八神には仕方ねえなあと笑う。杉浦の傍若無人を許し、たまに発動する九十九のマシンガントークをうんうん頷きながら聞いてやる。酔った星野のつれないさおりさんも素敵だけどもうちょっとデレが欲しいというただの惚気話にも付き合ってやっていた。元日侠連の入江の愚痴までたまに聞いていると知ったときはめまいがした。
逆に、東を食事や飲みに誘う回数が減り、事務所に呼び出されることもほぼなく、前回ここに海藤がひとりで来たのは桜が散った頃だった。
ないがしろ。にはされていない。されてはいないが優先順位が著しく低下していることは確実だ。
これはなんとかしないといけない。このままでは海藤正治唯一の弟分としての立場が危うい。しかし、どうすればいいのか。組員時代のように四六時中そばにいられたら、役に立つ男だとアピールするチャンスはあるだろう。だが現状、邂逅の機会はわずかだ。
爪痕残してかねぇと。
東はもうすでに空になったペットボトルを手の中で遊ばせている海藤をじたりと見つめ、それから暑い暑いと鳴いている杉浦を見た。ふたりは和やかに雑談を交わしている。ほとんど杉浦が喋っているようだが、益体もない話にも海藤は相槌をうち、時折声を上げて笑っていた。
好機だった。海藤がいる。杉浦の存在は厄介だが無視していいだろう。
東は流れる動作で冷温庫から缶コーヒーを取り出し、カウンターから出た。海藤に近付き、手のひらを差し出す。空のペットボトルを受け取り、缶コーヒーと交換した。
海藤はコーヒーをひとくち含むとシャツの胸から煙草を取り出す。すかさず火を点け、さて役に立つ男と思わせるにはこれからどうすればいいか、しばし逡巡する。何か手伝えることはあるだろうか。さり気なく、かつ、印象に残るような行動は。
むつりと押し黙りつつも東は懸命に考えていた。海藤の依頼について手伝えることはあるかと訊ねてみるかと思うもすぐに否定する。訊けば領分を侵すことにも繋がり、海藤を侮ることになる。ならば日常の細々とした家事や雑用をと思っても、東は海藤のねぐらを知らなかった。組員時代の部屋は破門以降、ひと目だけでも存在を感じたいと思って留守であろう時間帯を狙って一度だけ覗きに行ったが、すでに別の住人がいた。多分、源田事務所か親切で奇特な八神探偵事務所の大家のつてで新しい住まいに移ったのだろう。そして、決別を経ていまに至っても知らないままだ。
やべえな。泣きそうになってきた。
鼻の奥がかすかに痛み、東は慌てて視線を海藤から外した。外した先に杉浦がいたのは偶然だった。目が合ったのも。
「東さんさぁ、ちょっと頭おかしいよね」
暴言だった。まさに暴言としか言いようのない語句を唐突に投げ渡され、東は瞬間的にカッとなった。当然だ。
「あァ? やんのかコラ」
反射的に凄む。これもまた当然だ。杉浦は悪びれることなくヤクザムーブやめてよとくちを尖らせつつも、失言の自覚はあったのだろう。
「あー、言葉選び間違えた。違くて、えっと、あ、まずごめんなさい」
素直に謝ってくる。下出にでられると弱い東は盛大に舌打ちをして手打ちとしてやった。悪気がないのはわかっている。杉浦が心を許した相手には途端に配慮をサボることも。こういうところが甘いチョロいと言われる所以ではあるものの、遠くない以前、杉浦の態度に憤っていた東に向かって、相棒である九十九が言ったのだ。
杉浦氏はきっとお姉様にも同じようにしていたのでしょうなあ。微笑ましいですな。と。その言葉に肉親の情が薄かった東はなるほどそうなのかと腑に落ちた。
ヤクザなど大抵は肉親に縁が薄い。だからこそ親や子、兄や弟などと関係性に名前をつける。わかりやすく手っ取り早く縛る。擬似的な家族関係を形成し、徹底的に固着させる。愚かしいと笑うまともな感性の持ち主が大半であろうが、そうすることで救われる者もたしかに在るのだ。
救われた側にいた東は、だからこそ杉浦の身内認定が甘く擽ったくそして好ましく思える。
「で? 選び間違えなけりゃなんて言うつもりだった?」
己の単純さに内心笑いながら海藤のそばを離れ、東は杉浦の前にツカツカと歩み寄ると、訊ねる。杉浦はごめんなさいともう一度言ってから、何故か海藤を見た。つられて東も海藤を振り返る。
海藤はいつものように笑っている。快活で豪胆で、明朗な。東が最も敬愛する男の笑顔だ。くしゅりと顔をほころばせ一拍二拍、三拍きっかり笑顔を堪能してから、東は再び杉浦へと視線を戻す。杉浦は何故かしわくちゃになっていた。
「杉浦、もう行くぞ」
背後で海藤が立ち上がる気配がする。東は途端に杉浦への尋問を放棄して海藤へ向き直った。まだいてくれてもいいのに。と、言いかけ、留まる。引き止める言葉がなかった。海藤の額からは汗が引き、蒸気機関車は新型の新幹線もかくやといったスマートさに変わっていた。
「東、ごっそさん。また寄る」
その上海藤は東の好きな笑顔を見せ、またと言ってくれる。引き止めることなど出来ようはずがない。東はききわけのよい弟分の顔をして、お気をつけてと送り出した。
ガラス扉を一枚くぐった先、踊り場は灼熱の地獄であった。店内の涼しさから一転、重苦しくも痛い猛暑が海藤と杉浦、二人に襲いかかる。
「あっっっづい……」
温度差ぁ! と叫んで杉浦は数段の階段を上る海藤の背中を睨む。もうしばらく涼んでいても依頼には別段問題はないはずだった。横浜にいるパートナーほど生粋の筋金入りではないものの、杉浦とて元引きこもりのインドア気質である。快適な室内には積極的に居座り続けたかった。
だが、失言を容易く許した東が杉浦へ向き直ったときの海藤の表情を思い出すと、長居は難しいことは理解している。
海藤はあのとき、笑っていた。他人の機微に聡い杉浦は、そこに強欲と傲慢と独占と執着と慈愛と熱情と、いたたまれないほどの愛を見てしまった。
頭がおかしいという失言をしてしまうほど、東が海藤へ見せる痛ましいまでの献身も合わせると、この二人の元暴の異常さは“まとも”な杉浦からすると容易く触れるものではないと思わせた。正直、傍観者ですらいたくない。
「東は俺のもんだって思ってるだろ」
背中を見せたままの海藤が囁くように言った。杉浦の危機察知能力は聞くなと警鐘を鳴らしていたが、通路の中央をのしのし歩く海藤を追い抜く隙間がなく、逃げられない。
「やだやだ聞きたくない」
「ガキの頃から面倒見てきたからな。まぁ、そう思っても不思議はねえよな」
「聞きたくないってんだろゴリラァ!」
「でもな、俺があいつのもんなんだよなぁこれが」
もう半歩もせず間口から出られる位置で、海藤は立ち止まり、振り返る。いつもの快活な笑顔にあって、下まぶたを引き上げる目元がやけに胡乱だった。
「あの献身受けといてよく言えるよね」
思わず返した杉浦に、我が意を得たりと海藤が笑う。
「俺にはあの献身しかくれねえんだよな。俺ァもっと違うもんが欲しいのによ」
強欲な猛獣が真夏の痛みすら覚える眩しさを背負い笑っている。馬鹿だなぁと外野でしかない杉浦は随分と年上の男に対して率直に思った。と、同時に誠実で優しい友人の言葉を思い出す。
「……源田先生が言ってた。って星野くんが教えてくれたんだけど、依存先は複数あったほうが良いって。その方が気持ちが安定するからって。海藤さん、アンタもそれ知ってるんでしょ?」
他を構うことで東から少しずつあれこれと取り上げて、執着を向けさせようとしているらしい海藤の癖の悪さに顔をしかめる。けれど、それだけだった。どうせ放っておいても落ち着くところに落ち着くであろうし、献身しか渡されていないなどと本気で思っているような愚かな男は痛い目に遭えば良い。涼しく快適だった場所から引き剥がされた杉浦は、暑いなぁと呟いて夏の下に飛び出した。
おわり
powered by 小説執筆ツール「arei」