ルスマヴェ/月の裏側
ポップソングであれば、何度か聞けば鍵盤で再現できる耳と指を俺に授けてくれたのはコミュニティカレッジで音楽と保育を学んだ母だった。そのなかで目をつむっても弾けるのが九〇年代の甘いラブソング。
これは母さんではなく、完全にマーヴェリックの影響。母さんが手塩にかけて育てた俺の優秀な音感を下手っぴな歌で崩壊させるリスクも厭わず、彼はブラッドリーならこれも弾けるだろと俺をジュークボックス扱いした。
「さすがはブラッドリー。ピアノも弾けて、スポーツもできる。それに本当に優しい。君って学校でかなりモテるだろ?」
俺はその頃覚えたての単語を使って言い返す。
「マーヴってまじでデリカシーないね」
「そういうのは一切合切、空に忘れてきたなあ。アイスに取り返しに行ってもらおうか」
「アイスおじさんが可哀そう」
「お、わかってるじゃないか。あいつは可哀そうな奴なんだよ。俺の言うことをなんでも聞かなくちゃいけなくなった不憫な俺の僚機だ」
ニシシと不敵に笑うマーヴェリックを見つめながら俺は心の中で呟いた。
別に女の子にモテたってしょうがない。俺はあんたが好きなんだから。それもかなりガキの頃からガキらしくなくずっと一途にさ。
それは結局、彼には伝えられなかった。勇気がなかったわけではなく、タイミングの問題だった。高校を卒業したら告げようと思っていたら、その直前にマーヴェリックが俺のそばからいなくなった。
俺を宇宙に放り出して消えた。
雲から蹴り出されて渓谷に落ちた雨は川をつたっていつかは海に辿り着くが、俺が放り出された両親もマーヴェリックもいない宇宙に辿り着く場所は、どこにもなかった。
*
母さんが俺に授けてくれたピアノと歌唱の腕前が、金のない未成年でも酒にありつくためにバーのジュークボックス役になるためのものではないことは確かだ。
ごめん、母さん。でも、あの頃の俺にはマーヴェリックを思い出さないために喉に流し込む酒が必要だった。
大学から程近いダウンタウンのバーによく顔を出した。バーの客層は幅広くてカップルだけじゃなくブルーカラーの仕事帰りの中年男性も大勢いた。
俺はそういう人達に可愛がられるタイプのようで、酒をおごってもらう代わりにピアノの演奏をねだられた。
その日はやけに九〇年代あたりのヒットソングのオーダーが多くて、歌詞を覚えている歌は周りと一緒になって歌った。
店内が暑くて休憩がてら外に出て路地裏で煙草を吸っていた時だった。一人の女の子が俺に声をかけてきた。
「さっきはめちゃくちゃ素敵だった。ピアノもだけど、歌声も」
「ありがとう。うるさいだけだと思ってたから嬉しいよ」
女の子は片方の口元をくいっとあげた。この世界に嫌気が差したようなしなびれた街灯の反射で唇のピアスが鈍く光り、それが彼女のスモーキーな目元をより魅力的に見せていた。
「嘘つかないでよ、彼氏を連れた女の子でさえ君のことを見つめてたのに」
ベスと名乗ったベリーショートの女の子は俺と同じ歳ぐらいのように見えた。それに、彼女の素面の顔つきから、俺と似たような境遇の子だとなんとなく察した。
人よりも早く真っ暗な宇宙に放り出されてしまったことのある人間だけができる顔つきをしていたからだ。と同時に、それなら月の裏側まで見てきてやるという覚悟もベスは漂わせていた。
こういう女の子を好きになるべきだったんじゃないか。
酒がまだ侵入しきっていない心の隅で、その当時の俺はベスのセクシャリティも知らずに傲慢なことを思った。生まれた時から家族みたいな顔をして俺の心臓に住み着いたくせに突如いなくなった非情な男よりも彼女を愛すことができれば、ひょっとしたら俺はもう少し早く空を飛べたのかもしれない。
だから、ベスが次に口にしたことに俺は呼吸の仕方を一瞬忘れてしまうほど驚いた。
「歌からも伝わってきたよ。本当に好きだったんだね、『彼』のこと」
「……どういう意味で言ってる?」
ベスは首を少し横に傾けた。あれ気付いてないの? というような仕草だった。
「さっき歌ってたあの曲、歌詞は失恋した男視点で書かれているけど、君、『彼女』のところを『彼』に変えてたから、そうなのかなと思って」
あの時の俺はどんな顔をしていたんだろう。
ベスは慌てて、ごめん、私の聞き間違いだったのかもと謝った。
謝る必要なんてなかった。彼女は正しいことを言ったのだから。
最悪の気分だった。歌詞を変えた自覚は全くなかった。
なんてバカなことをしたんだろう。
気付いたのが彼女だけであってくれと願いながら、俺はまだ『彼』が俺の中にいることに耐えられなかった。俺の心臓に、歌声に、鍵盤を弾く指先に残っているなんて。
「傷付けてしまったのなら本当にごめんなさい……嫌じゃなかったら、お詫びにおごらせてほしい」
ベスの優しい申し出が救いだった。
俺はブラッドリーだと名乗ってから「ベス、君はフェイクID持ってる?」と笑えない冗談を言うと「持ってるけど、多分すぐにバレる」と彼女は少し笑いながら正直に教えてくれた。
ベスとはその後何回もバーで待ち合わせて、俺のフェイクIDで買った安酒をちびちびと分け合った。
常連達のジュークボックス役も相変わらず引き受けたけれど、俺はベスと出会って以降一つ条件を付け加えた。ラブソングはNG。ベスが気付いた失態を繰り返すわけにいかなったからだ。常連達は口々に文句を言った。
「じゃあなんにも頼めないじゃないか! 人間ってのは愛だの恋だのセックスだの、そういうことばっか歌ってきたんだよ!」
そうなんだろうか……。いや、そうかも。俺は少し譲歩した。
「じゃあ、セックスの歌ならギリOK。甘ったるいけどしみったれてはないから弾いてるこっちも気が晴れる。ずっと好きだった人にこっぴどく振られたばっかりだからつらいんだよ」
半分嘘で半分本当のことを言うと、二、三杯は同情代わりに酒をおごってもらえたから、このフレーズはそれから十数年間どこのバーでも活用できた。けれども『火の玉ロック』だけはリクエストされなくても歌った。これは父さんと母さんの歌だから。『彼』のための歌ではない。
ベス、君は今どこにいるんだろう。
あれから俺たちを取り巻く世界は前に進んだり、逆に戻ってしまったりしている。少なくともここじゃあ俺や君のような人も結婚できるようになったけれども、バックラッシュも苛烈で分断が進んでしまっている。君はこんなところを見限って月の裏側だけじゃなく冥王星まで見に行っているかのかもしれない。
俺?……俺はバカみたいな話なんだけど、十数年後に『彼』を追って雪山に落ちて命からがら戻ってきてから、そっからラブソングを再び歌えるようになった。笑えるよな。
*
俺とマーヴェリックは、初夏のシアトルを旅していた。ディナーは軽くいこうとホテル近くのバーに入ってみると、そこはベスと出会ったバーに似ていた。
「ブラッドリー、あそこにピアノがある」
マーヴェリックが店内の奥を指さした。
「小さいけど、いいピアノだ」
「最近、弾いてないだろ。ちょうどいい機会じゃないか」
俺は呆れた。マーヴェリックには少々世間知らずなところがある。
「マーヴ、こういうところの暗黙のルール知ってるか? 観光客はお呼びじゃないんだ。バーにある楽器ってのは大抵常連の為にあるんだよ」
「でも、今は誰も弾いてない」
そう言ったが早いか、マーヴェリックは近くにいた店員に声をかけて、すぐに許可をとりつけていた。
そういうのまじで早いんだよな、この人。しかも、自分があの顔で頼めば大抵はOKになるって知っててやってる。
くー、これだから可愛いってことを自覚してるおじさんはいけないね、と心の中で愚痴りながら俺は何気なく店内をぐるりと見渡した。すると、レインボー・プライドフラッグが掛けてあるのが見えた。
あのバーにはなかったもの。
ベス、少しずつだけれどやっぱり世界はいい方に向かっている。
会いたいよ。君と分かち合った安酒はあの頃に唯一味がした酒だった。
「俺は見てるから、思う存分弾いてこい」
マーヴェリックが俺の背を押した。俺はしぶしぶピアノの前に行って、鍵盤蓋を開ける。
うん、きれいだ、とっても。君、名前なんていうの? 俺はブラッドリー、あの隅っこでニヤニヤ俺を見ているのはマーヴェリック。俺の恋人で、俺を長年ジュークボックス扱いするひどい男。この可哀そうな俺にしばらく付き合ってくれる?
こういう場のしきたりは理解していた。まずはその地で愛される地元のアーティストの曲を演奏するのだ。そうすると、お、こいつは礼儀と地域への敬意をわかっているとバーにいる人間は認めてくれる。それから、彼らに何か聞きたい曲はあるかと尋ねる。
「俺、けっこうなんでも弾けるんで、ぜひリクエストしてください」
俺はさらに付け加える。ラブソングが個人的にはおすすめかも、と。
しばらくすると、ありがたいことに俺の周りには人だかりができて、次はこの曲、俺はこれが聞きたいとリクエストが絶えなくなった。そして誰かの口からあの歌のタイトルが出た。ベスが俺に歌詞を間違えていると指摘した歌。
『彼』を思い出さずにいられなかったラブソング。
俺はちょっと考えてから、それをやるのには二つ条件があります、と言った。
全員が首をかしげた。
「二つも?」
そう、譲れない二つがあるんです。
「一つ目は、今回だけ歌詞を『彼』に変えてもいいですか? 俺の恋人に捧げたいので。二つ目は、すみませんがあの隅にいる俺の恋人をここに担いできてもらえますか? 俺の膝の上で聞かせてやりたいので」
周囲が一気に沸いた。
「マーヴ、あんたのための歌だよ!」
俺は今日一番の大声でマーヴェリックに向かって言った。マーヴェリックは急に名前を呼ばれて、キョトンとしている。数分後には観衆の中で冷やかされながら、俺の膝の上で時々こめかみにキスをされつつ歌を一番近くで聞く羽目になるなんて知らない顔が愛おしかった。
それに俺はマーヴェリックにわかってほしかった。
どれだけ忘れようとしても無理だったってこと。
結局のところ俺にとってあんたを思い出さないラブソングはないし、あんたのことを想わずに飲める酒なんてないんだってことを。
両親とベスがここにいないことが寂しかったが、どこかで聴いてくれているはずだと思うと、鍵盤の上の指がより滑らかに弾んでラブソングはさらに甘くなった。
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