四月一日



「ええなあ、このキラキラしたやつええなあ!」
その一言が、餌になった。
「お客様、こちらの商品はいかがでしょうか。」
遠巻きに眺めていた店員のうち、一番背の低い販売員が、僕らに近づいて来た。
年季の入った様子の、かっちりしたスーツを身に纏う、ピラニアのような女が捧げ持った小さなクッションの上には、明らかに「この手」の成金趣味を好む人間の趣味を熟知した指輪が載せられている。明らかに、ターゲットが、この風流人には到底見えない奇天烈な和装をしている隣の男であることを見抜いている様子だ。


今日ふたりで訪れたのは、銀座の一角の、そのまた海外ブランドの多い大通り沿いに出店している、そこそこ名前の知られたブランドの宝飾品の店だった。
野駆けではなく、はるばる新幹線でやってきた東京は、キタとミナミの違いに馴染んだ僕らにはどことなく面白みのない街だったが、地元とは違い、顔の知られていない場所では、こういう店に気兼ねなく出入りできるという利点がある。
こちらが店の人間を値踏みするような気持ちで足を踏み入れると、周りには、かつて僕らが若い頃にはこういう店に列を為していた若い世代のカップルは見当たらず、アラフィフの男ふたりで足を踏み入れてもそこまで場違いというほどでもない様子だった。
店員の服も古典的だった。今時イタリア製に思われる仕立てのスーツを着こなしている男女など、恋愛ドラマでもすっかり見なくなったが、まだ絶滅してはいないらしい。
慣れないアウェイで、そんなことをうかうかと考えていたのが良くなかった。
気が付いたら、草若兄さんは、完全に店側のペースに乗せられている。
東京の仕事は、常打ち小屋が多いせいか、あるいは集客の見込める落語家が多いせいか、蓋を開けてみれば、関西よりもずっとけちくさいことが分かった。四代目草若の名前があっても、提示された報酬には交通費が込みで、手弁当とまではいかないが、地方で開かれる独演会の方が、まだしも金になるくらいだった。
関東の小屋はしわいなあ、と自分でも言っていたくらいだ。玩具の指輪でも、買ったらすっかり飛んでいくことが分かっているだろうに、何を考えているのか。
「お客様、もしよろしければ、こういうデザインもございますが。」新しいアイテムを次々と繰り出していく店員に対して、「ええやないか!」と兄弟子は応える。
全く良くはない。
アマゾンの沼地から出て来たピラニアはアマゾンに帰れ。
心の前でそう毒づくほどに、目の前では、僕を無視した話の弾むこと弾むこと。
こういうのじゃんじゃん持って来て、と言わんばかりの食いつきに対して、店員は、いいカモがやって来たと言わんばかりの目付きを隠そうともしていないが、落語家が内弟子修行中に自然と身に付いてしまう値札を確認する癖を手放して長い兄弟子は、「こっちもええなァ」と喜色満面の笑顔になっている。



京都の着倒れに大阪の食い倒れとは良く言う話だが、東京に比べて大阪の落語家が着道楽の傾向にあるということを差し引いても、昔っから、ド派手な服や宝飾で自分を飾り立てるのが好きな人だった。
落語一筋の草々兄さんは馬鹿にするが、ギャグや一発芸も、芸は芸だ。
そもそも、古典落語と言われる僕らの芸も、歌舞伎や能楽という正統派の伝統芸能からすれば新奇でアホらしいものでしかない。
この人が数本のレギュラー番組を抱えて、テレビ出演にラジオにと荒稼ぎをしていた当時、どこで作って来るのかという特注の着物を着て、にぎにぎしい芸能界の様子を織り交ぜた長い枕をしゃべくる男に、旧弊な落語の世界にはない、自由奔放な雰囲気を感じた観客もいただろう。
師匠が良く言っていたように、小草若兄さんの「底抜け」ギャグは、あの時代に合っていた。あの台詞を言うたびに視聴者の視線を釘付けにする、ギラギラと輝く指輪とゴテゴテした時計が、あの当時の、本来あるべき道筋から逸れていく自分、古典落語という「家業」への自信のなさから目を逸らして、得意の一発芸に走る男には似合いだったように。
そう思いながらも、芸の継承という面で、もう一人の【息子】に負けている自分の立場の危うさに不安を抱いている男を、ただ醒めた目で見ることも、それまで何人もの他人に同じようにしてきたように、距離を取ることも出来なかった。
この人が、僕にとってはただの他人ではなかったからだ。
三代目草若を介した「家族」であり、あの人が見せてくれた落語という芸の世界から、離れたくても離れられない、同じ穴の狢でもあった。
そのことに気付いた日から、この人は放ってはおけない相手になった。この兄弟子にとっては、一日先に入門した同じ年の男が、ずっと目の上のたんこぶだったように。
(まさかあの頃は、こんな風な意味で目が離せなくなる相手になると分かっていた訳でもなかったけど。)
「お客様、こちらはいかがでしょうか。」
昨日の夜はこの背に回っていた指に、ペアで身に付けたいとは決して思わない、台座が大きくギラギラと輝く指輪が嵌められるのを、目の前で指をくわえて見ていなければならない状況が、ただただ腹立たしい。
画質のいい写真とビデオ映像が撮影できる電話が世間に普及して二十年近くになる。
触るなブス、と言いたくなるのを堪えていると、ふと視線をこちらに寄越した兄さんに手招きされる。予算の相談でもしたいのかと思ってうかうかと顔を近づけると「なあ、しぃ、お前の誕生日、また歌だけでもええか?」と耳打ちされて目を瞠った。
「……。」
さっと選んでさっと店を出るだけの予定だったでしょう。
高座の上でも年相応の落ち着きのない男に、今更何を言っても始まらないのは分かっているが、(何を買いに来たのか覚えてますか……?)という視線を返すだけにすると、「冗談やって、なっ。」と笑って躱されてしまった。



その日が四月一日と気付いてなかったのが、そもそもの躓きだった気がする。
「そろそろお前の誕生日やな。キリもええとこやし、今年は指輪でも買うか?」
夜席の後で流れた寝床での酒盛りに夜半まで付き合わせてしまった子どもがまだ布団で寝ているので、ふたりで朝メシを食べていた。
腹持ちがいいのでと、子どものために炊いた白米。
残った牛乳を入れたオムレツに、安いパセリを添えただけの朝食に、あの日は前日に子どもが気を利かせて買っておいてくれた、しじみの味噌汁が付いた。
師匠が二日酔いで苦しんでいた日におかみさんがよく作っていたしじみの味噌汁は、ひどく胃に沁みた。黙々と貝殻から身をよっていると、藪から棒に誕生日の話を切り出された。
去年は、木の股から生まれたようなこの産みの親にも誕生日があるということにやっと気付いた子どもが、ケーキを食べる数少ない機会を逃したくないとばかりに誕生パーティーの話をこの人に持ちかけたので、夕食の後に三人でデパートに行くことになった。
三人がそれぞれひとつずつケーキを頼み、子どもは、毎晩こんなことしてたら将来横綱になるで、と言われながらも、一晩に二個半のケーキを食べて満足そうな顔つきになっていた。
僕もまあその後――つまり子どもが寝付いてしまった後で――それなりに満足したこともあり、この年になれば、プレゼントなどを欲しいと思ったこともなかったが、指輪となれば、また話は別のような気がした。
冗談ですか、としらばっくれて聞き返すには微妙な話でもあり、この人の指に、あの頃の、見栄の塊のようなゴテゴテした指輪ではなく、プラチナかゴールドかは分からないが、細い輪が嵌められるのかと思うと、悪くはない気もした。
「草若兄さんの趣味の延長なら御免ですけど、石の台座のないやつなら構いませんよ。」
「え!」
「え、て何です。自分から言い出したくせに。」
「そうかて、しぃ、……お前今日が何日か分かってへんのか?」
「何日て、………あ。」
破られたばかりのカレンダーには、四月一日、エイプリルフールと書いてある。
よりにもよって、草若兄さんから「こんな古典的な手に、何で引っかかっとんねん。」と困ったような顔で言われて、頭を抱えたいような気持になった。
「草々兄さんとこの一番弟子じゃないんですから、人を引っかけるならそれなりの嘘を選んでくださいよ。」
誰だって、このタイミングで誕生日の話をされたら不意を突かれるに決まっている。
「おい、子どもが寝てる横であんまキツい物言いすんなや。」
「してませんて。こういう時に人の子どもを出汁にするのは止めてください。」
「都合のいい時だけ自分の子どもみたいな顔すんなや。」
底抜けに腹立つやっちゃな、と言う人に、先に吹っ掛けて来たのはそっちやないですか、と口にしようとすると、布団からにゅっと手が伸びて「僕も草若ちゃんにさんせ~。」という寝ぼけた声が響き渡った。
「……いつから起きてた?」
「お父ちゃん、それ、ホントに聞きたい?」
僕は嘘つかへんよ、と澄んだ目をこちらに向けている。
「……言わんでええ。」
「あんな、お父ちゃん。」
「……言わんでええ。」
「そうやなくて。」
「なんや。」
「お父ちゃんがど~しても欲しい言うなら、僕が草若ちゃんの代わりに指輪買うてあげてもええよ。年始に貰ったお年玉、まだ残っとるし。」
子どもの口から出たその言葉に、僕は呆れてしまった。
それが草若兄さんの懐から出た金だということを、この子どもは分かっていて言っているのだ。
さすが倉沢の血というか。思った通り、子どもが参入して来て多少からかう雰囲気の残っていた兄さんの顔が、にわかに曇り始めた。
「草若兄さん、子どもにここまで言わせといてええんですか?」と勝ち誇った様子を出さずにして僕が慎重に口を開くと、相手はぐっと言葉に詰まった。
何やら考え込んでいるような様子だったが、口を開いて「……おもちゃみたいなのでもええんか?」と言って持っていた箸を手元に置いた。
僕も持っていた手を茶碗をちゃぶ台に戻す。
「今からサイズ測って作りに行ったところで、中に名前彫ったりするなら誕生日に間に合わんぞ。」
「僕は別に構いませんよ。若狭でもないですけど、四月の頭の誕生日なんて、元々そんなにいい日でもなかったですし。」
「……あ、あと、梅田の百貨店はあかんで。」というと、隣の子どもが(何を今さら)という顔をしている。
「次に地方の仕事が入った時に、出先の適当なとこ見つけて買ったらええんと違いますか。金やプラチナの相場がいくら上がったて言うたかて、そこまで高いもんじゃないでしょう。」
「地方て……お前、野口友春の義理のおかあちゃんみたいなのがうようよおるねんで……。」
ああ言えばこう言う。
具体的な人物の名前を挙げて反論すれば、こちらが言葉に詰まって、参りましたと言うとでも思っているわけではないだろうが。
「じゃあ東京ですね。明日にでも、マネージャーにあっちの仕事に伝手がないか聞いてみます。」
「え?」
「……じゃ、話まとまったところで、お父ちゃん、僕にもお味噌汁ちょうだい。」
「そういうことで、ご飯食べてしまいましょう。」と言うと、まとまってへんわ、という小さな反論の後、往生際の悪い年下の男は、子どもの横で小さくなって食事を再開した。



「悪いな、予定があるから、今日は見るだけにさして。」
ああだこうだと散々色んな指輪を試してから、草若兄さんがしつこい店員の話を切り上げて立ち上がったのは、入店して一時間も経ってからだっただろうか。
ありがとうな、とあちこちに笑顔を振り撒いているので、行きますよ、と手を取って店の外に出る。
「……指輪、買うんじゃなかったんですか?」
「ドアホ。これからお前の子どもに金掛かんのに、指輪なんかで散財できる訳ないやろ。」
ただの仕返しじゃ、と言って隣の男は楽しそうに笑っている。
「それにしても、オヤジと違って、オレの柄ではいいとこの若旦那の顔で行くにはまだまだ役者が足りんな、と思ってたけど、今日はそうでもなかったみたいやな。」
「……欲の皮の突っ張った相手は騙しやすいですから。」と言うと、一歳年下の男は、そうやろなあ、と言いながらウインクを決めた。
「同じ金出して買うなら、スーパーカーを先に買うてもう決めとるからな。今時は、ガッコの送り迎えにも便利やろ。」と言って伸びをする。
「で、指輪はどうするんですか?」
「適当な店探して、ちゃっちゃと買って、そんで大阪に帰ればええやろ。江戸時代の大福帳でもないんやから、今時本名を店の台帳に残していくのもどうかと思うし、シルバーアクセの店とかにふらっと入って、お前の指に合うの出してもらって、そのまま付けて帰った方がいいんと違うか?」
「そんな店入ったところで、揃いのがあるとは限りませんけど、それでいいんですか?」
「そら、薬指にプラチナとか、『それらしい』のがええのは分かってるけど、オレの指にはそういうの合わせられへんからな。」
確か、こっちの方にそういう店があったはずや、とそう言って、手を行き先の道に向けて翳す。いくつか高座用にと残してあったらしいごつい指輪は、今日も兄弟子の中指に嵌っていた。
「お前も、別に普段指に付けとかんでも、首から下げとくとかそういうので好きに選んでくれたらええから。」
その答えを聞いて、僕はホッと胸を撫で下ろした。
別にふたり分の指輪を買おうと約束していた訳でもないけど、どうやらその思い込みは間違ってなかったらしい。
「なんでもいいなら、指輪は薬指に付けられるのを選んでください。そうでないと虫除けにならんでしょう。」
そう言って、下ろしたばかりの彼の手を握ると、「はあ?」と言って隣の兄弟子は立ち止まった。
「四草、おま、お前、……何言っとんねん……。」
「何って、草若兄さんこそ、今更何言ってるんですか。僕も兄さんも、そのためにこんなどうでもいい仕事入れて、わざわざ東京くんだりまで指輪買いに来たんでしょう。」と僕は言った。
「今は我慢しますけど帰ったら、覚悟してくださいよ。」と耳打ちすると、「……お前こそ、覚悟しとけ。」という人の耳はすっかり赤く染まっている。
「……。」
我慢します、と言った手前はあるが、昼間っから、このままどこかの茶見世に連れ込んでしまいたくなるような顔はしないで欲しい。
そう思ったけど、口にするのは止めておいた。
帰りが遅くなったら、きっと心配する。
そういう存在が、今はこの人にも僕にも在るのだった。
そのことが、特に煩わしいとも思えないのが不思議だ。
「ちゃっちゃと買って、ちゃっちゃと帰りましょう。」と言うと、そうやな、と頷きが返って来る。
僕は彼と手を繋いだまま、歩く速度を少しだけ上げた。

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