カツカレー



ロサンゼルス。
クエイド財団の本拠地のビル周辺には、日本食の店というのが少なくはない。
最初は寿司店が数件あっただけだったところに、日本人だけではなく、日本通を自称する人間や、目新しい接待のために利用する客が通うようになり、最近では、ハワイのように天ぷらやラーメン、カレーなんか出す店も増えてきた。
「私たちは、その恩恵をこうして受けてるってことだ。」と朝倉先生は言って、路面に近い明るいテーブルを選んで腰を落ち着けた。白が基調の店内は明るい。カレーを食べる客のためにか、キュウリとレモンの浮いたウォーターサーバーがある。なぜか、カウンターにはクッキーの入った透明な籠が置いてあって、支払いを終える前の客が、手に取って食べている。
「……はあ。」
譲介は、彼の目の前の席に腰かける。
カウンター席でも良かったが、彼とふたりでは難しいだろう。
家族連れとくたびれたセールスマンという二極化された客層で賑わっているカツカレー店では、いかにもCEO然としたスーツ姿の彼は、多少悪目立ちをするのだ。横にいる譲介が、彼と同じようなスーツでなく、村にいた頃のようにパーカーを羽織って、学生のようないでたちでいればなおさら。
『メニューをお持ちしました。』とウェイターがやってくると、彼はそれを開いて譲介に目配せする。
「店は君に任せたのだから、何を頼んでも構わないだろう?」というので、「好きにしてください。」と譲介は言って、店の外を眺める。朝倉と食事をするときは、常に彼が財団のカードで金を払うことになっている。
しばらくすると、水が運ばれてきて、譲介はウォーターサーバーに浮いたキュウリとレモンを眺めながら、今の自分の立場のようだと思う。
食事をする店が軒を連ねる通りだった。この時間帯にまだ過ごしやすい春の陽気の中を、人々が行き交うのは、親しい人と親密な時間を過ごすためだろうと思われた。
『私たちには、カツカレーとサラダボウルのランチセットをふたつ。彼には鳥のピカタと半熟卵を付けてくれ。食後にコーヒー。ひとつはミルクをたっぷり。ひとつは砂糖』
「カツが入るのにまだ肉を付けるんですか?」
「譲介君、カツカレーというのは、日本風のカレーのことだよ。豚肉とジャガイモ、にんじんがごろりと入っているだけの、ただのカレー。」
「そうなんですか?」
そうであれば、カツという単語はどこから来たのか、と譲介が首をかしげると、朝倉はチェシャ猫のような顔で笑う。
そうこうするうちに、食事が運ばれてきて、確かに上にカツは載っていなかった。
載せて欲しい、と頼めば出来るらしいけれど、一杯が円にして二千円近くになるカレーに、これ以上のトッピングは不要のような気がした。
朝倉の見よう見まねでカレーをそれなりに優雅に食べながら、譲介は、彼が語る先月導入した新しい機器の話――主に操作方法の難しさや機器の抱える問題点を解決、整理するための、ほとんど彼の独り言だ――に相槌を打つ。

大卒の資格を取って、メディカルスクールに通い始めて二年。
最新の技術や機器を取りそろえた環境で学ぶ機会を得て、これまでになく順風満帆の日々を送っている。
K先生の指導の下、ずっと年長者に囲まれてやってきた。年齢の近い相手と相対して、初めて一也と出会ったときのように衝突するのではないかという不安はあった。けれど、今の同期とはそれなりにうまくやっていると思う。
個人的なメッセージを交換するような友人らしい友人はいないが、孤独を埋め合わせるための手段に友という肩書を付ける必要があるというなら、譲介には友人はいない。そんなものはSiriにでも食わせとけ、と思う。
朝倉省吾という男は、譲介が恩義のある相手に逆らう習性を持たないということを知っているのだろうか。こんな風に、たまには私とランチミーティングに行こう、と度々昼食に誘ってくるのは、あるいはK先生から食生活の偏りが出ないように頼まれているのかもしれなかった。
子ども扱いをされている、とは思ったが、それでも、嫌な気持ちはしなかった。
自分にとっては、三番目の師匠となる人を前にして、不遜なことを考えている自覚はあるが、初めて出会った頃から、この人を前にすると、気が楽になるところがあった。自分の人生を、洗いざらい正直に語ってしまったからかもしれない。あるいは、どん底だった自分を見たことのない人だからかもしれない。その気楽さ。
初対面のあの人がなぜ自分のノートを見せて、これまでの半生を、ただの高校生だった自分に語ろうとしたのか、その理由の一端が分かったような気がした。
共に暮らしたとは言い難い三年間、彼は、ずっと留守がちな保護者だった。食事の時のかみ合わない会話や、家にいて患者のカルテと首っ引きになっている間、一日に五杯も飲んでいたコーヒーの香り。血管を取るのに失敗したせいで、あの人の腕に散った注射針の赤い傷。彼の信念にしたがって為された、ろくでもない(と今ならはっきり断言できる)研究が書き連ねられたノートの厚み。先代の先生と共に海外を駆けた頃の思い出を語る、楽しそうな、彼の声。
神代一人という稀代の名医について学んだ六年を経て、新しいことを吸収しつつある今では、彼との暮らしも、そんな断片的なことしか覚えていない。
正直、年に何度かは、あの三年を、そして彼のことを、このままゆっくり忘れて生きてもいいのかもしれない、と思うこともある。彼の病を治すことがどれほど困難な道のりかを知り、壁にぶち当たるたびに、この気持ちを手放してしまいたいと思う。
でも、手放せない。
手放したくない。

「昼からいちゃいちゃしてるなあ。」と朝倉の声がして、釣られて顔を上げる。
店の外には、見知った人の顔があった。彼のふたりいる秘書のうちのひとりが、美しい女性と手をつないで歩いている。彼女と彼女の手をつなぐ幸せそうな様子が、譲介にはまぶしく見えた。
「親しい友人ですね。」
「いやあ、パートナーだよ。ビューティフルフレンドシップ、ではなくてね。」
「え?」
「私の部屋によく来てるだろ、君。あの子たちの机の上の写真とか見たことないの?」
そんなに驚くことかいと何でもないように言われて、確かにそうだと思うけれど、譲介は自分でも驚くほどに動揺していた。
「……同性婚、ですか?」と口を開けば、「まあ日本語で厳密に言えばそうだけど、結婚でいいじゃないの。」と朝倉は鷹揚な口調で言った。
自分のような態度を取る人間が、これまでにもいたのだろうか。トップに近い場所に日本人がいるとあって、クエイド財団の中でも日系の人間は多いけれど、日本で長く暮らしてこちらに移って来る人間はほとんど見たことはない。譲介のようなタイプは少数派だ。
食後の飲み物です、とコーヒーが運ばれてくると、朝倉は、うん、今日の豆はいい、と言っている。譲介には、その区別はつかない。念願のカレーを食べ終えてすっかり満足していていいはずだというのに、なぜか落ち着かないような気分で、砂糖を入れてくるくるとかき回す。
「君も、このままこっちで永住ビザ取れれば、好きな人と結婚出来ますよ、和久井譲介君。」
「!?」
「あれ、違った?」
あの子たちを羨ましそうに見ていたと思ったんだけど、と朝倉は言った。
「そういうのでは、」
ありません、という続きをコーヒーと一緒に飲み込んで、譲介は頭を抱えたい気持ちになった。
あんな風に、手をつなぎたい訳ではなかった。
ただ、一緒に過ごした短い三年間の記憶を。
最期の時くらいは一緒にいたいというこの気持ちを、ずっと子どものように手離したくないだけで。
「もし君が、ずっとここにいて、財団の中で僕を助けてくれる気持ちがなくても、何か個人的な理由で、ビザを取りたいなら、私の名を出して、法務と相談してくれていい。」
「……。」
「君には、一緒にいたい人はいないかい?」
手紙の人とは、と彼はこちらを見て静かに言った。
あまりにも自然に、胸に浮かぶ答えを言い当てられて、譲介は絶句した。
「……そんな困ったような顔をされてもなあ。」
呆然としたまま、困ってはいません、と答えを返す。
まあ、頑張れ、と背中を叩かれた。
結婚、という二文字が頭の中に浮かぶなり、保護者だった男がこれまでに見せた中でも一番に凶悪な顔が思い出されて、腹の中の未消化のカレーが、途端に重くなった。
「ジュースにすればよかったです。」とぼやくと、後でまた奢ってあげるよ、と言って、譲介の三番目の師匠は軽やかに笑った。

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