天梯は宙へ

 ――……て。ねえ、――て。――ねえ!

「そろそろ起きてってば! 丹恒! 丹恒ーっ!」
「……――!?」
 ベチィ! とその瞬間、思いっきり頬が叩かれ、後にじんとした痛みが残った。片方叩いたからもう片方も、とばかりに逆側からもう一度パン! と遠慮の一つなしに叩かれる。「三月、もう起きてる」と丹恒がその頬の痛みに熱を感じながら、なのかを少し退けたところで、なのかはやっと丹恒が起き出したことに気付いたようだった。
「えっ! うそ!? や、――やっっっと起きた!? ホントに!?」
「……目を開けたまま眠る特技はさすがに」
 ない、と言いかけたところで、思いがけなく抱き付かれた。おい、とその肩を一度軽く向こうへ押しやる。なのかはずび、と少し鼻を啜り、はー、と深く息を吐いて目尻を軽く指先で拭っていった。
「――もう、ほんっっ……とに! 全然、ぜーんぜん! 起きなかったんだから!? 丹恒に言われた通り、ちゃんと叩き起こしてあげたんだからね!?」
「……そうか。そんな……ことも言ったな」
 ありがとう、と叩かれて礼をいうのも何か違う気がして、丹恒は感謝してよね、とどこかむすりとしたままのなのかに、ああ、とただ短く頷いた。こういう時に気の利いた言葉を言うのは得意ではなかった。それから次に、周囲の様子を見る。
 ホテルの一室だ。それも、恐らく『ホテル・レバリー』の。つい先ほどまで見ていた夢の所為でスペルを間違いそうになる。いや……ここは確かにレバリーで合っているだろうか? 丹恒はまだひとりであれこれと壊れたラジオのように喋っているなのかの声を遮って尋ねた。
「三月、……ここのホテルの名前は?」
「え? 急に何? 丹恒ってば寝惚けてる? ホテルの名前なら、【ホテル・レバリー】だけど……?」
 寝すぎて記憶飛んじゃってるの、となのかは尋ねてくる。彼女は寝ている間に何かあったのだろうか、と次にこちらの様子を窺うように少しだけ眉を下げた。
「誰か呼んでこようか? ヨウおじちゃんは今姫子と話してて」
「いや、問題ない。俺は一体どのくらい寝ていたんだ?」
「えっと……、システム時間で四日……くらい? 全然目覚める気配がないから、このまま、アンタが急に卵に戻っちゃうかもってすっごく心配したんだからね!?」
 栄養ゼリーだけ口から押し込んでたんだから、となのかは続けた。一週間程度は問題ない、と答えた丹恒に、そういうことじゃないってば、と彼女は少しだけむすりとくちびるを窄める。だが、不思議と空腹感はなかった。じゃあ起きたからひとまずこれ呑んで、と彼女はそう言って、丹恒の口に無理矢理何かを押し付けてくる。むにゅ、っと口元にゼリー状の流動食が流し込まれた。いいから飲んで、とパウチの底をぎゅっと押される。
 仕方がなくそれを飲み込んでから、丹恒はようやくはっきりしてきた頭で部屋の中を見回した。夢境に入る前、ソファの上に寝かせていた彼の姿はそこにない。
「……そういえば穹は、――」
 丹恒はふと、自分の手に視線を落とした。
 どくん、とその瞬間につい先ほどまで見ていた夢のことを思い出す。手は空だ。確かに掴んだはずなのに、からっぽのまま。
「穹? 穹なら今体に問題がないかお医者さんに診てもらってるところ。ほら、ずっと寝てると体の方が駄目になっちゃうでしょ? 丹恒も本当はこのあと診察してもらうつもりで……」
「どこだ」
「え?」
「どこにいる? 穹は?」
「え、えっと……、ヨウおじちゃんの部屋……」
 ここじゃ煩くなるかもしれないからってヨウおじちゃんが穹を運んでいったんだよ、となのかは言う。丹恒はすぐ立ち上がって、ヴェルトの部屋まで駆けた。なに、なんなの、と急に走り出した丹恒になのかは驚きながらも後に着いてくる。ヴェルトの部屋の前に来た途端、そこにふっと人影が現われた。
「……! ブラックスワン」
「起きた?」
「穹は」
「……わからない。だから状況を見に来たの」
「え? 何? 丹恒が起きたからあの子も起きたんじゃないの?」
 何故か深刻な顔をする二人になのかが困惑して尋ねてくる。なのかの声が聞こえていたのか、部屋の内側から扉が開いた。おっと、とドアの前に三人もいるとは思いもしなかったのか、ヴェルトが驚いたように声を上げる。
「なのか? それに……丹恒、起きたのか? ブラックスワンさんも無事だったか」
「穹は」
「穹――……いや、まだ彼は起きていない。なのかから聞いたかどうかわからないが、君たちの姿が夢境から消えて数日経っているんだ。恐らく、普通に夢境に入っただけでは観測できない場所に行ったものだと思っていたんだが……」
「え? 嘘。あの子まだ起きてないの?」
「……状況が想定より悪かったのか?」
 ヴェルトが言葉を選ぶように尋ねてくる。丹恒は今度は視線が高い所で合うな、と思いつつ、ブラックスワンと顔を見合わせ、もう一度ヴェルトへ視線を戻した。
「いや。もう少しで一緒に目覚めるところだった。今いるのが夢だと自覚させたところまでは……上手くいったんだ」
「あの子、やっぱり夢の中で色々忘れちゃってたの?」
「ええ。色々ね。……私と丹恒さんは夢境の挟間から、彼が記憶域の中にもう一つのピノコニーを作っているところを見つけて」
「え? なになにどういうこと……」
「……さっきまで中に入っていたの。ただ、そこで私が潜在意識の影響を強く受けてしまって、思うように動けなくなってしまった」
「ねえ! もう一つのピノコニーって何!? なんでスルー!?」
「詳しい事は後で聞こう、なのか。……それより、動かなくなったというのはどういう……? 記憶域を自在に行き来できるはずのメモキーパーが?」
 ヴェルトが驚きながら彼女に尋ねる。彼女も困ったように少し眉を下げた。
「これまでの星核の影響か、一部の憶質が変質したまま残っていたからかしら。私が彼を起こしに来たのが分かって、追い出されそうになってしまったのよ。その所為で、彼を夢の中で見つけるまで時間が掛かってしまった。その間に――」
「……俺も一度、彼女と別れてしまった。それで、俺はこれが【夢である】ということをすっかり忘れてしまって、しばらく何も覚えていない穹と共に、彼が作っていたもう一つのピノコニーと、その夢境で過ごしていた。それで出てくるのが遅れたんだ」
 まだ納得していないような顔をしていたが、なのかがずい、と身を乗り出して尋ねてくる。
「でも、あの子はちゃんと見つかったんだよね?」
「ああ。だが……直前で」
「失くなってしまった星核の代わりを、あの子にしようとしているんでしょうね。出てくる直前であの夢境そのものに奪い返されたの」
「え!? じゃああの子はどうなるの?」
「このままだと、夢の本当の奥深い、誰も手の届かないところに、意識を囚われたままになる。……そうなれば、現実の彼は、目覚めることはもうないでしょうね」
「た――助けられるよね!?」
 なのかが彼女に尋ねる。ブラックスワンは即答せず、なのかに答えを渋った。ヴェルトも考えるように一度押し黙る。しん、と重苦しい沈黙が落ちていった。
「もう一度行く」
 丹恒の言葉に、全員の視線が集まる。そのまま踵を返し、もう一度ドリームプールに入ろうとする丹恒を、ちょっと、待って待って、となのかが慌てて上着の紐を掴んで止めてきた。
「あの子、普通の夢境にはいないんでしょ! 丹恒一人でいっても見つかるわけない」
「ブラックスワン、頼むがもう一度穹のところまで連れていってくれないか」
「……それは構わないけれど。でも」
「何か懸念事項が?」
 ヴェルトが彼女に尋ねる。彼女は口元に手を添え、「一度目のようにはいかないと思うわ」と彼に答えた。「特に私は、私のイメージがねじ曲げられるほど、強くあの中の記憶域での影響を受けていた。もう一度入ることは可能だけれど、既に彼をあの場所から連れ帰る者として、またすぐに排除される可能性はあるでしょうね」
「丹恒は? また丹恒しか連れていけないの?」
「ええ、出来れば……彼の方が望ましいわね。夢の中のねぼすけさんの望みは、そもそも丹恒さんに関することだったから。次もまた、ねぼすけさんの望みが同じだとは限らないけれど。それに――丹恒さんも今回無事に入れるかどうかすらわからない。……メモキーパーでもない者が記憶域のより深い所へ向かうということは、向こうの見えない吹雪の中を歩くようなもの。私が排除されてしまったら、今度こそ、……丹恒さんも、元には戻れないかもしれない」
「それでもいい。行く」
「ちょっと、冷静になってよ丹恒! ね、ねえ……本当に他に方法はないの? 裏技とか……抜け道とか……」
「あるにはあるけれど」ブラックスワンは何故かそう言って、丹恒へ視線を向けてきた。「……それは、本当に手の打ちようがなくなった時の最終手段。出来れば、そうなる前にどうにかなってくれるのが理想ね。――リスクがあっても彼が行くと言うのなら、私はそれに応じるだけよ」
「ありがとう」
「ほ、ホントに行くの!? 待って、ウチを差し置いて眠り姫二人になるの、絶対嫌だから!」
「誰が姫だ」
「あの子が自分の事美少女っていうからウチにもあの子のボケが移っちゃったじゃん!」
「それは起きてからあいつに文句を言え」
「そ、そうしたいけど……それが出来なかったら?」
「三月、お前は――、……」
「すこし物事を悪い方へ考えてしまう癖があるな」
 丹恒の言いたいことをわかっているように、ヴェルトが先になのかに言った。だって、と眉を下げるなのかに、ヴェルトは優しく続ける。
「そもそも、すでに四日間目覚めずにいたんだ。実際、夢の中ではもっと時間が経っていたのかもしれない。だがちゃんと丹恒は目覚めた。問題が起きて穹はまだ起きていないが、何もすべてのことが最初から上手くいくわけじゃない。ただ、諦めない限り可能性はある」
「でも」
「姫子には俺から伝えておくよ。早く行きなさい。こうしている間にも状況が悪くなっている可能性があるんだろう。……もしもの時は、列車の持てる人脈でもなんでも使って、お前たちを助けにいく準備はしておくから」
「……ありがとう、ヴェルトさん。……穹を頼む」
 あ、と引き留めようとしたなのかの手が触れる前に、丹恒はすぐに部屋に走り出した。後ろからついてくるブラックスワンが、夢境に入ったらすぐに見つけるわ、と声をかけてくる。ドアの前で一旦別れ、丹恒はすぐに彼女と夢境で再会した。

 丹恒は走り出しながら「……一体どうすればいい」とブラックスワンに尋ねた。目覚める前後の事をよく思い出せない。確か自分は、確かに穹の手を取っていたはずなのに。
 夢の中で彼が見つけた場所は、星穹列車を思い出すような――その場所に酷似した車両だった。動力源らしいものもなしに、それは勝手に海の上のレールを進み、一度はゆっくり止まったのだ。だが、丹恒たちが夢から目覚めようとすると急に状況が変わった。
「穹はまだあの夢の中にいるのか?」
「ここにいないのだもの。恐らくはそうよ。でも、あの夢境は殆ど壊れていく寸前だった。私たちがあそこから出てほんの十数分だけど、既に夢境では実際何日も、何十日も経っているかもしれない」
「……俺たちがあの場所で過ごしていた時間はどのくらいだった」
 丹恒は既にそれが分からない。何カ月も、それこそ数年そうしていたような気もする。あの夢境では時間の感覚が曖昧だった。そしてその事に対して、疑問すら抱かなかった。
「そうねえ……、大体夢境の中で一年ほど、だったかしら。その間ずっと、逃げながらあなた達を探していたんだから」
「それは、……その。すまない……」
「あなたたちの記憶から手繰ろうとしたけれど、あの子の記憶は既に別の記憶の上澄みで見え辛くなっていて、貴方も日が経つに連れて、自分の事を忘れていったからか、はっきりと追えなくなったの。その所為かしら? 本来、私が自らあなた達の記憶から私の存在を消さなければ覚えているはずの事を、あなたたちは何故か私の介入なしに忘れてしまった――いえ、恐らく元の私の事はぼんやりと覚えていたはずよ。でも、あの時の私は、あの姿を取ることが出来なかった。だからすぐには私と、夢境とのことを結び付けられなかった。そのことも、あなたたちが夢の中で夢に馴染んでいってしまうきっかけになったのかもしれないわね。……あなた達を見つけたのは、あなたが丁度あの子を見つけた頃かしら? まさか二人で架空の折り紙大学の学生になっているだなんて思いもしなったけれど」
「そうなった経緯は今はもうあまりよく覚えていないんだが、気付いたらまあ、……そういうことになっていたんだ」
「大学の構内は【人】の目が多くてなかなか立ち入れなかったの。あの子だってそんなつもりは全くなかったと思うけれど、恐らくは、そうなるようにあの子も考えさせられていたところもあるのかもしれないわね。あの子を現実に戻そうとする者や要素は、あの子の周りから自然と排除されてしまっていた。だからあの子もあんなに早く忘れてしまったのかもしれないわ」
 現実では、夢の中の一年ほどが四日。たった数時間ほどでも、夢の中では数日、数十日経っていたはずだ。その間穹は、あの夢境でたった一人過ごしていたはず。そう言えば、と丹恒はブラックスワンに尋ねた。
「実際にはない十三番目の夢境にいた『ミーシャ』は穹の創造した夢の一部じゃないんだろう。元々あそこから穹を助けるつもりだったなら、何故あそこに穹がやってくるまで自分から出てこなかったんだ?」
「……彼は、彼だけど彼のすべてじゃない。彼の記憶の切れ端のようなもの。だから彼自身に特別な力はないの。指先が勝手に体から自立して動き始めたら、すぐにそれが異質だと知られてしまうでしょう。あの子は、ねぼすけさんを助けたかったけれど、あの場所から動けなかったんじゃないかしら。……あの場所こそがあの夢境の中の【特異点】だったから」
「特異点?」
「あの子は元々夢から目覚めるつもりだったけれど、あの夢境がその邪魔をしていたじゃない? あまり調べている時間はなかったし、あの場所では私も十分に力を揮うことが出来なくて、記憶から遡って夢境のルーツを探るのもあの状況では難しかった。だから、確かなことは言えないけれど、……私たちが来る前に彼が創っていたのはあの場所だけだったんじゃないかしら」
「あの場所が?」
「二つ目のピノコニーで過ごしていたあなた達が、本来行こうとしてもいけない場所だったでしょう?」
 静謐の刻は関係者以外の立ち入りを厳格に禁じている場所で、旅行客はもちろん、ピノコニーのドリームサポーターですら、一部の関係のない者たちは足を踏み入れることすら出来ない。だが、あの夢境はそこから出ているスフェロイドを使って向かう一方通行のルートしか、夢境の中で向かう術がなかった。一度足を踏み入れてからは、すぐにあの場所へ潜ることも出来たけれど。
「だから思ったの。他の夢境は元々あったピノコニーを、あの子の記憶から創り出させて、あの子の夢と現実の境界を曖昧にしていくための舞台装置だったのかもしれない……と。実を言うと、時間の無さに焦って、あなた達を追いかけてあの夢境に入った後、懸念していた、私を追跡しているハウンドは一人もいなかったの。それまでは猫になっていても、鳥になっていても、時々は気付かれたのに。それに、多少彼の記憶と異なる所はあったけれど、あの場所は」
「穹の開拓の旅の記憶から造られたものだったから」
「そう。だから、……彼自身の事を思い出すきっかけになった。あなた達が普通に過ごしている間はたどり着けなかったのは、そんな風に思い出すための要素があちこちに散らばっていたからじゃないかしら」
「じゃあ、どうして急に」
「あの子の望みを叶えるには、ピノコニーを出る必要があった。……あのまま折り紙大学の学生を続けて卒業していたとしても、あなたと彼はいずれこのピノコニーを出て、外の世界を旅したわ。そういう風に彼が望み始めたから、世界もそれに合わせて動いた。モラトリアムが続く限り旅には出られない。けれど、それが終わるからこそ次の場所へいける。あの子の望みを叶えても、きっとあの子をあの場に留められると思っていたのかもしれないわね」
「……記憶そのものが、人に『記憶』を造らせようとしていたのか」
「本来は人の前に記憶は立たないわ。だから『汚染されてしまった』憶質なのよ。……そしてもし、その目論見が予定通りに行って――あなた達が大学を卒業して、外に出てしまったら。その瞬間、それまであった二つ目のピノコニーは解体され、行く先々の名もない星々となったでしょう。そうして、あなた達は夢の中で終わりのない旅をいつまでも続けられた」
「だからあなたは【時間がない】と?」
「そう。あなた達がピノコニーを出て、宇宙にある無数の『未知』の中を進み始めてしまったら、一体どうやって、それが夢だと気付くことが出来るのかしら? あの時のあなた達二人はナナシビトではなかった。この旅がおかしい、と気付けるのは、【夢】への疑念を抱けた時。あなたが目覚めたのだって、あなたがナナシビトとしての旅に、必ず終焉があると分かっているからこそ、永遠はないのだと知っているからこそ。そうでしょう?」
「……、ああ」
「だから、あのままだったら、……それらが予感できない場所で、時間の感覚すらないまま、あなたたちはずっと何年も一緒に旅を続けていたかもしれない。あの子のあなたの願いを、夢の中だけでも叶えてやりたいなんていう、ささやかでいじらしい願いを歪みに歪め続けてね。――丁度、近くに夢境と夢境の境界があるわ。以前向かった場所へ移動している時間が惜しいから、そこから行きましょう」
 ブラックスワンはそういうと、地下道へ続く路地へ階段を降りて行った。高低差が激しい街中の奥まった場所へそのまま駆けていく。これ以上は進めない、地下道の端に、ブラックスワンは迷うことなく腕を差し入れた。壁の中に彼女の腕が飲み込まれていく。
「こっちよ」
 伸ばされた手を丹恒は掴んだ。肌の上を温い水が通り抜けるような感覚があって、それまで踏んでいたはずの地面がくるん、と真上に来る。逆立ちをしているのに、重力は変わらず足元にある。ブラックスワンは少し急ぎましょう、と、迷うことなくその道から、周囲に浮いたブロックの上に飛び移った。当然、彼女に手を取られたままの丹恒もそれに従って飛ぶことになる。
 足元へ、鍵盤のように段になった道が現われた。彼女はその緩い階段を二つ飛ばしで登っていく。
 夢境の挟間はやはり無秩序で、だが以前足を踏み入れた時よりも、ずっと周囲に漂う憶泡や、憶質で構成されたこまごまとしたものが少なくなっているように見えた。緩やかな引力に引かれるように、それらはある一点へと流れている。しばらくそうやって駆けていくうちに、漸くまた、それが目の前に現れた。
「……前に来た時よりずっと小さくなってるわね」
「何故だ? 周囲の憶質は取り込み続けているだろう」
「憶質の壁を分厚くして、この圧縮した記憶域の中に、星核ごとあの子を閉じ込めてしまうつもりなんでしょう。……たとえ失敗しても、これで最後だと思うわ。これ以上濃度の濃い憶質の中にいたら、あなたの自我が、入った瞬間に、この記憶域を構成する無数の憶泡に潰されて壊れてしまう」
「……中であなたがどの程度動けるか、今の段階でわかるか?」
「――正直なところ、確かなことは言えないわね。もしかすると、こうやって手を繋いだまま入っても、入った瞬間にはぐれてしまうかもしれない。……渡したお守りはまだ持ってる?」
 丹恒は内ポケットに入れたままにしていたカードを取り出した。もらった時にもここに留められている記憶が一体何なのか聞いていなかった。彼は――穹は、この小さな砂のような光が小さく輝く、ただ黒いばかりの光円錐を、夜空みたいだと言った。
「あなたの最初の旅の記憶を映したの。だから時々、その夜空が蒼空になる。あなたにとっての旅の最初の記憶は、二つあるから」
 一つは、あの光のない幽囚獄から出てきた時に見た蒼穹。まるでその場所が海水で満たされているかのように、縦横無尽に横切る無数の船。見上げる空の広さや高さ、頬を撫でていく風の柔らかさ、冷たさを今でもまだ、はっきりと思い出せる。
 もう一つは、その束の間の美しさを瞼の裏に焼き付けた後に見た無数の星たち。初めて触れた船の外の世界。一人の孤独と自由と、誰も自分の事を知らない場所へ踏み出した時に見たもの。
 だから何もしていないのに、この光円錐は時々色を変えていたのか。丹恒は漸くその意味が分かって、納得する一方で、彼女が何故この記憶を切り取って自分に渡してきたのかが分からなかった。
「……――、何故この時を?」
 彼女は莞爾と笑って答える。
「誰にとっても、旅の始まりの記憶は忘れられないものでしょう? 今のあなたはナナシビトの『丹恒』。そのあなたのことを思い出すのに、旅の始まりの記憶が一番相応しいと思ったの」
「……、そうか」
「違う記憶の方がよかった?」
「いや。あれを見てから夢境の空を見るたび、その向こうにいつか自分は行くんだろうと漠然と考えていた。……どこから湧いた記憶かすらわからないが、その向こうにあるものが、自分にとって必要なものである気がしていたんだ。それが何かもわからないまま、漠然と。いつか見つけられる気がしていた。それを、……多分、列車を。これが例えば、初めから星穹列車をここに留めていたら、俺はただの『列車』くらいにしか思わなかっただろうな。……――次はちゃんと思い出せると思う」
「あら、また自分の事を忘れる前提で話をするのね?」
 ブラックスワンが尋ねてくる。丹恒は困ったことに、と静かに息を吐いた。いつもの事だ、もう慣れてしまった。
「こういう時の、その、予感のようなものがあるんだ。……ナナシビトは何故か、無数の選択肢の中から、自分でも気づかないうちに、問題や困難、面倒な方に自ら足を突っ込んでしまう。上手くいっていると思っても、思いがけなく足を取られる」
「……そう」
「だが、最後には必ず、道は拓けるんだ。開拓というのは、『そういうもの』だから。……だからきっと、俺はまた今の俺であることを一度は忘れる。だが、そのことに不安や懼(おそ)れはないんだ。むしろ、ここでもうあいつとこれまでのように過ごせなくなることの方が、俺にはずっと」
「怖い?」
「……そういうのも、少し違うのかもしれない。それもまた、いずれ時が来るものだからな。わかっていたんだ、それは。だが、そんな風にわかっているつもりで、本当の意味ではわかっていなかった。自分が思っているよりずっと早く、『その時』がくる可能性があることを、俺は無意識に、漠然と遠ざけていた。……旅が永遠に続くわけがないのと同時に、今がずっと続くこともないんだ。――その時がいつくるのかなんて、誰にも分らない」
「……ええ。そうね」
「だから、――その時になって後悔するような選択をしたくない。今出来ることがあるのなら、可能性がゼロじゃないならなんだってやる。……ようするに今はまだ、あいつとここで別れる準備が出来てないだけだ」
 はっきりと答えた丹恒にブラックスワンは誰だってそういうものよ、と柔らかく微笑んだ。彼女が前に数枚、カードを並べていく。一枚選んで、と尋ねられたから、言われるがままカードを引いた。絵柄を見て彼女が微笑む。
「星の正位置」
「意味は?」
 引かせたくせに、彼女ははっきりと答えずただ笑みを浮かべるだけだ。渋い顔をしていないから、悪い意味ではないんだろう。彼女はそのカードを宙へ放る。いくつかの腕がまた飛び出してきて、丹恒を抱えた。彼女もふわりと飛ぶように浮いて、最初に入った時より随分小さくなってしまったその記憶域の中へ再び飛び込んだ。

 憶質で出来た分厚い雲の中にいるようだった。真っ白で何もない。積乱雲の中を進むように、上も下も右も左も、方向感覚が奪われ、進んでいるのかすらも分からなくなる。初めてこの記憶域の中に入り込んだ時よりも、ずっと多くの情報が頭を、目の前を、耳の傍を、肌の上、指先の感覚の上にすらも重なって、そして通り過ぎては一瞬だけ痛みのようにじんと残る。丹恒を庇うようにブラックスワンが呼び出した無数の腕が壁となってくれているが、それでも気が遠くなりそうなほどの情報量に、頭の中が真っ白になる。「――耐えて!」と耳元で強く叫ばれる。丹恒は咄嗟に自分の手を強く噛んだ。
「――……ッ!?」
 重い積乱雲の束縛から漸く逃れると、見えたのは広大な海だった。あのピノコニーの街並みもなければ、ホテルの影すら見当たらない。まるで真っ新に作り替えられた世界の始まりのように、広がる海の表面に、いくつかの島々が浮かんでいるだけ。
「どうなってる! 記憶域の中が作り替えられたのか? まさか別の記憶域に入って――ー」
「いえ、それはないはずよ。でも、何故こうなっているのかはわからな――きゃっ!?」
 飛ぶ鳥を落とすように、どこかからブラックスワンが狙撃された。咄嗟に自身の体躯を小さく縮めて回避するつもりなのかと思ったが、その瞬間に自分たちを支えながら落下していた、彼女の喚んだ腕が、途端、泡のように弾けてしまう。まるで今の瞬間に彼女を形成していたものが、横からこそぎ取られたようだった。それまであった支えを失い、丹恒は空中に放り出され、四肢を投げ出すほかなかった。
「ッ……――、ッ!」
 なんとか宙で手を伸ばし、少女の姿を取ったブラックスワンの手を取る。彼女は落ちながら、「やっぱり私は歓迎されてないみたい」と困ったように丹恒に答えた。「前に潜った時のあの子の潜在意識をそのまま引き継いでるのかしら、……それに、思ったより、記憶域の外郭がもう分厚い殻になりかけてる。今ので、使える力の半分ほどを奪われてしまった。――ごめんなさい、このままじゃ、一人はともかく、あなたたち二人を連れては戻れない……」
「っ……ど、――」
 どうすれば、と問う前に、目の前を再び閃光が走る。丹恒は咄嗟に、彼女を庇うように、ぐい、っと自分の方へ彼女を引っ張った。周囲に漂う憶泡は、時間を止めた雨のようだ。自分たちだけ、宙に留まったままでいる。
 彼女が宙にカードを放った。彼女が投げたカードは周囲を回るように円を描き、自分たちを護るように、どこかから放られてくる狙撃を代わりに受け、その瞬間に弾けて消えていく。カードの枚数がだんだん目で数えられるくらいに少なくなっていく。
 これが彼女の行使できる力であるのなら、もう心許ない数だ。時間にしてほんの数秒間、ブラックスワンは考えるように黙り込む。「連れてくるだけになってしまってごめんなさい」と、言いながら周囲に漂う無数の憶泡を、彼女は咄嗟に集めて、大きく翼を広げた鳥にした。その瞬間、水で出来た彫刻のようなその鳥は、意思を持ったように大きく翼を羽ばたかせていく。
「――ひとつ考えがあるの。……あなたは自分が、また記憶を失くすだろうと言ったけど、私は、あなたが私と共に行動をする限りはそんなことは起こらないと思っていたの。でも、あなたが正しかったみたい。こういうことはあまりしないのだけれど――今回だけは、根拠のないその自信(開拓)に賭けて、【ナナシビト】さんに、託していいかしら? ――この記憶域が分厚い殻の中に閉じ籠ってしまわないように、私は先に戻って、外で穴を広げたままにしておくわ。完全に閉じてしまう前に、彼をそこまで連れてきてくれる?」
「――元からそのつもりだった」
 答えた丹恒に、彼女は僅かに目を細めて頷く。
「たとえすべてを忘れてしまっても、【また彼と宙で旅をする】、その願いをどうか持ち続けて。……――星の正位置は希望。『求めよ、さらば与えられん』、よ。……待ってるわね」
 ブラックスワンはそういうと、とん、と軽く丹恒の胸を押した。傍で羽ばたいていた憶泡で出来た鳥が、丹恒の手首を掴んで引っ張っていく。繋いでいた手が離れた。彼女は周囲に漂っていた最後のカードを一枚、自分の真下に投げ、そこに扉を創る。彼女がその中に消えていくのを、丹恒はただ宙を泳ぎながら見上げていた。



 ――まぶしい。

 白い光が目の前にある。その光が目が沁みる。ぼんやりとした白い世界の中を、まだ自分は歩き続けている。……まだ? 穹はふと、その瞬間に自分がここに立っていることに漸く【気付いた】。周囲を見回す。見覚えがあるような、無いような。
「……、――?」
 なんだか、随分歩いたような気がする。そう頭の中で思い描いた途端、どっと体が重くなったような気がした。少し疲れたな、と穹はふと思う。
 空の色も、足元に揺蕩う水の色も、どこまでも透き通ったまま変わらない。どれだけ歩いたかわからないが、代わり映えのない場所を、どこにもたどり着けないまま歩き続けることにふと、その瞬間疲れてしまった。気がした。ここに来ることが初めてなのか、そうではないのかすらもよく思い出せない。
 光の中で、水平線に沿って大きな月のように膨らんだ円が真横に、真正面に、大きさもただ一つ変えないまま横たわっている。歩いているのに、まるでここから一歩も動いていないような気がしてくる。
 それでもしばらく歩き続けて、とうとう立ち止まってしまった後、穹は静かにその場に倒れ込もうとした。自分が歩くその足場は水面のようで、そうやって飛び込めば、そのまま奥へ行けるような気がして。だが、その瞬間くい、っと強く腕を引かれた。
「ど、どうかしたんですか? もう目覚めたんじゃ……? どうしてこんなところに……?」
 人の声、だった。穹はばっと顔を上げ、自分の手を取る、自分より小さな手に視線を落とし、手首へ、腕へ、首へ、そして顔へと順へ視線を上げていった。手を掴んでいたのは少年だった。透き通った水色の髪の、穏やかな顔立ちの少年。
「……、……誰?」
「え? あ、……ああ――……、そうか、そうですね。うん……」
「……?」
 きょとん、とする穹を前に、少年は何もかもすべてが分かったような顔をした。それから、彼はそのほんの一瞬の驚きをすっかり笑顔の奥に引っ込めて、優しく、まるで手のかかる子供を愛おしく見つめるような視線を穹へ向けてくる。
「……名前はいくつかありますよ。ボクの事は、あなたが呼びたい名前で呼んでくださって構いません」
「呼びたい名前って? 一つも知らないんだけど」
「それは、あなたが忘れているだけですよ」
「忘れてる?」
「はい。ですが、『忘れることは何も、悪い事ではない』のだそうです。忘れてしまった事は、実際は消えてしまったわけではなくて、思い出せないほど深い所で眠っているだけなのだと、ボクも教えてもらいました。だから、いつか思い出すことも出来るそうです」
「ふうん……? じゃあ、思い出すまで何て呼べばいいんだ?」
「そうですねえ……何がいいでしょう?」
「俺に聞かれても」
 本当は名前があるのに教えてくれないなんて。変なの、と思いながら、穹は歩き出した少年にそのままついていく。彼はまるで迷子の手を引くように、穹の少し前をゆっくりと歩いた。
 少年は少しだけ長い髪を後ろで結い、首元を緩めた白いシャツと、体にあった濃いベージュのスラックスを履いている。革靴は使いこまれて彼の足に馴染んでいて、丈の短い靴下は真っ白だった。くるぶしの形がはっきりとしていて、痩せぎすではないが、骨の上の皮膚は薄く、少し血管は青白く浮いている。少年特有の肉付きはあるものの、線が細い印象を受けた。シャツの袖は綺麗に四角く折りたたまれ、肘の辺りまで捲られている。「……なんかおじいちゃんみたいな恰好」というと、少年は穹を振り向き、怒るでもなく、戸惑うでもなく、何故かふふ、と少しだけ眉を下げて笑った。
「では、ボクのことは名前を思い出すまで、そう呼んでいいですよ」
「え。でも、どう見てもじいちゃんじゃないじゃん」
「そうでしょうか? 宇宙は広くて、何でもあるそうです。ボクのような見た目で、何百年も生きている長命種、僕よりずっと年老いてみえるのに、逆にたった十数年しか生きられない短命種。人の形はしているけれど、機械のパーツで出来た無機生命体の機械族の中には、人のように心を持った者もいるといいます。あなたが今見たものだけが、見えているすべてではありません。それに、あなたもそうでしょう?」
「……まあ、――うん」
 見た目は大人の手前の少年だろう。だが、その実それだけの年月を生きているわけではない。星核の容れ物としてこの形を持った――なんてことは、見ただけでわかる人の方が少ないだろう。うん、ともう一度穹は頷く。
「わかった。見た目で判断はしない」
「はい」
「けど、本当に『じいちゃん』でいいのか?」
「ええ。構いませんよ」
 少年はそういうと、穹を見てまた笑った。そのようなものなので、と彼は続け、どこかへ向かって穹の手を引いていく。そうやって歩いて行くうちに、遠くに何かが見え始めた。
「じいちゃん。あっちに何かある」
 繋いでいた手を穹は軽く引っ張った。少年は穹が引っ張った方向へそのままついてきてくれる。近づくにつれ、それが何か漸く見えてきた。――二つの輪が軸で繋がった、ダンベル……いや、車輪だ。
「なんでこんなとこに落ちてるんだ?」
 意味が分からない。意味なんてあるんだろうか? 穹はそれを両手で抱えて持ち上げた。持ち上げられないほどではないが、それなりに重さがある。一度車輪を縦に立たせた後、ふと顔を上げ、奥にも何かが落ちているのに気付いた。
「……っと」
 穹は拾った車輪の輪軸を、肩にかけるようにして持ち上げた。肩が痛いが壊れるほどじゃない。
 落ちているものは、螺子やナット、ワッシャーに小さな歯車、それから車輪よりももっと小さな歯車、変わった形の金属の部品が多かった。よく見ると、それらがまるで、ばらばらに壊れた時計の中身のように、あちこちに散らばっている。見つけたものを拾い上げていると、早々に穹も少年も両手が塞がってしまい、そうやって、落ちたパーツの殆どを、拾えないまま道標の代わりにするしかなかった。まるで落としたパン屑を頼りに目的地に向かうように、遠くに見えていた影に近づいていく。
 影が近くなると、それが存外に大きなものであることが分かる。横転したそれは何かの形状に振り分けるには少し複雑な形をしていた。筒状ではあるが、先端には槍の切っ先のように突き出た部分があり、太いパイプが側面を走り、筒状の上部にはバキバキに割れた丸いものがきらりと光る。全体的に鋼鉄のような重い金属製ではあったが、金属とも言い切れない不思議な物質で出来ているように思えた。
「不思議な感触でしょう? こんな風に壊れてしまってもまだ、星神の加護がかかっているんです」
 その表面を撫でながら考えるように黙り込んでいた穹に少年は言う。
「だから、この列車は宇宙だって自在に走っていけるんですよ」
「宇宙を?」
「はい。そういう加護です」
 そうなんだ、と頷いたあと、穹は肩に掛けていた車輪をその傍に立てかけた。横転した状態ではわかり辛いが、これは――列車だ。その先頭車両。何でこんなところに転がってるんだろ、と穹は少年に尋ねる。
「本当に壊れちゃったのか? これ。もう動かない?」
「いえ。直せば動くようになりますよ」
「直せば?」
「はい。あちこちに散らばったパーツを集めて、また正しく組み立てるんです。時計の中で歯車と歯車が噛み合うように、元の通りに。そうしたら、また動くようになりますよ」
「そうなのか?」
 少しだけ胸が騒ぐようだった。それは恐らく期待にだ。この列車が動いて、宇宙だって自在に走ることが出来るなら、それに乗ってどこへだっていけるではないか。乗ってみたいですか、と尋ねてくる少年に、穹は迷いもせずに「うん」と答えた。「……でも、壊れてたら動けないだろ」
「はい、そうですね。……だから、ボクが直しましょう。また動くようになれば、それに乗って旅が出来ますから」
「直せるのか?」
 驚いて穹は尋ねた。少年は嘘を言っているようには見えなかった。穹をからかっているようにも思えなかった。本当に、彼はこれを直せるのだ。根拠はないが、確かにそう感じた。
 少年は「ええ。もちろん」と笑って答える。

「そのためにここに来たんです。……だってボクは――『列車の整備士』ですから」



 青年は古く、大きな――少しばかり大きすぎる、半壊した建物を前に一度立ち止まる。元は何かの建物だったのであろう、それが一体何だったのかを考えた。正面から見た意匠は印象に残るデザインだ。ただ、何故かわからないが、ほんの少しの既視感がある。おーい、何してるんだー、と、青年が止めていた足を急かすように、少し前を歩いていた少年が手を振ってきた。
「こっちこっち!」
「あ、ああ……、すまない。ここは?」
「ん? あー、家? そうだ。まだ、濡れたの乾いてなくて気持ち悪いだろ。先に風呂入っちゃおうぜ」
 古い建物のようだが、水道や電気が通っているのだろうか? 少年は、ドアが外れてぽっかりと空いてしまった出入り口から、建物の中に堂々と入っていく。経年劣化と、吹き込んできた風や土埃、流砂で汚れた絨毯の上を進んで、奥に向かっていった。
 広いホールだ。エントランスホールにしてはかなり広い。殆ど壊れて劣化しているが、置かれているソファは恐らく上等なものだっただろうと一目見てわかる。
 頭上を見上げれば、まるで蝙蝠の巣のように無数の穴が暗がりの中にあった。昔は、そのさらに遥か上に天井があったのだろうが、今は途中で切り取られたかのように空が中央から覗いていた。カウンターの内側は物が散乱していて、カウンターもまだ綺麗に残ってはいたが、お世辞にもその上は綺麗とは言えない。花瓶は下へ落下してはるか前に割れてしまっていたし、電話だって仕事を放棄して床に転がっている。
 おそらく――ここはホテルだろう。
 上等な作りや人を待たせたりするためのロビー、ソファーやカウンターを見ても、少し考えればおのずと思いつく。もうずっと前に営業は止めているようだが、電気系統は自家発電なのだろうか? 気付けばエレベーター前に立っていた少年が、こっち、とさらに青年を呼ぶ。
 どうやらこのエレベーターも古い物ではあるがまだ動くらしい。開いた扉の奥に入り、しばらく揺られると、特に変わった挙動もせずに、扉が静かに下層フロアへの到着を告げて口を開けた。上階よりぐっと暗く感じるが、廊下は明かりが灯っているからまだ明るい。経年劣化はあるものの、フィラメントを用いた電球を使用しているわけではないのか、明かりはちらつきもせず広く廊下を照らしている。
 少年はしばらくその廊下を歩くと、突き当りで角を折れた。さらに奥へ進み、ドアの前で立ち止まる。ノックもせずにドアを開けてから、じいちゃん、と部屋の奥に声をかけた。
「人拾ったからちょっと洗ってくるー」
「……犬じゃないんだが」
「似たようなもんじゃないか? ってじいちゃんから返事ないな。また外に出てるのか」
「お前は……ここで祖父と暮らしているのか?」
「ううん。祖父じゃない」
「……? だが、『じいちゃん』と呼んでいる誰かはいるんだろう?」
「んー、じいちゃんだけどじいちゃんじゃないっていうかさ」
「……? どういう……」
「まあちょっと、どういう風に言えばいいのかな……。説明が難しいな。とにかくじいちゃんはじいちゃんだ。理由あってそう呼んでる。じいちゃんは日中はよく外で作業してるんだよ。出てく前まで居たんだけど、俺が外に出た後に自分も外に出たんだろうな。戻ってきた後に説明すればいいよ。あ、浴室はこっち」
 彼らが居住区としている空間は、上層のフロアのような荒れ果てた姿とは無縁で、物は古くはあったが、劣化して使えないほどではなく、むしろどこも綺麗に保たれていた。浴室、と案内された場所もまた、古い物ではあったが丁寧に掃除され、埃っぽさもない。テーブルの上一つとっても綺麗に磨かれていて、調度品までもちゃんと手入れがされている。
「うー、海水でべたべただ」
 部屋の様子を窺っていると、少年は慣れた手つきで蛇口をひねり、バスタブに湯を注ぎだした。浴室とはいうけれど、バスタブ周りの床の一部がタイルになっているだけだ。部屋にはテーブルもソファもベッドも、本が入ってない空の本棚もライトもある。シャワーカーテンはなく、カーテンレールだけがそのバスタブの真上に僅かに残っていた。部屋が広いから、湿気で他の家具が傷んだりしないんだろう。
 少年は徐に身体に張り付いたシャツを捲り上げ、そのまま少し苦労して脱いでいった。それにぎょっとしていると、青年が戸惑っているとでも思ったのか、少年はきょとん、と僅かに首を傾げながら尋ねてくる。
「脱がないと。服、洗えないぞ」
「……、……一緒に入るのか」
「順番待ってるうちに風邪ひくかもしれないだろ。それに、使ってる浴室はここしかない。他のところにもあるにはあるけど、使ってないからここと同じように使えるかどうかはわかんないかな。特にお湯は出ないと思う」
「…………、」
 そうこうしている間に、少年は自身が履いていたズボンも下着もまとめて太腿から下ろしていった。羞恥がないのか、一糸纏わぬ姿のまま、金盥どこだっけ、と部屋の中をうろつき出す。どこかから持ってきた平たく大きな金盥をバスタブの傍に転がし、少年はそこへ脱いだ服をぽいぽいと放り投げた。それから青年を見、不思議そうな表情で尋ねてくる。
「まだ脱がないのか?」
 まるでわざと風邪をひく趣味でもあるのか、とでも尋ねてきそうな表情だった。仕方がなく、青年は自分も着ていた服を脱ぐ。上着を脱いでから、ふと内側のポケットになにか引っかかるものが入っていることに気付く。なんだ、と取り出してみると、それは黒い何かが描かれたカードだった。
 身に覚えがない。だが、少なくとも持っていたということは自分の物か、誰かの物だったとしても自分が持っている理由が何かあるのだろう。青年は一旦、そのカードを、部屋を見回し、目に着いたテーブルの上に放った。カードは不思議な材質で、紙のように軽いが、材質は硬くもあり、同時にしなやかに曲がるほど柔らかくもあり、触れると温度があって、夜に触れたように少し冷たかった。
 濡れて肌に張り付いた服を脱いで、青年はそれらの服を少年が入れていた金盥にまとめて放り込む。バスタブの底に張っていたお湯を一度止めて、少年はシャワーの方へ手をかけた。金盥の中に水を注ぎだす。じっと、溜まっていく水とそこに入れた服を見つめながら、ふと彼が尋ねて来た。
「さのさ。服、踏んで洗ったことある?」
「……ない」
「大昔はそうやって洗ってたってじいちゃんが言ってた」
「いつもそうしているのか」
「まさか。ランドリーあるのにそんなことしないって」
「ランドリー」
「全自動乾燥機付き。ちなみにこれはただの砂落とし」
 ランドリーの中に砂が入るとじいちゃんが泣く、と彼は言い、ふふ、と何故か小さく笑う。洗濯槽に砂が入って泣いてしまう老人というのがどうにも想像出来ず、少年の不可解な言動に、青年は思わず眉を顰めた。その表情を見て、少年はさらにくつくつと肩を震わせながら笑う。そういえば、と今更のように尋ねてきた。
「まだ名前聞いてなかった。……俺は穹」
「……丹恒」
「たんこう、……丹恒」
 まるでその名前を舌で転がして、確かめるように少年は――穹は言った。「……なんでだろ? 前から知ってた気がするな」
「記憶がなくなる前に、どこかで聞いたのをぼんやり覚えているのかもしれないな」
「そんなによくある名前なのか?」
「同じ名の人間にはまだあったことがないが、全くいない、……というわけでもないだろう」
「んー? そうなのかな。そんなにいない気がするけど」
 少年は金盥の中にお湯を注ぎ終ると、一旦湯を止め、シャワーを手にしたままバスタブの中に足を差しこんだ。底にそのまま膝を立ててしゃがんで、何故かちょいちょい、と丹恒を近くへ手招く。
「……なんだ」
「髪の砂落として」
「ついでに洗ってもらおうなんて魂胆か?」
「ご名答」
 よくわかってるじゃん、と穹は言う。不思議と、彼にそう言われることが苦ではなかった。バスタブの縁に頭を擡げ、自分でそのままシャワーで砂を落とせばいいものの、はーやーく、と穹は丹恒を急かしてくる。
「丹恒が海の中に落ちてこなかったら海になんて潜らなかったんだぞ」
「…………」
「あーあー誰かさんが意識失ったまま海に落ちてこなきゃな~」
「……貸せ」
 そう言われては仕方がなく、丹恒は一度息を吐いて、彼に急かされた通り、彼の手からシャワーヘッドを受け取った。丹恒がバスタブの傍に立った途端、穹は少し驚いたような顔である一か所をまじまじと見つめてくる。続けて、「……でっ」と微かに声が聞こえたので、丹恒は羞恥に少し顔に熱が集まるのを感じながら、無言のままその額を指で弾いた。

 穹は丹恒に砂を落とさせるどころか、髪もしっかり洗わせ、自分は何もせずに皮膚がふやけるまでしっかりバスタブで横たわったままでいた。身体や髪についた砂を流し終わり、一旦泡や砂をバスタブの排水溝から流してしまう。すべてのお湯が抜けていく傍から、穹は近くの蛇口を捻って、またバスタブに湯を張った。どうやらこのまま、しばらく体をそこに沈めるつもりらしい。大体の泡が足される湯で拡散されながら薄くなったころ、彼はまた排水溝の栓をした。
 蛇口から出てくるお湯の勢いは強く、見る見るうちにバスタブの底に再びお湯が溜まり出す。詰めろ、と丹恒がバスタブの反対側に足を入れると、穹は渋々膝を立てて場所を半分明け渡した。丹恒がバスタブの底に腰を下ろしたのを見て、「……よし。これで言ってたとこには連れて来たぞ」と穹が言う。
「言ってたところ?」
「うん。どこか落ち着いて話せる場所へ移動しないかって聞いただろ?」
「……落ち着いて?」
「落ち着いてる」
 だろ? とまるで答えを促すように彼は尋ねてくる。言葉遊びでもしているような気分だった。妙なやつ、とそれに少し呆れるのに、その一方でどうしても憎めない。
 冷え切った体がバスタブに張ったお湯の中で静かにほどけていく。何故だろう、こんな風に、今までも彼とこうしたことがあるような錯覚を覚える。ぼう、っと彼のその膝頭に視線を落としていると、「で、なんであんなとこにいたんだ?」と穹が尋ねてきた。「自分がどうなってたか覚えてる?」
「……どう?」
「丹恒さあ、急に空から落ちてきたんだけど」
「空から」
「うん」
 何をバカなことを、思わず訝し気な表情で穹を見つめてしまった。その表情で丹恒が自分の言葉を何も信じていないとすぐに悟ったのか、本当だって、と彼は軽く爪先でこちらを小突いてくる。
「本当に、急に空から降ってきたんだ。そんで、海にぼちゃんって落ちた。意識がないみたいだったからあわてて助けに行って、砂浜まで引き上げてさあ……」
「……そして俺を襲ったのか」
「人聞き悪! 俺はただ、その。呼吸がなかった? と思って、じ、……人工呼吸をなあ……し、しようと……してて……」
「冗談だ。――……心配をかけてすまなかった。助けてくれたところ悪いが、その。お前が言う、落ちてくる前後のことは今生憎忘れていて、今は何も思い出せない」
 落ちてきた、と言われてもその時の記憶すらないのだ。何かに覆われたように白い靄がずっとかかっている。あるいは一寸先すら見えない、吹雪の中に立っているようでもあった。突然空から男が落ちてきて、記憶すらないというのはどう考えても思いがけない面倒事だろう。だが彼はあっけらかんとして、そんなことは大したことでもない、という表情のままでいた。
「ふうん? そうなんだ」
「……驚かないのか」
 それどころか、訝し気な表情も、疑うような表情すら向けてこない。なんで? とむしろ丹恒のその言葉に不思議そうに首を傾げる。
「だって、忘れるのは別に悪い事じゃないだろ。誰だって忘れることはある、ってじいちゃんも言ってた。じいちゃんも人から聞いたらしいけど。それに、忘れてても別に消えたわけじゃなくて、すぐに出てこないくらい深い所で寝てるだけなんだってさ」
「記憶が?」
「俺も聞いた話だけどなー。第一、俺もじいちゃんにここに連れてこられるまで、丹恒と同じように自分の事もよく覚えてなかったし」
「……お前も記憶がないのか?」
「んー、まあ、あんまり? じいちゃんと会ってからはあるけど。その前の事はまだよく思い出せないかな。……――誰かと、一緒にいた気がするんだけど」
 自分の他に、四人くらいと、同じじゃない大きさの何かがいた気がする、と穹は続けた。でも、その事すらもうあまり思い出せないんだ、と。記憶は頭の中で次第に形骸化し、中身のない亡霊になっていく。そこにあった、ということは思い出せるのに、そこに何があったか、をまるっきり忘れている。
「何度か思い出そうとして、この周りをぶらぶら散歩してたけど、なかなか思い出せないんだよな。一昨日は鯨、昨日はかもめ、今日は丹恒に逢ったし。じいちゃんが言うには、思い出すのを焦る必要はなくて、大事なのはタイミングとか、要素らしい? 記憶の事を引き出しに例える人もいるって」
「引き出し?」
「そ。忘れたことは、頭が勝手に鍵をかけちゃって見れなくなってる。鍵があれば開くけど、それがないと中に何が入ってるのかすらわからないようなもんだって」
「比喩としては分かりやすいな」
「てことは、俺たち二人とも鍵がないんだ」
 なんか、一緒で嬉しい、と穹がまた、とん、と爪先で小突いてくる。まるでじゃれつくように、擽るように。その仕草がどうしてか胸を突く。こそばゆいような、むず痒く暖かな気持ちになる。
「行くとこないならしばらくここにいたらいいぞ」と、彼は言った。「じいちゃんも喜ぶと思う」
「……後で戻ってきたら挨拶くらいは」
「んー、けど、たまに夜中まで帰らないしな。あ、そうだ。行ってみるか? ついでに教えたいものもあるしさ」
「……それはいいが、服がない」
「そうだった」
 まあそれは後でもいいか、と大人しく穹が引き下がる。彼は何故か自信を持った表情で、丹恒もきっと気に入るよ、と続けた。
「あ、でも、服がないけどバスローブはあるな」
 元は大きなホテルだったというこの場所は、ともかく、そういった消耗品だけはまだ潤沢にあるらしい。地上から上階のものはほぼ全滅だが、地下にあるものは綺麗なものが多いから、と彼はそう言って、せっかく温まったというのに、濡れた裸のまま廊下を歩いて、二人分のバスローブを取ってきた。それを羽織り、砂を落として水気を切った服を手に、丹恒は穹の案内でランドリーへ向かう。いくつか並んでいるが、使えるのは一つだけになっちゃった、と穹は開いたドアの一つに服を放り込んだ。あとは乾燥まで自動でやってくれる、と。穹が振り向く。
「じゃ、乾くまで話そ」
 実はじいちゃん以外の人間に逢ったことがないんだよ、と彼は言った。誰にも、と丹恒は驚いて尋ね返す。
「誰にも。だってここ、何でか俺とじいちゃんしかいないし。丹恒が初めてだ」
「……まさか」
「本当だって。大体、ここもじいちゃんが連れてきてくれたとこだし」
「その前は何処にいたんだ?」
「それも忘れてる。なんか……いつのまにかここにいて、じいちゃんもいつのまにか来てた」
 自分も人の事は言えないが、彼の話も余程可笑しな話だ。まるきり自分と同じようなものじゃないか、と丹恒は思う。ほら、と穹が急かしてきた。
「ここに来る前後の事は忘れてるって言ってもさ、他に覚えてることくらいはあるだろ?」
「……咄嗟に思い出せることがない」
「話してるうちに思い出すかもしれないじゃん」
「そういうお前はどうなんだ」
「俺?」
「今の話を聞く限り、俺とお前にそう大した違いがあるとは思えない」
 言われて、漸くその事に気付いたかのように彼ははた、と神妙な表情になる。穹は指折り数えながら、「これまでの記憶がなくて、覚えてることもあんまりなくて、急にここにきた」と、三つ指を手のひら側に折り込んだところで顔をこちらへ向けた。
「確かにちょっと似てるな」
「だから、話すと言っても……」
「丹恒は何が好きなんだ?」
「好きなもの」
 丹恒の話を聞かずに、穹はくるりと言葉を方向転換させる。振りかぶったものがすか、っと空ぶったような心地で、藪から棒になんなんだ、と丹恒は少し呆れて穹に尋ね返した。だってさ、と彼は当たり前のように答える。
「そんなことも俺たちまだ知らないじゃん?」
 誰かを知る、というのは、そういった小さなことの積み重ねで成り立つ。一つ知り、二つわかって、三つわからないことが増える。それを繰り返して自分の中にその「誰か」の居場所を創る。
 自分の中には今誰の席もない。たった一人、目の前にいるこの少年以外。そうやって、何もなかった自身の記憶の中に、今ひとりだけ座らせてみる。すると、不思議なことに、彼が先ほど言っていたように、自分にもうっすらと誰かといたような、そんな記憶が不意に浮かんでくる。自分の他に、四人くらいと、同じじゃない大きさの何かがいた気がする。丹恒は無意識に、穹が途中で内側に折りたたむのを止めた指を、勝手に横から内に折り込んだ。きょとん、と穹が目を丸くする。
「え? なに?」
 穹は丹恒の突然の行動にまだ理解が追いついていないようで、疑問符を浮かべたまま丹恒をまじまじと見つめてくる。え、ほんとになに、何か言えよ、と少し不安そうに眉を下げた。
「……お前は」
「俺? 何が」
「好きなもの」
「え? 特にない」
「おい」
 人に聞いておいて、と丹恒が言い返すと、何がおかしかったのか、それまで顔に浮かべていた不安も疑問符も全て引っ込めて、ふ、っと急に笑みを浮かべた。そのまま何故か声を上げて笑い出す。
「あっはは! やーごめんごめん。怒るなって、――あー……でも好きになりそうなものなら今日増えた」
「……? 今日?」
「うん。丹恒」
 彼は迷いなくこちらを真っすぐに見て答えた。
 それに思わず面食らってしまい、丹恒は返す言葉も見つからないまま、穹を呆然と見つめ返す。彼もまたその様子にきょとんとして、丹恒が何に驚いているのかわかっていない表情で首を傾げた。

 その後、ランドリーが止まるまで二人で他愛もない中身のない話をした。
 この半分廃墟となったホテルのこと。さらにホテルの前は、ここが監獄であったこと。その場所に創られたホテルが、夢境と呼ばれる憶質で出来た土地を夢の中で築き、その夢境の中は正しく夢のような美しい世界で、その夢境の中にはいくつか、時間をその時で永遠に止めた都市があり、文明があり、文化があり、芸術があり、時には辛い現実や苦悩、立場や過去から逃げ、死すらからも逃げて過ごすことが出来たということ。その夢の地の名は『ピノコニー』という名前であったこと。
 だが、今残っているのはその美しい夢で発展したピノコニーが生まれるきっかけとなったホテルが半壊した姿だ。一体ピノコニーに何があったのか、穹は知らないし、じいちゃんも何故かはぐらかすのだと言う。この場所についての事情は分かったが、丹恒は何故その場所に自分や穹、そしてもう一人老人がいるのかについては全く理解出来なかった。
 服も乾いたし、と穹と丹恒はバスローブから着替えると、再びホテルの外に出た。
 かつてこの地には星外から多くの観光客が足を運んでいたらしい。ただ、ピノコニーのような夢の地を望む人は多く、観光客の多くが富裕層や王族と言った金銭的に余裕のある者たちばかりだったそうだ。
 何も知らない、というわりに、それくらいの事はすらすらと口から出てくる。穹は丹恒の少し前を歩きながら、何故かしきりに自身の足元を気にしていた。そこに段差があるわけでもなければ、危険なものが落ちているわけでもなさそうだが。
「さっきから何を探してるんだ」
 気になって、丹恒は尋ねた。穹は「パーツ!」とたったそれだけ丹恒に返す。
「……パーツ? 何のだ。何故探してるんだ?」
「あつめてじいちゃんとこに持ってくんだよ」
「お前の祖父は何をしているんだ」
「んー、よくわかんないけど。壊れてるから直してるんだってさ」
「直す? 何を」
 機械だろうか、と丹恒は不意にしゃがみ込んで、少し錆びてしまった歯車を見つけ、それを拾い上げた穹に続けて尋ねた。彼はその歯車の錆を指で撫で、取ったら使えそうだな、とそのまま手に持って歩き出す。「えーっと、」と先ほどの丹恒の質問に、彼は少し遅れて応えた。「列車、……だっけ?」
「列車?」
 このホテル以外にほとんど何もない場所に列車を? と丹恒は思わず周囲を見回した。列車を走らせるのに必要なレールもないし、そもそも列車に乗って移動する場所もないだろうに。かつては列車が走っていたのか? それにしたって、その軌跡一つ見当たらない。
「何故そんなものがここに?」
「さあ? でも、じいちゃんはずっと一人で修理してる。だから俺もパーツ探すの手伝ってるんだ。暇だしさ」
「……まあ、娯楽の一つないんじゃな。それでいつもこのあたりの散歩を?」
「ぼけーっと海見るくらいしかすることないし。だから今日はびっくりした」
 こっち、と穹は不意に道を逸れ、舗装された未知の割れ目をなぞる様にして、崩れた道を下へ降りた。その瓦礫の上をひょいひょいと飛び移りながら、穹は先へ進んでいく。じーちゃーん、と穹は入江の奥に向かって声をかけた。
「……――、」
 ……本当に、列車だ。
 入り江の奥に、それは置き去りにされたようにぽつんと置かれていた。黒い車体、筒状の機体とパイプや車輪。壊れている、と穹は言っていたが、どの部分が壊れているのか判断がつかない。少なくとも、外観は壊れているようには見えなかったから。
 穹の呼びかけに応じてか、列車の下にもぐっていたのだろう、誰かが汚れた油や錆で汚れた格好で、ゆっくりと手作りのクリーパーに寝転がったまま列車の真下から出てくる。もがもがと、口にライトを咥えていたようで、それを黒く汚れた軍手の端で掴んでから、漸く「なんですか?」とすこしぽやんとした柔らかな声で、彼の祖父は――いや、少年は、光の眩しさに少し眉を顰めながら穹に答えた。ゆっくりと体を起こし、そして丹恒に気付くと、驚いたように目を見開いていく。それほど驚く――ことだろうな。これまで穹と二人きりでいたのであれば、この場所に別の人間がくるだなんて思いもしないはずだ。
 だが、その丹恒が思っているよりも、少年の表情は驚きから、まるであなたをずっと待っていた、とばかりに暖かな慈愛に満ちた物へ変わった。普通、急に現れた人間に対してなら、持つべきものは警戒心ではないのだろうか? まるで、【丹恒がここへ来ることがわかっていた】かのような表情にも見えた。穹が彼に丹恒を手で示す。
「じいちゃん、丹恒だ。丹恒、じいちゃんだ」
「…………、――じいちゃんです。こんにちは、丹恒さん」
「じ、……――」
 名前を紹介してもらえるのかと思ったが、それらしき言葉が一向に続かない。まさかそれ以外に呼び名がないのか、と少年の事をどう呼べばいいのかわからずに丹恒は口を噤む。
 どう見ても、彼は穹の祖父には見えなかった。どういうことなのだろう、と困惑したまま、丹恒はにこやかに笑いかけてくる彼にそれを尋ねるべきか、それとも穹に尋ねるべきかと考えあぐねる。混乱してるな、とそれが分かっていたかのように、丹恒を見てにやにやと笑いながら穹が言った。
「だから言っただろ。じいちゃんだけどじいちゃんじゃないって」
「……そういう意味だとは思っていなかった」
 てっきり血縁関係にはないが、祖父の役割を果たしている人くらいの認識だった。とはいえ、世の中には長命種と呼ばれる、見た目は若いがその実何百年も変わらない姿のまま生きている人種もいると聞く。歳を聞くのは失礼だろうか、と悶々としたまま、結局丹恒は黙ることを選んだ。
「……驚かないんだな。この場所にはあなたと穹しかいないと、彼から聞いたんだが」
「あ、そうですね……。そうでした。こういう時は驚くべきですよね! びっくりしました」
「…………」
「ちょっとは笑ってやってくれよ、丹恒。じいちゃんってボケのタイミングちょっとずれてるんだ。おっちょこちょいだし」
「そ、そんなことないですよ。たまにです」
「思っていたようなリアクションを返せずにすまない。そういったことは不得手なんだ。それで、あなたは何故ここに? ……穹も俺もここに来る前後の事をあまりよく思い出せないんだが、あなたもそれは同じなのか」
「そうですね、……それは――少し説明が難しいです」
「? 難しい?」
「はい。今言えることと、言えないことがあるというか」
「出た。じいちゃんの謎主張。……まあ今全部話したらそれで終わっちゃうし、後で落ち着いてからでもいいだろ。あ、じいちゃん、途中で歯車見つけた」
 穹は手にしていた歯車を少年に手渡す。少年はそれを両手で受け取り、まじまじと状態を確かめた。
「ありがとうございます。うーん、錆を落とせば使えそうですね。それほど劣化が酷くは見えません。丁度、小さい歯車と螺子を一つ探そうとしていたところだったんです。歯車は丁度噛み合いそう……あとは螺子ですね。出来れば、曲がったり、螺子山が潰れていないものだといいのですが」
「螺子な。ちょっと探してみるよ。大きさは?」
「小指程です」
「他には?」
「いえ。――実は、もうそのパーツがあれば修理は終わりそうなんです。問題は、別のところにあって」
「別? 列車はもう修理が終わるのに?」
 穹はきょとん、として少年に尋ねる。少年は列車の側面に触れ、何かを懐かしむような表情を浮かべた。 
「――この列車は、先頭車両です。進む力や後続する車両を牽引する力はあっても、列車には少し足りないものがあるんです」
「足りないもの?」
「はい。誰かを乗せるための『客室車両』がありません」
 だから、動かすことは出来ても誰かを乗せることが出来ない。無理矢理乗れないこともないですが、と彼は困ったように笑った。
「これを修理し終えたら、次はそれを探さないといけませんね。でも、それが見つかったら、今度こそ動くと思いますよ」
「やった! で、その車両の見た目とかは? じいちゃん何か知らない」
 見つけるったって、どんなの探せばいいかわかんないし、と穹は問う。少年は頭の中に具体的なイメージがあるのか、伝えるために言葉を選びながら穹に答えた。
「んー……そうですね。外見は先頭車両よりは角ばっています。車窓という窓がいくつか側面にあって、車両の下には同じようにこの列車の先頭車両と同じように車輪があります。もしかすると、この列車を見つけた時と同じく、取れてしまっているかもしれません。でも、先頭車両に問題がなければ、車輪がなくてもどうにかなります。あとは……そうですね。中を見れば、それがすぐに『そう』だと分かりますよ」
 まだ混乱している丹恒を置いて、二人はあれこれと話をする。先ほどから横で聞いていた限り、どうやら穹が言っていた列車を直す、という作業はもうじき終わるらしい。あと一つの螺子と、客室車両の捜索さえ終われば。
「よし、丹恒」
「……?」
「俺たち大親友の腕の見せ所だ。螺子一本と客室車両、見つけよう!」
「大親友」
「なんだよ。嫌なのか? 言ってくれよ。水臭いなー。超大親友の方がよかったか?」
「いや、……そもそもお前と親友になった覚えがない」
 えっ、と穹はその言葉に愕然としたような表情になる。傷ついた、と顔にはっきりと書いたように眉を下げた。
「それこそ本当に水臭いぞ!? 溺れて助けてちゅーして一緒に風呂も入った仲じゃん!」
「それは、……――おい」
 今の言葉の中に、と丹恒はふと自分の記憶にない言葉があると気付いて穹を問い詰めようとする。だが穹は丹恒の声が耳に入っていないのか、少年の方へ視線を向けてしまった。穹と丹恒の二人を見て少年はくすくすと笑う。
「ふふ。若者はすぐに仲良くなりますね」
「若者って。そういうとこが年寄りくさいんだって、じいちゃんは……」
 そうですか? と少年はよくわからない、と表情に書いたまま穹にたずねる。穹は多分そう、と少年に頷き、丹恒ってば空から降ってきたんだぜ、とその時の様子を彼に身振り手振りで伝え始めた。
「おい、穹。今の話の中で一つ聞き覚えのないことが」
「じゃあ、暗くなる前にはホテルに戻るよ。じいちゃんは?」
「もう一度見落としがないか、点検をしてから戻ろうと思っています。前に直したところの螺子が緩んでいるかもしれないので」
「わかった。じゃあ、潮が満ちる前には戻れよー」
「はい。お気をつけて。丹恒さんもお気をつけて」
「おい、穹」
 人の話を聞かずに、というよりは恐らくわざと聞こえないふりをして、穹は彼の「じいちゃん」に大きく手を振って踵を返し、一人で颯爽と歩きだした。歩きにくい足場を慣れたルートで登って、入江から上の道へ戻っていく。丹恒はそれを追いかけながら、穹、とその背中に声をかけた。彼は丹恒の声に一度振り返り、それからまた前を向いて、少し小走りで駆けていく。
「穹! おい」
「崖が近いから足元注意な~」
「おい、さっきの話」
「実は見せたいものは他にもあってさー」
「穹」
 もう一度穹がこちらを振り返る。どこか気まずい、とその顔に貼り付けたまま、丹恒を見、それから――走り出した。逃げた、と丹恒は一瞬驚いて、そのまま彼の後を走って追いかける。
「早っや!」
「穹! 止まれ!」
「や、やだ! あれは~……えー……あー……――っうおあ!?」
 がくん、っと穹の体が傾く。すぐ後ろまで追いついていた丹恒は、咄嗟に手を伸ばして彼を支えた。だが、足元が悪く丹恒もそのまま一緒にバランスを崩してしまう。平坦な足場が途切れ、真横には瓦礫の山と海。このままでは、と咄嗟に彼を抱えたまま、丹恒は無意識に力を揮っていた。
「おち……――てない?」
 衝撃に備えてぎゅう、と目を閉じ、覚悟をしていた穹は、いつまで経ってもこない衝撃におずおずと目を開いた。はあ、と丹恒は彼の腕を掴んだまま「怪我はないな」と尋ねる。それでようやく、穹は自分の足元がふわふわと宙に浮いていることに気付いたようだった。
「……――え!? 俺飛べたっけ!?」
「落としていいか」
「うそうそうそちょっとふざけてみただけごめん丹恒離さないで? 絶対に離さないでくれ!」
 真下をざぱんと白波が弾けていく。丹恒の手に縋りつくように、穹は腕をぎゅっと掴んできた。あまり暴れると落ちる、と丹恒が言うと、途端に石のようにぴたりと動きを止めて静かになる。丹恒は彼をゆっくりと真下へ下ろしていった。穹を降ろした後で丹恒も浮かせていた体を降ろす。そうしてから、どうせなら平坦な足場に下ろせばよかった、と気付いた。
 穹の痛いくらいの視線に気付く。咄嗟に姿を変えてしまったが、あまり見ていても気持ちのいい姿ではないだろう。元に戻ると、穹はえ! と大袈裟に声を上げた。
「何で戻ったんだ!?」
「……? 先ほどの姿を不快に思うかと」
「どこが? なんでだよ。角とかかっこよかったし、透き通って綺麗だったのに」
「何故、と言われると、……――」
 何故だろう? 丹恒は無意識にこの姿を隠そうとしている自分に気付く。本来の姿はむしろこちらの方なのに。……そうらしい。自分でも自分の事が分からない。ひとつ閉じていた記憶の鍵が開いて、そこから水面に浮かび上がる泡のように、どうしてそう思うのかを続けて理解する。
「この姿の俺を、かつて――そう思う者がいたからだ。だが、……そうだな。お前には関係ない事だった」
「関係ないっていうか……、丹恒が嫌なら別に無理にその姿になる必要もないけどさ。そういうんじゃなくて。――丹恒は、丹恒だろ。どんな格好してても。ここには俺しかいないし、丹恒を悪く言うやつもいない。誰かは勝手にお前の事知りもしないのに嫌うかもしれないけど、それが丹恒と何の関係があるんだ? 誰かに嫌いだって言われたからって、丹恒が自分のことまで嫌いになる事ないだろ」
「……――、」
「というかごめん、もしかして今、なんか思い出した? 思い出したくないこととか……。俺も全然自分の事覚えてないから大したこと言えないけど、……大丈夫か?」
「……、他に聞きたいことはないのか?」
「聞きたいこと?」
「この姿について、……だとか。どうして姿を変えているのか、だとか」
「お前が話したくないなら聞かない」
「そう、……か」
 あれこれと聞かれるものだと思っていた。だのに穹は、すでにもうそんなことなど頭の中にはないようで、丁度見せたいものが近くにあるんだ、とさっさと歩き出してしまう。まだ彼にどう言葉を返せばいいのかわからないまま、丹恒は当然自分が付いてくるものだと信じて先に進んでいく穹の背中をぼんやりと見つめていた。その背がこちらを振り返る前に、丹恒は後をついていく。
 思い出したのと同時に、頭の中にここに来る前の自分の事が少しだけ浮かび上がってきた。
 おそらく、あまりいい過去とは言えない。忘れたままの方が、もしかするとよかったのかもしれない。
 かつての自分がいた場所の事。その、体の奥まで冷え切って、凍えてしまうような暗い独房の事。いつ出られるかなんて何一つ知らなかった。だが諦めずにいたらある日突然空が見えた。青い、蒼い、紺碧い、たったそれだけのことがほとんど色のない場所から出てきて初めて目にしたものだったからか、余計に美しく見えた。
 故郷の事を憎んではいない。自分の境遇を嘆いてもいない。ただ、あの場所では自分のまま生きるのは、あの時少し難しかった。外に、どこかに、自分の居場所があるのかもわからないまま放り出されて、初めて見た星々と、美しい蒼穹と真逆でありながらどこまでも果てなく続く宙をただ時間も忘れて見つめていた。
 そこから逃げて、逃げて、誰も自分の事を知らない場所まで向かって、それから――。
 どん、っと考え事をしながら歩いていた所為で、穹が立ち止まっていたことに気付かなかった。おっと、と後ろからぶつかってきた丹恒に少しだけ驚いて、穹はどうかしたか、と尋ねてくる。
「いや……、すまない。少し考え事をしていた。それで、見せたいものというのは?」
「ふふ、よくぞ聞いてくれた! あれだよ」
 見える? と穹は海の上を指さす。一体何を指しているのかわからず、丹恒は彼の指の先にある角ばった岩礁をまじまじと見つめた。あれが何だ、と丹恒は首を捻る。
「え? 何って。四角い岩」
「四角い岩」
 沈黙が流れる。穹は丹恒が思ったような反応を見せなかったことに暫し呆然として、あれ、と疑問符を浮かべた。
「……――エ!? 俺、もしかして滑ってる!? おかしいな……。あんなに四角い岩礁とかなかなかないだろ? 珍しいなと思って時々見に来てたんだけど」
「……そうか」
「その無、みたいな表情やめてくれ。地味に傷つく! え、だって四角いんだぞ?」
「今まで彼と二人でいたから、ありとあらゆるものがお前の中では価値のあるものになっていたんだな。すまない、理解してやれなくて」
 全く感動しない? と尋ねて来た穹に、丹恒は全く、とはっきり返す。それを聞いて、彼は露骨にショックを受けたような表情をした。
「知らなかった……こんな感情……」
「すまないな。俺が突然、お前の価値観に第三者からの印象を付け加えて、基準に余計な優劣をつけるようなことになってしまって」
「丹恒は丹恒だから意見が食い違っても仕方がないだろ……いいよ、別に……。悲しいけど……。というか、おかげさまで朝からずっと頭も胸も忙しい。責任取ってくれ」
「どう取れと」
「……んー、……じゃあひとまずさ。さっきの結構ショックだったから……大親友がまだなら『親友』から始めていい?」
 どう、と尋ねてくる穹に、丹恒は構わない、と頷く。じゃあ、と差し出された手をどうすればいいのかわからず、すぐにつかめないまま、丹恒は宙に彷徨わせた。そういう時はこうするんだって、と穹の方から、丹恒の手を取っていく。彼の手は酷く温かかった。
「そういえば、穹」
「うん?」
「『溺れて助けてちゅーして一緒に風呂も入った』というのは?」
「……溺れて助けてちゅーして一緒に風呂も入った」
「具体的には三つ目を俺は知らない」
「じ、……人工呼吸しようとしてぇ……」
「やっぱり襲ったのか……俺を……」
「だから人聞き悪いって! ちがっ……違わな……ち、……? ま、……まってくれ。ひとまず自分でもよくわかってないから確かめていいか?」
「何をだ」
「もっかい丹恒とちゅーして、俺がどう思うか?」
「断る」
 ふざけてないで戻るぞ、と丹恒は穹を促した。海岸線は静かに白く染まり始めている。もうじき溶け始めた陽が、空に火を入れたように燃え上がる。陽が落ちるのはすぐだろう。足元にも先ほどより潮が近づいてきている。丹恒は未だ自分たちが手を繋いだままでいることに気付いたが、彼があまりに自然にそのまま歩き出したので、指摘することも出来ずにそのまま手を繋いで、本来はいつもここを通って降りてきていたのであろう、半分壊れた階段を上り、崖の上へと戻っていった。



 食事は朝と昼、それから夜に食堂に向かうと何故か人数分用意されている。
 部屋はまだ比較的綺麗な部屋を使っていい、と伝えたのだが、丹恒はそう大層な部屋は必要ないからと、何故か浴室がある部屋に勝手に居座り始めた。穹にも自室はあるが、大抵丹恒がその部屋にいるので、結果その部屋に入り浸ることが増えた。
 初めは空っぽだった本棚だが、丹恒がホテルのいたるところから本を集めて見つけてきて、何故か勝手にその本棚に並べ始めた。おかげで、部屋は彼が来る前と来た後で随分印象が変わってしまった。
 少しクールな印象は受けるが、丹恒は行動まで一貫してクール、というわけでもない。なんでもそつなくこなすが、別に何でもできるわけではないようだ。
 まず、あまり整理整頓が得意ではない。ぴっしりと本棚の本だけは綺麗に並べてあるけれど、整理するつもりで持ってきたものの、結局溢れてしまっている本は床に雑に積み上げてあり、なんならベッドの上にも置いてある。おかげで穹には、丹恒のベッドに自分も一緒に寝そべる時に、その本を床に降ろすという仕事が一つ増えてしまった。
 初めはこの部屋に本なんか置いたら湿気でページがふにゃふにゃにならないか、と思ったのだが、何故か丹恒が来てからというものの、バスルームを使った後だというのに部屋はからっと乾いて、かといって乾きすぎているわけでもなく、一定の湿度に保たれているような気がする。これまで定期的に部屋の手入れをしていた少年も、理由はわからないがお掃除が少し楽になった気がします、と言っていた。この部屋の治安をカビなんかから守っていた彼が言うのだ、やはり穹の気のせいではないだろう。
 そして訂正。整理整頓があまり得意ではないと言うより、雑なところがある、と言った方が正しいかもしれない。外から戻ってきて、上着をかけておくクローゼットはそこにあるのに、丹恒はなぜかいつもソファの背にそれを適当に放っておくことが多い。皺になるかならないか絶妙な塩梅だ。彼にはそういう、適当にしても自分が困らない範囲というのがあるらしい。
 それから、迷うのが得意だ。悪い事を挙げ連ねていくより、得意と言った方が前向きに聞こえるからここではそういうことにしておく。何せ穹は丹恒のそういうどこか雑なところも、時々抜けているところも、別に嫌いではなかったから。むしろ、それを可愛いな、と思う。彼にはそれを伝えたことはなかったが。
 この島にあるものはホテルだけ。周囲は崩れた瓦礫が波に砕かれて、少し丸くなったりはしているものの、崖のようになっていたり、入り江はあるが他に建物は見当たらない。そういうわけなので、道という道も殆どないに等しいのだが、唯一このホテルの中だけは入り組んでいる。
 もともと、ホテルの中を歩き回って本を集めて居た際にも丹恒はよく迷っていたらしい。それを知らず、丹恒に物を取って来てくれと頼みごとをしたら、彼は丸一日戻ってこなかった。絶対丹恒に何かあった、と半泣きで訴えて少年にも手伝ってもらい、ホテル中を探し回っていたら、穹達の声で漸く道が分かった、とひょっこり自分から出てきた時は正直その場で安堵のあまり崩れ落ちた。ホテルの中を何故かぐるぐると歩き続けていて、丸一日、どこに出ればいいのかもわからないまま歩き続けていたらしい。
「いつもは数時間も歩けばいつの間にか知っている道に戻れていたから、迷ったことは分かったが、特に気にしていなかった。どこかに閉じ込められたわけでもなかったからな」
 と、彼は穹がそれほどまでに心配する理由がわからない、と首を傾げていたけれど。
 あげていけばきりがないのだが、まあともかく、丹恒は思ったより完璧ではない。そして今のところ、それを知っているのは今のところ自分だけだ。この島の外に、他に彼の事を知っている人がいなければ、の話にはなるが。
 穹は足元を注意深く見つめ、そこに何かないか、と求めている探し物を続ける。ひとつそれらしきものを見つけ、お、っと期待しながら拾い上げる。だが、拾い上げてみると思ったより大きい。少年は小指程の大きさと言っていた。
「これも違うかあ……」
 「最後の一本」の螺子の捜索は難航していた。
 かれこれ、毎日のように螺子を探して島を歩き回っては、隅々まで探しているのに一向に目的の物が見つからないままなのだ。見つけたと思えば、サイズが違ったり、近い形を見つけても曲がっていたり、螺子山や溝が潰れていて碌に回らなかったりと、少年が求めている螺子にぴったりと合うものではなかったりする。
 丹恒にも同じように毎日のように螺子を探してもらっているが、彼もまた穹と同じように目的の螺子以外のものであれば見つけられたが、そのぴったり合う最後の一つだけが見つけられなかった。そうやってもう何日も――何十日も、自分たちは螺子を探している。
「丹恒ー、なんかあるー?」
「ない」
「もうこうなったら海にでも潜るしか……」
「潜ったことがなかったのか?」
「海の中じゃ碌に何も見えないだろ?」
 この島に水中メガネの類はないのだ。ホテルには何でもあるように見えて、その実、こまごまとした雑品は少ない。そもそも本があること自体少し不思議な話なのだが――少年が言うには、ピノコニーは元々このホテルしかない場所だったから、そのホテルの中で現地民等、多くの人が暮らしていて――つまりは、彼らの生活の跡としていくつかの本が残っているだけらしい。彼らの持ち込んだ雑品は、大方が上層に泊まっていた所為で今はもう劣化が酷く使えないものばかりだ。既に使えるものはホテルの部屋という部屋を回り、大体穹と少年とで回収してきたから、そこになければないですね、なのである。
「……俺が行ってくる」
「え?」
「海の中ならあるかもしれないんだろう? なら一度見てみる価値はある」
「どうやって?」
「探すだけだが」
「いや……だって。水の中で碌に目なんてあけてられなくないか?」
「それは……、――いや、見せた方が早いか。少し来てくれ。ここではどの程度出来るかはわからないんだ」
「……?」
 うん、と訳も分からずに頷いて、穹は丹恒に言われるがまま彼と浜辺へ向かった。一体何をするんだろ、と思いながら丹恒を待っていると、彼は波打ち際に近づき、急にぶつぶつと何かを呟き出す。
 どこかから妙な音が聞こえてくる。何の音かわからずに、穹は音の出所を探るように周囲を見回した。だが、近くにあるのは波の音だけだ。波の――波のやたらと大きな潮騒。
「え」
 これほど海が荒れることなんて、時々降る雨の日以外になかった。ざあああ、とまるで急に水が意思を持ったかのように、丹恒の足元から水が引いていく。彼の真ん前から一直線――数十メートルほど、海が割れて道が出来た。
「? ……え?」
「やはり古海の水ではないから勝手は少し違うな。あまり長くは持たない」
 行こう、と丹恒に促される。穹はほへえー、と思わず呆けたまま、何が起きているのか――夢のような心地で、割れた海に突如出来た道を歩いた。
 普段はこんな沖合まではこない。この島に舟の類はなく、また瓦礫はあるが木は殆どないため、それらで船を造ることも難しかったのだ。
「やっぱ丹恒って何でも出来る?」
「何でも出来るわけじゃない」
「海割っといてそれは無理があるって……。えー? なんでもっと早く割らなかったんだ!?」
 横を流れる海は、まるで固めた青いゼリーのよう。釣り竿もないから魚を釣るなんてこともしてこなかった穹には、そのゼリーの中を泳ぐ魚の影は酷く新鮮なものに思えた。銀色の鱗を持つ魚は、青い海の中では白い影のように見える。平たく、大きな布のような影はなんだろうか? 小さな魚よりもずっと大きい魚がすぐ近くを泳いでいく。
 すっかり足元なんて見ずに、穹は壁面の海の方ばかり見ていた。青い視界の向こうに、きらりと何かが光る。何だあれ、と穹は一度その場で立ち止まった。
「穹?」
 どうかしたか、と少し前を歩いていた丹恒が尋ねてくる。あそこに何か、と穹が指さした方向へ丹恒も視線を向けた。
「光ってる線みたいなのがあって」
「線? 魚のようなものじゃないか?」
「そうかな」
「俺たちが今探しているのは螺子だろう。そんなに大きくない。足元をよく見ろ」
「はーい」
 丹恒の言うことももっともだ。穹はひとまず先に螺子を見つけてから、後日また海を割ってもらえば済む話だ、と足で軽く砂を掻き分け、貝殻や砂の中に螺子が混ざっていないかを確かめた。
 だが、そうやって何日かに分けて海を割ってすら、螺子はどうしても見つけられなかった。
 大きなパーツは石のように海底に沈んでいたのを見つけたが、求めている大きさの螺子だけが見つからない。一日外に出て、雨の日は諦めてホテルの地下でごろごろして、時々列車の整備をしている少年の所へ向かい、螺子はやっぱり見つからないと落胆して伝える度に、きっと見つかりますよ、と励まされる。

 それを繰り返していくうちに、あっという間に数か月が過ぎた。

「根を詰めても、何事にもタイミングというものがありますから。焦ると、却って物事の視野を狭めます。時折、欲しいものは思いがけない所に落ちているものです」
 今日は休みましょう、と少年は言った。朝の食卓でのことである。
 今日の朝は、柔らかいロールパンとバター、スクランブルエッグと切ったトマト、レタスとウインナーが数本。スープはオニオン、他にフルーツが少々。
 自分たち以外の人間をこのホテルで見たことはない。だが、この食事はなぜかいつも時間に行くと用意されている。以前は二人分だったが、丹恒が増えてからは三人分になった。食糧はこの孤島の一体どこに仕舞われているのだろう。何度か疑問に思ったが、いつの間にかそれは、解決しないまま考えることを先に放棄する羽目になる。
「ここの食事って」とふと口にした穹に、それぞれ口に頬張っていた少年と丹恒はふと手を止めて穹を見た。誰が作ってるんだろう、と尋ねかけた言葉が、ふっと何故か泡のように消えていく。ぼうっとしてしまい、穹は数秒経って、「穹?」と声をかけられ漸く我に返った。
「え? あれ。何だっけ……」
「まだ寝惚けているのか?」
「昨日もずっと螺子を探していましたからね。やっぱり疲れているんでしょうか……? 大丈夫ですか?」
「……俺も休むのは賛成だ。雨でもないが、たまには何もせずに過ごしていいだろう」
「でも、……――うん、まあ……、そっか? そうかも……?」
 二人に言いくるめられたが、自分でも休んだ方がいいかもしれない、という気になってくる。穹は、じゃあ今日はそうする、と二人に答え、食事を終えた後、本を読む丹恒の傍で時々はうとうととしながら、ソファに転がりのんびりと過ごすことにした。
 丹恒は随分触れることに慣れた。
 初めは何故くっつくんだ、と広い部屋の中でわざわざ穹が自分の傍に来ることに疑問を感じていたようだが、しばらくして慣れたのか何も言わなくなった。今も丹恒の膝を勝手に枕にしても何も言わないどころか、時々髪を指先で遊ばせさえする。もしかして、と少し試してみたくなって、穹から手を伸ばしてみると逃げもしない。ただ不思議そうに、その手のひらを見つめるだけ。
「丹恒」
「なんだ」
「キスしてみていい?」
「……、……好きにしろ」
 いいらしい。おっと、これは一体どういうことだろ、と穹は彼の真意が読めないまま、少しだけ肘を立て頭を起こした。丹恒の項を引き寄せて口付けてみる。触れただけの口付けではそのくちびるの柔らかさしかわからなかった。だが、丹恒の視線が、真っすぐに自分を見たまま、どこか戸惑うように僅かに揺れていることだけは分かった。
 何故かは理由が分からないが、無意識に彼に口付けてみたことがある。丹恒が海から落ちてきた日だ。あの時はその理由が分からなかった。人工呼吸をして意識がないなら助けなければ、と思った一方で、その前のあの一瞬は、何故か体の方が勝手に動いたような気がしたから。
 あの時、丹恒を見つけた時、なんだかずっと彼を待っていたような、そんな気がした。その瞬間まで彼が落ちて来るなんて予感すらなかったのに、彼が自分の後を【やっぱり追いかけてきた】なんて確信を、今何故か持った。知らないはずなのに、彼を知っている気がしていた。それは、会った時からずっと。
「……それで」
「ん?」
「何かわかったのか」
 もう数か月前の事をまだ覚えていたかのように丹恒が尋ねてくる。もう一度口付ければわかるかも、と言ったのは穹の方だ。だが、今触れた瞬間に分かったのは、そのくちびるの柔らかさと温度だけで、触れてみたい理由にはまだたどり着けない。「……丹恒って、俺に触りたいって思う時、ある?」と、穹はふと尋ねた。自分のこの疑問は、彼しか恐らく解決できないのだが、それが自分の思っているような形と異なる可能性は、あるのだ。尋ねた穹に、丹恒は答える。
「……今」
 目の前が陰って、屈んだ丹恒がくちびるを重ねてくる。この体勢ではキスはし辛い。くちびるが離れた後、身体を起こして穹はもう一度くちびるを重ねてみる。
 ただ夢中になって口付けた。確かな理由は今は後付けでいい、ただそうしたかったから口付けた。
 丹恒も拒まなかったし、離した傍からもう一度、と口付けてくる。くちびるがじんじんと痺れて、熱を持って、頭の奥がずんと重くなって、ふわふわとしてくる。苦しいのに気持ちがよくて、胸の奥の方から情動、とでもいうべきか、名前を付けられない何かが絶えず湧き上がってくる。それが何なのかを知りたい、と穹は丹恒に腕を回した。抱きしめ返されるのが何物にも代えがたいほど嬉しかった。
 これは、何なんだろ。



 気怠い朝。なかなか動かない泥のような体。温かさへの己の執着と、もうすこしなら大丈夫、という根拠のない自信。
 それらを数回繰り返して、穹はそういえば、最近あまり外へ螺子を探しに出ていないような、とふと思い出した。ずっと、漠然とあった使命感にとって代わって、甘い欲ばかり、心地がいいからと気付けば口に入れてしまっている。
 ぼんやりとベッドから起き上がって、穹はすでに起きていた丹恒の傍へ寄っていった。「今日は探さないのか」と彼は穹に尋ねてくる。どうせ見つからないよ、と穹は彼に答えた。
「それに、丹恒と一緒にいるの好きだし」
「……、そうか」
「丹恒は探しに行くのか?」
「ああ。もう少ししたらな」
「えー。何で?」
「……あの列車が動くところを見てみたい」
「列車が?」
 そもそも、初めは少年があの列車を直せるだなんて半信半疑だったのだ。それに、それ以外にすることもなかった。毎日を無為に過ごしているよりは、何かを探して集め回った方が退屈や孤独を紛らわすことが出来たから。でも、今は丹恒がいる。第一、列車が動いたところで一体どこへ行くと言うのだろう?
「……丹恒はさ」
「なんだ」
「あの列車が動いたらどうするんだ?」
 ふと、頭を予感が過る。ぞわぞわと、そわそわと、その予感が、聞いてしまった後どちらに転ぶか穹にはまだわからなかった。丹恒は本から、視線を尋ねて来た穹に移す。
「彼に聞いた」
「彼って……じいちゃん?」
「ああ。あれは宇宙を駆けることのできる列車らしい。なら、あれが動けばここではないどこかへ行ける」
「……どっか行くのか? 丹恒」
 ざわ、と胸が騒ぐ。丹恒はその胸中にある、理由の定まらない不安に気付いているかのように、髪を軽く撫で、「そういうお前は?」と尋ねてきた。「……何故ここに居続けなければいけないと思うんだ」
「そりゃ、……だって」
「彼がそう言ったか?」
「じいちゃんが? ……ううん」
「だろうな。お前がこの場所に【いなければいけない】なら、そもそも列車を直すことすらしなかったかもしれない。彼自身がここを出ていきたい、というよりは、……お前のためにあれを直しているように見えた」
「俺のため?」
「詳しく聞いたわけじゃない。だが、彼がもう殆ど終わっている整備をまだ毎日のように続けて、たった一つのほころびもないようにしようとしているのは、自分のためだけではないような気がしたんだ。……それで、お前は? ずっとここにいたいのか」
 一緒に来いとは言わない、とその言葉の裏にある彼の言わないままの言葉が聞こえる気がする。来てほしい、とも言わないだろう、と何となく穹には丹恒のことが分かった。彼は自分の意見で穹を縛るようなことはしたくないのだ。一緒に来てくれ、と言われたら、何でもしてやるのに、丹恒は自分が一番欲しい物を多分、きっと面と向かって言うことはないんだろう、とすら思う。
「……丹恒は、俺もこの島の外に行くべきだと思う?」
 この狭い場所には、衣食住はある。だがそれだけだ。胸が躍るような未知はないし、心が震えるような瞬間には、もう既に彼がいる。知らなかった頃には戻れない。それに、それらがなくなって、自分は耐えられるだろうか?
「そこに俺の意見は関係がない。……穹。迷いを言い訳にするな。迷う時間が長くなると、本来の考えが消えてしまう」
 黙ったままの穹に丹恒が言う。お前がどうしたいのかをただ決めればいい、と。彼の言うことはもっともだ、と思う。迷っているのは何故だろう? 何故かその問いを、以前も彼にしたような気がした。
「――俺も行く」
 どうしてだろう――漠然と、そうやって彼と共にここを旅立ったとして、ずっと共に旅をすることは出来ないのだろう、と同時に思った。ただ、それでも、自分たちの旅が外の世界にあるなら、それに触れないままここで過ごすよりずっといい。答えた穹に、丹恒は言う。
「俺が思うに、『未知』は『既知』より恐ろしいものじゃない。『未知』は多くの場合、制御したり変化させたりすることが出来るからな。……それに、お前がいつまでも思い出せない記憶を思い出す鍵が、ここにあるとは限らない」
「……うん」
「それで? 今日は探しに行くか?」
 むく、っと静かに起き上がった穹の選択を、丹恒は小さく口付けて音のない寿ぎとした。自分と同じで、他人に対してのスキンシップに経験なんてないと思っていたのに。そんなこといつのまにか自然に出来るようになっちゃってさと、穹は仕返しとばかりにくちびる軽く噛んだ。彼の所作のいくつかに、どきどきとしているのは自分だけかもしれないと思うと、また少し揶揄ってやらないと、という気持ちが強くなる。やられっぱなしは性に合わない。
 ここを出た後に彼とそのまま旅をするのなら、いくらでもその機会はあるだろう。穹はそうと決まればまた探さなきゃ、と少し諦めかけていた熱意を、今度は何となく、なんていう惰性ではなく、自分のためにもう一度胸に燈した。今度こそ見つかる気がしてくる。
 カタン、と不意に物音がした。
 丹恒にも聞こえていたのか、なんだ、と少し不思議そうな声で彼は音のした方へ視線を向けた。穹もあのへんから、と音の出所を部屋の中に探す。つい先ほどまでと、何かが違う所。
「あれ。なんか落ちてる」
 穹は立ち上がり、床に転がった丸いそれを拾い上げる。時計だった。こんなのあったっけ、と不思議に思いながらひっくり返す。壊れているのか、針の部分がそっくりそのままなくなって、文字盤だけが残っていた。何時かわからない、機能しない時計だ。……そもそも、この場所に時計なんて元からあったっけ?
「……あれ」
 ころん、と何かが手のひらに転がってくる。穹は時計を除け、手のひらに転がってきたそれをまじまじと見た。冷たい――金属だ。棒状で、頭が少し出っ張っていて、らせん状に筋が入っている――螺子。
「――小指!」
「は?」
「出てきた!? えっ、こんなとこに今まであったのか?」
「おい、小指が出てきたのか」
「猟奇殺人現場でも任侠物でもないから安心してくれ。小指じゃなくて、螺子!」
「螺子?」
「あった! この大きさかも!」
 じいちゃんとこ行ってくる! と穹は驚きと喜びと興奮で、まるで風のようにホテルを駆けた。恐らく生きてきた中で一番早く走った。だが丹恒はその穹より早く追いついてきて、いつの間にか並走している。
「螺子が見つかったのか?」
「なんか急に出てきた。時計の部品なのかな? でもあの時計、針がない以外は壊れたとこなんて見当たらなかったんだけど」
「時計に使われていた部品が、列車の整備に耐えられものか?」
「結構しっかりしてるぜ? 錆びてもないし。螺子山だってのこってるし、まがってもない。大丈夫じゃないかな」
 穹は丹恒と共に、少年がいる入り江へ走った。じーちゃーん! と叫びながら列車の傍に寄って、穹の声で列車の下からずる、っと出てくる少年を待つ。彼はどうかしたんですか、と鼻先に黒い汚れを付けたまま、きょとんとして久しぶりにやってきた穹を見上げた。その目の前に、ずい、っと穹は持ってきた螺子を差し出す。
「螺子! あった!」
「……――! わあ、多分大きさはぴったりです。ちょっと待ってください、すぐにつけますね!」
 少年はそういうと、喜び勇んで立ち上がり、列車のドアを開き、先頭車両の中に入っていった。いつもよく潜っている列車の底部ではなく、どうやら螺子が必要だったのは中らしい。あまり入ったことがなかった穹は、興味本位で彼の後を追い中に入った。
 なんだか懐かしい匂いがする。なんでだろ、とそう感じた理由もわからないまま、穹は少年が運転席の基盤へ向かっていくのを眺めた。気になったのか、後から丹恒も中に入ってくる。
「いけそうか?」
「はい~。サイズはぴったりで――……長さも問題ありません! これで最後の螺子が締め終わりました!」
 ふう、と彼はそう言って、基盤の端を軽く手のひらで撫でた。足りなかった螺子ってここ? と少し拍子抜けして、穹は基盤の端っこを止めている螺子を指さす。そうですよ、と少年は頷いた。
「無くても問題がないように見えますが、宇宙では何が起こるかわかりませんから。もしかすると、小型の寄生生物が螺子に化けて列車に潜り込むかもしれません。そういう危険から未然に事故を防ぐためにも、元からある螺子をすべて締めておくのはとっても大事な事なんですよ」
「まるで外で実際に体験したような言い方だな……」
「こほん! ……とにかく――これで、列車の方はいつでも動かせます。ただ……」
「あ。『客室車両』!」
 螺子を探すのに夢中で、その事をすっかり忘れてしまっていた。そもそも、この列車を見つけたのだってどこだったかよく覚えていないのだ。あの場所の近くであればすぐに見つけられたかもしれないのに。もうちょっと時間が掛かりそうだな、とため息を吐いたところで、ふと、丹恒が何かを考えるような表情で居るのに気付く。彼はふと、穹に尋ねてきた。
「穹」
「ん? 何」
「以前……四角い岩礁があると話をしてくれただろう。お前、あの岩礁の近くまで行ったことは?」
「え? ない。だって海の上だぞ? 泳いで行ける自信ないし……」
「わかった。行ってみよう」
「なんで?」
 もしかして、今更あの四角すぎる岩礁に興味でも湧いたのか? 一緒にいると癖や趣向が似てくる、なんて話は聞くけれど、もしかして丹恒もそうだったのだろうか。なんとなく、ちょっと似ないでほしい所が似た気がする。
「丹恒はそのままでいてくれていいんだぞ……?」
「お前が何を考えているか手に取るようにわかるが、そうじゃない。……お前はあれが岩礁だと言ったが、遠くから見ただけでは判断出来ないこともあるだろう」
「……? ほーん?」
「……わかってないなら見た方が早い。――あなたも来てくれるか?」
 丹恒は少年に問う。ええもちろん、と彼は二つ返事で頷いた。
 すぐに入り江から三人で崖の下に向かい、海岸線に浮かぶ四角い岩礁の近くまで向かう。丹恒は足元の水深をおおよそ目測で図ると、もう一つの姿の方が力を発揮できると踏んだのか、特にためらいもなく海を割った。それほどぱかぱかと何度も割られては感動も薄れていく。だが、少年は初めてそれを見たのだった。えっ、と突然割れた海に驚愕し、何故かさあっと顔を青ざめさせていく。
「ど、どどどどどどうしましょう!? 何かよくないものの封印でも解けてしまったんでしょうか!?」
「別にそういった類の物じゃない。……あなたもそんな冗談を言うんだな?」
「ぼ――……冒険ものの物語は昔沢山読んでいまして……その……。そういうんじゃないんならいいんです……」
 少し慌ててしまった自分が恥ずかしい、とでも言いたげな表情で少年ははっと我に返ってそういう。岸辺から水が引いてしまった海底までは少し段差があるが、飛び降りられないほどではなかった。だが飛び降りようとする穹を捕まえるように、先に丹恒が少年もついでに抱えてふわりと海底へ飛び降りていく。
 距離があるため、海底に出来た道はいつもより少し狭かった。四角い岩礁に向かって歩き出そうとするが、砂の道の上に、ふと穹は違和感を感じる。なんだか硬すぎるのだ。なんかある? と穹は靴底でまず砂の表面を擦った。砂の下から何かが浮き上がってくる。
「……なんだこれ」
「穹? どうかしたか」
「なんか、底の方に金属っぽいのが」
 あって、と答えながら、穹は砂を靴底で続けて除けていく。金属部分の全貌が見えず、穹はずりずりと靴底に圧をかけたままその金属の上を滑った。除けても除けてもまだ金属部分が砂の下から出てくる。
「……――、一旦やめておけ。恐らくあれだ」
「あれ?」
 丹恒はそう言って、ずっと向こうの方を指さした。四角い岩礁の真下から、ずっと二列の銀の線が引かれているのが見える。恐らくは、この足元にあるものと同じものだ。それがずっと向こうまで続いている。
 砂の道は、緩やかな坂になっている。そのうち、砂からまた別のものが浮き上がってきた。砂の中から、木の板が出てくる。四角い岩礁に近づいていくにつれ、それらは少しずつ輪郭を取り戻すように浮き彫りになっていき、そして、四角い岩礁だったものが、本来は何だったのかも見えるようになった。……あれは。
「……岩じゃない」
 黒く四角い車両に、いくつかの窓が付いている。緑や赤、黄色、白、極彩色がちらついている。海水が近いから植物は育たないはずなのに、そこから一切海水が入り込むことなく育っていたのだろうか? あれは――花だ。
 漸く車両の傍までやってきた。車両の接続部に扉がひとつある。鍵がかかっていれば開けないが、まるで三人をここで待っていたかのように、車両の扉が勝手に開いた。先に丹恒が中の車両へよじ登り、中から穹を引き上げてくれる。最後は二人で少年を引き上げた。
「わあ……」
 少年が車両の中を視界に入れた途端、そう思わず感嘆のため息を零す。
 どうしてか、懐かしさを感じる場所だった。
 中に設置された赤いソファーは、経年劣化か、ところどころ痛んで破けており、それを苗床にして花が咲いていた。椅子だけではなく、この空間の内側いっぱいに、びっしりと蔦が這い、壁にも天井にも床にも、柔らかな緑と、極彩色の花が色付いている。さく、と歩くたびに足元から音がした。床は柔らかな若草で覆われ、寝転がっても心地よさそうだ。穹は、ぐるりとその場で回りつつ、周囲を見回した。ここに似ている場所を知っている。だが、一体どこでそれを知ったのだろう?
 かつてあった生活がそのまま急に置き去りにされたところに、今なお花だけが芽吹いているような、退廃的で美しい光景だった。テーブルの上に置き去りにされたままのカップ。椅子の上に咲く見たことのない花。丹恒はどうだろう? この場所に見覚えはあるだろうか?
「……――穹」
「ん?」
「穹?」
「なに?」
 ふと視線を向けた丹恒は、何故か――かなり驚いているように見えた。まるで確かめるかのように何度か穹の名前を呼んでくる。なんだ、と尋ねた穹に、彼は何かを言い掛け、だが一旦は言葉を飲み込んだ。何を言えばいいのか、言葉を頭の中でこね回しているようにも見えた。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
「いや、……――俺がここに来てどの程度経った」
「え? えー……っと。数か月……半年は経ってない気がする? 多分……」
「ここで数か月、……一年で四日、なら二日は経ってない、か?」
「何の計算?」
「それは、」
「丹恒さん」
 丹恒が何かを言いかけたが、それを遮るように少年が強く声を上げる。ぶんぶんとなぜか少年は丹恒に対して首を振る。丹恒がそれに眉を顰めた。
「何故だ」
「その……駄目なんです! 気付かせようとすると、ボクたちが先に【追い出され】ちゃいます。だからダメです。列車を動かすまでは、ダメなんです。それに、彼が自分で思い出さなきゃ、きっとここから覚めません」
「え? 誰に追い出されるんだ? じいちゃん?」
 何の話、と穹は二人の会話の意味がわからずに首を傾げる。丹恒は彼の話を聞いて、少し考えるように黙り込む。わかった、と少年に頷いた。
「穹、なんでもない。今はまだ気にするな。――客室車両も見つかった。これで動かせるな?」
 少年に確認するように丹恒が尋ねる。少年はもちろん、と頷いた。今のやり取りが何なのか気になるが、どうやら列車は動くし、客室車両も無事だったらしい。ということは。
「旅に出られる?」
「ああ。――このままいこう」
「おう! このまま……えっ? このまま? なんで?」
 準備とかは、と穹は驚いて丹恒に尋ね返す。彼は冗談のつもりでいったわけではないらしい。驚く穹に、「俺はあそこから持っていくものが何ひとつない」と答える。「……お前は何かあるのか?」
 大事なものや、絶対に持っていきたいものがあるのか、と尋ねられると、そこまで思い入れのあるものがあの場所にあるわけではなかった。確かにしばらく少年と、そして丹恒と過ごした場所である。だが、思い出はこのまま身一つで飛び出しても持って行けるものだ。ないかも、と首を傾げながら答えると、なら問題はないな、と丹恒は頷いた。
「俺が水を操ってこの車両を後ろから押して、先頭車両の方まで線路の上を動かす」
「あの入り江の海底にもレールがあります。波が引いた時に見たので。向こうへのレールの切り替えはボクが」
「わかった」
「俺は? 何かすることある?」
「ああ。動いている間は危ないから座っていてくれ」
「わかった! 座ってればいいんだな!」
 丹恒に言われるまま、穹は花に埋もれた座席に腰掛ける。ふわ、っと甘い香りが傍から漂ってくる。これも前に、どこかで嗅いだことがあるような気がする。優しくてなんだか落ち着く香りだ。どの花から香ってくるんだろう。

 ――よし、早くどっかに座れ。くれぐれも――ちゃんみたいに車内を走り回るんじゃないぞ。

「…………、――」
 どこからか声が聞こえた気がした。きょろきょろと周囲を見回すが、少年と丹恒が二人で何かを話しているだけだ。誰だ、とその声をもう一度探すが見当たらない。丹恒はこんな風に言わなかったし、と穹は不思議に思いながら椅子の背凭れに身体を預ける。

 ――目も閉じておいた方がいい。そうすると、眩暈が軽減される。

 まただ。少し低い誰かの声。おそれることは何もなく、ただ身を委ねているだけでいいと安心させるような言葉だった。目を閉じる、目を閉じる、と穹はその声に言われた通り、静かに目を閉じていく。

 ――転ばない、転ばない、転ばない。

 目の前で未だ立ったまま、誰かがそう自分に向けて語り掛けるように呟いているのが目を閉じていてもわかった。けれど、開くと誰もいなくなる。そこにいたはずの誰かを探して、穹はまた車両の中を見回した。彼女が身に着けていた小物によくついていた花と同じ色の花が椅子の上に緑と共に咲いている。
「なの、……お前もそろそろ座らないと――」
 そう口走って、穹は自分が誰にそう言ったのか一瞬わからず、すぐに口ごもった。……あれ?
「……――、」
 目に入ったのは手前のテーブルに誰かが置いていったままのカップだった。これを使っていた人に一人覚えがある。想像しただけで舌の奥が苦く痺れるようだった。丹恒でも眉を顰めながらじゃないと飲めない姫子のコーヒー。……姫子?
「――、……」
 ぽこぽことまるで水底から気泡が浮かび上がるように、何かが浮かんでくる。それまでずっと、酷く大事なものを奪われていたような気分だった。少しずつ、それが戻ってきて、漸くずっとあったもどかしさが少し薄れた気がした。大事な事なのにどうして忘れてしまっていたんだろう? 大事にするあまり、何もかもから護ろうとして一番遠い所に追いやってしまったんだろうか? これは自分の見ている夢では――ううん、これも自分が見ている夢だ。だって、また自分は何も持たずにこれから旅に出ようとしている。
 それを悲観したことはないが――いや、そもそも悲観する前に新しく道が出来てしまったから、それを悲観する間もなかったのだが、自分には「何もなかった」。強いて言うなら、体の中に使い方のわからない毒だけがあった。だが自分は正確には毒そのものではなく、それを入れる「容器の方」だった。だからそれ以外の「何か」であったという記憶はないのが当然だし、すべてを忘れる、という言葉だけをあの人から貰ったから、そういうものなのだと受け入れていた。
 もし――あの時列車が目の前に止まっていなかったら。彼が、彼女が、自分をあそこで見つけていなければ、この旅は始まらなかった。それがこれからの自分の旅の始まりだということも知らずに、初めて目にしたのは「彼」だった。
 この旅がただの星間旅行などではなく、「開拓」の旅であると教えてくれたのも彼だった。既に自分が何者であるか名前を付けてしまった者は、名前すらわからない未知に己のすべてを賭けて飛び込めない。名前がない自分だから、鍬にもなれるし、槍にもなれるし、打者にもなれるし、レールにも、それから、恐らくは誰かにとっての、初めての親友にだってなれる。
 丹恒はそれがどんなに自分にとって大事な事なのかきっと知らないだろうけれど、自分に初めて出来た友達は二人で、そしてその友達は同時に家族になって、彼らが共にいた者たちと一緒に、自分の大切な人たち、という椅子に座った。そして自分もまた彼らの中に用意されていたそれぞれの椅子に腰かけた。
 自分が初めて受け取った居場所だったから、彼らが自分を護ってくれるように、自分も彼等を護りたかった。自分には何も出来ないこと、どうにもできない事を前にしたって、簡単にあきらめたくなかった。藻掻いて、藻掻いて、ひとつでもいい、輝くものを代わりに見つけてやりたかった。
 嫌だった。本当は嫌だったのだ――そういうものなんだから、とそんな時ばかり物分かりのいいふりをして、自分の事を俯瞰で見て、受け入れるしかないからそうしているけれど、簡単に、はいそうですかと頷いて、だってしょうがないもんな、それが当然の事なんだからと納得させるのが。嫌だった。わかるけれど。受け入れるしかないことも、分かっているけれど。
 夢の中だけでもずっと旅をしていたかった。一緒にいたかった。自分も彼と一緒だった。この旅が続く限り、どれだけだって前に進んでいけると思っていたかった。だって、始めたばかりの旅がいつか終わるなんて、今はまだ考えたくなかった。まだ詰め込める。いくらだって持って行ける。だのに、そのずっとが「続かない」なんて、わかっていた答えを【先に】出すなよ、と本当は彼に詰め寄りたかった。

 ずっと一緒にいる、という約束は彼とは出来ない。
 でも、今一緒にいる、という約束は出来る。

「……――丹恒」
 穹の声に、丹恒は話していた少年からこちらへ視線を向けてくる。どうかしたか、と続く言葉はなかった。不思議だが、まあ聡い丹恒の事だ、気付いたのかもしれない、と穹は思った。また先に思い出したのは丹恒の方だった。いつも彼は自分が自然に起き出すまでそのまま寝かせておいてくれる。
 ごめんとありがとうと、それから言いたいことがいくらでも頭の中に浮かんできた。それを全部言葉にするのは難しくて、穹は立ち上がって、ただ彼を抱きしめにいく。急に抱き付かれたから、丹恒もびく、っと少し硬くしていたけれど、「戻るぞ」と穹が言うと、彼はふ、っと体からその空気を抜くように、静かに息を吐いた。
「……やっと起きたか」
「ねぼすけさんですみませんね」
「いい。気にするな。……それより、急がないと。もはやこの後ここで何が起きるか、俺には何一つわからない。ブラックスワンもいないからな」
「合点承知! じゃあまず列車を連結しよう。……ついでに変形してロボットに出来たりしないかな」
「するな」
 というかここもやはりお前の見ている夢なのか、と丹恒は尋ねてくる。そうっぽい、と穹はまるで他人事のように答えた。頭の中でイメージする。入り江にある列車の先頭車両が、この車両の前に着くところを。ガコン、とその瞬間、車両が縦にかくんと揺れた。なんだ、とその揺れに咄嗟に身構える丹恒に、平気平気、と穹は答える。
「今【くっつけた】。いつでも出れる」
「は?」
「先頭車両を。ホッホッホ、丹恒くん、今の俺はこの夢のヌシだぜ。夢の中に溺れてるばっかりじゃなくて、起きてそれを思い出したんだ、これくらい朝飯前よ」
 褒めてくれ、と顔に書いたが、丹恒はこんなことでは簡単に褒めてくれないのは分かっている。彼はいつもの調子に戻ったな、と穹の言葉にもあまり驚かずに、少年を――ミーシャを振り返った。いや、ミハエルと呼んだ方がいいのだろうか? 結局、好きに呼んでいい、と言われた手前、選ぶのは自分なのだけれど。
「【ミーシャ】、 列車の運転ってさ、俺が動けーって念じたらいける?」
「へ? ……あっ、……は、はい! ここは――【あなたの夢の中】ですから!」
「おっし。じゃあやってみる。あー、でも前が見えないと分かり辛いしうんうん唸っててもドリフトとか難しいかな? あ、そうだ」
 穹はポケットの中にいつも閉まっているはずの端末を取り出した。さっきまでなかったのに、思い描けば自由自在だ。まあ今のところは、だが。穹は画面にならんだアイコンから、愛する車掌のアイコンのアプリを立ち上げる。ぱっと、その瞬間に外の様子が端末の中に映し出された。操作は親指二本。左親指で進む。右親指に加速と減速、それからブレーキ。シンプルな設計だ。
「さすがに後退のボタンないな。本当に進むだけでいいのか? あ、傾き効く」
 端末を傾けた瞬間、足元に傾斜が付く。自分も丹恒もミーシャも、その瞬間にぐらりと傾いて、その場でたたらを踏んだ。丹恒が咄嗟に槍の柄を床につっぱって、転びかけた穹の腕を掴んでくる。ミーシャはよろけながら、丁度座席にすとんと落ち着いた。
「……おい」
「ごめんごめん。試運転だって。――よし、行けるな! ミーシャも乗ってるし。ん~……じゃあ、このまま上まで突っ切ろう」
「突っ切る、ですか?」
 きょとん、とミーシャが目を丸くする。丹恒は途端に、嫌な予感がする、とばかりに表情を曇らせた。じゃあとりあえず座ってくれ、と穹は不思議な表情を浮かべるミーシャをそのまま座っておくように手を上下させ指示したあと、自分と一緒に丹恒を座席に着かせた。それから、んんっ、あーあー、と声をチューニングするように何度か咽喉を鳴らす。
「ア~アア~――各乗客は注意せよ、各乗客は注意せよ。まもなく跳躍を行う。各員、列車のラウンジに集合するように! まもなく跳躍が始まる!」
 はあ、と頭を抱えるように丹恒がその声真似にため息を吐く。なんだよ、そこそこ似てるだろ、と穹は彼を肘で小突いた。そうじゃない、と丹恒は緩く首を振る。
「何をしようとしているのかわかった」
「ふふん。いつも部屋に引っ込んでるからラウンジで跳躍は久々だろ」
 それまでゆっくりと真っすぐにただレールをゆっくりとなぞる様に走っていた車両が、途端加速度を増す。窓の星が流れだした。
「五――四――三――ニ――……一!」
 我ながら完璧にパムのアナウンスを真似し終えた、と穹は思う。その瞬間、真っすぐに流れていたはずの星が斜めになり、そのまま体がずる、っと滑り落ちた。横にいた丹恒が支えてくれたので、座席からそのまま落ちていかずに済む。ミーシャも反対側の座席の端で振り落とされないようにしがみ付いている。列車の操作をしながら、穹はそのレールを海から少し上向けた。まだ「突っ切る」には、高さが足りない。このまま徐々に高度とスピードを上げて宙に飛び上がるのもいいが、画面の中を見る限り先ほどまで凪いでいたはずの海が急に荒れ始めていた。また邪魔をされるのはどうにも癪だ。
「丹恒。効率よく高度を上げたいんだけどどうしたらいい?」
「……まず速度を上げろ。それから、そのままのスピードでカーブ状にレールを登る」
「カーブ状……あ。ジャンプ台?」
「スピードをそのまま高度に変えられる。角度が付けば、あとはそのまま真っすぐ突っ切ればいい」
「オッケー。まずスピードな」
 指先でぐっと加速のボタンを押し続ける。窓の外がすごい勢いで流れていく。その瞬間――バン! とけたたましく物音が響いて、咄嗟に庇うように丹恒の腕が目の前に伸びてきた。それまで感じなかった風が車両の中を強く撫でていく。ばっ、とその瞬間に車両の中を満たしていた花々が、一斉に粉のように舞い上がり、むせ返るような芳香と共に、目の前が極彩色に染まった。おい、と飛んできたガラス片を除けながら丹恒が言う。
「いくらなんでも無茶をし過ぎだ」
「お……おかしいな~。もっとちゃんと綺麗に加速出来るはずだったんだけど?」
 その瞬間、メリメリと音がして、バキン! とまた大きく何かが割れたような音がした。その音に驚いて思わず身をすくめる。ひゅうひゅうと吹き込む風が大きくなったな、とおずおずと反射的に閉じてしまっていた瞼を開くと――屋根の一部が吹き飛んでいた。
「ボロボロなのに直す前に乗るから!」
「もう少し強固な作りだと先に念じておけばよかったな」
「今からこれ、屋根元通りに戻ったりしない? 俺たちこのままじゃおっこちないかな」
「…………」
「何とか言ってくれ丹恒ー!」
 操作をしながらも彼に言われた通り列車のスピードは上がり続けていく。吹き込む風の所為で、ずっと花吹雪が宙を舞っている。両手で端末を握ったままだったから、穹が滑り落ちて行かないように、丹恒はぎゅっと抱きしめるように体を支えてくれる。「そろそろカーブ状にレールを」と丹恒は頭上を見ながら穹に言った。「……宙まで届かなくてもいい。何とかする」
「どうやって!」
「なんとかなる」
 根拠のない自信なんてこんな時に信じそうもないのに、彼はなぜか迷いもなくそう頷く。何もわからなかったが、彼の事は信じられた。わかった、と頷いて、穹は彼に言われた通り宙に向かって梯子を掛ける。
 体が傾いて、ふわりと浮遊感包まれる。足先が浮いて、ぐっと丹恒の方へ体重をかけるしかなくなる。もはや指先を画面の同じ位置で固定したまま、穹は自分たちが昇っていくその金色の梯子を見上げることしか出来なかった。蒼穹にかかるその梯子の先が不意に途切れている――ように見える。ぎゅ、っと肩を掴んできた丹恒が、いつの間にか手に何かを握っている。梯子が途切れた先に列車が昇り詰める。――彼は掛けた梯子の先に向かって、それを放り投げた。
 蒼穹の中に一点、夜を打ち込んだように濃紺が混ざる。その小さな窓を押し広げるように、数本の腕がそれを押し広げていく。梯子が途切れても、そのままの勢いで宙へ向かう列車は、そうやって無理矢理に押し広げられた空の穴の中へ――星々が瞬く星海へ、真っすぐに飛び込んでいった。

「――……おはよう、ねぼすけさん」

 輪の中を通ったその一瞬、耳元で誰かの声がした気がする。後ろを振り返ろうとしたが、その瞬間に端末が手から離れ、同時に身体も列車の座席から浮いてしまったから、その声が自分が知っている彼女の物だとすぐに確かめることが出来なかった。
 すべての音がその瞬間に途切れて、目の前が弾けていく。穹は丹恒にしがみ付きながら、すべてが散る花弁のようにもろく、――夢のような美しさで、はらはらと花と変わって、夢から覚めることを喜ぶように吹き荒れるその乾いた嵐の中、崩れていく車両から二人飛び出した。
 どぷんっ、と頭の奥で水音がする。――その瞬間、まるで水面に顔を上げたように、それまで無意識のうちに身体に纏わりついていた重苦しさがなくなった。
「………、……――!」
 今度は昇っていくのではなく――落ちている。
 朝焼けのような空の下に、煌めく都市が広がっている。初めてピノコニーの夢境に入った時も、こんな風に空の遥か上から街を見下ろし、そのまま都市の光の中に落ちて行った。だが、今はさらにその時よりも高い場所から落ちている。
 少し顔を上げると、丹恒も自分たちが今真っ逆さまに落ちて行こうとするその光をじっと見つめていた。お前は初めて見たかもしれないけれど、俺は二度目なんだと、何故か穹はその眸を見て言えなかった。
 あの瞬間は何が起きたかわかっていなかったし、こんな風に見えているものの美しさをただ胸に留めている時間もなかったような気がする。本当は、最初からこんな風に、お前と同じものを見てみたかった。このままいけば、二人とも地面に打ち付けられるように不時着してしまう。パラシュートのないスカイダイビングだ。だが、今の夢境は決して安全とは言えない。まだ景色を見つめている丹恒に、どうしようか、どこに落ちたい、なんて聞くのは野暮だろうか?

 ――思い出してみて。こうなる前、初めにあなたが見た夢はなんだったのか。

 朧げに、今出てきたばかりの夢の【前】に、自分が見ていた夢で彼女が言っていたことを思い出した。あれ、と穹は、自分が今どの夢の中にいるのか分からずに、頭の中で自分が何度目覚めなければいけないのかを思い出そうとする。それから、しばらくも経たないうちに、漸く一つの答えに行きついた。もしかすると、これは丹恒も気付いていないかもしれない。
 自分たちは、最初の目的通り、夢で二人、長い旅をしていた(まだ夢の泡の中にいた)。
 ただ意識だけを移すはずの夢の泡の中で、自分はあの夢の続きを夢見ていたのだ。普通の夢境とは違う、この場合は夢から覚めても、自分は今までのすべてを覚えてるんだろうか? 覚えているかはわからないけれどね、と彼女が言ったのはつまりそういうことなのだろう。
 どんなに一緒にいたくても、いようとしても、いつかはその夢から覚めてしまう。すべての物は通り過ぎていく。仕方がないのだ。誰も、どうしようもない。だから、彼と夢で過ごしたすべてのことを忘れてしまっても、それはそれで仕方がないことなのだ。
 長い旅をしてみてわかった。その時のことは、自分はきっと、その時まで考えられないな、と穹は思う。だって、どんなに考えても、自分は、いざその局面に向かう時、その事が悲しくてたまらなくて、何をしたって、してやりたくたって、どうしたってその時になれば何か足りなくなる気がするのだ。この夢がずっと続くなら、そんな風に、いつかのさよならの練習はしなくていいのかもしれない。でも、今はまだ、起きたまま二人で夢(未知)を見たいから、そろそろここから出て行かなくちゃ。
「丹恒」
 名前を呼んだから、丹恒はすぐに真下の光から穹へと視線を移した。これで夢も終わりだから、まあ最後に一度くらいは許されるんじゃないか? 穹は丹恒の襟ぐりを掴んで、彼を引き寄せる。
 目前に迫った眸の奥に自分がいる。その自分がどう見ても、恋に落ちたような顔をしていたので、穹は思わず丹恒の目を手のひらで覆ってしまった。なにを、と彼が尋ね切る前に短く口付ける。
 起きたらまたいつもの丹恒と会えるけれど、多分、あの時間を過ごした彼とはもう逢えないし、彼もまた、あの時間を過ごした自分とは逢えないんだな、とその時予感がした。不思議と、自分たちはただの一度も、互いに向けて、軽口以外では言わなかった気がした。確かに心からそう思っていたのに、ただの一度も相手に伝わるように、面と向かって告げたことはなかった。そう思っていなかったわけじゃないのに、何故だろう? 確かめてはいないけれど、多分確かにあった、好きも恋もあいも、この夢の中に置いていかなければいけないことを、あの時知っていたわけでもないのに。
 たとえ目覚めてすべてを忘れてしまっても、思い出す――というよりは、多分、いつか互いにもう一度、気付くかもしれない。どうして互いに触れたのか、くちづけたのか、深いところまで繋がったのか。夢に落ちて行くのと同時に、自分たちがどこに落ちていたのか。そして、それに気付いたその時はきっと、夢で言えなかったことも、ちゃんと互いに言える気がした。

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