ふたり分



春先は、日暮れが早い。
夕方の六時に戻ると部屋に明かりがついている。
譲介は、そろそろほとぼりが醒めた頃なのでと言って、今朝になってTETSUの家にあるパンと卵をさらえてから意気揚々とこの部屋を出ていった。そのはずだ。
嫌な予感を胸に階段を昇り、部屋の鍵を開けると、いつものソファには毛並みのいい猫が寝転がっていた。
家に帰ったんじゃなかったのか。
妙にホッとしたような気分が腹立たしい気持ちを上回っていて、自分で自分が嫌になりそうだった。
「TETSUさん、おかえりなさい。」
譲介は読んでいた本を開いたページをそのままに胸に乗せ、こちらに微笑みかける。
「おかえり、じゃねえだろ。」
「鍵、郵便受けに入れておくの忘れちゃったので。」と言いながら、譲介はこちらに向けてひらひらと手を振った。
マンション前と実家の前を週刊誌の人間が占拠しているので、どっちに戻るのも面倒になっちゃいました、と言ってこいつが転がり込んで来てから早二週間。女に振られたから慰めてください、というくらいの殊勝さがあればまた別だが、譲介は、こうしてTETSUの家に泊まっていてなお、どこかで女をとっかえひっかえしている形跡がある。
TETSUは安全靴に近いブーツをさっと脱いで部屋の中を大股で横断し、我が物顔でソファを占拠する家猫の顔を仁王立ちで見降ろす。
「あ、明日のパンと牛乳、卵も買ってきました。今朝僕がパンと卵を食べちゃったから、明日の朝ごはんに何もないだろうと思って。」
しれっとした顔で譲介は言った。
指さしたキッチンテーブルには、譲介が言う通り、見慣れたパン屋の袋と近所の中華料理屋のテイクアウトの白いケースが置いてあった。
中身は、いつもの食パン一斤と、あの大きさなら、カニ炒飯に五目焼きそばか。
牛乳と卵はもう冷蔵庫の中だろう。
このところのTETSUの帰宅は、本業の仕事が入った時期ほど不安定ではないが、今のバイトのシフトは始まりが遅ければ終わりも遅く、朝飯用にと買って来るいつものパン屋がすっかり仕舞っている時間にしか戻れない。譲介がこの部屋にいるのをこれ幸いと、このところはずっと買い出しを頼んでいたのだが、やっと家に戻ると言い出した日に、まさかパンを買ってから戻れとは言い辛い。そう思って柄にもない遠慮などをしてみたのだが、まさかこう来るとは。
「その本、読み終わったら帰れよ。」
そう言って釘を差すと、年々面の皮が厚くなって来た子どもは「ビールと夕食は買って来たので、今日も泊めてください。」と、元はTETSUのものだったソファに寝転がって、にこにこと笑っている。
次はいつ出てくつもりだ、と思ったが、そう言ったところで、どうせ聞きはしないのだろう。
そもそも、こいつを甘やかしたのはTETSUが先だ。
一分でも長く寝ていたいはずの朝にわざわざ卵を焼くのは、この育ち盛りのガキが家にいるからだった。
カレーに使って余ったジャガイモを入れたスパニッシュオムレツは、繰り返し朝飯にしているうちに、いつもの安いマーガリンがなくなってしまい、お高い国産のバターで作るようになった。塩を掛けて食うTETSUとケチャップがいいという譲介で、ひとつのオムレツを半分に割って食べる。
譲介がいなくなれば、それもただの目玉焼きになり、卵がなくなればそれっきり、いつものジャムトーストと牛乳の味気ない朝飯に戻るだけだ。
ここらが潮時か。
夜に稽古の相手がいるのはいいが、たまには一人の時間もないと、こっちがキツい。
TETSUは狭苦しい玄関の横に戻り、ブーツも安全靴も入らない、小さな作り付けのシューズボックスの中を覗き込んだ。
ここで暮らし始めた時に置いた場所に、目当てのものはちゃんとあった。
古びたキーホルダーがついたソレを、TETSUは取り上げる。
「譲介、明日は戻れ。」
こちらを見て眉をひそめた譲介の顔の前に、持ってろ、とスペアキーをぶら下げると、譲介はぱっとソファから起き上がってそれをひったくった。
これまでの人生で猫を飼ったことは一度としてないが、今のは猫じゃらしを前にした猫にそっくりだった。
一度手にしたそれを手放す気はないくせに、それでも、いいんですか、と言う顔で譲介はこちらを見ている。
「おめぇにやるよ。」
そう口にした瞬間、譲介の顔には、花火のような明るさが顔に浮かんだが、両手で受け取った鍵をじっと見つめた後で、今の表情が幻だったのかと思うほどに険のある顔でこちらを睨みつけてきた。
「TETSUさんって、もしかして誰にでもこういうことしてるんですか?」
「はあ? 人を節操なしみてえに言うじゃねえか、この下半身馬鹿が。」と言って、TETSUは譲介に拳骨を落とす。手加減はしたつもりだが、譲介は大袈裟に痛がった。
「だって……なんでキティちゃん……。」
「しょうがねえだろ。」
キャラクターものの小さな人形が付いたキーホルダーを見つけたのは、かれこれ十数年前のことだ。母親が亡くなって長く放置していた自宅の整理をしていて、どこかから出て来たのだった。親戚の子どもにあげるつもりだったのか、自分で使うつもりだったのか。
オレの昔の女が置いて行ったのだと思えば、譲介はまた不貞腐れた顔をするに違いないが、誤解をそのままにしておいても構わないような気がした。
「……気に入らねえなら適当に付け替えろ。」
「TETSUさんと同じのがいいです。」
「おめぇなあ。ここには隠れに来てんだろうが。わざわざ周りにバラすような真似してどうするんだ。」
うー、と聞き分けの無い小学生のように唸っている譲介の前で、TETSUの腹がぐう、と鳴った。
肉体労働の後だということを、すっかり忘れていた。
はあ、と大きなため息を吐いて、いいからメシ食うぞ、とTETSUが言うと、譲介はポケットに鍵を仕舞った。
「今日のは何だ。」とTETSUが尋ねると、「カニ炒飯と中華飯です。」と言って、譲介はケトルで湯を沸かしている。いつもの中華のテイクアウトに付いてくる、粉末のスープを溶かすつもりだろう。
「肉はねぇのかよ。」
「カレーのための豚コマが冷蔵庫の中ですけど。」
戸棚からスープカップを取り出しながら譲介はそう言って、しまった、という顔でちらりとTETSUを見た。
「……帰る気あんのか?」
「ありますよ、ありますけど。」
TETSUさんのうちの方が居心地がいいんです、と譲介は困ったように笑っている。
親元を出て、人も羨む億ションに住んでるくせに、仕様がねえやつだ。
まあ、今日のところは炒飯で買収されといてやるか。
TETSUは、譲介が買って来たふたり分のテイクアウトの容器を電子レンジに入れ、「おい、譲介、これ何分だ?」と年下の居候に聞いた。

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