雨の朝
雨の音が聞こえる。まるで、何かを執拗に責め立てているような、そんな激しい雨音が。
フリーナは重い瞼を開く。彼女の左右で色合いの違うつぶらな瞳に映るのは、普段と何ら変わらない自室の光景。もぞもぞと寝台から抜け出て、窓の側に立つ。カーテンをそっと開けてみると、強い雨に濡れるフォンテーヌ廷の街並みがフリーナの目に飛び込んでくる。
「……」
こんな雨は久し振りだ。彼が何かに嘆き悲しんでいるのだろうか。フリーナは少しずつ鼓動を早める左胸に手を押し当てる。深い息を吐き出して、その目を伏せた。
彼のことを考え出すと、決まって心が大きく掻き乱される。「彼」とは、この国の最高審判官であり、水元素の龍王であり、そして――フリーナにとって何よりも特別に想えてならない存在――ヌヴィレットのことだ。
五百年にも及ぶ、水神を演じる日々に終止符が打たれ、フリーナはパレ・メルモニアを去った。彼女は普通の人間として「これから」を生きることを赦された。長過ぎる孤独な戦いは終わったのだ、フォンテーヌは救われ、罪はすべてが洗い流され、この国で生きる者たちの未来は保証された。この国の水神――魔神フォカロルスが神座ごと喪われてしまったけれど。
フリーナはもう一度、息を吐く。ヌヴィレットに何かあったのは間違いない。こんなにも激しい雨が降っているのだから。そう、水龍の感情を写し取る形で、この国の空が泣いている。だが、今の自分はただの人間、フォンテーヌ廷で暮らす住人のひとり。元水神とはいえ、自分にはもう、彼と関わる資格なんて無いのだ。フリーナは心に痛みが走るのを認めつつ、自分自身にそう言い聞かせる。幾らヌヴィレットという存在が自分にとって特別であっても、逆もそうだとは言えない。
少女は窓に背を向けた。続く雨音は、弱まることを知らない。しばらく降り止むことはないのだろう、今日は何処かへ出かける予定はない。寧ろ、予定がある日の方が少ない。神という特異な存在として生きていた頃とは大違いだ。買い物に行く必要も今日のところは特に無い。
フリーナは少し前まで身体を横たえていた寝台に座る。彼女一人分の重みを受けて、ギィ、と小さく軋む寝台。その音を掻き消すように雨は続く。彼のことが心配になる。こんなにも強い雨がフォンテーヌの街を打ち付けている、だなんて。恐ろしく不吉な水没の予言は回避されたけれど、こうも雨が続くと、不安な気持ちがどっと押し寄せてくる。この雨がずっと止まなかったら。水がこの地に襲いかかってきたら。救われた筈の世界で、少女の心はぎゅうぎゅうに締め付けられる。
「――……ヌヴィ、レット」
細々とした声で、彼を呼ぶ。答えは当然のことながら無い。フリーナの弱々しい声は、豪雨の音によって全部が包み隠されてしまうのだった。
どれほど経過したのだろう。朝を迎えてしばらく経っても、空は鈍色の雲で覆い尽くされていて、陽の光が顔を覗かせるような気配はまるで無い。着替えなどの支度は手早く整え終えたが、朝食を摂る気分にはなれない。フリーナは改めて寝台に座った。とっくに見慣れた室内。しつこく続く、降雨の音。
「……!」
いつの間にか項垂れていた彼女の意識を引き戻すのは、来客を報せるベルの音だった。こんな天気の日に、一体誰が。反射的に立ち上がったフリーナだが、玄関先へ向かう彼女は恐る恐るといった様子だ。震えそうになる手で、扉を開ける。一体どちら様だい、と発する声もどことなく頼りない。
「えっ……!?」
扉の先にいたのは、ヌヴィレットだった。正義の国のトップである彼が、どうしてここに。フリーナは驚きを隠せない。彼に会いたい気持ちはあった。彼が何かに嘆き、悲しみを覚えているのなら、それを少しでも拭える存在として在りたかった。それが、烏滸がましいことだとは重々承知の上で。しかも、ヌヴィレットは傘を差していなかったようで、髪も衣服もびしょ濡れだ。フリーナは彼を屋内に入るよう促し、それを彼は拒むことなく受け入れる。少し待っていてくれ、と言って、フリーナは急ぎ白いタオルを握ってヌヴィレットのもとへと戻る。彼はそれに感謝の言葉を発したが、その声は固く強張っていた。
「い、一体どうしたんだい?」
タオルである程度身体を拭いた彼を奥の部屋まで通し、フリーナは尋ねる。雨が止む気配は未だ無かったが、少しだけその雨脚は弱まったようにも思えた。
「……」
しかし彼は、すぐに答えを返してはくれなかった。フリーナの存在をじっと見据え、複雑な表情のまま、ヌヴィレットは沈黙している。そんな彼を前に、少女もなにか言葉を続けることは出来なかった。こんな風にヌヴィレットとフリーナが直接会うのはいつ以来のことになるのだろうか。フリーナが「神」としてパレ・メルモニアにいた頃は、ほとんど毎日、顔を合わせていたし、言葉だって幾つも交わしていたけれど。
「……夢を見たのだ」
「え?」
沈黙は五分ほど続いた。それにピリオドを打つ彼は、酷く悲痛な面持ちをしていた。予想外の台詞に、フリーナは戸惑う。夢。この国を統べる彼が――広大なテイワット大陸全土から見ても屈指の特別な存在である彼が「夢」に心を大きく拉げられたというのか。フリーナは彼の次の発言を待った。彼の薄紫色を帯びた瞳は、あまりにも苦しそうで、あまりにも痛々しい感情を灯している。
「君を、喪う夢だ」
「――」
ヌヴィレットの吐き出した答えに、フリーナは何も言えなかった。自分たちは永い間、共に生きた。衝突の一切無い日々ではなかったけれど――その永い日々は、お互いの存在を「特別」なものへと変えた。フリーナからすれば、ヌヴィレットも他のすべての民と同じで「欺く対象」だったが、それでも、ずっとずっと一緒の時間を紡いだのだ。
「君という存在が欠け落ちた世界で、私独りが生きていく夢だった」
「ヌヴィレット……」
「……すまない、フリーナ殿」
彼はらしくもなく俯いた。銀の髪が揺れる。
「君を困らせたくはなかったが――気が付くと、君の家の前まで来てしまっていた」
まだ、雨が続いている。フリーナはそんなヌヴィレットの右手を両手で包むような形を取った。ヌヴィレットがそこでやっと顔を上げる。彼女の小さな手はあたたかく、冷雨に凍える彼を優しくあたためてくれるようだった。僕はここに居るよ、キミの傍に、今も変わらず、ね。フリーナは言葉のひとつひとつを確かめるかのように丁寧に綴る。
「……いつか別れが来るとしても、それは今じゃない。今の僕は、ここに居るんだ」
「フリーナ……」
「だから、そんなに泣かないで……?」
僕の、大切な水龍。フリーナは手に力を込めた。己の存在を彼へ知らしめるように。
「……」
彼は何も言わない。ただ、雨の音が少しだけ弱くなる。完全に雨が止まない理由は、フリーナにも分かっていた。無論、ヌヴィレットにも。そう、自分たちは永遠に共に在ることは出来ない。フリーナは何処にでも居る普通の人間で、もう、呪いを持たない肉体で、この世界で時を刻んでいるからだ。いつか本当の別れが来た時、フォンテーヌは久遠の雨に襲われるのかもしれない。未来のことは誰にも分からないが――少なくともこの雨は、じきに上がるだろう。フリーナは改めて彼に微笑みかける。それは、ヌヴィレットの目へと鮮明に焼きつけられ、彼は静かに頷いた。
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