神話のすきま
「あら。乙女がそんなに泣き晴らした顔でいるなんて」
最後の再創世の前なのに! 泣きはらして真っ赤な目をしたなのかを見、キュレネは少し困ったような顔であらあらと笑った。そしてこちらを見たかと思えば、酷く穏やかな表情をする。
「……まあ、色々と準備は必要よね。じゃあ、まずはその真っ赤な目が腫れてしまう前にちゃんと冷やさないといけないわ」
彼女は何故か、ぱちんと一度ウインクをしてこちらに目配せすると、なのかの手を引いて、どこかへ彼女を連れて行ってしまった。その目配せの意味も分からないまま、穹は丹恒と共に波の音の傍に取り残される。
「ていうか元からあのなのの目は赤いだろ」
穹ははっとして我に返りそう零した。そういうことではないだろう、と丹恒が少し呆れたように続ける。思わず彼の表情を見てしまい、穹はああそうだ、と今は殆ど変わらない視線の高さに、ふい、っと思わず顔を逸らしてしまった。
「……? どうかしたか」
「いや、なんでも。……というか、この記憶域から出たら目も元通りになるんじゃないのか?」
「おそらく――最後の再創世を行う前に時間を取るならこのタイミングしかないからだろう。小休止は必要だ。お前も今のうちに休んでおけ。……俺は――今のうちに少しは日誌でもまとめておくか」
「え?」
あっ、と止める間もなく、丹恒はぎいぎいと波のすぐ上の古い板を軋ませ、穏やかな村の方角へと向かっていく。えー、とそれを一人ぽつんと見送り、穹はしばらく手持無沙汰に海を眺め、結局そのまま、ぶらりと当てもなく黄金の海を歩き出した。
記憶の潮の中にいた時の事は、実の所あまりよく覚えていない。
ほんの少しの間外に出ただけで、戻ってきた時には千年。時の尺度はこのオンパロスではまるで光のようで、瞬きの瞬間に、すべてが見知らぬ姿に変容する。
そもそも、波の中に呑まれて、ほんのすこしだけぎゅっと目を瞑っただけのつもりだった。だがその間に自分を取り巻く世界は千年近い時を巡り、その波の中を掻き分け自分を探している間、丹恒はその千年近い時をたったひとり、自分を連れ戻すためだけに捜し歩いていたのだという。
丹恒が先に列車に戻ることになって、心細くなかったと言えば嘘になる。無事に列車まで帰れたかどうか心配だったし、彼がいない間にも様々なことはあった。その間にあったことも、様々な不安や目の当たりにした英雄たちの決意も知っている彼等とは少し違う彼等のことも、彼といなかった間にあったすべての事を話したかった。だのに、いざ顔を合わせたら、彼が一度自分に背を向けて去っていった後から随分長い間あった、あの漠然とした心細さが何もなくなってしまって、何から話せばいいのかもわからなくなってしまった。まるで自分が半分になってしまったかのような感覚が、再会の瞬間嘘のようになくなったのだ。
久しぶりにあった彼がいつもと違っていたから、きっと自分の知らない何かが、途方もない時間の中で起きていたんだろう。ただ、彼が記憶の潮を練り歩いた千年に比べたら、自分がそれまでに感じていたあの寂しさも心細さも、ずっとちっぽけなものの気がして、穹は何も言い出せなかった。感情に優劣をつけるつもりはなかったけれど、千年分の孤独を自分はきっと今、本当の意味で理解してやれない。悔しいが彼が過ごした千年を今から遡ってやることは、今出来そうにないので。感傷に浸るなんてらしくないのもわかっていたけれど、いつものように茶化してうえ~ん寂しかったぞ~、なんて言える雰囲気でもなかった。
だから一人になりたかったのかも、とふと穹は思う。黄金裔の誰かがその身を燃やした時、またひとり、ひとりと責務を全うしオクヘイマから消えた時、返還された火種を見上げながら考えを整理していた。創世の渦心に迎えなくなった時からは、同じようにこのエリュシオンで海を見つめながら考えていた。
時が止まったような穏やかな村の中、風が乾いた黄金の波を揺らす。麦畑には入らないように、なんて言われたこともあったが、聞かずに穹はざくざくと擽ったいその波の中を歩いた。村の屋根が少し遠くに見えた頃、疲れてそのまま大の字になって倒れ込む。空が遠く、腰が浸かるほどだった黄金の海も体を包む。
さらさらと流れていく風の音に、微かな鳥の声が混ざる。目を閉じたままでいると、そのうちざあざあと、周囲の麦が風に煽られ騒ぎ始めた。思わず一度瞼を開く。視界の遠くに、空を旋回する鳥の姿が見える。そのうち、さくさくと麦畑を分け入ってこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。どうせキュレネが麦畑に入っちゃだめよと小言でも言いに来たのだろう、と穹は気にせずもう一度瞼を閉じた。
だが足音は想像したより重く、こちらを覗き込んでくる影は花のような色ではなく、見知った蒼い目と共にあった。唖然として空と共に仰いでいると、そっと手を差し出される。穹がその手を取ると、彼は何故か少し迷うように、引っ張り上げようとする力を一度緩めた。
「なに、」
「いや。……お前の事だから、逆に引っ張って俺を転ばせようとするのではないかと」
「よくわかってんじゃん」
御所望ならそうしますよ、と穹はその期待に応えるべく、手をぐっと自分の方へと引っ張った。普段ならぐっとそれに抵抗して踏ん張る所なのだが、何故か今回に限って何の抵抗もなく丹恒が倒れてくる。ぐえ、っと押しつぶされながら穹は彼を抱き留めた。
がさがさと周囲の麦がもう数本だけ巻き込まれ倒れていく。丹恒の肩越しに空を仰ぎながら、穹は抱き留めたその体が、重みが、一向に自分の上から退いていかないのを、不思議に思いながらも受け入れる。
「そんなにすぐに見つかんない場所にいたのに」
「お前の場所ならわかる」
「なんで?」
「……わかるようになった」
顔を上げることすらしない。穹はとん、とん、と自分に身体を預けてくるその背を軽く叩きながら、ぼんやりとした色の空を仰いだ。視界に鳥の影は既になく、流れていく雲は薄く千切れて広がるばかりだ。風がまた金色の海に波を立てる。渇いた音が通り過ぎて、また互いの呼吸しか聞こえなくなる。わかるように、と穹は丹恒に尋ね返した。
「どゆこと? GPSでも勝手に付けたとか? 俺のプライバシーは?」
「……一人でいたかったのか。それはすまなかった」
「そういうわけじゃないけどさ。――ところで蒼龍ちゃん、今日は随分甘えただな? どしたどした」
「そういうつもりはないんだが、」
「……が?」
「三月に当てられた」
「なのに」
久方ぶりの再会を、涙と共に抱擁を交わしたばかりだ。抱き留めた後も一向に泣き止まないから、さすがに丹恒もどういう風に慰めればいいのか少しわからないような、困った顔をしていた。そういう時は気が済むまで泣かせてやればいいのだ。涙ってやつは遅かれ早かれいずれは止まるものだから。
「――そういうことにしとく」
自分は彼と同じように千年に近い時間、彼を捜し歩いたわけではない。どこにいるかもわからない自分を探してこの世界をひとりで過ごすのは、自分が彼と別れた後に感じた孤独よりも、ずっと深く、長い間、彼の心を摩耗に誘ったはずだ。その千年の孤独を耐え抜いた後なのだ、重いなんて文句くらいは飲み込んでおこう。穹はただその背をあやすようにゆっくりと叩く。
その千年の間に何があったか後で聞いてみても、彼が感じた千年分の孤独を、自分は多分この先本当の意味で知ることはないのだろう。けれど、分かっていることは一つだけある。
「……俺も千年探すと思う」
「…………、」
「ほら、諦め悪いからさ」
「……、――別に、……探さなくてもいい」
「なんで?」
おいおい俺の覚悟も相当なもんだぞ、と文句の一つ言って髪を後ろからぐしゃぐしゃにしてやろうと思ったのに、それよりも前にむく、っと漸く丹恒が身体を起こす。彼が自分だけを真っすぐ見つめてくるものだから、その視線が目前まで近づいているのにしばらく気付かなかった。鼻先が触れて、その眸がほんの少しだけ笑うように細められる。
「また俺が見つければいいだけだろう」
「……こら、迷子の方が歩きまわるなよ。探し難いじゃん」
その点俺は迷子としては優秀だったろ、と穹は笑いながら尋ねる。そうだな、と頷く丹恒に、穹はじゃれるようにくちびるを近づけた。自分達には既に通り過ぎてしまった孤独を慰め合うよりも、こういうやりとりの方が「らしい」気がして。
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