夜は優しく


爆発事故後の西城総合病院は、警察や消防の実況見分などがあり、騒然としていた。
人の出入りは基本的には差し止められ、医師として登録のある先生はともかく、外部から来ている僕らが仮眠室を借りることは難しかった。
警察の人間に調書を取られ、宮坂は念のため病院から近くセキュリティも確かな西城宅へ連れて行かれるのを見送った後、僕と一也はふたり、仮眠のために、黒須家に行くことになった。
警察や消防が行き交う中で、場を仕切っていた西城KEIは、そろそろあなたたちはいいでしょう、と言って、一也と僕が移動するためにタクシーを手配したのが二時過ぎのことだ。
「一也君、言い忘れていたけど、戻ったらいくつかの新聞社から電話が掛かって来ると思う。普通ならお悔やみ欄をどうするかって話だろうけれど……。」と言って言葉を濁した。
あの爆発に巻き込まれて亡くなった女性の親族にインタビューをと意気込むマスコミが、我先にと黒須の家に群がってくることは想像に難くない。
「うちの病院で手を回して、最大限戒厳令を敷きます。けれど、どこから麻純さんのことが漏れるか分からない。」と言う彼女に、一也は、分かります、と言った。
病院関係者は、勤務している人間だけではない。家で何気なく漏らした一言を聞いた家族の誰かから、外に伝わるということもあるだろう。
「煩わしいなら、いっそ電話線を抜いておけばいいわ。今日は、何か家にあるものを食べて、寝られるだけ寝てしまいなさい。あなたは頑張った。」
彼女は、一也をいたわり、励ますように言った。
ありがとう、と一也が答えるのを、僕は、どこか上の空で聴いていた。
どこから見ても理知的な美女にしか見えないこの女が、かつて西城KAZUYAと、そしてドクターTETSUとも肩を並べ、共に修羅場をかいくぐって生きていたという事実は、にわかに信じがたい。
「和久井譲介君。」
「あ、はい!」
ぼんやりと見ていたのに気付かれたのだろうか、と慌てるこちらの内心も知らぬげに、彼女は散る間際の桜の花のように美しく微笑み、この子をよろしく、と言った。本当の叔母のように。
分かりました、とこちらが返事を返すと、彼女は頷く。
そうして、ふたりとも気を付けて、と言う言葉を潮に、運転手に、出してちょうだい、と言った。パワーウィンドウが締まると、タクシーが走り出す。
彼女は、さっき僕らが宮坂を見送ったのと同じように、僕らを乗せたタクシーがロータリーを出て見えなくなるのを、ずっと見送っていた。

夜のタクシーは、静かに、流れるように走り、病院のあった繁華街から住宅街に入っていく。
「霊安室で……葬式をどうしたいか明日までに決めておいて、ってKEI先生に言われたよ。」
ずっと黙っていた一也が発したのは、その言葉だった。
どうしたいか、か。確かに、考えてみれば、黒須の家系はほとんど途絶えている。直系が一也ひとり、ということを考えれば自動的に一也が喪主を勤めるのだ。
「顔だけなら死に化粧である程度隠すことは出来るけど、遺体は損なわれている、通常の葬式のように大々的に告別をするということは母さんは望んでないかもしれない、って言われた。確かに、亡くなった状況も状況で、参列者に何か尋ねられたら、オレと病院側で、どう説明するかを事前に打ち合わせておく必要があるし、参列すべきでない人間が来る可能性もある。それでも、オレがやりたいのなら、手を貸すと。でも、……譲介も知ってるだろう、オレが黒須の姓を名乗っている理由を。母さんはKEI先生の下で働いてたけれど、西城の家とは一定の距離を置いていた。でも、葬式をするとなると、きっと頼らざるを得ない。」
手術を終えてからはずっと気持ちが沈んでいたように見えた一也が、ぽつぽつと話す言葉に、黙って聞き入った。普段から百年も生きた哲人のような達観の仕方をしているこいつも、立ち会った死には動揺する。
まして、それが肉親であればなおのことだ。
「一也。好きに決めたらいい。宮坂も僕も、お前がやりたいなら手伝ってやるから。」
「そうだね。」
黒須の家に着いて、タクシーが行ってしまうと、玄関の前に立って一也が、さっきの話だけど、と呟いた。
「決めたのか?」とこちらが尋ねると、頷く。「やっぱり、葬儀社を介さず、KEI先生と僕で、焼き場でお経をあげて貰って、母さんの見送りを済ませてしまおうと思う。」
「家族葬ってやつか。」
「うん。」
それで終わりにするよ、と言うその一言が重く、こんな時に、僕じゃなくて、先生や宮坂が付いてなくて良かったんだろうか、と思った。
大きな門をくぐる一也は、一瞬だけそこに立ち尽くし、前を向いて、ただいま、と蚊の泣くような声で言った。家に明かりが灯ったままなのは、誰かが待っているわけではなく、病院に到着する前につけっぱなしで移動をしたからだ。
そのことに気付いたらしい一也の背中が、急にしぼんでしまったように見えた。
ただいま、母さん、という言葉は、永遠に失われてしまった。いつもと同じように背筋を伸ばしていたけれど、一回り小さく感じられる。
「いつか慣れる。」と一也の背中に手を遣ると、そうだね、という言葉が返って来た。


「広いな。」
「そうかな、……いや、うん。」
亡くなった一也の母親を迎えに行ったあの夜は気が急いていて気が付かなかったが、こいつが生まれ育った家はいくつもの部屋がある。
侵入者が土足で上がった部屋は畳が悲惨なことになっていたけど、無事な部屋があったからここを使って欲しい、と通された畳み敷きの部屋は、十二畳はあろうかという広さで、布団を敷くと広さが逆に際立つといった具合だった。なんとなく、これから忍者が暗殺に来そうな部屋だ。
「おい、一也。もうちょっと狭い部屋とかないのか?」
「部屋はあるにはあるけど、仏間とか床の間とか、後は昔のお手伝いさんたちが寝てた場所になるから大体ここと同じか、ここより広くなるかな。ここが客用の布団入れる押し入れあるから楽なんだけど。」と言って頭を掻いている。
「お前の寝てる部屋は?」
「あるけど……オレの部屋、診療所の部屋くらい狭いよ。」
「僕には十分だ。大体、さっきからずっと思ってたんだけど、時代劇のセットみたいじゃないか、この家。」と頭を掻くと、言われてみればそうだな、と言って一也が笑った。
やっと笑った顔を見たのでほっとして、ふたりでどやどやと台所に行き、彼女が作った最後の作り置きのおかずを食べられるだけ食べた。
イカと芋の煮っころがしに、豚こまの肉じゃが、アジの開き一匹分、南瓜の煮つけ。
家庭の食卓、という言葉が思い浮かんで、イシさんのカレーが恋しくなって来た。そんなこちらの気持ちを読んだわけでもないだろうけれど、一也は箸を動かしながら、「カレーじゃなくて悪いな。」と申し訳なさそうに言った。
気になるのはそこか?
「お前、僕がこんな時にもカレーが食べたいと言うと思ってるのか?」と言うと、違ってたのか、という返事が返って来た。
まあ、毎日カレーばかり食べているように見えたら仕方がない。僕だって、親と暮らしていた頃に毎日がこういう食卓だったら、もっとバリエーションに富んだ好物が出来たはずだ。
芋の煮っころがしは食べても食べてもなくならない。冷やご飯では足りなくなったので、冷凍庫にあった作り置きのご飯を電子レンジで温めつつ、ケトルで湯を沸かす。
「今日は付き合わせて悪かった……譲介、本当は先生と一緒に病院に残りたかったんだろう?」と一也はまた謝罪の言葉を口にする。こいつは、本当に人のことを良く見ているやつだ。
「謝るなって。そんなことより、今は、残っている食材をどう使うかで悩めよ。あの冷蔵庫の様子じゃ、料理をして片付けていかないと、食べきれないぞ。レトルトの吸い物があったから、それで締めよう。今のお前には、暖かい飲み物が必要だ。」と指摘すると、アジの小骨を取っていた一也は「……そうだな。」と言って顔を上げる。腹が満たされたからか、やっとまともな顔つきになってきた。
「さっきさ、……もしかしたら母さんが家の奥から出て来てくれるんじゃないかと思ったんだ。そんなことあるはずがないことは頭で分かってるんだけど、なんだか、まだ実感がなくて。」
茶碗に二杯分の水を入れただけのケトルからは、お湯の沸いたことを知らせる音が鳴っている。
「そうか。」と相槌を打ちながらガスのスイッチを切り、お吸い物の粉を入れた黒い漆器をふたつ並べてお湯を注ぐ。
ゆらゆらと立ち上る湯気を見て、譲介にも母さんの味噌汁を食べて貰いたかった、と一也はぽつりと言った。


結局、食事の後で片付けをしていたら一時を回ったので、流石に普段のように先生のシャドーをせず、一也の部屋に布団を移動させて、枕を並べて寝ることになった。
こんなことは、学園にいた頃以来だ。
電気を消すよ、と言う一也の声に合わせて部屋の灯りが消える。
家の外から、鳥やけものの声ではなく車通りの音が聞こえて来ると、街にいるのだな、と思う。
頭が冴えて、なかなか寝つけなかった。
双子を後回しにして、彼女の延命措置を取ることも出来た。
どうあっても死が免れ得ないとしても、一也は、母親の最期の言葉を聴いて、手を取って、自分の気持ちを伝える時間も持てただろう。
あの時、トリアージという選択は最善の正解だったのか。この先、村に居続けるとして、自分にもそんな場面はやって来るのだろうか。
一也も、僕と同じように寝付けないのだろう。
いつまで経っても、寝息は聞こえて来なかった。
時計の音だけが、やけに大きく部屋に響く。
やがて「……譲介、起きてるか、」と尋ねる声が聞こえて来る。
早く寝ろ、と言いたいけれど、それはお互い様だった。
今ここにいる時点で明日の診療所の掃除には到底間に合わない。僕が不在でも、村にはまだ村井さんと麻上さんがいるが、一也はこの広い家にひとりだ。一也があの診療所に預けられていた間は、一也の母親である黒須麻純もまた、一人でここに暮らしていたのだろうか。
「一也、そういえばお前、母親に僕のことなんて言ってたんだ?」
「え?」
どういう意味、と一也は言った。
「僕はお前の友達らしい。」
いつの間にそうなったんだ、と言うと、ええ、と一也は動揺したような声で言う。
「オレは譲介のこと友達と思ってるんだけど、違うのか?」
「………。」
お前と僕のこれまでのいきさつのどこに友達になる要素があるんだ、とツッコミを入れたいような気分になったが、とはいえ、僕にもそれなりのデリカシーはある。親と死別したばかりの同級生に本日最後の引導を渡すような真似は流石に難しい。それにしたって。
こいつが僕の友達一号か。高校の頃の自分にこんなことを言ったら、法螺を吹くのも大概にしろと呆れられるかキレられるに違いない。
はあ、とため息を吐くと、譲介、と一也が慌てた声で名前を呼ぶので、別にその認識は違ってないから安心しろ、と言ってやった。
ちらり、と一也の方に視線を走らせると、しょげた熊のようなシルエットが薄っすらと見える。どうやら、ここいらで話題を変えた方がいいらしい。
「一也、お前の母親って、どんな人だったんだ?」
テロ組織の一員からの攻撃に一歩も引かず、合気道で敵をいなす力を持つ女性は、そうはいないだろう。こちらの問いかけに、うーん、と一也は唸った。
「優しくて、強い人だった、と思う。でも僕には母親の顔しか見せなかったから、KEI先生の方が母さんのことを良く知ってる気がする。」
母さんは秘密主義なところがあったから、家族として、もっと長く一緒に暮らしていても、きっとそうだったと思う、と一也は言った。
「そういうものか。」
酒が飲みたい、というのはこういう気分になったときのことなのだろうか、なんとなく、そんな風に思った。
「譲介、もし良かったら、明日喪服を買うの付き合ってくれないか?」
「は?」
藪から棒に何を言って来るのか、この馬鹿は。
「葬式はしないんじゃないのかよ、」と問うと、「焼き場に行く時に、着ていけそうな服がないんだ。オレはまだ学生だけど、もう制服って手は使えないし。黒須の家の墓はあるから、母さんのお骨を入れるときに必要になる気がしてきて。」と一也は言った。
そういうものなのだろうか。
僕には、家族がいなければ、当然親戚もいない。
あの村の高齢者は多いが、僕が来てからはまだ誰も村で亡くなっていなかった。時々、村の外に葬式に行く、という人は少なくはなかったし、あさひ学園でも職員は冠婚葬祭に出かけて行くこともあったけれど、僕にとってはずっと、それは別世界の話だったのだ。
「……譲介?」
「あ、ああ。喪服か。それにしたって、お前の体格だと、セミオーダーとかそういうのになるんじゃないか? 腕とか、今も大体規格外だからいつも袖なしのやつを着てるんだろ。一応助言しておくけど、腕が入るからって吊るしのフォーマルスーツを買うのは止めておけよ。腹回りがぶかぶかなのは逆にみっともない。まあ、宮坂のやつが仕立て直しのスキルもあるっていうなら呼べば解決だけど、どうなんだ。」
「宮坂さん……うーん……。無理だな。」
あの人なら、金を出してどこからか伝手を探してくるだろうけど、と連絡の付かない元保護者のことを、また思い出す。
「服飾の専門学校に行った同級生とか。」
「いないな。」
「いつもの黒いTシャツにしておけばいいんじゃないか? 今時、坊さんだってうるさく言わないさ。」
「そうだね。」と一也は言って、それから、五秒も立たないうちに寝息が聞こえて来た。



なあ、一也。
僕がさっき、霊安室の外で、何を考えていたと思う。
僕は、お前が羨ましい。
霊安室で、家族に別れを言えるお前が。
一緒に暮らしたのはたったの三年だ。あの人はきっと、もう僕のことなんかを忘れて、今もどこかで元気にやっているだろう。
車で、忙しくあちこちを走りながら、誰か別の人間に月に一度の処置と点滴をさせて。
けれど、いつかその日がやって来る。
その時に僕が呼ばれることはないんだ。
亡骸どころか、骨に会うことすら間に合わないだろう。
そのことを考えると、なんだか無性に泣きたくなってしまった。

この夜が、お前にも、あの人にも優しいものでありますように、と僕は願う。

おやすみ、一也。

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