かつてあったもの、いまここにあるもの

 スヒョンが仕事を終えて家に帰ると既にデヨンが帰っているらしく明かりがついていた。寒い時期だ、誰かのいる家の空気は暖かでほっとする。何かを作っている香りはしないので夕食の準備は今からだな、と思いながらリビングに入るとテーブルにうつぶせているデヨンがいた。スヒョンの頭には一瞬で最悪の展開が脳裏をよぎり、まずデヨンの息があるかを確認した。
「冷たい」
 スヒョンの手がデヨンに触れると反応があった。それにほっとしてスヒョンはようやく息をする。デヨンの姿を見て触れるまでスヒョンは無意識に息を止めていたのだ。
「どうしたんですかデヨンさん」
「んー、腹、痛くて」
「病院」
「いや、そこまでじゃない。ちょっと腹痛くて食欲ないだけ」
「とりあえずここじゃ寒いから横になってください。自分の部屋の方が落ち着きますか?ここのソファでもいいです。部屋の温度をあげましょう。薬は飲みました?吐き気は大丈夫ですか」
 スヒョンの言葉にデヨンがのろのろと顔をあげる。たしかに顔色はよくない。痛みがきついのか眉間にしわが寄っていた。
「デヨンさん?」
 そんなデヨンは何も言わずにスヒョンを見る。何か欲しいものがあるのだろうか。
「……とりあえず、ソファ行く」
「歩けますか」
「平気」
 スヒョンははらはらしながらゆっくりと移動するデヨンを見守る。彼がソファに無事到着したのを見計らってさっとブランケットを用意した。一枚じゃ心もとない、二枚でいいだろうか。三枚は重いか。
 ソファに横になった瞬間にかけられたブランケットにデヨンは目を開ける。そこにいるのはもはや見慣れたキル・スヒョン。 体調が悪いのはデヨンの方なのに、こいつ俺よりも顔色が悪いんじゃないかと思わせるような顔をしている。
 オ・デヨンはずいぶん久しぶりに体調を崩していた。単なる腹痛なのだが普段体調不良とは縁遠く過ごしていたためかそれなりに堪える。熱などはなく、ただ胃が痛んで食欲がない。それだけだ。喉が痛んだり咳が止まらないとか頭痛がひどいということもない。つまり安静にしてればそのうち落ち着く程度のものだ。だからデヨンはスヒョンのすすめのとおり横になりキリキリ痛む腹をさすったり体勢を変えてみたりしていた。痛いのはしんどいが仕方ないよな、さっき胃薬のんだしそのうち効くだろう、とデヨン本人は楽観的だ。わざわざ病院に行くほどのことでもない。
 楽観できていないのは同居人であるキル・スヒョンの方だった。
 スヒョンはオ・デヨンが体調不良で顔をしかめているところなど共に暮らし始めてから見たことがなかった。気落ちして陰鬱としていたときも熱を出して倒れたりはしたことがなかったのだ。ある程度の時間が経ちスヒョンとデヨンの間にも穏やかな時間が流れるようになったと思ったらこれである。あのオ・デヨンが腹痛で倒れた。スヒョンにとっては青天の霹靂であった。
 デヨンがスヒョンの心を読めたなら倒れてはねえよ、と言っただろうがスヒョンにとっては腹痛でぐったりしているデヨンはもう倒れたも同然なのだ。
 ふかふかのブランケットがゆっくりとデヨンの上にもう一枚重ねられる。たしかに一枚じゃちょっと寒い。もうすぐ雪が降ろうかという時期なのだ。
「だいじょうぶですか」
 いつも通りの静かな声のようなのに少しの不安がうかがえる。キル・スヒョン。お前自分の体調が悪い時は「だいじょうぶです」とそれしか知らないのかというくらい頑なに言い続けるのにどうして俺がちょっと腹痛で横になるだけでそんな顔をするんだとデヨンは思わずにいられない。
 いつだったか。やっぱり昔、珍しくデヨンが体調を崩したときジヨンは信じられない!みたいな顔でそれでもすごく心配してくれた。風邪をひいてしんどくて、でも彼女の優しさがうれしかった。そして今目の前ではキル・スヒョンが落ち着かない犬みたいにデヨンの周りをうろうろしている。帰ってきてまだコートも脱いでないのに。おかしくて笑ってしまう。抑えきれない笑いはもちろんデヨンの様子をうかがっているスヒョンにばれて、彼は怪訝な顔をした。笑うと腹が動いて普通に痛い。顔をしかめるとやっぱりスヒョンもそれに気づいて「痛いんですか、薬はまだ効きませんか」と眉を下げた。
 そうだった。彼女を失って、くるしくてつらくて、思い出すたびにいないことを実感して息が止まりそうだったけど。優しい時間も幸せな時間もたしかにあったのだ。デヨンは今腹が痛いというのに、そのうえ胸もぎゅう、と苦しくなる。
「オ・デヨンさん、やっぱり病院に行きましょう」
「はは、大丈夫だよジェームス」
「……湯たんぽを持ってきます」
「ん」
 デヨンを少しでも寒くないようにするために動くスヒョンの背中を見送る。そしてデヨンは目を閉じた。さっき一人リビングでうつぶせていたときよりはよほど暖かい。
 これが、今のデヨンの日常だった。ジヨンを失ってもうずいぶん経って、彼女の遺体が発見されて納骨もした。それなのにこうして日々の中でその喪失を思い知るのだ。時間が強引に傷を覆っていく。その速さに、デヨンはまだ追いつけないのに。
「デヨンさん、これで温めてください」
「うん」
 スヒョンによって用意された湯たんぽはじわじわとデヨンの体を温める。温めると少しは痛みも和らぐ気がした。ちら、とスヒョンを見ればようやくコートくらいは脱いでいた。
 どうしてだろう、デヨンは泣きたいような不思議な気分だった。痛いからじゃない。目頭が熱くなって、それでもデヨンの目は乾いていた。
 この上俺が泣いたりしたらジェームスが大慌てしちゃうよな。ただでさえ当事者の俺より落ち着かないのに。
「ジェームス」
「はい」
 名前を呼ぶとなにか欲しいものでもあるのかと腰を浮かせるスヒョン。それがやっぱり行儀のいい犬みたいでかわいくておかしい。
「はは、……いてて」
「デヨンさん」
「いや、大丈夫。病院はいい。……大丈夫だよ」
「顔色がよくありません」
「そりゃ痛いは痛いから。でもあったかいからへーき」
「……触れても?」
 先ほどの冷たいスヒョンの手を思い出して眉を下げた、が、心配そうな彼を邪険にするのもデヨンには難しい。いいよ、と答えるとスヒョンの手の背がデヨンの額に触れた。思いのほか冷たくはない。
「……熱はありませんね。冷えすぎてもない」
「お前の手もさっきよりマシだな」
「あれは外から帰ってきたばかりだったので」
 びっくりさせてすみません、と謝るスヒョン。謝るほどのことでもない。デヨンだってもし帰ってきてスヒョンがテーブルに突っ伏していたらまず息を確認する。恐ろしいもしもの可能性は一秒でもはやく潰しておきたいから。
 そうだ、言うの忘れてた。
「おかえり、ジェームス」
「……ただいま帰りました、デヨンさん」
 デヨンがお帰りと言えばスヒョンが頬を若干緩ませてただいまと返す。これが今のデヨンの、確かにかけがえのない日常。デヨンはまた少し泣きたくなって、けれど涙は一粒も落ちなかった。
 
 

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