眠/巡/廻





※「眠る」をテーマにしたオムニバス

#01

 元来、よく眠る男ではあった。同じ船に乗っていたとき、起きているゾロを見かけたことの方が少ない。起きているときは鍛錬をしているか、酒を水のように飲んでいるかのどちらかがほとんどで、ごく稀に自船のクルーとたわいもない話をしながら笑っているのを見かけると、腹の底や尻のどこかがむず痒くなるような感覚に襲われたものだった。
 ゾロが元来よく眠る男である、という事実は、ローにとって最大の言い訳として機能した。一つは他人に対して。見舞いに行かないんですか、というクルーからの無言の視線。見舞いに来ねェのか、という他船クルーからの無言の視線。それらを無言で跳ね除けるには絶好の理由になった。
 もう一つは、他ならぬ自分に対して。戦闘中、ゾロと最後に分かれたとき、男は瀕死の状態だった。サンジに身を預けるまでの短い間、能力を使って身体の状態を確かめたとき、いくつもの大事な骨が折れているのを確認していたし、致命傷になりかねない裂傷があるのもわかっていた。だから、ゾロが目を覚さない理由は、麦わらの一味の船医よりも(外科的な意味合いにおいて)ローの方が理解していた。だが、ゾロは元来よく眠る男であるので、今の状態もまたその延長上にあるのだと、そう自分を欺瞞できた。だからこれは、何も心配するようなことじゃない。
 という欺瞞が機能したのは、四日までだった。五日目の朝、ローは自船のクルーに「少し出かけてくる」とだけ告げて宿を出た。鬼哭を携えて都を歩く。朝も早いというのに、街の連中は昇ったばかりの太陽と同じくらい健康的で忙しなかった。ゾロが静養している場所が城のどこかであるということは聞いていた。場所の詳細を聞かなかったのは、ローのなけなしの自尊心だった。そのくだらない自尊心のおかげで、今ローはわざわざ能力を使って城の中を探す羽目になっている。
 大小合わせて片手と少しのROOMを展開させて移動し、たどり着いたのは城の最頂部にある部屋だった。オロチの趣味なのか、あるいはカイドウの趣味なのか。無駄に華美に飾られただだっ広い部屋は、ただひたすらに豪奢だった。草の匂いが立ち上る床の上に布団が二床並んでおり、一つは麦わらの一味の船長が、もう一つには麦わらの一味の剣士が眠っていた。離れたところに立っていても、消毒薬の臭いが鼻につく。ローはしばらく眠る二人を遠くから眺めてから、ようやく部屋の真ん中へと足を進めた。
 どこへ座ろうか数秒悩み、結局ゾロの眠る横へと腰を下ろす。伺い見たゾロの顔色はまだ白く青く、覚醒までにはもう数日要するだろうと見立てた。折った膝の上に肘を置き、それを支えに顎を乗せた。いびきの一つでもかいてくれればまだ人間らしいだろうに、こういう時に限って、ゾロはおそろしく静かに眠っていた。閉じた目、結んだ唇。削げた頬。重力に負けて下がるピアス。そのどれもがまるでロロノア・ゾロらしくない。
 ローは知らず首を垂れた。眉を寄せて目を瞑る。勘弁しろよ、という内心の声が声に出なかったのは、ほとんど奇跡に近かった。勘弁してくれよ、ロロノア・ゾロ。死にそうじゃねェか。
 ゆっくりと瞼を開け、上目で帽子の鍔越しにゾロを見遣る。果たして、目の前に横たわる死体のような男は誰なのか。胃の裏側にヤスリをかけられたような不快さがあった。白紙の上に落としたインクがじわじわ広がっていくように、言語化しにくい居心地の悪さがローの全身に緩やかに巡っていく。
 この瞬間、「あら」という鈴のような声がかけられなければ、ローは何事かを叫んでいたかもしれなかった。急落していくような思考を止めて顔を上げれば、この国一番の美女だという女がたらいを細腕に抱えて立っていた。裾の長い着物を着ているとは思えない所作でローのところまで歩いてくると、たらいを置きながら音もなくそこへ膝をついた。
「ハートの船長でいらっしゃいますね。日和と申します。こうしてお顔を合わせるのは初めてですね。この度は我が国を救ってくださり、ありがとうございました。民に代わり、心より御礼申し上げます」
「…やめろ。おれは麦わらとは違う」
 不愉快さを隠さず、顔を顰めた。四皇を倒したかっただけでワノ国を救いたかったわけじゃない。という説明を省いたのだったが、聡く美しい女は溢れそうなほど大きな瞳をわずかに細めると、「わたくしどもにとっては同じですよ」と小さな声で言った。
 同じなものか、反吐が出るようなことを言いやがる、と思ったが、ローは口にしなかった。女はもう一度にこ、と丁寧に微笑むと、持ってきたたらいの中に浸した手拭いを取り出し、美しく細い指でそれを絞った。僅かにハッカの匂いがする。女は慣れた様子でゾロにかかる掛け布団を剥いだ。そして絞ったばかりの手ぬぐいを適度な大きさにたたみ直すと、包帯の巻かれたところを避けながら清拭を始めた。
「……あんた、この国のお姫様だろう」
 お前がするようなことかと言ったつもりだったが、女は手を止めなかった。命を長らえさせるために花街の女として生きてきたという話は聞いていた。身をやつしても生き抜くことに意味がある人生もある。生娘ではないことを示すように、女の手は一切の躊躇もなくゾロの身体を拭いていく。途中何度かたらいの水に手ぬぐいを浸し、その度に女の白い指が青地の生地を絞った。
「船長もお二人のことがご心配でこちらへいらしたのですか? みなさま、入れ替わり立ち替わりお見舞いに来られます」
「よく喋る姫様だな」
「ほかにすることがありませんので。船長は、ここよりずっと北の地に鈴後と呼ばれる場所があるのはご存知ですか?」
「…耳にしたことがあるくらいだ」
 上半身を拭き終え、足元へと回った日和が静かな声音で語る。
「寒いところで、真冬ともなれば背丈を超えるほど雪が積もります。船長、雪はご覧になったことが?」
 答えず冷めた視線だけを向けたが、日和は気にした様子もなく話を続ける。
「その地には常世の墓と呼ばれる風習がございます。雪深いところゆえ、埋葬された死体は百年も腐らぬとか」
 ローは刻んだ眉間の皺を深くした。女が何を言いたいのかが一向に見えない。低く聞いた。
「……何が言いたい」
 重い足を膝の上に乗せて足の指を一本一本拭ったあと、日和は乱れた着物の裾を整えてからたらいの横へと戻ってきた。使い終わった手ぬぐいを水に落とす。身を乗り出して布団を掛け直すのを、ローは黙って見ていた。女の長い髪が一房、眠るゾロの胸へかかる。
「ゾロ様のご先祖はおそらくその地の方。ゾロ様がよく眠られるのは業でございましょう」
 振り返った女が凛とした目でローを見た。ローは女の小さな顔を睨め付けた。気遣いのつもりの言葉だろうが、強烈な怒りが瞬時に湧いて出た。頬の表面に小さな火花が散る。怒鳴らなかったのはただの矜持だった。くだらねェ、とローは吐き捨てて立ち上がった。見上げる女の顔を心底軽蔑する視線で見下ろした。
 この国の連中が言うことはいちいち癪に触る。業なんてものがあってたまるか。ゾロが元来よく眠る男なのは、ロロノア・ゾロがそうだからであって、ゾロ以前の何者かによるものでは断じてない。辛気臭ェんだよ、と唾するように言い捨てて、ローはその場から消えた。



#02

 噂程度でしか聞いたことがなかったワノ国にハートの海賊団が降り立ったのは、雪のちらつく肌寒い朝のことだった。明らかに正規の航路ではないところから到着した黄色の潜水艦は、船長たるトラファルガー・ローの号令をもって海上へと浮上した。変則的な波と風を受けた船が波間に揺れる。開閉用ハンドルをまわして分厚い水密ドアが開くと、数週間海の底にいたクルーたちが一斉に甲板へと飛び出してきた。寒ィー! と誰かが一声する。
「最後すげェ揺れたなァ」とシャチが言うと、ベポは想定外だったね、と返した。最近になって鎖国を解いたとはいえ、あらゆる情報を遮断して久しかったこの国は、国内事情だけでなく周辺海域の情報もほとんど外には出回っていない。にも関わらず、ハートの一味がこの国に正しく辿り着けたのは、ベポがミンク族出身であったことが大きい。
「ベポ、このまま北へ進め」
 低い扉を窮屈そうに潜りながら一番最後に甲板へと現れたローは、航海士へとそう指示した。ペンギンが肩越しに振り返った。
「都に行かなくていいので?」
「海賊が殿様に挨拶しなきゃならねェ理由もねぇだろ」
「そらまァそうだ」
 伸びをしながらシャチが笑う。ベポは海図を広げ「最終到着地は?」と尋ねた。ローは一秒の間を置いて答えた。
「鈴後」

 鈴後の地は、冬海域の島でもなかなかお目にかかれないほどの豪雪地だった。特徴のある切り立った地形の岸壁は、双眼鏡で遥か先まで確認しても、接岸する場が見つからなかった。ローはギリギリまで船を岸へと寄せさせると、古参のクルー三名とともに能力を使って上陸を果たした。
 踏みしめる雪は深く、北の海育ちの一味でも歩くのに難儀した。だが、この地に初めて訪れているはずのローの足取りは妙に堂々としており、一切迷うところがない。吐く息が白く煙る。長いコートを靡かせて歩くローの背中を見ながら、シャチがペンギンへと耳打ちをする。
「キャプテン、本当にここに来たことねェんだよな?」
 ペンギンは肩を竦めた。地図も開かず雪を踏み締めて進むローは、いつにも増して無口だった。ローは雪の落ちる枯れた森をただ歩いていく。途中、古堂があった。ローは少し休むか、と告げて堂への入り口へと繋がる階段を上がった。手入れがされているとも思えない堂は古く、引き戸の扉は直してからでないと開かないほどだった。ローと三人のクルーは座れる場所をそれぞれ見つけて腰を下ろした。休まず歩いたせいか、すでに一味は森の深くへと至っており、ますます強さを増して降りしきる雪は多少の焦燥感を連れてきた。
 三人は持ってきていた食料と飲み水を分け合って食べた。だが、一人離れたところに座るローは飲み物にすら口をつけず、ただ森を据えた目で見つめていた。目配せをし合い、最終的にペンギンがローへと声をかけた。
「キャプテンも少しくらい食べませんか」
「腹は減ってねェ」
「温かい茶くらい入れないと冷えますよ」
 ローはもう返事をしなかった。靴に乗る雪が積もり始める。ペンギンは少しの間を空けた。
「キャプテンはここへ来たことがあるんすね」
 唐突なペンギンの断定的な物言いに、ぎょっとした顔でシャチが相棒を見た。ローはペンギンへと琥珀色の目だけを動かした。
「…どうだかな」
「へ? どういう意味すかそれ」
 思いがけない返事にペンギンが呆けたように返したとき、ローは動物が耳慣れぬ音を聞いた時に似た所作で僅かに顎を上げた。降り積もる雪のせいで周囲からは一切の音が消えている。シャチは鷹揚に言った。
「油断してたつもりはなかったけど囲まれてるなァ。ベポ、何人いる?」
「二十人くらいかな」
「キャプテン、どうします?」
 ローは肩に立てかけていた鬼哭の柄へと手を伸ばした。腰を預けていた階段からゆっくりと立ち上がる。ローは片手を構えた。
「お待ちなされい!」
 ROOMと唱える寸前だった。編笠をかぶった魚人が一人、ローの前へと現れた。魚人は『カッパ』と聞き慣れぬ種族を名乗り、己の名を河松だと告げた。すらりと抜いた刀がひた、とローを捉える。口上は続いた。
「貴殿の持つその刀、名のある妖刀とお見受けした! 刀鍛冶の多い我が国へ来たるも何かの縁、戦闘の意思なくば無益な戦いはいたさぬがいかがか!」
「…こちらは見た通りの少数精鋭。戦わずに済むのであれば願ったりだ」
「このような辺境の地へ何用で参られた!」
「ここに腐らぬ墓があると聞いてきた」
「……」
「勘違いするな。おれは何もそこに奪いたいものがあるわけじゃねェ。そこへ案内してくれるだけでいい」
 曇天の空から落ちる雪が周囲を白く染めていく。青い空とはいつも縁遠いところに生きてきた。渇望するような宝があるわけじゃない。獲りたいものも、知りたいものもない。理想も野望もないにも関わらず、己の首にかかる懸賞金だけが天井知らずで上がっていく。このくだらない海賊人生! ローはその顛末を知りたかった。
「おれはどうしてもその場へ行かないといけねェんだ」
 河松は刀を下ろした。周囲を充満していた殺気が消える。しんしんと降りしきる雪の森に、ケーン、と鳴いた狐の声が木霊した。

 常世の墓という風習があるという。この地に生まれた侍は皆、生まれたときに刀を与えられる。現世をかけて侍と生きた刀は、常世の果てまでも己の主ともに在る。刀は墓標とされ、侍と刀はこの世の理を超えた縁として結びつき、永久となる。
 前を歩く河松がローを振り返り聞いた。
「我が殿おでん様が開国するまで、この国の風習は外へは漏れなかったはず。都のことならばいざ知らず、このような最果ての雪国のこと、貴殿はどこでお知りになられたのか」
 だが、ローはコートの襟に隠れた唇を引き結ぶだけで何も答えなかった。河松は非礼を咎めもせず、そんなローを一瞥するに留めた。やがて森が開けた。
 見渡す限りの雪原の上を、強く乾いた風が走っていた。風によって舞い上げられた雪が粉となって散っていく。墓というのはどこの国のものであっても神聖さを孕んでいる。しかし目の前に現れた墓の一群は、ここが雪の中であるということを加味してもなお、言葉を失うような圧倒的な異形として広がっていた。荒涼とした雪の地に、墓標とされた刀らしき出っ張りが無数にある。数など到底数えられようもないそれは、侍と刀の分かち難い結びつきを極限的に視覚化していた。河松は言葉を失っているローへと言った。
「貴殿が探しているものがこの中から探せますかな」
 ローは何かに寄せられるように一歩を踏み出した。もう一歩、もう一歩。もう一歩、と数歩を歩くうち、やがてその足は早まっていく。そして駆けた。誰も足を踏み入れていない新雪のごとき大地を、ローは走った。ここじゃない。ここでもない。どこだ、どこにいる。急くように、追い立てられるように、焦がれるように、ローは無数の墓標の間を探して回った。どれだけ時が経っただろうか。氷点下の気温の中にも関わらず、ローの額から汗が伝い落ちる頃、ローは弾かれるように足を止めた。鬼哭が手から滑り落ち、音も立てず雪の中に埋まる。
 桶の蓋に積もった雪を震える手で払いのける。追いついてきた河松が「貴様!」と叫んだが、構わず蓋を開けた。
 最初に見えたのは、白誂えの刀だった。その刀を抱くようにして、男が一人眠っている。
「……ゾロ屋」
 どうしてその名を忘れようか。若草色の頭に向かって、ローは震えながらその名を呼んだ。果たして、数百年の時は長かっただろうか。名を呼ばれた男はゆっくりと今、目を開ける。



#03

 ー、
 ーーー屋、
 …ロ屋、

「ゾロ屋!」
 耳元で名前を叫ばれて閉じていた目をバチッと開いた。開いた視界の先、そんなに近くなくてもいいのじゃないかという距離に不機嫌を隠さない顔があった。
 ゾロは枕にしていた己の腕から顔を上げた。数回目を瞬き、深い睡眠から思考を呼び戻す。時間にして数十分もなかったのに、穴に落ちるように深く寝入っていたらしい。覚醒までに時間がかかっているゾロを、男は冷めた目で眺めていた。数十秒のあと、ゾロは男に「悪ィ、寝てた」と短く言い訳した。聞いた男は見ればわかる、という顔をしてから、ようやく乗り出していた身を引いた。ゾロは背中の筋肉を確かめるような伸びをしてから、大きなあくびを一つ吐く。
「すげェ変な夢見てた、なんかやたら寒いところにいて…」 
「エアコンの直風を受ける場所で寝るからだろ」
「いま何時だ?」
「六時半過ぎ」
「下校時間じゃねェか。文化祭の書類整理とやらは終わったのかよ生徒会長」
「お前がすやすや寝ている間にな。課題を片付けるという話はどうしたゾロ屋」
「提出は来週だからまだ余裕」
「そうかよ。帰るぞ」
 ぶっきらぼうに言われて、ゾロは椅子に引っ掛けていたバックパックを指の先で拾い上げて背中に背負った。
 斜陽の差し込む生徒会室は、机が四つと書棚が三つ入っているだけのこじんまりとした部屋だった。ローはこの部屋の長を二年務めた。
 この高校の生徒会役員選は、毎年十月初旬に行われる。受験に専念するという理由で三年生は役員選に出馬できない校則となっているため、役員は一年生と二年生のみから選出される。だがこれは建前で、入学した手の一年生が選ばれたことはほとんど前例がなく、役員は二年生のみで構成されるのが常だった。ローより一学年下のゾロは見ていないが、新入生の総代を務めたローの入学式の答辞は見事だったらしい。未だに語り草となっている答辞により、入学当初から知らぬ者は全校にいないほど有名となったローは、一年生にして他薦による生徒会長を拝命するに至った。ちなみに続く二年目の今年、ローは対抗馬なしの無投票当選を果たした。
 役員最後のイベントとなるのは、九月に行われる文化祭だった。壁に貼ったカレンダーには二週間後に迫った文化祭までのタスクがびっしりと書き込まれており、すでに過ぎ去った日付の分には「済」を示す一重線が一つひとつのタスクに引かれている。終わったもの、終わっていないもの、タスクの見直し等。カレンダーになど書き出さずとも全ての予定がローの頭の中に入っていることを、ゾロだけが知っている。それをわざわざ視覚化するのは、共通のタスクを乗り越えていくという「目的の共通化」がチーム戦では不可欠な事項であるから、らしい。ローの人心掌握術が功を奏しているのかいないのか、この量のタスクが確実に消化していっているのだというから恐れ入る。
 連れ立って生徒会室を出て、ローが入り口を施錠するのを見守り、鍵を返すために職員室へと向かうのに付き合う。部活動や補習授業を除き、この時間まで学校にいる生徒は少ない。人気のない廊下を二人で歩く。高台に建っている高校からは、街を染める夕陽がよく見えた。赤と橙に色づいた空には気の早い月が白く浮かんでいる。夏期の間にかけたばかりのワックスが効いた床に、二人分の長い影か伸びる。
「そういえば剣道部の企画書を見たが、やはりあれは無理があるな。いくらゾロ屋が真剣の所持を認められていて扱いに慣れているのを知ってはいても、一般客も含めて不特定多数が出入りする場に刀を持ち込むのは許可しかねる。諦めて第二案の殺陣披露にしておけ」
「ぐる眉が料理で使う包丁はどうなるんだよ、おんなじ刃物だろうが」
「真剣とペティナイフが同じに見えてるなら話が変わるぞゾロ屋」
 にべもなく返される。ゾロは下唇を尖らせて唸った。ローはそんなゾロを横目でしばらく眺めてから、確かに、と続けた。
「ゾロ屋が振るう真剣は美しくて悪くねェが」
「そ」
「それはそれ、これはこれだ。それにおれは見たければ道場で見られる」
 話している間に職員室前に着く。門下生の歴だけで言えばゾロの後輩になるローはあっさりと会話を終わらせると、待ってろ、と言い置いて職員室へと入って行った。窓の桟に肘を置いて背中を預ける。首を捻って窓の外を見上げる。つい先週まではこの時間でも太陽は高かった覚えがあるのに、すでに陽は翳りかけていた。季節は廻る。ゾロを置いて、恐ろしいスピードで。事実、少なくともあと一年はローとの学校生活が続くと思っていたのにも関わらず、その未来はもう来ないことがわかっている。ローは卒業を前倒しして、ゾロの知らない国へ留学する。
 ありがとうございました、と言う声に目を遣ると、ローが職員室の引き戸から出てきた。ローは待っているゾロへとわざとらしく驚いた顔を見せた。
「えらいじゃねェか。ちゃんと待ってやがる」
「ガキじゃねェんだぞ、言われりゃ待つだろ」
「ハハ、次もそうしてくれ」
 ゆったりとした歩調で二人は歩く。途中、ローは女子生徒数名に「会長さようならぁ」と挨拶をされていた。知っているやつかと聞いたら、顔も知らないらしい。玄関ホールでは、ゾロが部活終わりのクラスメイトにつかまった。たわいもない話をしている間、ローは離れたところでゾロを待っていた。適当に話を切り上げてローのところへ向かう。ゾロは言った。
「てめーも待てができてえらいじゃねェか」
 口の端を上げて揶揄ったのだったが、制服のポケットに両手を突っ込んで立っていたローは僅かに顎を上げ、至極真面目に「そうだろう? 褒めてくれよ」と応えた。笑いの一切ない物言いに、ゾロはニヤけた面を片づけ損ねた。しばらく見つめ合う。視線を外したのはゾロだった。「褒めるか」とだけ返してゾロは歩き出した。ローは些かの笑いも含ませず、ゾロのあとに続いた。
 校門を抜け、バス停までの坂道をゆるやかに下る。春には八重桜が咲き誇る歩道を歩いていくと、時代に取り残されたような町の本屋、生徒の溜まり場になっているファストフード、違うチェーンのコンビニなどが散発的に現れる。
 パス通りまでの五分は短いようで長い。たまには道場に顔を出せよという話、試験の話、剣道の選抜の話。とりとめもなく二人は話した。
「今年は日程が悪すぎるな。玉竜旗も魁星旗も行ける気がしねェ」
「三月の予定が埋まってんのかよ、本当に高校生か? お前。まぁ別にお前が来ようが来まいが負けねェから好きにしろ」
「そう言ってインターハイで負けて号泣してたのはどこの誰だ」
「おうよ、だからもう誰にも負けねェんだおれは」
 交差点に差し掛かる。ちょうど二人が乗る路線のバスが目の前を通り過ぎた。ローが腕時計を見た。
「次が四分。まぁ待つか」
「待つのは得意なんだろ」
 まぜっ返してやると、意外なことにローは軽口で応対せず、数秒黙ってから「別に得意ではねェな」と独り言のように呟いた。進行方向とは逆側の信号が青に変わる。家路を急ぐ人々がどっと横断歩道を渡ってきた。ゾロの前をロードバイクがすり抜けていく。
「得意な方だろ」
「そうでもねェ。案外おれはせっかちな方だ。あと少し待てたらうまくことが運ぶんだろうなと分かっていても動きたくなる。これは性分だろうな、一生変わる気がしねェ」
「…へぇ」
 と返したものの、ローの言いたいことを理解できているとは思わなかった。信号が青に変わるのを待っている、少し高いところにある横顔を見上げる。ゾロが見ているのを分かっているだろうに、ローは前を向いたままでいる。信号が青に変わる。歩き出す寸前、ローが言った。
「ゾロ屋。卒業したらおれのいる国にこいよ」
 タイミングの謎さもさることながら、中身の酷さに絶句した。思わず足が止まる。言った本人は当然のように歩き出した。ゾロはローの後頭部に向かって叫んだ。
「バカか!?」
「バカではねェな。ゾロ屋になら合鍵くらい渡してやるぞ」
「なんでおれが縁もゆかりもねェ国にわざわざ行かなきゃならねぇんだ? 何年後のつもりかは知らないが、白飯が恋しくなった頃にでもてめーが帰ってこい」
 刺々しい声を出しながら大股で追いついた。大きな声を出したせいで、通行人が数名ゾロを振り返っているのが視界の端に見えている。だが二人はどこ吹く風だった。ローは芝居がかった調子で言った。
「つれねぇやつだ。おれがこんなに頼んでいるのに」
「いつお前がおれにものを頼んだ?」
「Ohne dich ist es einsam.Ich denke, dass du das auch so empfindest.」
「パードン!?」
「Oh, you can speak English. Let me rephrase that for you.」
「知らん知らん、おれは日本語しかわからねェ」
 ゾロが眉間に皺を寄せて返すと、ローは珍しくハッハ! と声を上げて笑った。バスが到着するまでの間なんてあっという間だった。いつか、過ぎ去った日が永久ではなかったことを嘆く日がくるのかもしれなかった。だが今この瞬間のゾロにとって、ローにとって、今日という日が終わるのも、明日という日が来るのも、いつだって刹那で一瞬だった。
 今二人は確かに、光のただ中にいた。



#00

『え!? マジで渡したんですか合鍵!』
 繋いだ回線の向こう側で、前職時代の右腕が身を乗り出して叫んだ。うるせェな、と顔を顰めて言ったローの声は続く言葉にかき消された。
『マジか…あんた何気に初めてじゃないですか、家の鍵を他人に渡したの…すげぇな、どんな相手なんすか』
 感心したような感動したような声を出されても、ローは明らかにそれとは温度差のある様で深々と長い溜め息を吐き出した。そして骨っぽい両手で顔を片手で覆う。少しあってから、ラップトップの画面に映るペンギンが訝しげな表情で顎を引いた。
『なんすか、ローさんのそういう態度、おれは結構胸にくるんでやめてほしいんですけども…あ!? まさかフラれたとか言いませんよね? そんな話はおれ一人では受け止めきれないですよ、やっぱりシャチも召喚しますか? あいつ多分夜勤だけど』
「…渡してない」
『………いま渡したって話をしてませんでした?』
「正確に言うと渡せてはいない」
『“正解に言うと”?』
「おれの家には渡す合鍵がねェんだ」
 はっ? とペンギンが呆けた声を出す。ローは溜め息を吐きながら今度こそ、あぁーーっ、という長い長い声を出した。それは、トラファルガー・ローにあるまじき痛恨のミスだった。

 この街でローが住んでいる部屋は、ローが不動産屋に条件提示した中で最もセキュリティ対策がなされた物件だった。ディンプルキーですらなく、七桁の英数字を任意変更できるテンキーロックが取り付けられている。この街に引っ越してきた頃のローにとって、セキュリティの厳しい住居は心の安寧に絶対だったので、不動産屋が提示してきた物件にこのマンションを見つけた瞬間、ほぼ即決で契約を決めたほどだった。
 たった数ヶ月前の己の選択が、よもやこんな形で返ってくるとは。人生、つくづくあらゆることが予定調和には進まない。そもそもで言えば、ローは誰かに恋する予定は永劫なかったし、いわんや部屋の鍵を預けてもいいと思えるような相手と出会う可能性など、少なくともこの街に来たばかりの頃には微塵も想定していなかった。わずかでも想定していたならば、ディンプルキーのツーロック物件で手を打っていたに違いない。

『………物理の鍵がないってだけで暗証番号はあるんでしょう。何の問題があるんですか』
「問題しかねェだろうが」
『だから何の?』
「言ってもいいが笑うなよ」
『いやぁちょっと自信ねぇな。一応真面目な顔して聞くわ、よしこい』
 緩みかけていた表情を改めたペンギンが背筋を伸ばす。ローはテーブルの上に置いていたグラスで取り上げて、泡の消えかかっているペールビールを飲んだ。冷たさを失った液体が食道を通っていく。ローは短く息を吸い込んだ。
「暗証番号が相手由来だった」 
『嘘だろ勘弁してくれよ、なんでそんなことをおれしかいねェときにぶっ込んでくんだよ』
 ペンギンは笑いもせずに一気にそこまで喋ると、シャチ召喚できねェかな、とスマホをいじり始めた。そして手を止めないまま上目遣いでローを見遣り、ちなみに、と続けた。
『それ、相手の誕生日か何かだったんですか?』
「おれがそんなベタなことをするか。出会った日だ」
『まぁそれもそれでベタベタのベタですけども、記憶力の良さが仇ですよね。おれ、人類平等に出会った日なんて一人も覚えてないですよ。…というか多分、それ相手だって覚えてないんじゃないですか? みんなローさんみたいな記憶力の鬼じゃないんで』
 そう断言されるとそれはそれで癪に触るわけだが、ここでそれを言い返すと長くなるのでローは反論を腹に中に収めた。代わりに、小皿に乗せたナッツを指の先で弄りながら、独りごちる。
「素因数分解しただけじゃな…やっぱりもっと数字を弄るべきだったな…」
『なんて? 素因数分解って言いました今? やべぇ、面白い予感しかしねぇ。詳細聞かせてくださいよ』
「だから出会った日を素因数分解した数字を暗証番号にしてたんだよ」
 指先でナッツを拾い上げて一粒、口の中に放り込む。ローの右腕を長く務めていると、この程度のことでは驚きもしないし笑いもしなくなるらしい。画面の中のペンギンは至極真面目な顔のままで返した。
『それ、ローさん以外の一般人からしたらただの数字の羅列だから何の問題もねェよ』
「あぁ見えて好きな素数があるかもしれねェだろ」
『そりゃあ人間をやってりゃ、好きな素数くらいはあるでしょうけども』
 ペンギンはそう断言して、缶ビールを飲んだ。飲んだ後で、いやローさんに相手がどう見えてんのかは知らねェけどさ、と言い置くのを忘れないところがペンギンらしかった。
 ローは腰で座るようにして脚を投げ出した体勢のまま、背もたれに後頭部を預けた。焦点を定めない視線を空中に投げたまま、ぼんやりと思い出す。
 英数字を覚えるのは得意か、と聞いたローに、件の相手は一瞬の間を開けて、桁数によるな、と返した。質問の意図や裏を読もうとせず、端的に答えを返すのがいいと思った。ローは自分しか使うことがないと思っていた暗証番号を告げ、仮眠をとりたくなったらここを使え、と言った。誘い文句としては及第点すらもらえない最低の出来だったと、その日の夜に大いに頭を抱えることになったのだが、あの時のローに言えたのは最大そこまでだった。そうとは思われていなかったろうが、あの瞬間のローは、充分すぎるほどに勇気を振り絞ったのだった。
 ローは天井を見上げていた瞳をゆっくりと閉じた。こねェかな、ゾロ屋…と呟く。聞こえたはずだろうにペンギンは揶揄いもせず、ただその言葉を聞き流した。たとえ自分がその場に出くわさなくてもよかった。あの美しい男がこの部屋に足を向けてくれるだけで、その事実だけで、ローは満足だった。

 結局、ゾロは仮眠のためにローの部屋を訪れることはなかった。その日がくるよりも早く、二人の関係が加速度的に変わったことが理由だった。もしあの時、二人の関係が膠着し、駆け引きめいたやりとりをする時間があったとしたら、ゾロは家主のいない部屋に一人で入り、ネクタイを緩め、引っ越しの段ボールが片付けられないままになっている部屋で仮眠をとっただろうか。
 昼寝から先に起きたゾロは床に座り、立てた膝の上に肘を置いて考える。最初に暗証番号を教えられてから、三回番号は変わった。出会ったばかり頃のローは、いつも全身から緊張感を漂わせた男だった。頻繁に暗証番号を変えるのはその頃のローの名残りだ。誰かに何かを奪われることを、ずっとローは恐れている。
 視線の先、ソファで横になって眠るローを見遣る。長い睫毛が自然光を受けて影を作っていた。耳をすまさないと聞こえないほど静かな寝息を立てているのを、ゾロは飽くことなく見ていた。早く起きろよロー、と心の中で呟く。開けた窓から風が舞い込み、緩やかにレースのカーテンを揺らしている。ゾロは静かな部屋でローが目を覚ますのをただ待った。やがてローが目を覚まし、自分を熱心に眺めているゾロへと、穏やかに笑って言うのだった。

「おはよう、ゾロ屋。よく寝たな」

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