夢明に消えない約束ひとつ
老人が一人、月を見上げている。
大劇場は夢の遥か遠くの空に青い繭のようにかかり、その青白い光から微かに子守歌のような歌が聞こえてくる。
月明かりの柔らかな光の中を、墓守の目を盗むようにして、突然影は現れ、老人の傍まで寄ってきた。老人が抱えた稚児の夢は、影が指先にちょこんと乗せた雫と同じ、優しい青い月の色だ。
つい最近まで、その夢の泡は中身がなかった。彼が自分が何者であるかを思い出すまで、外を出歩き、誰かの夢に顔を出していたから。
今はそうやって外を出歩いていた中身も、ここで老人の胸に抱かれ眠っている。彼女は指先にちょこん、と乗せた小さな雫ほどの夢の泡に、「どうしたい?」と尋ねてみる。「あなたはまたこの夢の泡に混ざることも出来るし、このままの姿で漂っていることもできる。でも、元居た場所には戻れないわ。あれはもう弾けて、元の形を失くしてしまったから。……それとも、私と来る?」
はじめは彼等のあの夢の泡に入るつもりはなかった。だが、占いから予感めいたものがあって、彼らに気付かれないよう、こっそり足を踏み入れると、既に中で異変は始まっていた。夢の泡の中に入ったはずの意識だけで、あの少年が長い長い夢を始めたのだ。
舞台に上がるつもりはなかったのに、勝手にキャスティングされてしまったのだから、ゲストとしては応えるほかない。彼女はそれを特等席で見せてもらう代わりに、彼らの旅を少し助けることにした。
彼はもともと、憶質にはあまり耐性がないようだ。耐性がない、というよりは共感しすぎてしまうのだろう。そのため、夢の泡の中にあった夢が酷く長いものだったからだろうか、彼は自覚もなく憶質に当てられていた。
例えるなら、それは悪酔いに近い。感情の起伏が激しくなり、自分のコントロールを外れやすくなる。自分の意識がその表層にない時、無意識が優位に立つ時、人は時々思いがけない事をするものだ。彼の何がそれを突き動かしたのかはわからないが、彼はそうして、夢の泡の中にあった憶質を使い、彼らのために、あの夢の続きを見始めた。
あとは彼が思い描いた筋書きの通りだ。中にいたから、彼がどんな状況に置かれていたかすこしは分かった。だがすべては分からなかった。自分の身の上に起こる、抗えない強制力や、彼がどの程度、さらに深く夢を見るかについては。
自分はそれがどこから始まっていたのかを知っていたけれど、彼らはそれを知らなかった。旅には楽しみや危険がつきものだから、彼にとっての楽しい事、危険な事、それらすべてが正しく、彼らの長い二人の旅の続きとして、彼が見た壮大な夢の中で行われた。本当に面白い子、と彼女は今となっては自分の記憶にしかなくなってしまったであろう、あの夢の事を少し思い返す。
あのまま彼らが夢の泡から全く出てこなくなる可能性だって、確かにあったのだ。夢は見続ければ見続けるだけ、深く、意識の奥底へ潜っていくもの。普通の夢と異なってはいたが、夢は夢だ。だからこそ、同じ夢の泡からほんの少し憶泡を借り、彼の記憶から服を借り、あの夢の中でもあの少年は彼等を使命通り導いた。
彼女にも、最後の奥の手はあったのだ。彼らが正しく夢の泡から目覚める前に、彼らの意識が入った夢の泡を壊して、彼らを無理に目覚めさせることくらいは出来た。けれどそれは、まだカーテンコールも終わっていないのに結末を見届けることなく席を立つのと同じようなものだ。だから出来るだけ、彼ら自身で目覚めるように立ち回った。
ただ、夢の泡の中にあった憶質は良くも悪くも彼の手でこねくり回されてしまい、元の形には戻れなくなってしまったから、結局は彼等が目を覚ました後に弾けて消えてしまった。核を失った夢の泡からは、もちろん潜り込んでいた意識もその場で放り出される。彼らは突然目覚めたことだろう。夢の泡に触れた以降のことを、きっと何一つ思い出せないまま。
オリジナルは夢境ショップにまだあるだろうが、すべてを忘れてしまい、どうして弾けて壊れてしまったか、その事情を知らない彼らからのクレームを受けて、いずれただの記録上だけのものになってしまうだろう。もしかすると、元の夢にも何かしらの影響が出ているかもしれない。
指先で一度だけ跳ねたように見えた夢の泡を、彼女は小さく微笑んで、カードの形に変えた。彼女はそれをしまい、「様子を見に行ってみようかしら」と、老人を照らす月明りの方を見上げる。そろそろ彼等も本当に目を覚ましていることだろう。
影は静かにまた夜に溶ける。記憶域を泳ぐように進み、ふわりと煌びやかな夢の上に浮き上がり、くあ、っと欠伸をして、漸く長い夢から目を覚ました少年の元へ向かっていく。
*
――……て。ねえ、――て。――ねえ!
「そろそろ起きてってば! 丹恒! 丹恒ーっ!」
何かが飛んでくる気配があって、丹恒は無意識にそれを片手で受け止めていた。あっ、となのかの手を掴んで、丹恒は瞼を開き、「なんだこの手は……」と寝起きでまだ覚醒しきっていない頭を必死に動かしながら、まじまじとその手を見つめる。
なのかはばつが悪そうに丹恒から視線を横へ逸らし、「ぜ、全然起きないから……」と言い訳のように答えた。それで何故叩き起こそうとする必要がある、と丹恒は少し呆れながら尋ね、漸く掴んでいたなのかの手をそっと離した。
「だって。丹恒が自分で言ってた時間すっぽかすなんて珍しいし、もしかして夢境で何かあったんじゃないかって思ったの。ただの寝すぎならそれでいいじゃん」
「時間、……?」
「もー! やっぱり寝すぎたんじゃない? それか寝不足? 昨日もいつも『俺は夜更かしはしない。お前も早く寝ろ』とか言うくせに、集中すると平気で三日位寝ないんだから! 穹との約束だからって優先するのはわかるけど」
「……わかる? 何がだ」
「何がって。アンタ自覚ないの? あの子の事ならすぐに駆け付けるじゃん。せっかくできた末っ子が可愛いのはわかるけど、たまにはウチにもサービスしてよね」
「で、なんだ。時間? 約束なんてしてたか」
「もー!?」
全然話聞いてないじゃん、となのかは何故か理不尽に怒り出す。
「アンタが穹と約束があるからこの時間列車番変わってほしいっていったんじゃん! ウチこのあと姫子と夢境でショッピングの予定だったんですけど! タイムセールもう始まっちゃったじゃん!」
「それは……、すまない。だがそれで何故ここにいるんだ?」
列車の留守を代わりに任せた――記憶は確かにある。彼女がそれに不満げに何かを言い返していたのは覚えているが、恐らくその内容が時間の事だったんだろう。時間を過ぎてしまったのは確かに自分に非があるが、お前も任せた仕事を放り出してないか、と尋ねた丹恒に、またなのかは後ろめたそうに視線を逸らしていく。
「よ」
「よ?」
「ヨウおじちゃんにお願いした……」
「……ヴェルトさんも今日は予定があると言っていたんだが」
だからそもそもなのかに頼んだのだ。ヴェルトが申し訳なさそうに、今日はクラークフィルムランドで映画編集の現場見学に呼ばれているんだ、と丹恒に断りをいれてきたから。姫子もまた、星穹列車の代表としていくつかの会談に呼び出されており、ここ数日は忙しくピノコニーを走り回っているため不在を頼むことは出来なかった。まあ、なのかの買い物に付き合うことになっていたのなら、初めから彼女にも話を通しておけばよかった。
「だ、だってー! しばらくは車掌さんがいるし大丈夫でしょ!? だからウチも終わってからでいいよって言ったの! でも何かあっても困るからって」
「……あとでちゃんと礼を言っておけよ」
「お土産で手を打ってもらう……」
「――で、楽しみにしていたヴェルトさんに申し訳なくなって、起きてこない俺の事を慌てて起こしに来たんだな。なるほど、理解した」
「そう」
じゃあウチ起こしたし姫子待たせてるから、となのかは丹恒が目覚めたことが分かると、すぐに逃げるように走り去っていった。ばたん! と勢いよく閉まっていく扉を見つめ、丹恒は一度小さく息を吐き、漸く座り込んでいたドリームプールの底から立ち上がる。
なのかと少し話していたのにも関わらず、まだ頭が酷くぼんやりとする。夢境と相性は悪くないはずだが、憶質に浸りすぎたのだろうか? 歩きながら、漸く目が覚めてくる。VIPルームのラウンジを通り過ぎ、フロントへ戻ってから、停泊している星穹列車へと戻ろうとゴンドラを待つ。そこへ見知った顔が一人現れたから、丁度いい、と丹恒は現れた彼を「ブートヒル」と呼び止め、おうなんだ兄弟、と新しくできた弟分ににか、っと笑顔を浮かべたまま、快く答えてくれた彼をそのまま星穹列車まで連れて行き、「ヴェルトさん、俺の所為ですまなかった。列車番だが、しばらくの代わりを連れて来たからクラークフィルムランドへ戻ってくれ」とヴェルトに言い、ハ? と全く事情を呑み込めないブートヒルをそのまま星穹列車に置いて、再びVIPルームのラウンジへとんぼ返りした。
ぽこぽこと先ほどから通知が煩いのは、列車に置いてきたブートヒルの所為だろう。全部無視して、丹恒はVIPルームのラウンジから、客室の方へ歩いて行こうとする。
妙な夢の目覚めだった。まるで、ぷつん、と急に夢が途切れて、そこから強制的に放り出されでもしたような。
もしかすると、一緒に夢境に向かった穹も同じようなケースで放り出されているかもしれない。そう思い、列車に戻る前に一度彼の部屋を尋ねたのだが、彼はまだドリームプールですうすうと眠っていたのだ。ふと、彼がそのまま目覚めないのでは、と妙な考えが頭を過ったが、まず先に夢境でもう一度彼を探してみるべきだと思った。丹恒はついさっきまで自分が横たわっていたドリームプールに再び戻ってくる。すぐに眠りたいのにやはり通知が煩い。
「なんだ」
『や~っと出やがったなホーリーウーウーボ。おい、一体どういうことだ? 兄弟。オレもオマエんとこの車掌も、わけもわからないまま置いてかれちまって、おい、まさかこのままオレたち二人で留守番か? このベイビーなんて泣きながら震えてるんだが?』
「ブートヒル、パムに聞こえるようにスピーカーにしてくれ」
『ん』
声はどう聞いても理不尽な展開に怒っているが、指示には従ってくれる。たんこぉ~、一体なんなんじゃあ、と通話先から弱弱しい声が聞こえてきた。パムか、と尋ねた声に、ぐす、とパムは鼻を啜る音で返す。
「今ピノコニーは調和セレモニーも済んだがまだ色々と情勢が混乱しているんだ。夢境の安全性だって問われている。実はさっきまで穹といたんだが、あいつがまだ目覚めていない」
『何!? それは大丈夫なのか……?』
「だから少し穹を夢境で探したいんだ。その間、ヴェルトさんが戻ってくれると言っていたが、彼にも元から予定があった。三月は言うまでもないが、まあ後から一カ月ぐちぐちと恨み言を言われるよりは今行かせた方がいいだろう。さっき連れて来た俺の友人は」
『う……うむ……』
「かなり腕の立つ巡回レンジャーのひとりだ。強面ではあるが、話すと気のいいやつだからそれほど酷く怯える必要はない。穹を見つけたらすぐに戻るか連絡を入れるから、念のため列車組の誰かが帰ってくるまで彼にそこにいてもらってくれ」
『わ、……わかっ……た』
「ブートヒル」
『あ? なんだ兄弟』
「パムの反応が大げさで面白いからといって、執拗に怯えさせるのはやめろ。そういうやり方は大人げないし、何より好感度を上げるどころか余計に嫌われるだけだ」
『は』
これ以上会話を続けても話が長引くだけだ、と共感覚ビーコンから自動的に変換されていく彼の声を聞きながら、丹恒は一旦一方的に通話を切った。ブチ、っと最後に切れたホ、という言葉の続きは分かっていたが諦めたのか続けて通知はならない。これなら妨げられずに夢境へ入れるだろう。
丹恒は気を取り直してドリームプールに再び体を沈めた。意識がすとん、とどこかへ落ちて行くような感覚に、ただ身を任せていく。
降り立った夢境は、丁度夢境のホテル・レバリーの前だった。丹恒は最後に穹といた場所、とまず頭に浮かんだホテルのバーに足を向かわせる。何故だかホテル・レバリーのスペルが目の前で踊り出したような気がして、数回瞬きをする。看板には何も変化がない。不思議に思いながらも丹恒はホテルのロビーを横切り、真っ先にエレベーターに向かった。
夢境のホテル、その地下にある『バー・ナイトメア』は、シヴォーンというバーテンダーが切り盛りしているバーだ。穹は一時期そのバーで彼女の手伝いをしており、数日バーテンダーとして働いていた縁がある。
目を覚ます前の、夢境での自分たちの行動はこうだ。まず夢境ショップに丹恒の見た夢を夢の泡に加工しに向かった。その後、その夢の泡を使おうとして、穹が落ち着ける場所の方がいいだろうと、このバーまで連れてきてくれた。その時はたまたま客入りがなく、自分たちは奥のソファー席を使っていいと、シヴォーンに許可をもらって、そこで夢の泡に意識を移した。はずだった。
だが、夢の泡の中で過ごした記憶がすっぽり抜け落ちている。夢の泡を終わりまで過ごしたのかどうかすら全く思い出せないのだ。もしかすると、夢の泡に不都合が起きて、自分たちは強制的に夢の外に出されたのだろうか?
考えながら歩いていると、バーがあるフロアに着いていた。カウンターをぐるりと回って、よくシヴォーンが客の相手をしているあたりへ足を向ける。やってきた丹恒に気付き、シヴォーンはおや、と少し驚いたように目を丸くした。
「アンタも戻ってきたのかい?」
「も、ということは……穹はもう来たのか?」
「ええ、アンタよりちょっと前にね。もう一人、誰かと一緒にいたんだけど……それより大丈夫だった?」
「……? 何がだ」
「夢の泡が途中で壊れちゃっただろ。滅多にないんだけど、たまに加工処置の具合が悪く、夢の泡が壊れることがあるらしい。特にオーダーメイドで不良の報告が一万件に一件ペースで入ってる。大抵は初期不良だけど、アンタたちは結構経ってから急に壊れたのを見たんだ。意識が夢の泡に入ったままだと、夢の泡の中身によっては、出てきた後に夢と現実の区別がつきにくくなる。明確に終わりがあるはずの夢の泡が、終わりのないままになるからね。だからそういう場合、安全装置が働いて、夢の泡に破損を感知した時点で、すべて瓦解する前に夢境から勝手に追い出されるんだ。夢の泡の記憶もあまりないだろ? 悪夢に変わったなんて報告を十数年前に受けてから、その時の記憶が残らないようにしてるらしいんだけど」
「……ないな」
「んー、じゃあやっぱりあの時壊れちゃったんだね。全く同じ説明を本当についさっき穹にもしたんだ。もう一人一緒にいたお姉さんと、夢境ショップにクレームを入れるって息巻いてた」
「ありがとう。夢境ショップだな」
「いいえ、このくらいお礼を言われるほどのことじゃないよ。――またおいで。餞別はもう渡したけどさ」
軽く手を振るシヴォーンに一度頷いて、丹恒はすぐに踵を返した。黄金の刻のオーディ・ショッピングセンターに件の夢境ショップはある。
一度穹と共に向かったから、まだ行き方は覚えている。広場から離れ、大通りを進み、途中で横に折れてしばらく歩く。そのあたりから通りに店が多くなっていき、人通りもまた増えてくる。音が増え、憶泡が並んだ広場に出ると店はもう目の前だ。壁についた大きな眸の前に、見覚えのある影が一つ、いや、二つ。
片方は探していた穹で、もう片方は――ブラックスワン。ガーデンのメモキーパーだ。ピノコニーでのエナの夢でも、星穹列車と共にその夢の中で共に戦ってくれた友人である。何故彼女が穹と共に? と疑問符を浮かべながら丹恒は二人に近づいていく。穹は横暴な態度を露骨に表に出したまま、腕を体の前で組んで、苛々とした様子をしている。ブラックスワンが近づいてきた丹恒に気付いた。
「あら」
「何? ……あ! 丹恒!」
丁度いい所に、と穹が近づいてくる。ぐい、っと腕を引っ張られた。
「当事者その二だ! 夢の提供者! つまり、さっきの説明だと、こっちはせーっかく貴重な夢を売ったのに、もらったサンプルは不良で、もう一度もらおうにも元の夢の核が何故か壊れちゃったからもう一度再生も出来ないってことなんだよな? じゃあ丹恒の夢はどうなるんだ!?」
「それは……わたくし共としても大変心苦しく思っておりますが……夢の泡の加工の際の不都合についてはこちらでも免責事項の一部となっておりまして、詳しくは送金と共にお送りさせていただいたメッセージをご覧いただければ」
「そんな長ったるいの読んでらんないって。俺たちは売ったルーサン幣を返金しないからな。俺たちはただ夢を売りに来ただけで、加工の時にそれを不良にしたのはお前たちの方だし」
「穹」
「何! 丹恒、今いいとこなんだ、ちょっと待っ……」
「俺はあの夢がもう見ることが出来なくても一向にかまわない」
「え!? 何で!?」
驚いて、穹がむす、っとした表情を引っ込めてこちらを凝視する。腕を掴んだまま上目遣いで見上げられて、ぐ、っと何故か少し胸の辺りで息が詰まった。すぐにふい、っと視線をDr.エドワードへ戻す。
「売り渡した夢は正しく『夢』だった。それは、誰かにとっては都合のいいもので、また誰かにとっては理想や希望の一つだろう。あの夢も、俺の願いの一つではあったと思う。……だが、結局、俺たちの本当の旅はこの夢の外にしかないんだ。『旅をした夢』が消えて、もう二度と見れなくなったとしても、それはこれから起きる度の未知には及ばない。言ってしまえば夢もただの過去だ」
「……――それは、『夢』という形を取った、その人の記憶だものね」
ブラックスワンが言う。彼女は何故か、どこか穏やかな笑みを浮かべ、丹恒を一瞥する。自分が未だ時々その過去に夢の中で足首を掴まれていることはもう知っている、とばかりに。彼女はすぐに視線をDr.エドワードへ戻した。
「俺たちは、その過去が誰かの中では一等輝くものになることを知っている。だが、開拓の旅は常に前を向いているんだ。旅が続く限り、そこで足を止めるわけにはいかない。だからもう、俺はその夢に執着はない。……あの旅の続きの話は、これから叶えるだけだから。そちらの責任はもちろんなくなってしまったわけではないが、この件については補填も保証も謝罪も不要だ。元々、夢の泡にしなくとも、夢はいつか跡形もなくなって、すべて忘れてしまうものだしな」
穹はこちらをじっと見つめたまま、何かをいうこともなくただ黙ったままでいた。ブラックスワンが彼に優しく問いかける。
「夢を売った当人は、この件はもういいみたいよ。あなたがまだ怒る理由はある?」
「……ないかも」
「じゃあ、この話はこれで終わりにしましょう。――エドワードさん? 私たちはそちらの責任に関してはもう何も追及しないし、法廷で争うつもりもないわ。彼の友人の意向で返金はしない。そして夢の泡の修復も希望しない。この件に関しては、残りはそちらでしかるべき処置を行っておしまい。……それで構わないかしら?」
「俺は問題ない」
「……畏まりました。このエドワードが確かに承りましたのでご安心ください。またのご利用を心よりお待ちしております」
さあ、行きましょう、とブラックスワンが促してくる。彼女はなぜ穹に着いてきているのだ、と丹恒は疑問符を浮かべながらも、何故か彼女に対しての恩義の方が勝って、明確な理由はすぐに問わないままでいた。
「ブラックスワン、ありがとな。ついてきてくれて」
「いいえ。私の証言が役に立ったならそれでいいわ」
「証言?」
何のだ、と丹恒は穹に尋ねる。それがさ、と穹は夢の泡からはじき出されてしまった後の事をとつとつと話し始めた。
「急に夢から目覚めたら、丹恒の夢の泡に入ったあとのことが全然思い出せなくて。それに、夢境から出てきた覚えがないからおかしいなって、すぐに夢境に戻ったんだ。シヴォーンは俺たちが急にいなくなったのを見てて、でも何が起きたのかはその時はまだ把握出来てなかった。そしたらそこにブラックスワンがやってきて、夢の泡が壊れたから、安全のために夢境から強制退場させられたんじゃないかって教えてくれたんだよ」
ブラックスワンはその周囲にまだ僅かに残っていた夢の泡の欠片を集め、それを彼と共に夢境ショップまで持ち込み、サンプルとしてもらっていた夢の泡が壊れたことをDr.エドワードに伝えた。彼は売られたばかりの夢の泡を確認し、加工の履歴を参照しようとして、そもそもその夢の泡の核が、何故か壊れていることに気付いたらしい。もめていたのはその所為だったようだ。
「何が起きてたのか全然わかってなかったからなー。あとでシヴォーンにもありがとって言っとかなきゃ」
「実は先に、俺も彼女のところへ状況を聞きに行っていたんだ。俺もお前と同じく急に夢から覚めて、夢の泡に意識を移した以降の記憶が全くなかったから」
「やっぱり丹恒も一緒だったんだな。はー……ごめん。俺が言い出したばっかりに」
「何故謝る」
「だってさ。丹恒の夢だったのに、消えちゃったし、俺たち多分始めは夢の泡の中でちゃんと丹恒の夢をなぞってたはずだろ? その時の多分楽しかった記憶とか、どきどきした記憶とかもなくなったってことじゃん」
「……そのことに、お前が申し訳なさを感じる必要はないだろう。俺の意見はさっき言った通りだ。夢もただの過去に過ぎない。俺たちの旅は結局、夢の外にしかないのだと」
「んー……まあ、そうなんだけどさ」
「お前は何が気にかかってるんだ?」
まだ少し納得できない、とでも言いたげな表情を浮かべている。尋ねた丹恒に、穹はどういったらいいのか、と首を捻る。
「消えてなくなるんだとしてもさ、全部がなかったことにはならないだろ。だから、なんていうか、……多分、丹恒の夢が壊れちゃったことより、俺はきっと、夢の中での俺たちのことを俺達が知らないままなのがちょっともやもやするのかも。丹恒は二度目だっただろうけど、俺は何も知らずに見たはずだし」
「大した内容の夢じゃない」
「そうかなー? でもなんか、すっごく長い夢を見てたような、疲れた感じだけは残ってるんだよな。それが余計にむずむずする」
すっきりしない、と顔に書いて穹は言う。そうね、とブラックスワンが口火を切った。
「夢に限らないけれど、人は誰しも忘れる生き物よ。私たちメモキーパーは、人々や街の記憶を集めてまわるけれど、そうやって集めた多くの事を、人はもう既に忘れていることが殆ど。すべてはそうやって過ぎ去るけれど、『記憶』は永遠に残る。ただ、無かったことにはならないというあなたの言葉の通り、たとえすべてを忘れてしまっても、また同じように廻ってくる『何か』の前で、頭の奥深くで眠ってしまった記憶が、もう一度目を覚ますこともある。その瞬間を、あなたたちはとっくに忘れてしまっているだろうけれど、でも、きっとその時になったら『分かる』と思うわ」
「分かる? 何が?」
「……さあ。その時になったら考えてみて。――楽しい夢だったわ。ぜひまた見せてね」
「うん? わかった……?」
そろそろ行くわ、とブラックスワンは言い、丹恒にも僅かに目を細めて笑う。わかるでしょ、と彼女のくちびるが動いた。何のことを言っているのか分からないまま、丹恒はすう、っと姿を消し、夢境のどこかへ溶けるようにいなくなってしまった彼女から、そんなにクレームバトルが面白かったのかな、と首を傾げている穹へ視線を戻した。
「何事もなくてよかった」
「ん? それはお互い様だろ? 実はとりあえず起きた後、真っ先に丹恒の部屋に行ったんだ。丹恒がまだ眠ってたから珍しいなって思って。もし何かあったら嫌だな、ってすぐに夢境にとんぼ返りしたし」
「……俺も同じことをしていた」
「あはは、マジ? ありがと。丹恒って本当、何があってもすぐに助けに来てくれるよな」
「列車の護衛だからな」
「本当にそれだけ?」
「……、友人のことはなるべく助けたいと思ってる」
「親友って言い出したのそっちなんだから、そこはちゃんと一貫してくれよ~。降格したみたいで傷つく!」
「すまない。お前ひとりだけに掛からないと思った」
「なら許す。――なあ丹恒、時間ある?」
「時間?」
穹を見つけた後、すぐにパムに連絡をいれるつもりだった。列車には今ブートヒルにいてもらっているし、数時間後にはなのかと姫子が戻ってくる。すぐ済む用事か、と尋ねると、穹はそれはどうだろう、と首を捻った。
「夢の泡が台無しになったお詫びに、丹恒にピノコニーの観光案内でもしようかと思ったんだけど」
「その件はもう気にしていないと」
「だってさー。お前は……お前の夢はずっとみんなで旅するって夢だったろ。……それが叶わないってわかったから目覚めたって聞いた時、実はちょっと寂しかったんだ」
「寂しい?」
「そりゃ、どうしたってその時はくるよ。――俺が先か、丹恒が先かはわかんないけどさ、そもそも俺はまだ、いつかくるさよならのことなんて考えもしなかったから。丹恒はいつも、俺達よりちょっと前を歩いて何かを気にしてるだろ? それもその一環なのかなって」
「……そういうつもりはなかったんだが」
「そう? まあ、確かに丹恒が思ってる通り、ずっと続くわけじゃないもんな。……でも、先に言うなよな、そういうこと。俺も考えちゃうだろ。まだ終わってないのに終わりの事なんて考えるなよ」
「……俺がただ忘れないように頭に置いているだけで、お前まで常に終わりの事まで考える必要はない」
「そうはいうけどさ。つまり、ずっと一緒にいる、って約束は丹恒と出来ないわけじゃん。ずっとがないんだから」
「……――、ああ」
そうだな、とその言葉を飲み込むのに、何故か少し時間が掛かった。旅が続くか続かないかに関わらず、いつかは別れる時がくる。わかっているのに、何故か彼の口から出てくると、胸をすうすうと風が通り抜けていくような気がして。あからさまに落胆した表情を浮かべた覚えはなかったが、穹はそんなしょぼくれるなって、と丹恒の髪を後ろからぐしゃりと撫ぜて苦笑する。「でも、」と彼は言った。
「でも、今お前と一緒にいる、って約束なら、出来るよ。俺」
それじゃダメかな、と彼は問うてくる。言葉がまっすぐに胸を打つから、咄嗟に何も言い返せなかった。穹はどこか満足そうに口元に笑みを浮かべるばかりだ。不確定のいつかの話ではなくて、今の約束しか出来ないのがいっそ彼らしいと思った。出来るはずのない約束をされるよりはずっといい。
「ところでさ、時間ある? っていうのは、本当は建前で」
「建前」
「うん。なんか、……ただもうちょっとだけ、二人で居たいなって、思って?」
今の約束した後だとなんか照れ臭いけどさ、と彼ははにかむように笑い、それを誤魔化すようにぶつぶつと、最近二人で行動することなかったじゃん、このまま遊園地に行かなくても、歩いてるだけで楽しいしさ、とじゃれるように軽く腕をぶつけてくる。
「何でかって聞くなよ。理由なんて、一緒にいたい以外に思い浮かんでこないから」
「……別に、ここで別れても列車に戻ればいつでも会えるだろう」
「そうだけど。……それでも、なんか、今は理由がなくても一緒にいたいんだって。……それに、一緒にいるのに理由を用意しなきゃいけなくなるのって、なんかこう、うーん……」
「なんだ」
「そうするのを『選んでる』ってことだろ。ここにいけば会えるって場所に、偶然居合わせるわけじゃなくて、会いたくて会いに行ってる、俺は。いつも。一緒にいなくても考えてる」
「……何故?」
「多分、お前の事が好きだから?」
そう答えてから、穹ははた、と自分が今零した言葉を、もう取り戻せないと気付いて、途端に慌てだした。そうか、とその好意をいつものように流せばよかったはずなのに、丹恒もまた何故か手を伸ばしてしまったから、余計に彼を追いこんでしまう。あれ、なんでこんなこと言ったんだろ、と穹はまだ困惑の最中、視線を一向にこちらに向けられないまま丹恒から逃げようとする。だが丹恒が一向に手を離さないどころか、強く握ってくるので、穹もなんで!? とさらに困惑した。
「ちょ、ちょ……はなし……離シテ下サイ……」
「離しても逃げ出さないか」
「いや……、その。それはちょっと、保証しかねる……」
「じゃあそれは聞けない」
「だから何で!? ……い、今の話は忘れてくれ! そ、そうだ、特に深い意味は」
「ないのか?」
「あります」
素直なので答えちゃっただろ、と反射的にそう答えて、穹は――羞恥の一つ持たず、いつも不思議な行動をとっている彼は、顔を次第に赤くして、マジで勘弁して、と本当に嫌なら振りほどいてしまえばいいのに、囁くような言葉だけで伝えて、手に力は入れてこない。
彼の言葉も今の仕草も行動も、丹恒の中にはまだ何一つ「それ」に当てはまるものがなかった。だから彼の手を自分が離せないままでいる理由は何なのか、彼の言葉の真意を尋ねることに、もう一歩踏み込めないままでいるのは何故なのか、衝動的に、その視線を真っすぐ、自分だけに向けてほしいと思うこの気持ちは何なのか、目の前の穹に負けず劣らず困惑していた。
今だけじゃない。ずっとだった。気付いた時にはそうだった。彼が笑うと、何故か胸のどこかが少しくすぐったくなった。困っている顔を見ると助けてやりたくて、でもそれが自分の所為でそうなっていることを知ると、何故か嬉しいと思う自分がいる。誰かの所為で、自分の胸の中にそうやって、むず痒く感じるような感覚があることを、丹恒は穹と会って初めて知った。それが、自分ではどうにもできない鼓動と共にあることも。
自分より彼の方が体温が高いから、触れている箇所にずっと日差しが当たっているようだった。陽だまりの中にいるようだった。その温かさが心地よくて、気持ちがよくて、わけもわからず嬉しくて、意味のないやりとりや、怠い他愛もない仕草や言葉さえ、すべてが自分の中で何物にも代えがたいものになっていた。多分、何度何もかも忘れて出逢い直しても、彼が彼である限り、自分が自分である限り、きっと、何度だって同じところに行きつく、と丹恒は思う。同じように、己のすべてを賭けて想って、そして、いつかはきっと、分かってしまう、と思う。
今が、そうだった。
もし、こんな風に過ごす日々が終わって、旅の終わりにいつか彼と別れ、彼と過ごした日々の色々のことが夢のように消えて、すべてを覚えていられずに忘れることになっても、そうやって感じたすべての事が自分の中に残るのなら、いつかくる別れだってきっと怖くはない。そう信じられた。その時になって自分に付きまとうであろう、今は想像も出来ないその空しさや苦しささえ、彼がくれたものとして自分の中に残るなら、それもきっと、彼と共にいた証左になるのだと。すとん、と何かがそこに収まる。
――分かる、というのは、こういう時の事をいうんだろうか?
目の前が何故か明るい。それはあの日、幽囚獄を出て、初めて見た蒼穹を前にした時のような、透き通った気持ちだった。それを多分、彼だけが自分にくれる。
「穹」
「な、……はい」
「俺も、約束をひとつしていいか」
「……約束?」
何を言われるのかと、と少し身構えたように怯えていた穹が、その言葉でおずおずとこちらを見る。途端、彼はぼう、っと何故かこちらをじっと見つめたまま固まった。自分がどんな表情をしているのかなんて、自分にもわからなかったけれど、「俺もお前と同じだと思う」と、答える時には自然に笑えていた気がする。
「この旅が続く限り、一緒にいる」
何があっても、護ると思う。忘れないと思う。手を伸ばすと思う。追いかけると思う。傍にいると思う。手を繋ぐと思う。触れると、思う。ただそっと顔を寄せ、丹恒はそのまま穹に口付ける。くちびるを離すと、彼は「何で?」と唖然としながら尋ねてくる。
「……今、俺がそうしたいから」
彼は丹恒の答えに呆然として、まだ酷く驚いた顔のまま、「……あーこれ、夢だな」と静かに呟いた。
*
どちらが先に目覚めるかなんてわからなかったけれど、会いたくない、と会いたい、が同じくらいの比率で頭を占めていた。
とりあえずここにいたら確実に丹恒は様子を見に来るだろうし、と穹は夢境から出てきてすぐ、ドリームプールからあがると逃げるように部屋から飛び出した。飛び出そうとした。ただ、その瞬間に、廊下の向こうでドアが開いて、そこから今一番会いたくて、会いたくない人が出てきたものだから、目があって数秒、穹は開いたばかりのドアを勢いよく閉めてしまった。本日はここで閉店である。
逃げる場所を間違えた、と気付いたのは部屋に戻ってきて十数秒後、背中でドアがノックされた後の事だった。
確実に廊下を走って、このまま逃走を図るべきだった。ホテルの中であればどれだけでも逃げる場所はあったし、最悪列車に戻ってしまえばよかった。そこで撒いてまたホテルに戻ってきたってよかった。だが、丹恒は確実にこの部屋に自分が入るのを見たはずである。確実に見た。だって目が合ってしまったのだ。
穹はこんこん、と控えめだったノックが、少し強くとんとんと、そしてどんどん、と怒ったように強くなっていくのを背中で感じていた。このまま諦めて一度戻ってくれないかなあ、とドアを手で強く押さえつつ、ぼんやりとそう考えながら、穹はずるずるとそのままドアを背にしたまま座り込む。
「俺って、丹恒の事好きなのか……」
口にしたらもう、それ以外になりようのない気持ちのような気がした。口にしてしまったので、他のものにはもう戻せないし、失くしたりも出来ない。困ったことに、この「好き」というやつは突然変異で「愛してる」だとか極論「嫌い」になることはあれど、それそのものが消えることはあまりないのだった。
考えてみれば、ただ互いに好きと言わなかっただけで、多分、互いに心の一番柔らかい場所に、お互いを少しずつ招き入れていたと思う。触れてみたい、触れられたいと思う距離は、きっと心や感情の距離とよく似ているから、あとはもう二人とも「気付くだけ」だったのかもしれない。
物音がしなくなったことに気付いて、穹はふとドアを振り返る。諦めて先に列車で待つことにしてくれたのだろうか? 様子を窺おうと、ドアに耳をつけて向こう側の音を聞き取ろうとする。足音も話し声もなく、人の気配も――ない気がする。多分。よし今だな、とタイミングを見計らい、穹は勢いよくドアを開け、そして飛び込んできた影にもう一度部屋の中に戻された。腕を取られてしまったので、大人しくそこに留まるしかない。
「丹恒、」
「…………」
彼からの言葉はなかった。そうと決めたらそれを貫く癖に、気の利いたことが言えないとよくだんまりを決め込む彼である。多分、今も彼の頭の中にはいくつもの言葉が泳いでいて、そのすべてをただ、今はこうやって見つめることだけでしか、伝え方を知らないのだろう。
穹もまた、丹恒を真っすぐに見つめ続けた。それが彼の視線への答えだった。ここで逃げたらこの男はきっと傷ついてしまうんだろうなあ、とふと穹は思う。心の距離は体の距離。だが時にそれは容易く好意を反転する。逃げたからと言って嫌いになったりはしない。なりようがない。だがそうやって駆け引きをするにも、自分たちは何もかもまだ幼すぎる。
だからまだ始まるな、と願いたかった。だってこのままでは、お互い転がるように落ちてしまう。ただ、落ちてしまう。互いに止める術を持たないまま、互いが互いの最初で最後になってしまう。そんな気がした。予感であり、それはもう確信に近かった。
けれど、抗っても今更どうしようもない。丹恒へ顔を寄せ、くちびるが触れるその直前でぴたりと止める。触れるか触れないか、呼気の熱さと触れていないけれどぼんやりと感じる体温が混ざる。
穹は自分が列車に乗る、と決めた時の事を思い出した。旅と同じように突然始まってしまうこの、自分たちがどこかに至るためのすべてを、誰かが恋路と名前を付けたから、自分たちはここから前へ、ただ進み続けるしかないのだ。
「……俺もしていい、?」
回り続ける車輪のような旅を、ただ、交わしたばかりの約束と一緒に。
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