01

黒を基調としたリビングルームに玲司はいた。自室ではない、けれども趣味の良い一室は玲司の緊張を落ち着けてくれる。玲司はひっそりとため息をこぼした。無数の瞳が玲司の横顔に向けられている。俄かに覚えた息苦しさから玲司が視線を横へずらすと、ふんわりとしたシフォン生地が視界の端で揺れる。顔を上げれば、まだどこかあどけない、女の横顔が照明の少ない室内にぼんやりと浮かび上がっている。その顔が不意ににこりと笑みを型取った。輪郭のまろい、可愛らしい顔立ちだ。「緊張しますか?」と女優の花芯の如き唇がゆるりと言葉をこぼす。
「緊張というより、ちょっと気恥しいかも。プレイって人前でするものじゃないって言うし」
そうなんですね、といまいちピンと来ていないらしい女優が、くりくりした目を瞬かせている。玲司は思わず苦笑した。カメラが回る直前のどこか冷えた空気が頬を撫でる。ライブでもそう緊張するたちではない。にも関わらず心臓が跳ねていることを自覚していた。
とはいえドライでも特に問題は無かったのだ。女優はNormalであって、ダイナミクスの外にいる人間に過ぎない。しかし玲司はDomである。演技とはいえ、通常他人に決して見せない“プレイ”を見せるのだ、と思うと緊張にも似た気恥しさと、陰鬱とした不安感が胸の内に広がっていく。それに玲司には一つ秘密があった。この仕事を引き受けた時、翔が気遣わしげに大丈夫?と言った言葉の重みが、今になってのしかかる。
天羽玲司はDomであるが、Subへの転化傾向を持っていた。言うならば、Switch性に似た性質を持つDom性である。患者数はそう多くない。この世界にとってダイナミクスの力量関係とは幼少のおとぎ話であり、学生時代特有のイベントの一つに過ぎない。けれど、そのイベントを憂慮なく通り過ぎた彼らの多くはNormalであるし、ダイナミクスを有する人間であっても、明確にDom性かSub性、もしくはごく少ないSwitch性に落ち着く。どちらに転ぶかも分からない、転化傾向のあるDomなどメディアに露呈すれば格好の餌だろう。ましてや、かの天羽玲司である。俳優時代はともかくアイドルになって以降、スキャンダルを撮られたことなどただの一度もなかった。が、天羽玲司といえば熱愛、熱愛といえば天羽玲司だ。世間からすれば、天羽玲司はとんでもないモテ男だろう。実際にはプレイパートナーすら作らず、抑制剤で全ての欲求を抑え込んで何食わぬ顔をしているだけなのだが。
悲しきかなそんなプライベートを明かす訳にもいかないので、玲司は主演を務めることになったドラマ――DomとSubが出会い、恋愛関係に陥るありきたりなメロドラマである――においても、モテるDomの先輩という役柄を完璧に演じる必要があった。
玲司が息を吐き、肩の力を抜く。それから見計らったようにカメラが回り出す合図がした。

重い体をシートに預け、玲司は車窓を眺めていた。撮影はまだ折り返し地点に差し掛かった頃といったところだろうか。スケジュールとしては順調だが、一方で天羽さんって理想のDomですよね、とNormalの人間に日々ちやほやされるのは些か肝が冷える。玲司のダイナミクスなど、周囲はただ憶測からものを言っているに過ぎない。実際に玲司はダイナミクスが判明する思春期を過ぎても、社長やマネージャーをはじめとした限られた人間以外にダイナミクスを公表することはしなかった。それは事務所の方針でもあったし、玲司としても吹聴することではないと幼いなりに冷静な頭で判断したからだ。それから十年以上ダイナミクスを明かすことなく業界に居続けているわけだが、ステレオタイプという偏見は凄まじい。雑誌のインタビューで、はたまた共演者から不意に天羽玲司はDomであるという前提の質問が飛んでくるのだ。一部はマネージャーによってNGを食らい失墜していくのだが、多くは玲司が肯定も否定もしない程度に料理してやる必要があった。うんざりだ。今回に限って言えば、この類のドラマにおいて、スタッフの多くがNormalで占められていることも災いしていた。彼らの多くはダイナミクスを真に理解することはない。演者についてもプレイの伴う演技となれば、Domの俳優とSubの俳優を引き合せることは稀で、どちらかはNormalであることが多い。事故を防止するためという名目だったが、近年はそれがダイナミクスを有する人間への偏見だと主張する団体もいるようだ。しかし玲司自身はその偏見に満ちた忖度のおかげで今日まで数多のメロドラマに出演しながらも、不完全なDomだと露見せずに済んでいた。
はたと玲司が思考の海から浮上すると、夜闇にくっきりと朱色の瞳が浮かび上がっていた。窓ガラスに反射した己の姿だ。その鮮やかな色彩を隠すようにして、玲司はキャップを目深に被り直す。運転手がちらりとバックミラー越しにこちらを伺うのが見えたが無口なたちなのか話しかけてこようとはしなかった。あるいは撮影後の気だるさが功を奏しているのかもしれない。今はただ世界と自分とを、ひっそりと切り分けてしまいたかった。『キスして』と作り物のコマンドを口にしたあの瞬間、舌先にのった甘い響きに胸のすく思いがしたのだ。本能が、己はDomだと叫んでいる。燻った熱の滲む息を吐きながら、玲司は再び視線を窓の外へと向けた。繁華街を抜けたタクシーは、閑静な住宅街へと入り込む。サイケデリックなネオンは夢のように消えてしまって、静謐を湛えた暗がりを街灯が疎らに照らしていた。

「おかえり」
共有ルームに入るなり顔を見せた男に、玲司は一抹の不安を覚えた。
「ただいま。……なあ翔、飛行機の時間って昼過ぎだったよな?」
玲司は壁に掛けられたホワイトボードを指差す。そこには丸みを帯びた文字で、『フランス』の四文字が並んでいた。確かフライトは今日の十四時の便だったはずだ。
「午前の仕事が長引きそうだったから、念の為夜の便に変更したんだよ」
それに玲司の顔も見ておきたかったし。ほころぶように翔が笑うと、玲司はなんだか面映ゆくなって視線を彷徨わせた。
「……心配かけて悪いな」
「ううん、それは構わないけど……玲司、ちょっと疲れてるね?」
そう言いながら、翔は玲司の頬に触れる。温い手のひらが玲司の輪郭をなぞって、二人の視線が絡み合う。淡い菜の花色が揺らぐことなく玲司を見つめていた。
翔はDomだ。いつ転化するとも知れないSub性に苛まれる玲司を、翔はずっと見守ってきた。抑制剤ではどうしようもなくなった時には、簡単なプレイをすることもあったし、翔が玲司の頬に触れたことだって数えだしたらキリがない。Sub性に転化した時特有の、霧散しそうになる自意識と崩れ落ちていく自信を翔の手のひらは繋ぎ止めてくれる。しかしその優しさは、今の玲司にとって無用の長物に過ぎない。
玲司は奥歯を噛んだ。翔は玲司のDomではないし、玲司もまた翔のSubにはなれない。けれど玲司の苦悩の端っこを、翔は二人の秘密だね、と共有しようとするのだ。そんな人間の手を無遠慮に振り解けるほど、玲司は薄情ではなかった。このまま受け入れてしまおうか。玲司の中で暴れ回っている本能からしてみれば、正気の沙汰ではない。それでも玲司にはずるずると続けてきた秘密の共犯者を拒み、無下にするなんて、到底してはいけないことのように思えた。
「プレイは必要ないみたいだね」
ぽつりと翔が言葉をこぼす。静かな声だった。風のない日の湖畔みたいに穏やかで、柔らかな響きはどこまでも優しい。玲司がぐるぐると欺瞞の算段をつけているうちに、翔は全てを悟ったのだろう。指先が玲司の眦を撫でるようにして離れていく。頭から冷水を掛けられたみたいだ。血の気が引いて、肌が粟立つ。咄嗟に口にした「ごめん」は酷く掠れていて、翔にちゃんと伝わったかどうか定かではない。
玲司は俯いた。疲れてるから、とでも言って逃げ出してしまえば良い。そう自分勝手な考えが頭の中でリフレインするのに、これ以上翔を突き放すような真似をしたくなかった。それにこの状況を上手く切り抜ける冴えたセリフ、なんて翔の前では見え透けたハリボテだろう。とはいえ酸素の回り切っていない脳みそは自分勝手なことばかりを囁く。こう見えて誠実なんだけど、なんて暫く言わない方が身のためかも知れない。
「ごめんな、翔」
ズレてしまったピントを合わせるみたいだった。俯いていた顔を少しだけ上げて、ようやく玲司は翔を見る。翔は眉根を寄せ、その瞳には憂いにも憐憫にも似た色を浮かべている。この顔をさせているのは自分なのだと思うと、心臓がじくじくと痛んで、いくらでも自罰的になれそうだった。
翔がふるふると首を振った。「僕の方こそ焦っちゃってごめんね」と困ったように笑う顔が、玲司の心をチクチクさせる。堪らなくなって、翔の手を取った。温い手のひらを包み込みながら、玲司は翔のせいじゃないだろと繰り返す。触れ合ったところから、本心が全部翔に伝われば良いと思った。
「ねえ、玲司。僕も孝明もきみのパートナーにはなれないかもしれないけど、困ったことがあれば相談して良いんだよ」
「……分かってる」
玲司の冷えた手のひらはいつの間にか翔の温度に馴染んでいた。翔は玲司の手を握り返しながらまた困ったように眉を下げる。翔のけぶるような睫毛の先が、雪みたいにまっさらな頬の上へ影を落としている。その下にある瞳の色を覗き見るのはなんだか憚られて、玲司はただ押し黙って翔の俯いた頬の輪郭を眺めた。翔の薄い唇が微かに開いては戸惑ったように引き結ばれるのを見ながら、玲司は翔にもパートナーってやつがいるんだろうか、などと下世話なことを考えた。いないだろうなと思う。少なくとも今は。それは玲司の勘に過ぎず、ある種願望だった。

四年前の夏のことである。
その頃にはROCKDOWNの活動も軌道に乗り始めて、アイドルと俳優の二足の草鞋にも慣れてきていた。新作映画の主演にライブ。果ては雑誌のインタビューに連続ドラマの当て馬役。役を変え、服を変え、都内をタクシーで駆け回る。時計がてっぺんを超えてから撮影が終わることもしばしばあった。変則的な睡眠時間と黒く埋まったスケジュール帳でもって玲司は煌めく舞台の上へ躍り出る。プレイをしなくても、抑制剤ひとつで欲求を抑え込むことは拍子抜けするほど簡単だった。Domだと根も葉もない根拠でもって囃し立てられることはしばしばあった。けれど忙しさも噂も、そんな苦痛とは程遠い高揚に背中を押されて気にならなかった。今でもくっきり思い出せるほどに鮮烈な日々は、とはいえ朝から晩までロボットのように仕事のサイクルを回し続けていたわけではない。付き合いの飲み会や打ち上げに呼ばれることも仕事の本数に比例するように増えていて、それはある映画の打ち上げの席だったように思う。
「玲司さんってパートナーとかいるんですか?」
極めて軽い調子で共演者たちも真っ青な質問を玲司に投げつけてきたのは、玲司よりもいくらか若い俳優だった。ツキプロではないが、そこそこ大きな事務所に所属していた男は、けれど玲司と比べれば芸歴なんて干支一周分では収まらない程の開きがあった。ヒヤッとしたのは玲司ではなく、同じテーブルに座っていた俳優たちの方だ。お前、と口々に窘めるような声が上がる。それから、男はようやく自分のしでかした失態を理解したのか「すみません」と顔を青白くさせた。どっと隣のテーブルから笑い声が上がる。けれど玲司たちのテーブルは誰も彼もがおしなべて口を噤んでいた。お前のせいでお通夜みたいだよ、とは誰も言わなかったが、それでも幾人かの顔が強張っていることは誰の目から見ても明らかだ。
ツキノ芸能プロダクションはダイナミクスを公表することを好まない。一般に広く知られた事務所の方針である。世間ではダイナミクスを売りにする俳優やアイドルがいないわけではない。しかしツキプロにおいてダイナミクスを売りにすることは、一種のタブーだった。下手な色恋営業よりも本能を相手取るダイナミクス売りはたちが悪い。それを社長である月野尊も、所属タレントたちも十分に理解しているが故の方針である。玲司もご多分に漏れずその方針を遵守してきた。幼少のみぎりから芸能界で仕事を続けているために、ダイナミクスを飼い慣らすことができずに派手なスキャンダルと共に姿を消した人間を、玲司は両の手では足りない程見て来たのだ。二の轍を踏まないでおこうと恐怖心にも似た警戒を抱き、自身のダイナミクスが判明してからはその抑制に努めるのはごく自然なことだった。しかし玲司にとんでもない質問をした男はそんな事情知る由もないのだ。周囲もまた言葉を濁しながら、ツキプロって恋愛禁止の噂とかあるだろ、などと言っている。確かにそんなルールもあったなと思い返しながら、玲司はビールで微かに唇を湿らせた。
「……アイドルにそういうこと聞いちゃうー?」
ジョッキを置きながら、玲司はにやりと口の端を持ち上げた。玲司の発した言葉に、張り詰めていた空気が緩む。何度か共演したこともある、顔見知りの俳優たちはくすくす笑って「玲司は演技ができるアイドルだもんな」と茶化した。「まだ俳優のキャリアの方がアイドル業より長いわ」と玲司も笑って言い返す。ドッと笑い声が沸いて、緊張の糸は霧散する。しばらくすれば男の青白い顔にも赤みが戻り、俳優たちは思い思いの料理をつまみながら話はいつの間にか演技論へと白熱していった。

用意してもらったタクシーに乗り込んだ玲司は、硬いシートに凭れながら秘めやかにため息を漏らした。行き先を告げ、走り出したタクシーの車窓越しに派手なネオンが玲司の横顔を照らす。パートナー、と男の妙に明るい声を思い返した。パートナー。パートナーね、と口の中で反芻する。あの場では言わなかったが、いねえよと冷めた笑いが零れそうになって咄嗟に口元を手で押さえた。パートナー――といってもほとんどプレイをするだけの恋人未満の関係だが――が最後にいたのはバズロックプロジェクトの話が出るずっと前だったか、と玲司は暫し回顧する。当時はまだ十代を脱したばかりで、ようやく酒の味を覚えた頃だったように思う。同業の女だった。瑞々しい薔薇の色を彷彿とさせる鮮やかな瞳が印象的な、玲司よりも三つか四つ上の女優。苗字が星河で、天羽と並べるとやれ七夕だ天の川だと連想しては周囲が面白がっていた。確かあれは学園モノの推理ドラマだ。玲司は主人公の助手役で、星河は主人公の姉役だった。作中では何かと玲司と星河の役が主人公に置いてけぼりを食らっては、焦ったり文句を言ったりしていたっけ。主人公を挟んで関わり合う助手と姉の空気感はいつしか玲司と星河にも伝播して、現場でも指折りの仲良しコンビだった。
その頃二十歳になったばかりの玲司には二十三、四の星河は大人の女に見えて、すっきりとした横顔と鮮烈な瞳の色に玲司は胸を高鳴らせていたと思う。彼女の鋭さすら含んだ視線がふと緩む。その瞬間が好きだったのだ。思い返せば当時の玲司は青くて刺々しくてがむしゃらに突っ走ることしかできなかったから、星河はよく玲司のことを窘めたり、励ましたりしていた。その振る舞いは姉のようだったが、玲司の胸の内にあったのは憧憬を多分に含んだ恋慕で、幼さの抜けなかった玲司はその感情を星河に利用されたのだ。彼女は美しい女だったが、悪い大人だった。
彼女が当時好んで使っていたローズとホワイトムスクの華やかな香りは玲司から幼さを奪い取り、見返りに星河は玲司に良い酒の飲み方と煙草の吸い方を教えた。転がり落ちるように玲司は星河に尽くしていたと思う。うんと背伸びしてホテルのディナーに行ったことは一度や二度ではなかったし、彼女の行きつけだというバーに誘われて潰されたこともあった。しかしこの拗れた関係の終焉を、玲司はおぼろげにしか覚えていない。自然消滅だった気もするし、バイバイと言われてそれっきりだった気もする。当時の星河の奔放なたちを考えれば、その辺に煙草を買いに行くような気軽さでバイバイと言ってきた可能性が大いにあった。思い返す程、最低最悪の恋人だ。
不毛なことをつらつらと考えているうちに、タクシーは緩やかに停車する。住宅街の一角にそびえる代官山寮はとうに零時を過ぎたせいか、ひっそりと静まり返っている。支払いを済ませて降車すると、頬を生ぬるい風が撫でた。飲みすぎた自覚は無かったが、酔いが回っているのか玲司は少し不安定な足取りでエントランスをくぐろうとした。
「……玲司?」
不意に背後から声を掛けられた玲司は、足元が階段であることも忘れてたたらを踏んだ。元々ふわふわと覚束無い足取りだったのだ。バランスを崩すまではあっという間で、まずいと思う頃には誰かに抱き止められていた。
視界の端に緩くウェーブがかった白髪が映る。鼻先を掠めた沈丁花の芳香に、男が翔だと確信した。
「……わるい」
「だいぶ酔ってるね」
ふふ、と翔が耳元で笑う。玲司はバツが悪くなって翔から身を離した。暗がりの中で街灯に照らされた翔の顔は、いつもと変りなく優美な笑みを浮かべていて、しかし長時間のフライトのためかその目元には僅かに疲労の色が滲んでいる。
踏み外した階段を再び上がりながら、玲司は翔の横顔を見つめる。
「僕の顔に何かついてた?」
「いや……一瞬酔っ払いすぎて翔の幻覚でも見てるのかと思った」
「あはは、幻覚じゃないよ」
翔はあどけなく笑った。空調の効いたロビーの冷ややかさが玲司の熱を冷ましていく。がらがらとスーツケースを転がす翔の頬は白く、外の暑さなど知らないようだった。
「……向こうで一週間、演奏会ついでにのんびりしたらって話だったのだけれど、いざ演奏会が終わってお休みに入ったら、今度はみんなに会いたくなってしまったんだ」
エレベーターに乗り込むと、翔は口を開いてそう言った。玲司は背を壁に凭れさせながら丹念に見つめていたはずの横顔から目を逸らす。酒とは違う類の熱が胸の内にあった。表出した翔の感情の一端を玲司だけが知っている。それを玲司と翔だけの秘密にしてしまうには些か気恥ずかしかった。それに玲司は酔っ払いの体であったから、そんな軽薄な人間一人に伝えるにはあまりにも純朴な好意だ。
「明日言ってやれば? みんなに会いたくて一週間のバカンスを三日で切り上げて来たって」
玲司は唇の片端を持ち上げ、薄らとした笑みを浮かべる。そうしている間も、アルコールのせいか元々夏バテ気味であったからか、頭の芯がぼうっとしていた。しばらくするとエレベーターのドアが開き、のっぺりとした暗がりが現れる。「もう皆寝ちゃったみたいだね」と密やかに翔が言った。翔に続いてよろめきながらエレベーターを降りた玲司だったが、数歩も歩かないうちにその場にへたり込んだ。目眩にも似た感覚だった。酩酊というより発作のような、得体の知れない何かが起こっている。顔色を変えた翔が照明のつけられたキッチンに消えていくのに、傍目から見ても酷い有様らしいと悟って玲司は自嘲した。
浅く、細切れの呼吸が玲司を追い立てる。これは酩酊などではない。玲司は冷えた床に蹲り、苦しさからか溢れた涙がその頬を濡らしていく。よく効いた空調が玲司の熱を奪い、床についた手のひらはもはや冷えた床の温度と同じく冷え切っていた。このまま冷えた手のひらから自分の存在ごとほつれていって、この場に霧散してしまいそうで怖くなる。体の奥底から込み上げてくるような、身に覚えのない懊悩に頭を振った。
眩い舞台に立つために何かを惜しんだことはない。幼少のみぎりまで遡っても、その苦悩にもがき苦しんだことはただの一度もなかった。だというのに心が勝手に軋んで、何かに刺し貫かれたように痛い。この胸に収まっているのは確かに玲司自身の心なのに、自分勝手に痛んで悲鳴を上げて、挙句の果てに『寂しい』とのたまうのだ。許せないと思った。溢れ出る涙が生理的なものなのか、それとも主である玲司を無視して溢れ出した寂しさのせいなのか玲司には分からない。そうして、その分からないことが許せなかった。流れる涙を止める術を玲司は持たない。何が理由なのかも分らぬまま、流れ落ちた涙の粒がぼたぼたと塩ビの床に正円を描き出す。玲司は拭うこともせず薄暗い足元に落ちていく雫を見ていた。茫然と言って良い。玲司は茫然とそれを眺め、時折胸を掻き抱いてはその痛みを逃すことしかできなかった。そうしているうちに、床へついた玲司の手を細い指が掬いあげる。のろのろと顔をあげた玲司の視界は涙に歪んでいたが、翔の長い睫毛にふちどられた瞳が悩ましげに細められるのが分かった。
かさついた男の指先が玲司の眦を撫でる。触れられたところから自分の輪郭が解かれていく。とびきり良い仕事ができた時の高揚感とも、好きなSubとプレイした時とも違う、未知の快感が背筋を這い上がった。もっと、ずっとそうしていて欲しかった。翔がそうしているだけで、前触れなく玲司を苛んだ寂寞感が遠のく気がしたのだ。
「水、飲める?」
差し出されたグラスと引き換えに翔の指が頬を離れる。途端、遠のいていたはずの寂しさが身を襲い、咄嗟に玲司は翔の腕を掴んだ。何もかもが可笑しいことは百も承知で、玲司は仲間である翔を頼る他なかった。
玲司の身を焦がす衝動がたとえ、噂に聞くSubdropの様相を呈していたとしても。
玲司はねめつけるように翔を見上げる。今ここで玲司を救ってくれるのは、他でもなくDomである翔だけだった。だから早く救ってくれと願う。情けなくて惨めで、その癖一番合理的な選択だ。翔はしばらく思案するように視線を彷徨わせた後、眉根を寄せながらも玲司の涙でしとどに濡れた頬に触れた。翔もまたひとかどのDomであったから、思い当たる節があったのだろう。
「……セーフワードは?」
「“カラー”で良い」
翔の瞳が不安げに揺れる。その目は「そんな適当なセーフワードで良いの」とどこか玲司を憂慮するようだった。カラー――パートナーとなったDomがSubに贈るそれは、今の玲司にとって最も縁遠い物だ。滅多に口にすることのない三文字に、玲司はちょうど良いと思っただけのことで、言葉はそれ以上の意味を持たない。しかし翔にとってはそうではないらしく、暗く、静かな笑みを浮かべるばかりだ。その慈悲が恨めしく、焦れた玲司は頬に触れる翔の指先を手のひらで包み込んだ。なにも抱けとは言っていないのだ。ただ、無遠慮に身の内で揺れ動く苦悶をやわらげてほしい。
重ねた指を翔が優しく解く。願ったところでその一線は越えられないかと玲司は落胆した。らしくもない暗澹とした気持ちが止めどなく溢れ出して、涙はまるで本当に玲司が悲しみから流しているのだと錯覚しそうになる。翔の瞳に自分が映っていることが堪らなくなって、玲司は視線を逸らそうとした。
「“そらさないで”」
は、と息が零れる。見開いた目から涙が溢れた。翔の白い指先が玲司の眦を拭い、玲司の息が上がる。不安も期待もなにもかもが綯い交ぜになって無理やり胸に押し込んだように痛みが広がった。視線が絡めとられ、玲司はすっかり翔に魅入られていた。あやすように眦を撫でる指先は涙の露に濡れている。しかし翔はそれを気にするでもなく玲司に触れた。互いに見つめ合い、玲司は翔の目の奥に見たこともない感情の色が滲んでいることに気が付く。そうして玲司は思わず息を飲んだ。耳鳴りがするほどに玲司の心臓が脈打ち、呼吸が乱れる。Domの顔だと直感で分かった。きっとかつての玲司も同じ顔を彼女に向けていたのだろう、とも。
「ゆっくり息を“吸って”」
浅く呼吸する玲司の肩を抱き、翔は柔い声で囁く。玲司はつとめてゆっくりと息を吸った。
「“吐いて”」
とん、とん、と翔は玲司の背中を優しく叩いた。早まっていた呼吸がいくらか落ち着き、微睡みにも似た心地よさが玲司の身に広がっていく。「落ち着いてきた?」と耳殻を擽る翔の声に、玲司は肩を震わせる。
「……ああ」
「ふふ、上手くできたね」
淫靡さの欠片もない笑みを浮かべた翔が玲司の頭を撫でた。細い指先が髪を梳くように撫でるのを、玲司は半ば夢見心地で感じる。このまま自分の輪郭が解けていって、天羽玲司に戻れなくなってしまったらどうしようか、などと非現実的なことを思うのに、それが全く不安ではない。きっと翔の手が玲司をまた天羽玲司に戻してくれる、そんな妙な信用があった。「なあ」と玲司は掠れた声で翔を呼んだ。
「今日のこと、秘密にしてくんない?」
平生の軽薄さを取り戻した玲司の声に、髪を撫でつけていた翔の手がぴくりと止まる。翔は暫しの沈黙の後、苦笑とともに緩慢に頷いた。

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