チェズモクワンドロワンライ第128回「和装」




 昼を過ぎ、夕方に差し掛かろうとしている太陽の光は幾分穏やかなものとなっている。少なくとも、眩しさと暑さでずっと外に居たら目が眩むようなものではない。
 それはこの南国にしばらく滞在して、モクマが学んだことだ。だから最近では、モクマがチェズレイを散歩に誘う時は特に決まった用事が無いときは大体この時間帯になっていた。前に天気のいい真昼間に連れ出したら、暑さに弱く目の色素も薄いチェズレイはほんの少しだけ疲れた様子を見せていたから。
 ヴィンウェイで負った大傷がある程度癒えて無事に退院してからも、チェズレイの身体が万全に戻るまでは世界征服は一時休憩。モクマとチェズレイはこの南国でありふれたバカンスのような穏やかな日々を過ごしていた。たまにはこんな時間があってもいいだろう、と思いモクマはこの日々を楽しむことにしている。チェズレイもそうなのだろう。お前の体がちゃんと治るまでは世界征服は休憩、とモクマにストップをかけられてからは、この穏やかな日々を素直に享受してくれていた。
 医者の言うとおり、チェズレイの体の回復はモクマが思っていたよりもずっと早かった。もう激しい戦闘でもない限り、身体の動きも体力的にもほとんど支障はないだろう。だから最近では二人での散歩は少し遠くまで足を延ばすようになっていて、そうやって新しい場所を散策することが楽しみのひとつになっていた。

(――あ、また)
 すれ違う人を、モクマは思わず視線で追いかけてしまった。そんなに見るのはよくないだろうと慌てて視線を戻すが、隣に居る聡い相棒は当然のようにモクマのその仕草に気付いたようだ。チェズレイは、フフ、と小さく笑ってからモクマに向けて口を開く。
「『さっきから着物の人をよく見かけるなあ』、――ですか?」
「あ~……流石だねえ、チェズレイさん」
「お褒めにあずかりまして」
 モクマの胸中を一言一句違わず当ててみせたチェズレイは、その顔に微笑みを浮かべながら続ける。
「このあたりに、主に観光客向けに着物をレンタルできる店があるそうですよ。最近人気だそうで」
「へえ、そうなんだ。っちゅーかお前さん、このあたりのことももう詳しいね……?」
 このあたりは、自分たちは今日初めて来たはずだ。何か目的があったわけでもなく気の向くままに足を向けた場所だったから、ここに来ることも特に予定していたわけでもなかった。モクマの言葉に、チェズレイはなんてことない声色で「ええ。調査済みですよ。この国のことはもう、大体は」と返してみせる。
 そんなチェズレイに、「流石だねえ……」とモクマが繰り返すとチェズレイは「性でしてねェ」と悪戯っぽく笑う。
「着物かあ、こんなとこで見るとは思わなかったな。カグラ姫ブームとかなのかな? ミカグラでもそうだったよね」
 そう言ったモクマはちらりと隣の男を一瞥し、思いついたまま続ける。
「着物、お前さん結構似合うかもね。背筋いつもしゃんとしてるじゃない。着物ってさ、背筋がぴんと伸びてるほうがかっこよく見える服だから」
 そうするとチェズレイはモクマの言葉に「なるほど」と何か納得したように頷く。何がなるほどなのかと思っていると、チェズレイの言葉はこう続いた。「あなたの母上も、背筋がしゃんとしていましたものね」。
 そう返されるとは思っていなくて、モクマは目を瞬かせた。少しどきりとしたのは、嫌だったからでは決してない。ただ、数日前の緊張が少しだけ蘇ったのと、今ここでその話が結びつくのかと思ったからだ。職業柄もあるのかも知れないが、やはりこの男は人をよく見ている。

 この国に来た大きな目的のひとつであったモクマの母親との再会、およびモクマの今の生き方の報告は数日前に行ってきた。勿論、チェズレイも一緒にだ。
 数十年ぶりに顔を合わせたモクマの母は、当然のことながらモクマの記憶よりずっと年老いていたが、子どもの頃に最後に見た顔の面影は残していた。厳しさもありながら、優しくもある母だった。
 訪れた彼女の今の家の構造はミカグラに住んでいた頃と近い畳での生活をベースにしたもので、洋服を着ることもあるけれどこっちの方が落ち着くのだと着物姿で出迎えてくれた。チェズレイの言うとおり、母は歳を重ねても背筋はしゃんとしていて、着物がよく似合っていた。

「――この辺りは、あなたの家族と同じようにマイカから移住してきた人が他にも複数いたようでしてね」
 モクマが思いを馳せていたところに、チェズレイは続ける。
「マイカの慣習が残っているところも少なくないようです。着物が人気なのはカグラ姫ブームも影響しているのかもしれませんが、元々この地で件の着物のレンタル店を始めたのもマイカ系の二世の方だとか。他の国にはない独自の服や文化として、観光客に人気が出つつあるようですよ」
 そう言ったチェズレイの瞳が、ふいと遠くを見るように細められる。視線の先は海だった。きらきらと陽の光を受けて輝く海は、この島の外に、世界中に――勿論遙か遠いミカグラ島にも続いている。
「ミカグラからこんなに遠い場所にも、我々が知らぬうちに文化は根付いている。不思議なものですね」
 チェズレイのその瞳も今、海の向こうのミカグラ島を見ているのだろうか。
「人が生きる力というのは、きっと人が想像するよりもずっと強いということなのでしょう」
 海にゆっくりと溶けていくような、そんな静かな声色だった。チェズレイの言葉に、モクマは「そっか。……そうだねえ」とゆっくりと噛みしめるように頷く。

 ミカグラ島は、マイカは、チェズレイの人生にこれまでまったく縁のない土地だっただろう。それをこんなふうに穏やかで深い感情のこもった表情で見つめるのは、チェズレイにとって人生が変わった場所、かけえがえのない絆が生まれた場所、そしてなによりも――モクマと出会った場所だからなのか。あるいは、相棒がずっと手放さずに心に持ち続けている故郷であるからなのか。
 その全部であってくれたらいいと、モクマはそう思う。
 マイカの里はあの日、水の底に沈んだ。しかしマイカの人々はブロッサムの中で新たな街を作って暮らしているし、かつてマイカを離れた人もこうやって遠い新たな土地でマイカの文化を持ち続けながら生きてきたのだ。
 ――モクマにとってミカグラ島、マイカの里は一言で言い表せるような場所ではない。一言で、大事な故郷だと胸を張って言い切ることができたならよかっただろう。勿論、懐かしくて大切な場所であることは間違いない。けれど思うところもあれば、苦しい記憶だってある。しかしそれら全部を含めて、モクマにとってどうでもいい存在にはきっと一生なり得ない場所。これからもずっと手放すことはできないであろう故郷だ。
 だからこそチェズレイがモクマの中に在り続けるマイカへの思いの一端を、少しでも持っていてくれるのならば、とても嬉しいと思った。

 柔らかな風が吹いて、チェズレイの長い髪を浚うように小さく揺らす。モクマはそのさまを視線で追いかけてから、すぐそこにあったチェズレイの手に自分の手をそっと絡めた。ほとんど触れるだけのささやかな触れ合い。しかし手袋越しにもチェズレイの手の温度が伝わってくる。
 チェズレイが少し驚いたように視線を動かしてモクマを見る。これまで、こんな風な触れ合いを自分たちはしたことがなかったからだろう。とりわけ、モクマからなんて。
 チェズレイの顔に嫌そうな色がないことを確認してから、モクマはこれは偶然触れたのではなくて明確に自分の意思をもったものなのだと示したくて、絡めた指に少しだけ力を込める。
「チェズレイ」
 ヴィンウェイでの一件を経て、チェズレイが入院している間ずっと自分の中で考えていたことがあった。
 ルークとアーロンに、ヴィンウェイの件での協力のお礼にとステッカーを送った際に同封した意味深なメッセージカードも彼らの手元に届き、答え合わせもすっかり終えていることだろう。もうすぐ、ミカグラ島で彼らと共に過ごすホリデーだ。この南国で過ごす日々もあとわずか。賑やかで楽しいホリデーを終えれば、また世界征服へと邁進する自分たちの日常に戻ることだろう。
 この日々が終わる前に、どうしてもチェズレイに、伝えておきたかったことがある。
 にわかに真剣になったモクマの声色。聞いてくれるか、という思いを込めてチェズレイを見上げる。そんなモクマを見つめ返すチェズレイの瞳は、そっと続きを促すように、静かにモクマの言葉を待っていた。その眼差しに、繋いだ手のあたたかさに背中を押されてモクマはゆっくりと語り始める。
「……俺さ、お前とこれからずっと同じ道を行くからといって、互いの過去まで全部共有する必要はないのかなって思ってた。勿論隠すつもりはないし、そもそもお前さんは俺のことは言わなくても全部もう知ってるのかもしれんがね」
 そう言ってモクマは小さく笑う。
「俺たちは随分と大人になってから出会ったじゃない。ルークとアーロンみたいに、小さい頃の記憶を共有しているわけでもない。互いに知らない時間の方が、ずっと多いんだ。……言いたくないことがあるなら無理に言わなくたっていい。自分の内側だけにとどめておきたいことがあるなら、言葉にせずにそっと持っておきたいことがあるならそれでいい。何でも互いに踏み込むことがすべてじゃないって、そう思ってたけど」
 モクマはそこで一度言葉を切る。すう、と息を吸ってから、チェズレイに届けるためにもう一度口を開く。
「少しずつになるかもしれないけど、お前に聞いてほしい」
 チェズレイの瞳がわずかに揺れた。モクマはそのさまをじっと見つめてから、続きの言葉を口にする。
「そう、今は思ってる。俺のこと、昔の話、……お前に聞いてほしいし、俺が持ってる荷物をさ、少しだけでいい。お前にも持って貰えたら嬉しいって思うんだ」
 今までしてこなかった家族の話。自分の問題だからと思って仕舞い込んできたこと。
 でも、お前にも持っていてほしいと思ったから、俺はお前をこの地に連れてきた。
 お前の荷物も持たせて欲しいと願ったから、俺はお前を極北の国まで追いかけた。
 これがエゴだって分かってる。そうしなくたってこの先また、同じ道を行くことはできるのだろうと思う。でも、そうしたいと思った。それをお前にだけは許されたかった。
 それを、お前に望める俺でいたいと思ったんだ。
「だから」
 そうモクマは続ける。
「いつでもいいし、少しずつでいいんだ。お前の荷物も、おんなじように俺にも持たせてほしい」
 勿論、無理に全部とは言わんよ。だけどさ。モクマはひとつ瞬きをしてから、もう一度チェズレイを見た。
 モクマの生涯の相棒が、出会えた幸福が、モクマの言葉を待っている。
「お前とはそうやって歩いていきたい。だって俺たち、ずうっと、同じ道を行くんだ、この先」
 チェズレイはモクマを見つめ返してから、その言葉をゆっくりと噛みしめるみたいにその長い睫毛を僅かに伏せる。「……ええ」と言ってから、チェズレイは小さく微笑んだ。柔らかくて優しい表情だった。
「私も、あなたに知ってほしい。そして、あなたの話も聞きたいです。……すっかり長く一緒に居るような気がしていましたが、あなたと出会ってまだ二年も経っていないのですよね」
「そうなんだよね。濃厚だったからねえ……」
「でもきっと、これからの人生の方がずっと長い」
 フフ、とチェズレイが小さく笑うので、「楽しみだねえ、塗り替えられる日が。おじさん長生きしなくっちゃ」と言ってモクマもつられるようにくつくつと笑った。
 きゅ、と握った手がチェズレイから握り返される。そして軽く引かれて、二人の距離が一歩分縮まる。
「……モクマさん。少し寄り道をしても?」
「うん? 勿論いいけども」
 話の流れが急に変わって、モクマは首を傾げる。どこにだろう、と思っていると、チェズレイの視線がふいと指し示すように通り沿いのある店に向いた。
「……呉服屋?」
 モクマが言うと、チェズレイが「ええ。件のレンタル店とは異なりますが、このあたりでは評判の店とのことで」と頷く。
「折角ですから、私も着物というものを少し着てみたくなりまして。あなたの故郷の文化だ。知識としては知っていても、実際に身につけたことはありませんでしたのでいい機会です。それに、私に似合うと思ってくださったのでしょう?」
 首をこてんと軽く傾げながら、最後だけ少し芝居がかった口調で言ってみせるチェズレイにモクマは思わず笑ってしまう。
「そこから始める? 本当、律儀者だねえ」
「実践から学べることもあるでしょう。着付け方、教えてくださいます?」
「勿論。ちゅうて、ちゃんとした着物着たのなんて随分と昔の記憶になっちまうけど、まあ多分大丈夫……」
 段々と萎んでいくモクマの返事に、チェズレイはおかしそうに笑う。手を引かれて、モクマもチェズレイの隣で歩き出す。長さも歩く速度も違う足。けれど少し呼吸を合わせれば、同じ歩幅で歩くことができる。この二年弱で互いにすっかり染みついたものだった。
 こんなふうに、少しずつ、ひとつずつ。互いのことを教え合って、互いのことを知っていきたい。いくつもの段階をすっ飛ばして始まったような相棒関係だった。だからさ、今更でも、そこからもう一度始めるのはどうだろう。
 時に思い出すことも苦しくなるような記憶だって、だから閉じ込めた思いだって。お前にちょっとだけでも持ってもらえたら、分けあえられたら。過去を変えることはできないけれど、きっと優しいものでその記憶を包んであげることができるから。
 俺もお前にそんなふうに与えることができたらいいと、そう願っている。
「モクマさん、ぼうっとして……何を考えていらっしゃるので?」
 そうモクマに問いかけるチェズレイは、きっと聞かなくてもモクマの考えを読んでいるのだろうと思った。モクマを見つめる瞳が、その少し不服めいた口調に反して柔らかく微笑んでいたから。
「んー。着物デートっちゅうのも楽しそうだな、って」
 モクマはそんなふうに笑って返す。件の呉服屋はもうすぐだ。モクマの言葉に目を細めて「では、あなたに似合う着物も張り切って選ばなくては」と言ったチェズレイの声色は、今にも歌い出しそうに楽しげなものだった。

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