【原利土1819IF】頸と心25(完結


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二十五 心




 黒が氷ノ山へ来て、一年が過ぎた。
 この春から黒は忍術学園の教師になる。学園に勤めることになった経緯は単純だった。伝蔵が学園に戻る折、黒の腕を学園長に推挙したのだ。経歴も素性もまともに明かせない人間を教壇に立たせるなど正気の沙汰ではない。けれども伝蔵は「学園長は変わり者だから話が早い」と笑い、黒が断る間もなく話を通してしまった。
 きっと伝蔵なりに、黒の今後を心配していたのだろう。忍術学園。出る者も入る者もチェックされ、勤める教員は手練ればかりと聞いている。追われる身で潜伏するには、確かにもってこいの場所だった。
 以前、あの利吉が言っていたことを黒は思い出した。
 ──夢の中で、お前は忍術学園で教師をしているようだった。
 そんな夢みたいなと、あのときは二人で笑った。まさか本当になるとは思わなかった。夢にも。

 出立の日は春の朝だった。
 山の空気は澄んで、木々の淡い緑が朝日に透けていた。黒は荷を纏め、草鞋を履き、山田家の門口に立っていた。今日から伝蔵の案内で学園へと向かう。見送りは利吉だった。母は家の中でまだ伝蔵の持ち物の支度をしている。
 利吉は十三になっていた。一年で随分と背が伸びた。黒の肩に届くかどうかだった頭が、今は顎の高さに近い。顔つきも随分としっかりした。最近の利吉は、子供と大人の境目にいる顔をしている。
 黒は、自分が忍術学園に行くとなると利吉はきっとごねるだろうと思っていた。べったりと懐いた一年だ。朝から晩まで一緒にいた。稽古も書物も食事も花見も、何もかも二人でやった。離れるとなれば当然あの生意気な口が不満を並べ立てるだろうと踏んでいた。──けれど。
『そうですか。よかったです』
 利吉はそれだけ言った。黒は当然、拍子抜けした。
『……それだけか』
『はい。私も数年は修行の身になりますから、ちょうどいいのでは』
 利吉は腕を組んで涼しい顔をしていた。拗ねてもいない、怒ってもいない。ただ淡々と事実を述べているように見えた。
 黒にはそれが、少し寂しかった。
(──寂しい?)
 自分の感情に気づいて、黒は内心で首を傾げた。いやいや、何だ寂しいって。子供が巣立つのは喜ばしいことだ。利吉が自立しようとしているのは良いことだ。何を寂しがる必要があるのか。

「じゃあ……元気で」
「はい。お兄ちゃんも。……先生頑張ってください」
 そんなふうに出立前も、些か淡白なやり取りだった。もっと何か言うべきだろうかと黒が逡巡していると、伝蔵が家の奥から母に呼ばれた。
「あなた、ちょっと。荷に入れ忘れたものが」
「ああ、今行く」
 伝蔵が家の中に戻り、門口には黒と利吉だけが残された。黒が何を言おうかと悩んでいると、利吉が一歩、近づいた。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「一つ、渡し忘れたものがあります」
「何を──」
「ちょっとかがんでください。届かないので」
 黒は深く考えずに身を屈めた。利吉が何か小声で言っている。
「──が……から」
 聞き取れない。小さすぎる。わざとか。いつもは無駄に声が通る子なのに。
「何だ、聞こえない」
「……だから、近くに」
 利吉が黒の袖を引いた。弱い力だ。黒はさらに身を屈めた。利吉の唇が動いている。まだ聞き取れない。吐息のような声だった。
「もう少し……」
 利吉が囁いた。目を伏せている。睫毛が頬に影を落としていた。黒は首を傾け、利吉の口元に耳を近づけた。利吉の呼吸が耳にかかる。甘い匂いがした。子供の匂いだ、と黒は思った。その一瞬──完全に油断していた。
 利吉の手が、黒の襟を掴んだ。それごと引かれて、利吉の方を見ると切れ長の目が間近にあった。
「りき──」
 唇を塞がれた。
 一瞬、何が起きたか分からなかった。
 利吉の両手が黒の襟を掴んでいる。引き寄せられ、唇に柔らかいものが押し当てられている。それが利吉の唇だと理解するまでに二呼吸かかった。
 それは、明確に口吸いだった。舌が歯列の間を割り、黒の口腔に滑り込む。濃厚な意志を持った口吸い。どこで覚えた。いつ覚えた──そんな疑問が頭を過ったが、利吉の舌が上顎をなぞった瞬間に思考が白く弾けた。不覚以外の何者でもない。十三歳の子供の口吸い一つで何を息を上げているのか。いや、違う。利吉が巧みなのではない。冷静に考えれば十三歳らしい拙さのある口技でしかない。それなのに腰に力が入らない。甘やかな感覚に、引き剥がそうと利吉の手を掴んだ手が震えた。掴んでいるのではなく、しがみついていると言う方が正しかった。
 利吉が唇を離した。
 至近距離で、あの目が笑っていた。獣の目。一年前の夜、夜具の中で黒を射抜いたあの目。あの時は萌芽だったものが、一年の間に確実に育っている。
「──もうすぐ、大人になるので」
 利吉は言った。声は平静だったが、耳の先がほんの少しだけ赤い。それでいながら笑って続けた。
「待っていてくださいね」
 黒は目を白黒させていた。唇にまだ利吉の感触が残っている。体温が残っている。舌の感覚が残っている。何も反応できずにいると、利吉は一歩退がって勝ち誇った顔をした。してやったり、という顔だ。このまま黒が狼狽したまま出発するのを見届けるつもりだったのだろう。
「この……」
 ──クソガキが。
 黒の中で、何かが切れた。
 怒りではない。正確に言えばそれは怒りにごく近い何かだった。一年間、この子供に振り回されてきた。夜具に潜り込まれ、言質を取られ、猫を手懐ける手つきに心を乱され、熱を持て余して叢に逃げ込むような真似までさせられた。そして今、餞別とでも言わんばかりの奇襲の口吸いでまた惑わされている。大人を舐めるのも大概にしろ。
 黒は利吉の襟を掴んだ。
「お兄ちゃ──」
 言い終わる前に、唇を塞いだ。
 今度は黒の番だった。利吉の唇を割り、舌を深く差し入れた。さっきの利吉の口吸いとは比較にならない。同じ身体だ。十三でも十八でも急所は変わらない。どこに舌を這わせれば息が止まるか、どこを吸えば思考が飛ぶか、利吉という人間の身体の急所を、黒は知り尽くしていた。
 利吉の舌を捉え、軽く吸うと腕の中の身体が跳ねた。上顎の奥を舐め上げると鼻から詰まったような息が漏れる。唇の裏側を舌先で辿る。舌の縁を擽る。利吉の身体からじわじわと力が抜ける。利吉は黒の胸を押し返そうとしていた。けれども手に力が入らない。少年期の身体は正直で、経験のない刺激に対処する術を持っていない。膝が震え始めた利吉に、黒は容赦しなかった。
 利吉の下唇を軽く噛み、舌を絡め直し、息を吸い上げると、利吉の喉から声にならない音が漏れた。さっきまでの大人ぶっていた様子とは全く違う、途方に暮れた獣の仔のような声。
 十分だ。
 黒が唇を離すと、利吉は既に立っていられないと言うように膝から崩れ落ちた。土の上に前屈みに座り込んで顔を真っ赤に火照らせている。耳だけではなく頬も首筋も、見える肌の全てが紅潮している。目の焦点が合わず、口が半開きで、荒い呼吸を繰り返している。──ざまあみろ。
 黒は利吉を見下ろした。
「あんまり大人を舐めてると、こういう目に遭う」
 黒はごく静かに言った。ようやく一年分の借りを返した心地だった。
「君くらいのガキなんか、調子に乗ってるとこうやってすぐ食われるんだから、気をつけるんだな」
 利吉は恨めしげに黒を睨んだ。悔しさと羞恥と、それから熱が混じった目。唇は動いたものの言葉にならなかった。立ち上がろうとして膝が利かずにまた座り込む。
 その時、伝蔵が戻ってきた。
「すまんすまん、待たせたな。──おや」
 荷を抱えた伝蔵は、門口に蹲って顔を赤くしている利吉を見下ろして言った。
「なんだ利吉、泣いとるのか? まだまだ子供だな。そんなに寂しいか」
 利吉は笑う父を一瞥し、それから再び黒を睨んだ。真っ赤な顔のまま目だけが鋭く光っている。伝蔵は息子の頭をぽんと叩いて続けた。
「そう拗ねるな。お前もそのうち忍術学園に来るといい。腕を磨けば、また会える」
 利吉は黒を睨んだまま答えなかった。伝蔵はその視線の先を辿るように黒を見たが、深くは追わずに済ませる。この父親はそういう人だった。見えていてもあえて踏み込まない。
「──では、行こうか」
 伝蔵が黒に声をかけ、黒も頷いて背を向けた。歩き出す背中に利吉の視線が刺さるのを感じる。利吉は蹲ったまま、ずっとこちらを睨んでいる。
「お兄ちゃんなんて──」
 声がかかった。掠れた声だった。まだ喉が回復していない。けれども声量だけは負けていない。
「すぐ追いついてやりますから!」
 それから、一拍置いて。
「お兄ちゃんのもう会えない人のことだって、追い越してやりますから!」
 黒の足が止まった。
 振り返ると利吉は門口に蹲ったまま、真っ赤な顔で黒を睨み上げていた。涙の滲んだ目。膝の立たない身体。それでも声を張り上げる。
「誰だか知りませんけど。覚えておいてください!」
 黒は息を呑んだ。
 伝蔵が怪訝そうに黒と利吉を交互に見る中、利吉はようやく立ち上がった。まだ顔が赤い。腕を組もうとして、うまく組めずにやり直していた。その姿がおかしくて、愛しくて、少しだけ切なかった。
「ああ。楽しみにしてる」
 ──すぐ追いついてやりますから。
 不意に、その声に別の声が重なった。もっと低い声。もっと掠れた声。血と煙硝の匂いのする声。
 ──もう、行け。私もすぐに追いつく。
 あの日の利吉が、最後に言った言葉だった。黒を逃がすために、黒を生かすために、追いつけないと分かっていて言った言葉。
 あの日から、ずっと待っている。
 いつか追いついてきてくれないかと。閉じられた時の向こうからあの声が聞こえてこないかと。来ないということを分かっていて──分かっているのに、耳を澄ますことをやめられない。
『私も、すぐに追いつく』
『すぐ追いついてやりますから』
 同じ言葉だ。同じ血の、同じ言葉。けれども利吉は追いつくだけでは足りないと言った。黒の中にいる利吉のことまで追い越すと言った。知りもしない相手を。顔も名前も知らない、自分自身であることも知らないその誰かを。
 利吉はきっと来るだろう。いつか追いついてきたら──その時は春を見たいと思った。一緒に。
『覚えておいてください』
 覚えているとも。忘れられるものか。黒は笑った。笑って、少しだけ目を細めた。風が目に沁みたことにして紛らわせる。唇を舌で舐めると、まだ利吉の味がした。
 春の陽射しが、山道を白く照らしていた。


***


 忍術学園は、山を丸ごと一つ使っているような広さだった。
 黒は門をくぐった瞬間、思わず足を止めた。伝蔵から話を聞いてはいた。けれども聞くのと見るのとではまるで違った。まるで大規模な山城のような広大な敷地が広がり、そこに幾棟もの建物が連なっている。教室棟、職員室、硝煙蔵、練習場、寄宿用の長屋。子供たちの声が風に乗って渡ってくる。走り回る気配、木刀を打ち合う音、どこかで焙烙が破裂する音。
 忍の子供たちのための学校だ。
 黒はしばらく学園の景色を眺めていた。自分がここで教壇に立つのだという実感が、まだ湧かなかった。
「ヘムヘムッ」
 案内は白い忍犬だった。黒はそれにも驚きながら学園の奥へと進んだ。校舎の裏手を抜け、職員室を通り、東屋のある池を過ぎたその先に、小さな庵があった。ここが学園長室らしい。
 忍犬が障子戸の前で、また一つヘムゥと鳴いた。賢い犬だ。一つ一つに驚く黒に、伝蔵が隣で笑っていた。
「学園長、新任の若いのをお連れしました」
「山田先生か。入るがよい」
 皺がれた声がした。
 障子戸が開いた。そこは畳敷きの小さな部屋だった。文机の上に書物が積まれ、硯と筆が置かれている。その文机の向こうに、一人の老人が胡座をかいて座っていた。
 真っ白い髪。深い皺。目元はほとんど見えない。見覚えのある姿に、黒は思わず呆気に取られた。
 あの老人だった。
 あの日、木楡の群生地で出会った老爺。あの雪の日に木楡の樹皮から糊を取ろうとしていた老人だ。たった一言だけ核心を突いて、あとは煙のように消えてしまった不思議な老人。
 ──足掻けば戻れる。引っ掛かれば、うまくいく。
 老爺もまた、黒を見ていた。見えているのかいないのか分からない細い目が微かに開かれる。そしてその学園長と呼ばれた老爺は呵呵と笑った。
「また会うたの」
 飄々とした声だった。あの時と同じ。何もかも分かっている顔で、何も分かっていないような声を出す。
「山田先生が推挙しておった若い忍というのは、お主じゃったか。なるほどのう」
「あなたは……」
「見ての通り、ここの学園長じゃ。大川平次渦正という」
 学園長が目配せをし、伝蔵は一礼して退がった。戸が閉まり、部屋に二人だけが残される。黒は呆然と老爺を──学園長を見つめていた。
「あの……これは、どういう」
「どういうも何も。お主がこちらに帰ってきたから、こうして会えたというだけのことじゃろう」
「そうではなく。あなたはなぜあの場所に……あの時間に」
「ちゃんと引っ掛かったようじゃのう」
 学園長はにやりと笑った。黒の問いに答える気はないらしい。いや、答えてはいる。答えているが、順序が黒の求めるものと違う。
「その、引っ掛かる、とはどういう意味だったのですか。あの時、確かに手に何かが引っ掛かって──」
「おお、分かっておるなら話が早い」
「分かっていません。何一つ」
「なんじゃ。お主まだ知らんのか」
 学園長は文机の上の茶を啜り、静かに言った。
「お主、あの場所で何を見た」
「……別の時を。六年後の世界を。おそらく、本来ならば行ける筈のない場所だったのではないかと思います」
「うむ。で、ここに戻ってきた」
「はい」
「どうやって」
「崖から飛びました。足掻いて、引っ掛かって──あなたが言った通りに」
「わしが言ったのは方法だけじゃ。やったのはお主じゃよ」
 学園長は茶碗を置いた。皺だらけの顔が、ほんの少しだけ真剣になった。
「のう。お主は、時というものを何だと思う」
「……分かりません」
「書物じゃよ」
「書物……?」
 さっぱり分からない、という顔の黒に、学園長は言った。
「時の流れとは、書物のようなものじゃ。人は皆、自分の物語の上で生きておる。書物に頁があり、絵図があり、頁をめくれば明日が来るように、人もその理で生きておる。じゃが普通、人は前に向けて一頁ずつしか進めん。それをお主は破った」
 学園長は続ける。
「お主は頁を破ったのじゃ。崖から落ちた瞬間に、何かの拍子に頁の端か、綻びに指が掛かった。そのまま引き千切って、本来めくられるはずのなかった頁に迷い込んだ。あの世界は──お主が見たあの世界は、めくられなかった頁に書かれた物語のようなものじゃ」
 黒は息を呑んだ。
 あまりにも信じがたい話だったが、言葉にされると胸の奥で漠然と感じていたものが輪郭を持った。だとするとあの世界──あの利吉が、あの日々全てが──めくられなかった頁の上の存在だというのか。
 あの世界で感じたこと。触れたこと。交わしたこと。全てが本物で、けれども現実ではない。閉じられた頁の世界の中に、あの時は確かに在ったのだ。けれどもやはり分からない。黒は食い下がった。
「ですが、それならばなぜ、あなたはあの場所にいたのですか。普通であれば行けない場所に」
 そうだ。そうだとするとこの老人は、易々と時を越えたことになる。学園長はにやりと笑った。
「お主に、見せてやろうか」
「何を──」
 学園長は立ち上がった。その動きには老人のものとは思えない滑らかさがあった。部屋の中央に立ち、右手を持ち上げた。
 何をするのか、黒には分からなかった。
 学園長の指が、虚空を掴んだ。
 何もないはずの空間に、指が引っ掛かった。
 黒は目を見開いた。学園長の指先が、目に見えない何かの端を摘まんでいる。布の端を摘まむように。紙の端を摘まむように。
 そのまま引くと──虚空が、裂けた。
 轟音が部屋を満たした。雷のような──否。雷ではない。黒は知っている。この音を聞いたことがある。崖から落ちた時の音。あの時聞いた音と同じだ。
(そうか──これは)
 巨大な紙が破れる音だ。
 裂け目から光が漏れていた。白い光。薄い光。裂け目の向こうに何かが見える。白い光が裂け目の奥に広がっている。
「これが頁の向こう側じゃ」
 学園長は裂け目を保持したまま言った。
「お主はこれを、命懸けで破ったのじゃ。崖から飛んで、足掻いて、指を掛けて。大したものじゃよ。普通は人ひとりが通れるほど開けられるものではないからの。まあ儂ならともかく」
 学園長が指を離して貼り合わせると、裂け目は音もなく閉じた。白い光が消え、何事もなかったかのように虚空が元に戻る。部屋に静寂が落ちた。
 黒は動けなかった。
 今、目の前で起きたことの意味を、頭が処理しきれなかった。けれども一つだけ確信したことがあった。
 ──あの世界は幻ではなかった。
 夢でも妄想でもなかった。時の流れは書物のように構造化されていて、その狭間を破ることもできる。そしてあの利吉は──閉じられた頁の中の利吉は──確かに在った。存在していた。
「……学園長」
「なんじゃ」
「あの世界は……どうなったのですか」
「閉じられた」
 学園長は静かに言った。
「お主が戻って、あの時は閉じられた。続きはない。あの世界は、途切れた形でそのまま残る」
「……残る」
「消えはせん。じゃが、もう誰にも見られることはない」
「あの世界の……閉じられた頁の中にいた人たちは」
「おるよ。閉じられたまま。続きは書かれんが、書かれた分は消えん」
 ──消えない。
 あの利吉が黒に向けた言葉も、あの最期の表情も、全てが閉じられた頁の中に在る。消えずにずっと在り続ける。それは黒にとって、切ないような気持ちを起こさせる何かだった。手を握り締めた黒に学園長が声をかける。声が、少しだけ柔らかくなっていた。
「……よう戻ってきたの。お主」
 学園長は文机の前に座り直し、茶を啜った。まるで何事もなかったかのように。世界の秘密を一つ暴いた後に、のんびりと茶を啜っている。
「その……ありがとうございます。あの時、助言をくださって」
「儂は礼を言われることは何もしておらん。戻ってきたのはお主の足掻きじゃ。言うたじゃろ、風が違うと。お主はここの風じゃったからの。戻った方がいいと思ったまでじゃ」
 黒は深く頭を下げた。
「これからここで、よろしく頼むよ。お主はまだ呼び名がないと聞いておる。始業式までには決めると良い」
「はい。──承知しました」

 部屋を出ると、春の陽射しが眩しかった。子供たちの声が聞こえてくる。走り回る足音。笑い声。怒鳴り声。木刀の打ち合う音。──生きている音だ。
 黒は庵から戻りながら学園の敷地を歩いた。広大な校庭を横切り、練習場の脇を抜け、裏手の山道に出る。伝蔵が待っているから戻らなければと思いつつ、当てもなく歩いていた。何かを考えたい、或いは何も考えられない気分だった。そうして山道を少し登ったところで、足が止まった。道の脇に、花が咲いていた。
 白い花だった。細く長い花弁が反り返り、芯が空に向かって伸びている。群生というほどではない。山道の片隅に、五本、六本とひっそりと咲く、白い曼殊沙華だった。
 黒は立ち尽くした。
 曼殊沙華は秋の花だ。こんな春に咲くはずがない。それなのにいま目の前に咲いている。狂い咲きだろうか。白く静かに、風に揺れている。利吉がくれた白だった。
 あの野原を思い出した。もう閉じられた頁の中の、白い曼殊沙華の群生地。あの利吉がこの花を教えてくれた。見る者の悪業を払うという白。利吉が黒を花の中に沈めるようにして隠した、忘れられない白。
 あの野原には遠く及ばない。たった数本の季節外れの花だ。それでも黒は花の前にしゃがみ込んだ。指を伸ばしかけて、止めた。触れたら消えてしまいそうだった。
 ──聞こえているか。……野良。
 声には出さなかった。声に出さない方が伝えられる気がしたからだ。
 風が吹き、白い花弁が揺れた。呼び掛けに返事はない。閉じられた頁の向こうから声が届くことはない。でも──それでいい。それでいい、と黒は思った。
 自分はもうすぐ、黒ではない何かになる。『黒』はあの時の中だけの名前だ。あの利吉がくれた、あの利吉と過ごした時間の名だ。これから自分は新しい名で、新しい頁を生きていく。それがあの利吉が黒に望んだことだ。
 お前の頸は、ちゃんと重い。その重い頸で生きろと利吉は言った。
 黒は立ち上がった。白い曼殊沙華を一度だけ振り返り、それから校庭を渡っていった。その背中に春の陽が、名残のように当たっていた。






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