夢を見た。
陸を遠く離れた、明るい海の夢だ。
潮の匂いもしない海は、凪いだ水面が光を映していて、酷く眩しかった。
ぼんやりと水面を眺めていると、近くでイルカが飛び跳ね、水飛沫が顔に掛かる。
逃げたイルカだろうか。それともあいつには何の関係のないイルカだろうか。
頬をなぶる風は冷たく、人のいない景色は、穏やかで、空虚だった。
暖かな光だけを受け取って、空虚な胸に光が満ちる。

目を開けた時、涙を流していた。
水飛沫だと思ったものが、そうではなかったらしい。
目尻を指先で拭う。あいつの死んだ日のことなんて、もう何十年も思い出しもしなかったのに。
ふと、こんな風に泣くところを一番見られたくない人間がこの部屋にいるはずだったことに気付いて、恐る恐る隣に手を伸ばした。腕は空振りして、ふかふかとした布団の感触があるだけだ。
普段は人の気配があるはずの家の中は、しんと静まり返っている。
――徹郎さん。浮気しないでくださいね。
譲介の残した声のこだまが、寝起きの頭の中に響く。
「あー……今ボストンか。」
視線の先には金色の指輪があり、嫌でも同居人の不在を思い出させる。
あの日に一度手放し、永遠に失ったと思っていたものが、この手にまた戻って来た。
あるいは、白々とした夜明けのような電飾の下で寝たことも、妙な夢を見た理由の一端だろう。自分の内心を分析しても益がないことは分かっているし、こうして覚醒した途端に、六十男の尻にガツガツ盛って来た馬鹿のせいでもたらされた腰やら尻穴の痛みまでがはっきりしてきて、舌打ちをしたいような心持になった。
枕元にある時計を見ると、既に十時を回っている。
スマートフォンに電源を入れると、譲介から短いメッセージが入っていた。
『着きました。思っていたより寒いです。』
エッグベネディクトにしました、と書かれた写真の端にどう考えても省吾のいつものアレだと判別できる色のタイが映っている。見れば腹が立つから写真を送るなと言いたいが、その反応でこっちの腹を探られるのも、嫉妬ですかと喜ばせるのも腹立たしい。所謂読んだだけの既読スルーというやつをする。こっちの様子が気になるならそのうち電話を掛けて来いと言ってはあるのだから、問題はない。
それにしたって、まだ二日目か。
パジャマに着替えたまま、四日間の着替えと携帯用のパソコンに、今年になって二冊目のノートなど、こまごまとした持ち物をリビングでまとめていた背中を思い出す。三十年前はパソコンもラップトップが主流で、あちこち学会に顔を出すにもほとんど身一つで行っていた。
年下の男が、懇親会だのなんだのの参加をする必要がある、と言って、シャツやネクタイの予備まで詰めて、キャリーカートを満杯にしている姿に、随分はしゃいでいるじゃねえかと、ガキのように拗ねたことを考えたのも、一週間分のあなたを下さいなどと歯の浮くようなセリフで抱き潰されたのも、もう昨日のことだ。
「……飯でも食いに行くか。」
腹は減っていない。この時間から食うなど馬鹿のすることだと思うが、歩いて五分の場所にあるビルに入っている寿司を出す店ならさっと食べて戻って来られる。


譲介が不在の時に使っている、隠れ家のような店だった。
入口には生け簀があって、ライトアップされた薄暗がりの中を、海の魚が泳いでいる。
奥には個室があり、店構えは寿司屋というより割烹の趣が近いが、いつもカウンターで済ませる。絶対に指輪を付けてくださいと譲介に言われて身につけてはいるが、妙な話で、逆に粉を掛けられることが増えてしまったので、ダイナーだのと言ったその辺の若い客や観光客、家族連れが来るような店を避けて、こうした、客単価の高い店を選ぶようになった。
「ラッシャイマセ。」
大将と呼ばれている店主は、どちらかというと海坊主に近い青い目の男だ。
一時期日本で暮らしていたので、ゆっくり話せば、簡単な日本語は通じる。
間接照明というには明るいLEDライトの下。サーモンと、こはだのような質感の魚を二巻ずつ食べた。ドレッドヘアを上手く纏めた見習いの握った寿司は、やけに飯がぱらつく出来だが、腹に納まればそこで仕舞だ。
カリフォルニアロールを手土産にいかがですか、と譲介と似たような年の見習いが勧めるのを断り、砂糖抜きとオーダーした緑茶を啜る。勘定、というと「今日はお早いですね。」と言う店主の隣で若い方の見習いが笑っている。
「この時間だからな。」
「先日の、カレーを作って待ってらっしゃる方のためですか?」
三人称をそのものずばりで見習いに当てられ、あァそういう顔か、と思い至る。
先週来た時に、まあ、言ったな、と思う。
パートナーが男だというのを気にしていては始まらないでしょうと譲介は言うが、こっちにしてみれば英語で話すのは妙にハードルが高い。料理が作れる相手と日本語で言えば誤魔化せると思ったが、どこかで二人でいるところを見られていたらしい。
「……手を繋ごうとするな、言っても聞きやしねえ。」と小声で呟くと、惚気ですか、という顔で見られるのがいたたまれない。
さっさと退散するに限る、と料金にチップを上乗せした額を差し出されたトレイに載せて「……まあ、今日はいねぇがな。」と応える。
「次は、ご一緒にどうぞ。」と店主に言われて、そのうちな、と返した。
支払いを終えて外に出ると、夜の空気は澄んでいた。
夜道は、街灯で明るく照らされているが、隣にあいつはいない。
一人の夜は気楽だが、今夜は、誰もいない家に帰ると分かっているせいか、妙に味気ない。
スマートフォンで短縮のボタンを押すと、セックスがいつまで経っても巧くならねぇパートナー様が電話に出た。
「はい、真田です。」と意気込んだ声が応答して、思わず電話を取り落としそうになった。
「おい、譲介ェ。なんだってんだおめぇは。寝ぼけてンのか?」
「いや、だって、夜の二時に電話なんて、何かあったかと思うじゃないですか。」
そもそも、真田、じゃねえだろうが、とこちらが突っ込むよりも先に、譲介が答える。
「二時だァ?……時差か。」まだ十一時過ぎだと思っていたが、相手がボストンにいることをすっかり忘れていた。
「はい。」と答えた後、こちらが話を続ける暇も与えず「さっきまで寝てました、でも切らないでください。」と譲介が言う。
「切らねえよ。」
「今日はどうでした。休みは満喫出来ましたか。」
「オレは変わりねぇよ。それより、そっちはどうなんだ。」と問い掛けると、間髪入れずに譲介が話し始める。
飛行機から見た空からの眺めの話、食事を摂った店で子どもがひきつけを起こして学会のオープニングに間に合わなかった話、学術誌で論文を読んだ相手と握手した話に、その後の懇親会で、しつこく絡んで来た酔っ払いにシャンパンを掛けられた話。
さざ波のような言葉に耳を傾けているうちに、胸の中に満ちた海の景色が、段々と遠ざかっていく。
途切れのない譲介の声の響きを聞きながら、家に帰る道を、ただ歩き続けた。

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