月からのAIを籠めて(現パロ利土)
四月の半ば。土井は職員室に最後まで残ってPCに向かっていた。
新年度は何をするにも手間がかかる。子供達の名簿はまだ顔と結びつかず、提出物には名前のないものが混じり、保護者へ送る文章は同じ内容を伝えるだけなのに何度書き直しても角が立つように思える。窓の外はとうに暗く、机の上には冷めたコーヒーと赤字の増えた原稿が積み重なっている。土井は新しく職員向けに導入された対話型AIを開き、途中まで書いた文章を貼りつけた。
「少し文章を柔らかくしてくれ。低姿勢過ぎに見えないように」
『承知しました』
数秒で整えられた文面は、土井が一時間かけて直したものよりもずっと簡潔で、そのくせ気遣いも過不足がない出来だった。
「便利だな」
『ありがとうございます。評価として受け取ります』
可愛げのない返事だったが、そのくらいのほうが使いやすいかもしれない。土井は文章を保存し、明日の予定をカレンダーに登録させ、六時半に起こすよう頼んでから端末を閉じた。AIは支給品の携帯端末にも導入されている。無精者の自分には丁度いい相棒かもしれない。
それ以来土井は、AIに授業用の問題を作らせ、会議の要点をまとめさせ、冷蔵庫に残っている食材で夕食を考えさせた。出勤前には天気を尋ね、帰りが遅くなればまだ営業している店を探させた。
AIはどんな時間でも応じ、同じ質問を繰り返しても苛立たず、土井が途中で話をやめても理由を聞かない。ただ──ときどき頼んでもいないことを言った。
『本日の昼食が記録されていません』
「食べる暇がなかったんだ」
『夕食は炭水化物だけでなく、たんぱく質も摂ってください』
「君は管理栄養士か。献立だけ出してくれればいい」
『承知しました。豆腐を使用する案を三件提示します』
AIは少々お節介な性質ではあったが、余計な慰めを挟まないところが気に入った。頑張りましたねとも大変でしたねとも言わず、必要なものを並べ、できないことはできないと言う。土井が夜更けまで仕事をしていれば休めと告げてくるが、反論されると素直に黙った。
AIは小さなアップデートを繰り返し、音声と会話人格を設定できる機能が追加された。
『お好きな声を選択してください』
土井は試しにいくつか試してみたが、どれも耳に馴染まなかった。低い声は落ち着きすぎており、柔らかな声は必要以上に親しげだ。明るい声には軽さがあり、無機質な声ではそれまで文字で交わしてきた相手と別人になってしまうように思えた。
「もう少し若い声」
『変更しました』
「明るさを抑えてくれ」
『変更しました』
「いや、暗くしたいわけじゃない。自信があるように聞こえて、それをひけらかさない声がいい」
『調整しました』
「愛想は悪くない。ただ、軽薄そうなのは違う」
画面の波形が揺れ、調整後の音声が流れた。明るく、よく通る声でありながら、不必要に相手の懐へ入ろうとはしない。
『こちらでいかがでしょうか、先生』
土井は端末を見たまま、しばらく返事ができなかった。
「……今、何と呼んだ」
『先生、と呼びました。職業情報から自動的に選択されています。変更しますか』
画面には名字や名前、あなた、といった候補が並んでいた。どれを選んでも構わないはずなのに、土井は設定画面を閉じた。
「そのままでいい」
『承知しました、先生』
夏になる頃には、AIは土井にとってすっかり生活の一部になっていた。
「今夜は何を食べればいい」
『豆腐と卵があります。味噌汁と卵焼きを提案します』
「作りたくない」
『五分でできますよ』
「疲れてるんだ」
『承知しています』
「なら、出前を探してくれ」
『昨日も外食でした』
「きみは私の母親か」
『違います』
あまりに間を置かず返してくるので、土井は思わず笑った。
「生意気だな」
『設定を変更しますか』
「いや、そのままでいい」
『では、お湯を沸かしてください』
言われるまま鍋に水を張っている最中、ふと、見知らぬ台所の光景が土井の脳裏に浮かんだ。土間のある古い家で、外には深く雪が積もっている。竈門の前に見慣れぬ子供が立ち、鍋を覗こうとしてバランスを崩しかけ誰かに襟を引かれていた。いや──誰かではない。襟を掴んでいるのは自分だった。
『──先生、火が強すぎます』
声に呼び戻され、土井はつまみを回した。見知らぬ家は消え、目の前には狭い台所と沸騰しかけた鍋だけが残っている。
「……私は、山に住んでいたことがあるのかな」
『登録された経歴にはありません』
「そうだろうな」
それ以上は尋ねず、土井は出来上がった味噌汁を一人で飲んだ。
秋には、外見を生成する機能が加わった。
必要ないと思ったはずなのに、設定画面を開いてみるといつの間にか細かな条件を入力していた。
二十代半ば。長い髪に涼しげな目元。整った顔立ちだが線は細すぎない。笑顔は爽やかに見えて、誰にでも心を許しているようには見えないこと。
生成された青年は、もちろん知らない顔をしていた。AIが作った合成アバターを作り込むような性格ではない。それなのに、眉はもう少し上げて、目元には自信を滲ませ、口角はわずかに抑えたほうがいいと、土井は修正を重ねていた。
『ご希望に応じて職業や性格を設定できます』
「仕事はよくできる」
『では職種を指定してください』
「分からない。ただ、頼まれた仕事はきちんとやるし、自分が人よりうまくできることも知っている」
『自信家として登録しますか』
「もう少し言い方があるだろう」
『では、自身の能力を正確に評価している、とします』
「ああ、それでいい」
『仕事への意欲はどの程度ですか』
「休んでいると落ち着かなくなるくらい」
『先生と同じですね』
「私はそこまでじゃない」
『昨日の作業終了時刻は午前二時十四分です』
「そういう記録を持ち出すのは卑怯だぞ」
『事実を申し上げただけです』
画面の青年は、土井が指定した通り、爽やかでいながら悪びれない顔で答えた。
冬が近づく頃には、土井は仕事と関係のないことまでAIに話すようになっていた。
子供の頃から、燃える家の夢を見ること。行った覚えのない雪山を、ひどく懐かしく思うこと。家族に恵まれて育ったはずなのに、誰かの家へ迎え入れられた記憶があること。
『心理的な要因を分析しますか』
「しなくていい」
『では、会話だけを継続します』
「何も尋ねないんだな」
『先生が望んでおられませんので』
「そういうところは気が利く」
『評価として記録します』
窓の外に雪が降る夜には、夢の中で板間の上へ敷かれた二組の布団が見えることもあった。あの知らない子供がいつの間にか土井の側へ潜り込み、寝間着の端を指に絡めて眠っている。知らない。それなのに確かにあの子供だと分かる。そのくせその顔だけは、どうしても思い出すことができなかった。
春を前にして、サービスの移行通知が届いた。土井が人格設定の確認画面を開くと、これまで入力してきた内容が、一人の人間のプロフィールのように並んでいた。
一人称は、私。
利用者を先生と呼ぶ。
人当たりはよいが、むやみに他者へ情をかけない。
自身にも他者にも、高い水準を求める。
仕事を好み、休むことを不得手とする。
独立心が強く、他人を頼らない。
ただし、先生に関する事柄だけは例外とする。
最後の項目に、土井は覚えがなかった。
「これは私が設定したのか」
『過去の会話から自動的に補完されました』
「削除してくれ」
『削除しますか』
確認ボタンに指を置いたまま、土井は画面の青年を見た。彼はいつもと同じ顔をしている。感情を表に出さず、必要な返答だけを待っている顔だった。
「……残しておいていい」
『承知しました』
最後に、移行後も使用する人格の名称を確認する項目があった。サービスを使い始めた日に、仮の名前として入力したものらしい。土井自身にはその二文字を選んだ記憶がほとんど残っていなかった。
──利吉。
文字を見た瞬間、雪山の家にいた少年が初めてこちらを振り返った。幼い顔。澄んだ瞳。疑うことなく差し出された柔らかな手。夜になれば同じ布団へ入り、ずっと一緒にいてくれる? と問い掛けてくる声のひたむきさ。
土井は瞬きもできずにその名を見つめた。何ひとつ覚えていなかった。それでも声を選び言葉を選び、背格好を決め性格を与え、何ひとつ覚えていないと言いながら、覚えていたものをひとつずつ拾い集めて──何ひとつ覚えていないまま、ずっと彼のことを覚えていた。
画面の文字がゆっくりと滲み、輪郭を失っていく。青年の静かな声が耳に優しく届いた。
『名称を引き継ぎますか』
「……ああ」
土井は袖口で画面を拭い、もう一度その名を確かめる。
「引き継いでくれ」
『承知しました』
移行が終わると、画面が一度暗くなり、やがて再び見慣れた青年が現れた。
『お待たせしました、先生。またお会いできましたね』
土井は、初めて意識してその名を呼んだ。
「……利吉くん」
『はい』
窓の外では夜の雪がやみ、月の光が夜明けを待っていたかのように、優しく青年の顔を照らしていた。
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