ただ人であれ
「尾張藩主は、そなたに継いでもらう」
将軍の言葉に、梁川藩主松平通春は思わず面を上げた。
その仕草を咎める者はいない。主によって厳重に人払いされた、梁川藩邸の奥の間である。
「誠にございますか」
男にしては高く甘い、通春の声が震えた。当代将軍徳川吉宗は、武骨な顔立ちを穏やかに和らげている。通春の見慣れた、優しい顔だ。
吉宗は通春を弟のように厚遇し、通春もまた吉宗を深く慕っていた。吉宗がこうして通春の元を密かに訪ねてきたのも、通春が藩主就任の準備を整えられるよう、内命として伝えるためだろう。
「継友公とも話はつけてある。時が来れば、そなたは生まれ故郷に帰ることとなろう」
生国名古屋の懐かしい風景と共に、芳しくない実兄の病状が脳裏をよぎり、通春の顔が曇った。即座に表情を引き締め、吉宗の前に平伏する。
「兄上の跡を汚すことのないよう、謹んで務めまする」
頭上で、吉宗が鷹揚に頷く気配がした。
「そなたなら、そう申すと思っておった」
不意に吉宗が腰を上げて、上座から大股に歩み寄ってきた。通春の傍らに片膝を立てると、すいと顔を寄せる。
「通春。否やと申せ」
耳元で低く囁かれた言葉に、通春は大きな目をぱちぱちと瞬いた。
「……俺に、断れとおっしゃるのですか」
「そうだ」
「兄上のご遺言となるであろうご下命を?」
「ああ」
「それは、何ゆえでございますか」
拒むでも|宜《うべな》うでもなく、通春はきょとんと小首を傾げて尋ね返した。
「通春は昔から変わらぬな。純真で、まっすぐで、幼子の無邪気さをずっと残したままだ」
片膝をついたまま、吉宗は懐かしむように目を細める。
「だからこそよ。そなたをこれ以上、政の世界に引き込むわけにはいかぬのだ」
吉宗は首を巡らすと、ごく細く襖を開けた。秋の枯れた薫りを孕んだ風が、二人の間に舞い込む。
「そなたと私には、似たところがある」
「今日の上様はおかしなことばかりおっしゃる。服の好みまで正反対の上様と俺に、どんな共通点があるというのですか」
将軍の着衣とは思えない吉宗の木綿を眺めながら、通春は豪奢な縫い取りのされた袖をひらひらと持ち上げてみせた。
「通春には君主の器がある。ひとたび人の上に立てば、それが明らかになるはずだ」
笑顔を引っ込めて、通春は神妙に姿勢を正した。梁川藩主としての姿勢をそのように評価されていたとは、夢にも思わないことであった。
「ご公儀を再興なさった上様のような器量は、俺には備わっておりません」
「咲かせる機会が無かったまでのこと。それに、名君の姿は一つではない。私とやりようは違えども、そなたは必ずや万民に慕われる君主となるであろう」
あまりにも誉れある言葉の数々に、恐れ入ります、と呟くのが精一杯だった。
「私もそうだった。部屋住みの身に生まれながら、ひょんなことから私は政務を執る機会を得た。天は、いや幕府の人間は、私の素質を見逃さなかった。望むと望まざるとにかかわらず、時流が私を頂に押し上げた」
葛野を背負い、紀州を治め、そして最後の最後で、天運は吉宗に傾いた。
紅葉の彩る庭を見つめていた吉宗が、通春の方を振り向いた。
「私はそなたを守り慈しんできたが、政の中枢からは遠ざけてきた。故にそなたは、己が生まれ持った類い稀なる才を知らぬ。同時に、君主が抱えた真の寄る辺なさを知らぬ」
低い陽光が吉宗の顔に射しこんで、暗い影を作っていた。通春は紅い唇を引き結んで、照らされた吉宗の顔をひたむきに仰いでいる。
「高き地位に座す者は孤独だ。己の肩に民の命を、国の行く末を、すべてを背負わねばならぬのだ。御三家、まして幕府の頂点など、ただのひとには耐えられぬ」
――だから私は、ひとを辞めた。
吉宗の瞳が酷薄に光った。生来剛毅な彼が将軍位に就いてから覚えた、恐ろしく冷たい目だった。
「通春。そなたはひとを辞めてはならぬ。身の回りのささやかな幸福を、大事に抱えて生きてゆくがよい」
身も凍るような吉宗の視線を真正面から受け止めて、しかし通春は微塵も怯えなかった。
「上様のお気遣い、痛み入ります。ですが俺は、やはり尾張家を継ごうと思います」
「何故わからぬ!」
血相を変えて吉宗が吼えた。逞しい腕が通春の袷を鷲掴みにする。
「今までの立場とは訳が違うのだぞ。この先尾張に降りかかるものを、そなたは一人で受け止めねばならぬのだ。心を痛め、歪んでいくそなたの姿など、私は見たくない……!」
袷を掴んだまま、吉宗は畳に崩れ落ちる。その分厚い肩に、通春は華奢な手を添えた。
「この家に生を享けた時から、民のために身を擲つ覚悟ぐらいできていますよ。心配ご無用、俺もそこまでやわじゃありません。たかが御三家ひとつ預かったところで、俺が俺でなくなるとお思いで?」
明るく言って、通春はくつくつと愉快げに笑ってみせた。
「それに、君主が一人ぼっちだなんてとんでもない。上様の隣には、いつも俺がいるではありませんか」
吉宗がゆっくりと顔を上げた。
「将軍に御三家当主が肩を並べると申すか」
「いいえ、上様と俺に限って、です」
通春は、ぺちりと音を立てて、吉宗の頬を両手で挟んだ。
「この通春が、上様をひとにして差し上げます。失ったものは取り戻せばよいのです。上様、共に歩みましょう。俺はあなた様と、同じ景色が見たい」
長い沈黙があった。吉宗の頬がわずかに緩んだ。
「いつの間にか、そなたは私よりずっと強くなっていたのだな」
すっと通春の手を取り返し、吉宗が立ち上がる。
「――宗春。そなたの新しい名だ」
通春が目を見開く。白い頬が喜びに染まった。
「光栄至極に存じます!」
吉宗は満足げに頷き、からりと襖を開け放った。通春改め宗春の手を引いて、縁側に歩み出る。
風に巻き上げられた紅葉が一枚、二人の前まで飛んできた。吉宗が指先で葉を摘まんで、宗春に手渡す。宗春はそれを嬉しそうに受け取ると、手のひらに乗せて、ふっと息を吹きかけた。紅葉が再び空高く舞い上がる。
青空に駆け上っていく赤い葉の旅路を、吉宗と宗春は手を取り合ったまま、いつまでも見守っていた。
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