真綿の枷 - 空P

「熱くないのか」
「平気だって」
「おい、粘膜に触ってはいけないんだろう、口を開くな」
「お前が熱いかって聞いてきたんだろ」
「目も開くな! 危ない!」
「うるせえなあ」
 やれやれと目を閉じ、口を噤み、悟空は喉を天に晒してぐっと首を伸ばした。ピッコロの手の中、細かな泡が潰れて立つ音が耳の側で静かに続く。
 悟空は特別にでかいドラム缶風呂で体をくつろがせ、湯の中で浮くにただように身を任せた。湯加減は上々、空には満点の星が思い思いに光り、湿気を含んだ夜風も程よい冷たさで頬を撫でる。
「まったく、なんで俺がこんなことを……」
 ぶつくさと降り注ぐ文句には不満足な色が満ちているが、依然として悟空の洗髪を続けるピッコロの手つきは極めて真剣で、不器用な丁寧さすら感じられるものだった。自然と持ち上がる口角を隠そうと悟空が手で顔の下を覆うと、今度は「笑うな」と咎めが鋭く入る。

「ピッコロさ、まるで美容師だな」
「びよう……何?」
 チチがピッコロにそう言ったのは、修行後、ピッコロと風呂に入っていた悟飯が上がりしな見事に寝落ち、くったりとした小さな体を引き取ったところだった。ピッコロの片腕に抱かれていた悟飯は、チチの両腕に抱えられてもぞもぞと身を丸めさせてまた穏やかに寝息を紡いでいる。
「ほれ、悟飯ちゃんの髪がこんなにさらさらだ。悟飯ちゃん前も『きもちよくて眠くなる』つってたからな、よっぽど丁寧に洗ってくれたんだべ? 悟空さやおらじゃこうはなんねえ」
「俺は頼まれたからやっただけで……」
「悟空さもいっぺん洗ってもらえばいいだ」
「えーっ、オラ頭洗うのめんどくせえから嫌いなんだよな。いいよ水かぶりゃあ」
「明日はオラとデートだぞ! いい身なりするとかそういう努力をしてみろってんだ!」
「デートって、いつもの買い物じゃねえか……」
 ついでにその買い物には当然のように悟飯も連れ出されるが。と、やはり荷物役を頼まれていたピッコロは、優しく悟飯の背を叩きながら肩を怒らせるという器用なチチの背中を見送り、そしていつの間にか隣に立っていた悟空ににわかに後ずさった。
「ま、なんでもいいや。洗ってくれんならめんどくさいこともねえし」
「おい、俺はやるとは言って、」
「チチのやつ言い出すと聞かねえしさあ」
 いかにも参った、と少し上擦らせた声で肩を竦めた悟空は、ちらりとピッコロを仰ぎ見、頼むよ、と続けた。一度緩みかけた腕を組み直し、ピッコロは背筋を正してその視線から距離を作った。
「貴様……それで俺が言うことを聞くと思ったら大間違いだぞ」

「あんまり身じろぐな、落ち着きのないやつめ。爪が刺さっても知らないからな」
「大したことねえよ」
 濡れて重たい毛束にまつわる泡が、ピッコロの指にも絡んで肌をくすぐる。極力指の腹を使おうとゆっくり時間をかけたのが、悟飯の眠気を誘ったのだろう。チチのいう「丁寧」がどんなものかを肌で知り、悟空もどこか緩慢に過ぎる全身の血の巡りに、奥歯を噛んであくびを殺した。たしかにこんな丁寧さは悟空にも、チチにもない穏やかさがある。
「……やはりお前は気の密度が高いな」
「んー?」
「悟飯とは違って、表皮にも傷が付きづらいんだろう。擦過傷にもならない」
 額の生え際、毛穴がざらりと音を立てるところを、ピッコロの鋭い爪が二度往復する。立てられた鋭い爪先でも、悟空の額には皮膚のたわみを見せるだけで、筋も何も残らない。人肌にぬくもった指先が今度は狙いを変えて悟空の首を刺してみるが、気を込めないささやかな攻撃ではやはり跡も残らず、それ以上の実検は悟空の手によって阻まれてしまった。
「くすぐってえよ」
「憎たらしいやつだ。寝首もかけるか怪しいな」
「もう興味もねえくせに」
 ピッコロの手首から伝った泡が悟空の手指に流れ、白いしずくが湯舟に垂れ落ちる。柔く手を振ればなんなく離れたその手を今度はピッコロが掴み、肌を渡った石鹸を拭おうと手の甲へ返せば、そこには泡にも落としきれない古い筋が幾重にも重なり、こびりついていた。
 節だった指の関節には色の変わった古傷や、かさぶたのまま肌になじんだ跡があった。サイヤ人の強靭で剛堅な皮膚の上に、弛まず重ねられてきた修練の時間がそこに刻まれている。おそらくはこれまでの死闘によってできた傷も、超常的な力によっても回復されなかった跡もあるのだろう。
「……これのどれかひとつには、俺の功績もあるか」
 既に力の伸び代を自分のものにしはじめた悟飯を、日を追うごとに強さの限界の向こう側へと歩みを進める悟空を、ピッコロは誰より頼もしく感じていた。文字通り天地がひっくり返りでもしない限り訪れる次の脅威に対して、あるいはその後にも来たる敵に対して、常に切り札はこの親子であると、ピッコロは確信していた。そして、確信してしまっていた。
「何言ってんだ。ここにあんだろ、でけえのが」
 そう言って、反らせた首もそのままに、悟空は空いた手で胸の上を指さした。見ずとも正確に示されたそこには、わずかに上気の色が濃く見える丸い肌がケロイド状に引きつれた縁に囲まれてあった。一度は失われた命の形が、はっきりと悟空の胸を飾っていた。
「何遍天国行って帰って来ても、これは消えなかったな」
 少し冷え始めた肩を一度湯に沈ませて、一切の気配を止めたピッコロを訝しんで悟空は後ろを振り向いた。星空を背景に仰ぎ見たピッコロの顔は、少し鼻先を上に向け、どこかかゆいような、不機嫌をゼリーで飲み干したような顔をして掌の泡という泡を握りしめていた。
「……こんなのがうれしいのか、変なやつ」
「う、うれしいわけじゃない!」
 叫ぶピッコロに悟空は、へっくしゅんとひとつ、くしゃみで返事をした。
「────二人とも、いつまで風呂浸かってんだ! 風邪ひくだよ!」




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