この町にはあまり行くところがない


 ムンジュ川の向こう側に、ソウルの街並みがゆらゆらと揺れている。ソウルの端っことマニャンの端っこの距離はそう遠くない。けれど、この川を隔てて、あちら側とこちら側の世界に分断されている。希望と絶望、天国と地獄。わたしはつい先日まで、あちら側にいた。
 うんざりするようなこの町から飛び出して、20数年。この町を出ればなにかが変わるかもしれない。かつて子供だったわたしは、そう信じていた。愚かだった。夢は夢のままだから美しい。手が届くなんて勘違いをして、それに気が付かずにすべてを捧げ、みすみす歳だけをくってしまった。愚かだ。どうしようもないくらいに。
 かつての同級生たちは、それぞれのステージで成功していると聞いた。会社を持った人、家庭を築いた人、生涯安泰を約束された人。その中でひとりだけ、異常ともいえる道を辿った男がいる。
 イ・ドンシク。
 彼と同じ教室で過ごしたのは高校生活のたった3年間だった。それでも、彼を熱心に目で追う瞬間は、他のどの時間よりも輝かしく、わたしの胸を焦がした。初恋だった。
 マニャンに帰ってきて、真っ先に浮かんだのがドンシクの顔だった。お調子者で、誰とでも分け隔てなく接する、気のいい奴。出来のいい妹といつも比べられていたけれど、彼はそんな妹をとても大事に思っていた。
 あの事件のことは、ソウルにいた時たまたま見た新聞記事で知った。妹が指だけを残して失踪したこと。それから、ドンシクが一連の事件の容疑者として嫌疑をかけられていること。友人の証言で釈放になったことを知りほっと胸を撫で下ろしたが、彼のことが心配になった。なにか、わたしにできることはないだろうか。もちろん連絡先は知らない。けれどもし、彼がまだあの家に住んでいるのなら。淡い期待に胸を膨らませながら、込み上げてくるのは不安だった。覚えているはずがない。彼と会話を交わしたのは、3年間の中で両手で足りるほどだ。結局、心配よりも言い訳が先行して、それっきり彼に会いに行くことはなかった。
 
 
 あれから月日が流れ、かつて通っていた高等学校は他の学校に統合されたと実家の母から聞いた。実際に行ってみると、とっくに校舎は取り壊され、跡地にスーパーマーケットが出来ていた。平日朝のスーパーはお年寄りで溢れ、入り口付近でなにやら井戸端会議が行われている。その中心に、パステルピンクのキッチンカーが停まっていた。のぼりにおもちゃのようなフォントで「スムージー」の文字。よく見ると、キッチンカー周辺にたむろするご婦人たちは、それぞれカラフルなビタミンカラーのカップを手にしていた。マニャンの町も変わったものだ。それほど大型ではないとはいえ、メイン客層が集うには最適な場所である。小売店には少々厳しいだろう。少しだが、外に飲食スペースもあったので、せっかくだから飲んで行こうかと窓口に並ぶと、車内で男性が忙しそうに調理をしていた。お世辞にも、手際がいいとは言えず、人気があるというよりは、回転率が悪くて列ができている、そんな感じだった。
「暑いのに待たせちゃってごめんなさいね。今日初めたばっかりで」
 店員と思わしき中年男性が、果物を選びながら列の先頭に並ぶ客に声をかけた。彼が顔を上げた瞬間、わたしの体の中に電流が駆け巡った。
 イ・ドンシク。
 紛れもなく、彼だった。
 当然ながら、彼も年老いていた。目尻にくっきりと皺ができ、笑った時にできるえくぼは立派なほうれい線となって彼の口元を飾っていた。それでも、どこか当時の面影が残っていて、わたしの心は一気にあの教室へと引き戻された。
 いつだって彼を見ていた。円の真ん中でけらけらと笑う彼は、狐のように愛らしかったし、宿題を忘れて困っているわたしにそっと貸してくれたノートは、おおらかな字がいっぱいに並んでいた。「妹を見習え」と教師に言われて、口では悪態をついてもどこか誇らしげだったことも、窓際の机に突っ伏して眠る彼の横顔に、柔らかな日差しが降り注いでいたことも、ぜんぶ覚えている。音楽室のクラシックギターを持ち出して、勝手にライブをしていたこともあったっけ。
 列が進むにつれ、彼の顔の輪郭がはっきりと現れる。チューニングもおろそかなギターの弦を不器用に押さえていた、あの指先も。細くて器用そうに見えて、やっぱり不器用に果物を切っている。とん、とん、とん。ゆっくりとまな板の音が響く。どくどく、どくどく。わたしの心臓の音が早くなる。
「お待たせしました。ご注文は?」
 当時より少し、掠れた声。
 息が苦しい。
 何か言わなきゃ。あ、注文。決めてない。
「あ……」
 ええと、あの。あー、はい。
 歯切れの悪い言葉を繰り返す。彼は「ん?」と一度軽く首を傾げてから「ゆっくりでいいですよ。俺もゆっくり作るので」と微笑んだ。
 あぁ、何も変わっていない。屈託のない笑顔。
 わたしは嬉しくなって、メニュー表から彼に一番似合う、オレンジ色のスムージーを指差した。名前は、ええと。
「眩しい太陽?」
「はい、かしこまりました」
 変な名前だ。よく見ると、他のメニューにもいちいち不思議な名前がついている。
 バナナ豆乳には「絹のようなあなた」、スイカとチャメには「ひと夏の経験」。どれも素面で頼むにはなかなかハードルが高い。
「変な名前ですよねぇ」
 彼はそう微笑んで、タッパーからいくつか、カットしてある柑橘類を手に取った。
「ええと、サマーオレンジと……全部同じに見えるな」
 少し悩んだあと、彼はタッパーから三種類のみかんを選んで、牛乳と一緒にミキサーへ入れた。本当にあっているかかなり疑わしい。ガーガーと音を立てて、ミキサーが回る。ふうと一息ついて、彼はカウンターに手をついた。
「まぁたぶん、味は美味しいと思いますよ。何せ果物ですから」
 なんて適当な言い分だ。お調子者の彼は、20年後も健在だった。
 
  
 それから、幾度となく彼の店へ通った。毎回、対面できる時間を少しでも増やすために、わざと時間のかかりそうなメニューを注文した。切った果物たちをミキサーで撹拌している間、彼は少しだけ無防備になる。その時間、わたしは当たりさわりのないことを彼に質問した。
 お店はいつから?
 ───つい最近、というかお客さんが初めて来た日ですよ。
 どうしてスムージー屋を?
 ───俺は元々便利屋なんて家業をしてたんだけど。お得意さんが大怪我して入院しちゃって。代わりにしばらく俺がやることになったんです。このピンクの車もその人のですよ。
 じゃあここのメニュー名もその人が?
 ───そうですよ。こんな恥ずかしい名前俺はつけませんよ。注文しにくいでしょう?
 彼は気のいいアジョシだ。要領を得ない質問にも親切に応えてくれた。けれど、本当に聞きたい質問だけはいつになっても聞けなかった。あの事件の末路より気になって仕方がない、傲慢な質問。
 ねぇ、ドンシク。わたしのこと覚えてる?


 マニャンのお年寄りに混じって、すっかりスムージー屋の常連客になった頃。見知らぬ男がキッチンカーの前に立っていた。この店の客は大体がスーパーから流れてくる客ばかりで、昼間は老人ばかりなのでほとんどが顔見知りだった。その日も平日だったし、だいたいがいつも見かける人々だった。その中で一際目立つ、長身の若い男。がっしりとした体つきの割に、夏なのに真っ白な長袖シャツを着ていて、なんとも潔癖そうな風貌だった。どう見てもピンクのキッチンカーには似合わない。しかも恋人らしき連れがいるわけでもない。男は、しばらく看板のメニューを眺めたあと、ごほんと咳払いをして窓口に並んだ。いったい何を頼むんだろう。わたしは黄色いスムージーを啜りながら、男の様子を伺った。
「おつかれさま。今日は本庁?」
「はい。あなたの顔が見たかったので少し寄ってみました」
「ふふ、それは嬉しいね。何にする?」
「ええと、これを」
「これ? ちゃんと名前で言ってよ」
「……溢れる情熱。頼みづらいんですよここのメニュー」
 知り合いなのだろうか。ふたりは仲良さそうに笑っている。男は彼より、幾分年下に見えた。彼に弟はいないはずだ。友達にしても年が離れている。心なしか、話す距離も近いように思えた。わたしは男を無意識に睨みつけていた。その視線に気がついたのか、男が一瞬こちらを振り返った。慌てて視線をはずす。
 ミキサーの撹拌する音が響いて、わたしは我にかえった。なんて醜い感情なんだろう。きっとただの年の離れた友達だ。詮索することなど何もない。
 しばらくして、彼がミキサーの中の真っ赤な液体をカップにうつした。カップに太陽の光が反射して、きらきらと輝く。細く、しなやかな指がカップをカウンターへと運ぶ。男がカップを受け取ろうと右手を差し出す。瞬間。
 彼の美しい手は、男にカップを渡し、そのまま両手で男の手を握り込んだ。1秒、2秒、3秒。3秒経って、まるで恋人との別れを惜しむように、ゆっくりと彼の両手が離れた。
 なんだ、今の。
 嘘みたいな光景だった。わたしはその場で立ち尽くすことしかできなかった。
 
 
 その日から、店へ通うことが億劫になった。またあの男がいたらと思うと、苦しくてたまらなかった。けれど、彼の顔を見られないことはもっと苦しかった。初恋は何歳になっても苦しいのだ。会いたい気持ちにはどうしても勝てない。
 1ヶ月ほど押し問答をして、結局彼のいるスムージー店へ向かった。例えあの男が彼と親密な関係なのだとしても。わたしの彼を思う気持ちは変わらない。それに、若い男なんてすぐ飽きるに決まっている。
 意を決して、キッチンカーの前に立った。夕方だったからか、いつものお年寄りはいなかった。こちらから声をかける前に、彼がわたしに気がついた。
「あら、お久しぶりですね」
 彼はやっぱり、屈託のない笑顔で迎えてくれた。彼は優しい。その笑顔を見るだけで、心がすっと洗われるようだった。それでも、一度抱いてしまったどす黒い気持ちは、腹の底から消えることはなかった。メニュー表を見ながら、今のわたしに近い感情のものを探す。注文するとすぐにミキサーの中に赤い果実が放り込まれた。ミキサーの渦に、思いを吐き出す。
 あなたは光だった。
 教室で輪を作ってきらきら輝くあなた。
 初恋だった。
 叶うならばあなたとこの町で、新しい人生を歩んでみたい。
 それなのに。
 あの男はいったい誰。
 あなたの何。
 あんな男のどこがいい。
 あいつとどんなふうに寝るの。
 あなたはどんな声で、ねぇ、ドンシクどうして。どうして。
 どうしてわたしじゃだめなの。
「……あなたが好きです」
 ガーガー。やかましい機会音は、わたしの声をかき消してはくれなかった。ミキサーの中でピンク色の液体が螺旋を描いてうねっている。
「そう。知ってたけど」
「……え?」
 わたしの突発的な告白にも、彼はまるで驚かなかった。彼の唇が、スローモーションで短い言葉を紡ぐ。それがわたしの名前だと気がついた時には、すでに彼の瞳から光は消え去り、薄暗いディープブラウンが揺れていた。
「好き……。好きねぇ」
 はぁ、とため息をついた彼は、半ば呆れたように私の発した言葉を繰り返した。
「あなた、俺の人生を背負う覚悟があるの?」
「そんなのっ、当たりまえ……」
 当たり前? お前に俺の何がわかる?
 ミキサーの音に混じって、嘲笑うかのような声聞こえた気がした。本当にそう言ったのかはわからない。けれど、彼の片側の口角がひん曲がったように上がるのを見て、わたしは急に怖くなった。そんな笑い方、わたしは知らない。だって彼は、誰にでも優しくて、円の真ん中でケラケラと笑う太陽みたいだったのに。そう思った瞬間、彼の目尻に刻まれた深い皺も、ほうれい線も、穏やかに老いた証に見えなくなった。ほんの一瞬で、彼の顔を見ることができなくなった。たった今発した馬鹿げた告白も、彼への気持ちも、すべてが疑わしく、おもちゃみたいに思えた。
「お待たせ。淡い初恋です」
 彼はそう言って、カウンターにピンクの液体を置いた。下に溜まった苺の赤い果肉が淡いグラデーションの層を作り、まるで心の底でたぎる炎のようだった。彼がそれを打ち消すように、カップの底にストローを突き刺した。わたしは途端に恥ずかしくなって、キャッシュトレイにお金を置いてからカップを力一杯握って、その場から逃げるように立ち去った。
 
 
 大の大人が、川沿いを泣きながら走った。手には溶けてドロドロになったピンクのスムージー。全然熟れてない苺は青臭くて、砂糖の嘘くさい甘さと分離していた。下手くそ。心の中で悪態をつく。下手くそ。今度は小さく声に出した。
「くそッ、クソ野郎ーーーっ‼︎」
 ゆっくり流れる川へ向かって、そう叫んだ。クソ野郎。中年のくせに昔の初恋に浮き足だったわたし。わたしの気持ちを知っていて知らないふりをした、あいつも。きっとあいつの人生を背負ったあの男も。みんなクソ野郎だ。みんな、みんな。
 河原に転がっていた石を思いっきり川へ投げた。ぶん、と風を切る音がして遠くのほうへ飛んでいく。少ししてからぼちゃんと鈍い音がして、右肩に鋭い痛みが走った。思わず肩を押さえて座り込む。心はまるで成長していないのに、体ばかりが衰えていく。けれどこの痛みは、あいつが抱えている痛みに比べたら───。
 スムージーのカップから水滴がこぼれる。冷たい。ひどく冷たい。わたしはなんて愚かなんだろう。わたしにできることなんて何もなかった。今はただ、馬鹿な自分のために涙を流すことしかできない。愚かだ。どうしようもないくらいに。いっそ酒に縋ってすべてを記憶からなかったことにしたい。クラブで会った人と、一夜だけのふしだらな情事に溺れたい。誰でもいい、この凡人の痛みを誰か、誰かに知ってほしい。
 夕暮れの町を、とぼとぼと家族が待つ家へ向かって歩いた。商店街のシャッターがガラガラと音を立てて閉まって行く。子どもたちが走って家へ帰っていく。マニャンの夕焼けは、あっという間に町を眠らせてしまう。
 
 
 この町にはあまり行くところがない。

powered by 小説執筆ツール「notes」

688 回読まれています