褒め言葉
『あなたも徒然亭草若になれる!底抜け顔はめパネル!』
「………なんやこれ。」
昔は仕事が終わったらさっさと帰る、をモットーにしていたが、これだけ外が暑くなると、建物の外に出ること自体が妙に億劫になる。
かつては三十度を超えれば、屋外は灼熱地獄のようにも思えたものだが、今となっては、一週間のうちにはその暑さがせいぜい二、三日というところで、夕立にあっては少し気温が下がるという調子だった。
コンクリートジャングルの都会から程近くにあるとは言っても、天神さんに近い吉田邸の周りはちょっと歩けば川があることもあって、飲み屋に涼みに行こうかと調子のいい時期の師匠に付いて夜の散歩をすることもしばしばだったが、このところの夏は、連日暑さが続くばかりで、気温が二十度台に戻る気配がない。
当然、とっぷり日が暮れた時間でも夕涼みどころか、ただの熱帯夜である。室外機の温風が吹き付ける横を歩けば、砂漠をいく旅人の気分だ。
ちょっと歩いて、のそのちょっとが出来るような気温ではないのである。
日暮亭の楽屋の座布団は、今や、本来の使い方ではなく、人の引けるのを待って楽屋でひと眠り、というための枕になりかわっている。出番の前に身支度を整えてくるようにというので、夏場の出演者には、日暮亭から一番近い銭湯のチケットが一枚渡されており、家が暑くて、ここで休憩したい人はどうぞお使いください、と未使用の手ぬぐいまで置いてある始末だ。まあその手ぬぐいも日暮亭の名前が入っていて、設立記念日のある月に毎週末のお楽しみ抽選会をしていたときの景品に使われた残りではあるので、何でもよく考えつくものだと感心してしまう。
家に戻る前に、ロビーを入ったところのいつもの自販機で何か飲むものでも買うか、と思ったら、前は埃を被ったチラシが置いてあるばかりだった無用のテーブルがすっかり撤去されて、代わりに、顔が空洞になった見覚えのある服を着た顔なしのパネルが置かれていたという訳だ。
(なんや最近仕事が増えてなあ、昔みたいに草若ちゃん、草若ちゃん、て言われてあっちこっち引っ張りだこやねん。)
そんな風に言って、帰った途端にシャワーを浴びてすぐに寝入ってしまった男の子どものような顔をすぐに思い出したものの、このところのテレビで見るようになった、このポーズを決めているような顔とは全く重ならない。
それにしても、つくづく趣味が悪い服だ。
脱がせようにも本体は不在だが、帰宅したら脱がせようと思いながらプルタブを開けようとしたら、頓狂な声が聞こえて来た。
「あ、四草兄さん、ちょっと待ってください……! そのまま帰らんと、ちゃんと出演料貰ってってください!」
御神酒徳利とか似たもの夫婦とは良く言ったもので、近ごろの妹弟子は、声がデカいのが取り柄の兄弟子にますますそっくりになってきた。
「若狭……。」
和装を解くとその辺のおばちゃんに見えなくもないが、結婚以来、苦労の掛けられ通しになっているおかげか、ジーンズのサイズはまだあの頃とは変わってないように見える。
「はい、どうぞ!」と妙に分厚い封筒が渡された。
「これ、手ぬぐいでも入ってんのか?」
「なんや今日の寄席、なんでか当日券が売れに売れてしまって、お客さん皆、千円札で払われてしまったもんで……。」
「これ、中身全部千円か。」
道理で分厚いはずだ。
「すいません、四草兄さん。ちょうど銀行さんが行ってしまったとこで、五千円とか一万円切らしてて。」ぴょこんとお辞儀をされる。
「なるほどな。」
出演料は、もうすっかり月末の銀行振り込みに取って代わられてしまったが、前借りや、こうした代打の仕事で日程的に事前の振り込みをしている時間がないときだけはこうして現金で貰っている。
今日の仕事は、尊建兄さんの代打で、大体の落語家は協会や天狗座の決めた出演料に沿ってこうして金を貰っているが、バブルの頃に売れっ子として名が知られた人間は、今も全盛期と同じ頃のギャラで通っているという噂は本当らしい。
まあ、金が入らずに苦しくなってしまうのは落語家の宿命なので、毎年こないしてボードで足怪我してくれたらええな、とは流石に思わないが、千円札だろうが貰えるものが貰えればいい。
それより。
「若狭、あれなんやねん。」
「ええでしょう、草若兄さんの底抜け顔はめパネル! 今日も、お客さんらぁに大好評で!」
「褒めてへんぞ。」
「……いやあ、昔みたいに草若兄さんの等身大パネルとか作られへんかなって思って、兄さん本人にも了承取ろうかしたんですけどぉ、今はなんや肖像権とか面倒やし変な落書きとかされてもかなわんで、昔みたいにはぽんぽん作ってへんで、てカラスマさんに言われてしまってアレになったんです。小浜にあるパネル色々参考にさせてもらったんですけど、昔の衣装のと新しい衣装のやと、やっぱり昔の衣装の方が好評みたいですね。四草兄さんもここで撮っていきませんか? 私のスマホで撮ったら草若兄さんのアドレスに送りますでぇ。」
「……。」
なんでお前がオレの写真撮ったらあの人のスマホにオレの写真が行くんや、と言いたいがここで言ったところで何の意味もないのは分かっている。
「……アレの他にまだあるんか。」
「楽屋からは見えにくいとこですけどお、二階席の入口のとこにも置いてあるんです。帰りは、『底抜け』の吹き出しのとこに『お帰りはこちらやで~』って張り紙もしますんで、ほんと便利なんです。」
どこがええねん、と突っ込んだら負けやと思ったが、こっちがツッコミ入れる前にペラペラとしゃべり続けている。
顔ハメパネルという名前の等身大パネルが、本来の用途と違う使い方をされている、ということだけは分かった。
「あ、この間企画会議で出た『底抜けアクリルキーホルダー』試作品が出来上がりましたんで、草若兄さんにどっちの色がええか聞いてみてください。」と言って、小さなアクセサリーが入った袋を渡された。
固いビニール紐の輪に、鉄砲指のイラストの描かれた丸い形のプラスチックが付いている。
「お前、これ携帯ストラップと違うか?」
「あ、すいません! これ草々兄さんに言われて作った別の試作品でした! オチコに今はスマートフォンの時代やから、スマートフォンに貼れるステッカーとかの方がええんと違う、て言われて没になってしもたんです。四草兄さん、これいります?」
「……一応貰っとく。」
「本物探して来ますから、ジュース飲んで待っとってください!」
ポケットに入っていたじゃり銭を数えて、ひ、ふ、み、よ、と渡される。
もう缶ジュースが七十円で買える時代ではない。兄弟子に馬鹿高いアイスキャンディーをたかられて恨めしそうな顔をしていた妹弟子は、もうこの世のどこにもいないようだった。
ペットボトルが買える金を渡され、懐かしくなって、自販機のラインナップの中から、一番安いソーダの缶を買った。
プルタブを開けると甘ったるい匂いで、今時のペットボトルとは違って、あっという間に飲み終わってしまう。
若狭がお待たせしました、と戻ってくるまでに缶を捨ててしまい、残った十円玉を、ポケットではなく出演料の入った袋の中に仕舞い込んだ。
「これがアクリルキーホルダーです。」
ただのプラ板やないか、と思ったが口には出さない。
――今時、何でもかんでも話すと年がバレるわ。好きにしゃべりたいけど、やりにくうてしゃあない。
筆頭弟子である草原兄さんの口からカルチャーセンターの生徒とのジェネレーションギャップについての愚痴を聞いたばかりだった。
底抜け、と黒地に赤い文字で書かれたのと、白抜きの黒地。
「これ、上手い事出来てるな。」
「そう思いますか?」
「ん、ああ。」
「黄色に黒でも良かったんですけど、草若兄さんが、その配色なんや落ち着かんな、て言われて没になってしもたんです。購買層の掘り起こし出来たかもしれへんけど、本人が使いやすい色にするのがええですからね。」
使いやすいか、これ。
「この大きさでええんか?」というと、若狭は声を潜めて「それが一番安いんです。」と言った。
「この手のは、大中小か大小でもええけど、いくつか作って選べるようにしといた方がええぞ。Tシャツみたいなもんやて考えたらええわ。」
「そうですか?」
「これくらい大きさ、鍵つけたとこで、鞄の中で見失ってしまうやろ。」
「さすが四草兄さん、そんなことまで私、気が付きませんでした!」
「まあ、なんでもかんでもオチコに相談したんなら、わたしはこの大きさでええて言うやろ。子どもの小さい手ぇなら、これで十分やからな。」
まあ、昔暮らしてた女がこういう企画を立ててた、とかここで言ったら、こいつとあの人がツーカーやから、また部屋の戸に出禁の紙が貼られてまうかもしれへんな。
「そんなら、大きさも別のを考えてみます。色違いもひとつに絞らんと、ふたつ残しといたらええんかなあ。ロット数、まだ悩んでるんですけど、グッズの売れ行きって今だに良う分からんで……。草若兄さんに、色それで最終決定でええかだけ、聞いて来てくださいね。次の納涼寄席での販売考えたら、一番安うなる締め切り、明後日なんで。」
……いつそないな話になったんや。
「オレはあの人のマネージャーとちゃうぞ。」
「一緒に暮らしてて健康管理もしてるんやから、そらマネージャーではないですやな。……っと、これ外で言ったらあかんのやった。あーーー、昨日草若兄さんから聞いた惚気、今すぐ誰かに聞いて貰いたいなあ!!」
「……明後日やな。」
「ありがとうございます! さすが四草兄さん!」
「……お前ほんまに生意気になったな。」
「褒め言葉ととっておきますね。」と若狭はにっこりした。
くそっ。
お前は土曜の上沼恵美子か。
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