二杯目


いってきます。
譲介は毎朝欠かさず、そう言ってベッドを出ていく。
十五の年で暮らし始めた頃などは、同居の部屋を頻々と空けていたのでこんな風に毎朝のように挨拶を聞くこともなかった。
実際のところ、ちょっとばかり常軌を逸した気もあった十五のガキに、三十も年が上のおっさんと家族ゴッコをしたいかと聞いたところで、NOの返事が返って来ただけだっただろう。むしろ反発は強まったはずだ。
変われば変わるもんだ。
毎朝、手前ばかりが飲むコーヒーを淹れさせるわけにもいかねえか。徹郎は頭を掻いて揚々と起き上がった。
キッチンに行くと、譲介がパンをトースターにセットしているところだった。
フライパンには火が入っており、ジュウジュウとベーコンの焼ける音が聞こえて来る。
こちらを認めた譲介が、おはようございます、と言うので、おう、と返事をする。
いってきますの声を聞いたばかりだが、本人は違和感がないらしい。素知らぬ顔で蓋をしたフライパンの中を伺っている。食卓には昨日一昨日と冷蔵庫の中を満たしていた野菜の総菜が何もない。
辺りを見ると、台所と隣合うリビングのソファの上に、セミの抜け殻のように脱ぎ散らかした薄い灰色のパジャマと、仕事用のモスグリーンのリュックが見えた。
本人は出勤前の姿で、シャツを着てネクタイを締めている。クエイドの中じゃ、もっとラフな格好をしている医者もいると言うのに、あっちの大学病院染みた格好をしているのは省吾のヤツの薫陶か。
いつものカップを取り出してコーヒーを淹れる。近所のコーヒーショップで仕入れたモカマタリは当たりだった。
「昼は食堂か。」
「そうですね、弁当は月曜日と火曜日だけの習慣なので。」
譲介はちらりとこちらを伺っている。何だ、と眉を上げると、「食器棚から皿を出してもらっていいですか。」と返事が返って来る。
おう、と返事をして大きな丸皿を出すと、譲介がフライパンの中から目玉焼きを移した。
四つある目玉の真ん中に、カリカリに焼いたベーコンの仕切りが出来ている。
パンがトースターから持ち上がったので、別の皿を出して乗せる。バターは冷蔵庫の中だ。
味噌汁は、と昨日まであった場所を探すと、もう一人分しかない。
「譲介、味噌汁。」
「あ、今ある分はそれで終わりだと思います。今日は、あの、どうぞ使って下さい。」
話しは続くが妙にぎこちない気がする。いや、こいつが高校に通ってた頃もこんなもんだったか。
とりあえずバターを手渡すと、譲介はナイフで四角く切り分け、パンの上に乗せた。
カップに水を入れて電子レンジにかけていると、「あの、」と譲介が飯も食わずに話しかけて来た。
「何だ。」
「良ければ昼食を一緒にどうですか。」
「……そんなホイホイ仕事が抜けれんのか?」
暖まった湯の中に味噌と具材を入れてスプーンでかき回す。
カップを手にして譲介の向かいの椅子に座ると、ネクタイの先をさっと胸ポケットに入れた譲介が「外に行くのは難しいですが、大学の敷地内なら。」と言いながら、目玉焼きをパンに乗せて二つ折りにしてかじりつきながら、ちらちらと壁掛けの時計の時刻を伺っている。
一体、いつここを出るつもりで飯を食ってんだ、こいつは。
呑気に昼飯の話をしている暇があるのかどうかも疑わしいが、まあこいつもいい年のおっさんだ。こっちが口出すことでもねえか。それにしても。
「大学の食堂かァ。」
味噌汁を啜りながら、一昨日入った食堂の様子を思い出す。
図書館で論文を調べるついでに見に行くには行ったが、騒々しい上に、何を頼んでもレーション染みた豆が付いてくる。
使いますか、と手渡された箸で、そのまま半熟に近い目玉焼きにかぶりついてから、垂れた黄身をパンで拭って食べる。
「外でもいいですよ。僕は最近、近くの店のグリルドチーズサンドイッチが好きなんです。普通の昼食の時間よりは遅くなるかもしれないですけど、一緒に行きませんか?」
「分かった。」と言うと、譲介が嬉しそうな顔になって、テーブルに置いたスマートフォンのロックを解除して何やらスクロールしている。味噌汁を飲み干してコーヒーをもう一杯と思ったところで、場所はここです、と地図を差し出される。
「山羊のチーズのサンドイッチが店の目玉なんですが、ハムとマルメロのジャムを合わせたのがとびきり美味しいんです。あなたもきっと気に入るはずです。」
あなた。
あなた、か。
確かにお前、でもない、あんた、でもない。こいつがガキの時もその言い方がしっくり来ていたとは言い難かったが、ここに来て三十路になった男相手にそう言われると、背中がむずかゆいような心地になる。
「あのなあ、……他になんか言い方ねえのか?」
「言い方ですか。」と首を傾げる譲介に、オレの呼び名だ、と答える。
「他に何か、と言われても……ドクターTETSUがいいならこれまで通りにしますけど。」と言って、譲介は立ちあがってコーヒーをカップに入れて、どうぞ、こちらに寄越した。
「TETSUでいい。」と言うと、譲介は途端にムッとしたような顔になった。
「それは僕が嫌です。」
そう言って、冷蔵庫から二リットルはあるような牛乳の容器を取り出してカップに注いで飲んでいる。
「なんでだ。……今更ドクターでもねえだろ。」と二杯目のコーヒーを啜りながら言う。
「なんで、って……とにかく、他の呼び方なら何でもいいです。決めてください。」
何でも、って何でもいいならTETSUでいいだろうが、と思ったが、こうと決めたら梃でも動かないところのあるガキだった。
真田はナシだな。
「……徹郎、かァ?」
ちょっと呼んでみろ、と譲介に言うと、相手が頑なに「あなたのことを呼び捨てには出来ません。」と言い張るので眉を上げた。
そこいらのガキの半分が親を名で呼ぶような土地で、そこまで意固地になるな。
そう言おうとしたとき、譲介は「……徹郎さん。」と観念したかのようにひとこと言って、それから顔を真っ赤にした。
「……おう。」
「あの、仕事、いってきます。」
徹郎の目の前にいる三十路男は、口元のパンくずを手の甲で拭いながら、赤みの引かない顔ごと横を向いて、こちらから目を逸らし、リビングのソファから荷物の詰まったリュックをひったくるようにして出入り口の方へと歩いていく。
気を付けて行ってこい、と部屋を出ていこうとするその背中に向かって言うと、譲介は振り返って、大股でこちらに戻って来る。
「徹郎さんも。」
いってらっしゃい、と言いながら、譲介はリュックを担いでない方の手で、座ったままの背中にハグをした。
踏み抜いてはならない板を踏み抜いたような気がしたが、もう後の祭りだ。


「………どうすりゃいいんだよ、おい。」
誰に言っていいのか分からない問いをぶつけるのは、もうこの世にいない相手に限る。
それでも、徹郎がこうした進退窮まった時に思い浮かぶ顔はただひとつで、そいつが、二十年前に拾ったガキに思っていたのと別の方向から好かれた時の答えは、知っていようはずもない。
視線の先には譲介が脱いだパジャマがそのまま残っていて、なぜ自分の部屋で着替えてから出て行かないのかという問いについて、新しい同居人である徹郎の眠りを妨げる以外にも理由がありそうだということだけは分かった。
飲みさしのモカマタリは、まだ鼻先に香っている。
譲介が選んだカップは、クエイドの紋章が入った大学グッズらしきマグカップで、普段のように持ち上げて飲むには大きすぎた。
とりあえずこの二杯目を飲んで、考えるのはそれからだ。
赤らんだ譲介の顔を思い浮かべながら、カップの取っ手を持ち直した徹郎は、大きくため息を吐いた。

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