笑顔


問診をしている間に、どこからともなくカレーの匂いが漂って来た。
「む。」
どこからともなく、と言ったところで、この診療所に匂いの出所はひとつしかない。
換気扇は付けているとはいえ、この古びた診療所では、調理場からやって来るカレーや焼き魚と言った食事の匂いを遮ることは難しい。
「お昼が待ち遠しいような匂いですね。」と言う麻上君の声に、ごほん、と空咳をした。
昨日イシさんが作った、あれだけ大量にあったカレーが、夕食と翌朝の二食で譲介がすっかり食べ切ってしまったことを、彼女も覚えているはずだ。


思い起こせば、昨夜の夕食は、食事づくりが始まる前から妙だった。
イシさんは、今日はカレーじゃ、といきなり宣言して、買い込んで来たルーとレトルトカレーを、普段は肉と魚と野菜とを四次元ポケットよろしく山盛りに詰め込んだ買い物袋から、あたかも煉瓦積みのようにテーブルの上に乗せていく様子には、口を挟むことを許さないような圧力が感じられた。
思い起こせば、あれは一種のパフォーマンスではなかったかと思う。
どれだけ大量に買ったといっても、食材はいつものように直接調理場に持ち込めばいいだけの話だ。イシさんは、受験勉強中の譲介の目の前で、まるで見せつけるかのようにカレールーとレトルトカレーを積み上げていた。
早起きをして掃除に勤しみ、麻上君の往診の付き添い、後に勉強という一日の流れになることの多い譲介にしてみれば、夕方というのは集中力が切れる時間帯になる。だが「食事の準備、手伝います。」ときっぱりと言い、胸を張ったような顔つきで堂々と席を外すことは、ほとんどなかったことだった。
イシさんに声を掛けた譲介は、そんな風にして調理場に行き、それから一時間は戻って来なかった。
「ほれ、味見せい。」
「いいんですか?」
孫と祖母というには他人行儀な会話が診療室まで聞こえて来て、村井さんが「今日の譲介君はいつになく積極的ですなあ。」と言った。
相手はイシさんとはいえ、ハラスメントギリギリの発言だ。麻上君の反応を気にしてちらりと視線を向けてみると、彼女はパソコンに向かって今日の患者のカルテの整理を始めていたので、胸を撫でおろしながら「カレーが、好きなんでしょう。」と答える。
「ここでカレーを食べるのも久しぶりですね。」と麻上君が言ったが、思い返してみれば、確かにそうだった。
食事にカレーが出るのは、ここに富永がいた頃以来の話になるだろうか。
イシさんが不在の日には、確かに、富永が非常食として買い置きしていたレトルトカレーを何度か食す機会はあったが、少なくとも、イシさんが手作りしたカレーは、二年、いや、三年ぶりではないだろうか。(何年か前に子どもの数が足りないと言われて、屋根の下で救護係をやりたがる一也を選手として出した村民運動会の日以来、というのは流石に記憶が古すぎる気がする。)
ここに来て以来、食が細くなった譲介のことを気にはしていたが、一応三食は食べさせている。親代わりの男が消えた傷が癒えれば、そのうちに改善するだろうと思って放置していたが、まさかその解決策がカレーとは。
いささかアイデアが単純すぎるのではないかと、実際の譲介の反応を目の当たりにするまではそう思っていたが、夕食の席ではイシさんの思惑通りになった。カレーを前にした譲介が、黙々とスプーンを動かし始めたのだ。普段は余らせてしまう白米を三度おかわりして、リスが頬を膨らませる勢いでカレーを食べ、食べ終わるとまたおかわりをした。
譲介の昨日の食べっぷりは、まるで成長期の一也を見ているようだった。余った分のカレーを皿に開けてしまうと、炊飯ジャーに残ったご飯で鍋底をさらえてドライカレーを作り、最後まで食べていた。
一晩明けると、小食に戻るだろうかと思ったら、朝食の席でも、譲介は「僕は残ったカレーでいいです。」と当然のように言って、ゆで卵を乗せたカレーを二杯も食べた。
あれは一体なんだったのか。
腕を組んだまま頭の中で考えを巡らせていたせいで、「先生、どうした?」と道夫さんに問いかけられた。
「いや、実は昨日もカレーだったんだ。」
「そりゃいい、二日目のカレーは、普通は一日目より旨いもんだよ。」
その言葉をとっさに否定しようとして、では今の状況を何と説明すればいいか。
どうやら、同じことに気付いてしまったらしい麻上君と目が合った。
先生、道夫のやつの手術はまだ先じゃろ、と言ったきり、調理場に引っ込んでしまったイシさんの鼻歌が、調理場から聴こえて来る。
昼飯の分にせよ夕飯の分にせよ、麻上君とふたり、仕事をしながら夢を見ているというのでないならば、今作られている鍋の中身がカレーであることは間違いない。
明日からは、病人食の準備も必要で、普段であれば、事前に慣らし運転よろしく薄味の食事を作っているイシさんがなぜ、昨日と同じメニューであるカレーを作ろうと思い立ったのか。その理由が、大きな問題なのだった。
(まさかボケが始まったのでもないだろう。イシさんに限って。)
そう打ち消したところで、ちらりと過ぎった予感は、頭から離れそうもない。
カレーの匂いが漂う中、イシさんのことを気に掛けつつ、普段よりは多少巻き気味に手術の予定と今後のスケジュールを話すと、話を聞いてる道夫さんもちらちらと調理場を気にしている様子が感じられた。こちらは単純に、カレーの匂いのことだけを気にしているのだろうことは、その顔つきからなんとなく分かる。
「カレーってのは、匂いだけで空腹をそそるもんだねえ。自分の生死が掛かってる手術の前だってのに、なんだか腹が減ってきちまう。」
「お腹が減っているのは、いいことだと思いますよ。それに、イシさんのカレー、本当に美味しいですから。そうですよね、K先生。」
麻上君がいきなりこちらに話を振って来るもので、どんな風に返事をしようかと思っていると「そうかい? イシさんの作るカレーは、出汁の染み込んだ味がしそうだが。どうなんだい、先生。」と話を混ぜっ返して、道夫さんがニヤッと笑う。
こんな風を言われたら「ちゃんと美味いですよ。」と返事をするしかない。
「本当かい?」
「譲介が三杯も食べたくらいですから。」と居候として預かっている男を引き合いに出すと、道夫さんは目を細めた。
「へえ、あの浪人生の兄ちゃんが、カレーを三杯もおかわり。若いねえ。一也ちゃんと同じ年だっけ。」
「ええ。」
「まあ、大学に受かりゃ、いずれは村からいなくなっちゃうんだろうけどさ。こんな僻地で良けりゃ、ずっといてくれりゃいいね。イシさんも寂しくないだろ。」
事前検査で疲れの出ていたはずの道夫さんの顔が、妙に明るくなっている。
「よろしければ、カレー、持って帰られます?」と麻上君が問いかけた。
「私は残りご飯のおにぎりでも構いませんし。先生、確かこの間、広河さんからお土産に頂いた明太子残ってましたよね。」
ああ、と返事をしようと思ったとき「十分あるから、好きに持っていけ。」とイシさんが人数分の茶が入っているトレイを手にしてやって来た。
火の元を離れたということは、もう調理は終わったのだろうか。
隣で「ありゃ、イシさん。」と道夫さんが叱られた子どものような顔をしている。
「持ち帰り用のタッパーもある。夫婦もんの一食ならひとつで足りるじゃろ。」
「……いいのかい?」そこまでしてもらわなくても、と道夫さんが今更ながらに頭を掻いている。
「カレーは、昼と夜の一人前が残ってりゃそれでいいだ。今日は作り過ぎた。」
「へえ? そんなら遠慮せず貰っていこうかな。助かるよ。家に戻っても、このところはあいつも料理をする元気がないってんで、夜は、いつもの煮物に冷凍食品の揚げ物とか、そういうのばっかりでね。オレも、焼き魚とか鍋とか、多少のメニューなら作れないことはないんだが、手際が悪くて。買い物だけでも妙に時間が掛かるからメシの時間が遅れちまうんだ。それに、オレの好きな味付けだと濃すぎるんだってうるさいんだよ。」
「料理をしてりゃ、気が紛れるだからなあ。」と言って、イシさんはふっと笑った。



タッパーにたっぷりのカレーを入れて、じゃあ、また明日書類を持って来るよ、と去っていく道夫さんの背中を見送る。
イシさんがトレイに乗せて調理場から持って来た昼食は、いつものアジのフライとキャベツの千切り、味噌汁の昼食だった。
麻上君の顔にはエクスクラメーションマークが乗っている。
箸を持ち手を合わせ、さて食事だ、というタイミングで「ただいま戻りました!」と譲介がドアを開けた。
村井さんの薬品庫に寄って、日向地区まで薬を置きに行かせたのだ。
一軒一軒診察をしていては間に合わないだろうと思い、気になった様子の人がいれば都度電話はするように、と言っておいたが、それにしても早い。
いつものようにイシさんが弁当も持たせただろうから、戻りは昼過ぎになるだろうと思っていたが、譲介はカレーの匂いが気になるのか、全員分の受け取りをファイルに綴りながら、ちらちらと食堂を気にしている。
「先生、僕も昼食を食べていいですか。」
「弁当を食べて、またメシか?」
おそらく昼食に持って行った握り飯では足りないのだろうが、譲介の普段の小食とは、落差がありすぎる。
「それは……。」と口ごもる譲介の代わりに「今日は持たせなかったんじゃ。」とイシさんが言った。
「イシさん。」
「こいつは、何を持たせても残しよる。」
「残す?」と眉を上げると、譲介は「それは、あの……食べる時間が。」と言い訳をし始めた。
譲介がここに来たばかりの頃のように、心もとないような顔で口ごもって言い訳をすると、こりゃ、とイシさんが一喝した。
背伸びして手を持ち上げたイシさんは、悪戯をした子どもを罰するようにして譲介の耳を引っ張った。イテテ、と眉を顰めているが、無理に振り払おうとすればイシさんの足が覚束ないとでも思っているのか、譲介はされるがままになっている。
「おにぎりも何度も持たせてたっちゅうのに、時間がねえと言い訳を抜かすやつがあるか。歩いてても食べれるわ!」と耳元でがなる。
大人ではなく子どもに言い聞かせているようなイシさんの仕草には、どこか既視感があった。成人間近の男に対して過保護ではないかと思うが、富永も一也もいないこの場で二対一になることを思い出せば、それを口に出すのは憚られた。
そういえば、中学に入る前は、よくこうして、俊介が今の譲介のように怒られていた。
あいつは要領の悪い方ではなかったと思うが、何が原因であれほどの回数叱られていたのかは、さっぱり思い出せない。
そんなことを考えていると、譲介の腹が、ぐうぐうと鳴り出した。
吹き出しそうになるのを堪える俺の横で、麻上くんが、アハハ、と笑い出した。
「イシさん、もうそこまでにしましょうよ。」
二人の間をとりなす麻上くんの声に、そうだな、とイシさんも態度を和らげる。
「おめぇがそんなでは、診療所じゃ、他所の子どもには飯も食わせんのかと言われてしまうけんな。カレーを食え。いつでも作ってやる。」
そう言ってイシさんが手を離すと、譲介の顔が喜色を帯びた。
「昼に戻って来ると思って、ちゃんと作っといたぞ。」
「いいんですか? ありがとうございます!」
「そん代わり、今日からは、腹を鳴らして仕事をすることがないようにするだぞ、みっともない。」
イシさんがどん、と譲介の背中を叩くと、叩かれた方は一瞬だけ、口元に笑みを浮かべた。
「はい!」と背筋を伸ばして返事をする譲介に、食事を再開していた麻上くんは、にこにこと微笑んで「配膳手伝いますよぉ。」と言っている。
……譲介の小食のことを、気にしていなかったのはもしかして俺だけか。
僕がやります、と言ってイシさんに付いて行った譲介の背中を見て「譲介君良かったですね。」と麻上君が呟く。
「まさか、あいつは今日から毎日カレーなのか。」と呟くと「毎食かも。イシさんのカレーは、美味しいですから。」と麻上君が言って、ソースを掛けたアジフライの咀嚼を再開した。
譲介が、失礼します、と言って、カレー皿を持って戻って来た。
「ちゃんと丸盆か配膳台を使え。」と言うと、はい、と大音量で返事が返って来る。
まだカレーも食べてないのに今からこれでは、と思うが、口元に小さな笑みを浮かべている譲介の顔つきを見ていると、下手な口出しになりそうなことは何も言えなかった。
水でも入れてやるか、と立ち上がると、あら先生優しいですね、と。隣の麻上君がからかうように笑うのが聴こえた。






Fuki Kirisawa 2024.02.18 out

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