軍師天鬼、利土を描く(12)

横書き
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縦書き
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 天鬼は眠れずにいた。
 目を閉じると、絵巻の二人の口づけのシーンが浮かぶ。瞼の裏に枠線が浮かび、唇が重なるその瞬間と少し引いた柱の影の映る構図が目蓋の裏で繰り広げられる。台詞は入れず、読み手の目をそこで止めよう。その次の頁はどうする。唇が離れたあと、土井半助にどんな顔をさせればいい。驚きか、戸惑いか。受け入れるのか受け入れないのか。受け入れるならどの枠でそれを見せる。天鬼は暗い天井の梁を睨みながら頭の中で紙を何枚もめくった。
 軍略を練るときと同じ手法だ。いくつもの手を並べ、一つずつ潰していって最後に一本の道を残す。そうしているうちにいつもであれば自然と眠気が降りてくる筈が、今夜に限ってそれが来ない。枠を割ろうとするたびに一枚の絵が勝手に割り込んでくるのだ。
 ──ずっと、見ていました。
 夕陽の中で、間近に迫った男の顔。額と額のあいだは指一本分だった。低く掠れた声が蘇って、天鬼は寝返りを打った。
 ──あなたが私を弟のように扱うたび、嬉しくて、それ以上に悔しかった。
 弟。とは。衾の中で、天鬼は眉を寄せた。自分は利鬼を弟のように扱った覚えなどない。あの男は気付いたときには下働きとして近くにいたのだ。今では粥を運ばせ、白湯を運ばせ、藁人形の横に立たせているが、最初から今の今まであくまでも部下──どころか小間使いとしての扱いで、弟分として目をかけてやったことなど一度もない。ならばあの言葉は誰に向けたものか。問うまでもなく、答えは分かりきっていた。
 利鬼には弟のように扱ってくれた誰かがいるのだ。年上の……利鬼がその隣に並びたいと願い続けた誰か。いつか並べる男になりたくてここまで来たのだと、そう言わせるだけの相手がいたのだ。
 ──あなたがどこで何をしていても、誰を名乗っていても。
 あの声は演技ではなかった。天鬼にもそれくらいは分かる。誰を名乗っていても、とは何だ。偽名でも使うような男なのか。どこで何をしているかも分からないなどろくでもない相手なのではないか。
 天鬼はもう一度寝返りを打った。衾が足に絡まる。
「……分かっている」
 誰に聞かせるでもなく、暗闇に向かって呟く。そう、分かっているのだ。山田利吉になりきって真剣にやれ、と指示したのは自分だった。利鬼はそれに従っただけだ。藁人形相手では目が死ぬと言って叱られ、ならばと胸の内にある本物の想いを借りてきて役そのものに乗せたのだろう。変装を得手とする者が声色や身振りを誰かから借りるのと同じことで、役目としては何一つ間違っていない。むしろ褒めるべきだとすら言える。おかげで見開き手前の大ゴマの構図は決まった。あの寸前の間合いはもう天鬼の目に焼き付いている。
 利鬼は言われた通りに行動し、望まれた通りに役割を果たした。それなのに何故だかひどく腹立たしかった。頬に添えられた手。親指で頬骨をなぞるためらいのない仕草。あれは初めての者の手つきではなかった。いつか誰かにそうしたいと、何度も思い描いてきた者の手だ。否──むしろ実行したことすらあるのかもしれない。その手をあの男は、天鬼の頬の上で別の誰かのために使ったのだ。
 失礼ではないか、と思った。あの距離で、あの声で、あんなふうに自分を見つめておきながら、あの男の目は天鬼を素通りしてどこか遠くの誰かを見ていた。全くもって失礼だ。
 ──何が。
 天鬼は、はたと思考を止めた。
 何が失礼なのだ。
 利鬼が誰を想っていようと、自分には何の関わりもない。下働きの色恋にまで口を出す主など聞いたこともない。資料として役に立ちさえすれば、それで十分のはずだった。利鬼の胸の中に誰が住んでいようと原稿の進みには何の影響もない。それなのに天鬼の胸の奥は、硯の底に溜まった墨のように重く濁っていた。
 あの目が本当は自分に向けられていない。
 そう思うだけで、胃の腑がきりきりと絞られる。
 天鬼は衾を頭まで引き被り、言い聞かせるように小さく言った。
「……絵の話だ」
 そうだ。これはきっと描き手としての矜持の問題だ。あの顔が利鬼の想い人に向けられたものなのだとすれば、自分がいま描こうとしている表情もまた借り物ということになる。いずれ自分の筆で、利鬼の力を借りずとも納得の行く絵を描けるほどになってみせる。それだけで済む話の筈だ。
 衾の中は、昼間の墨の匂いがした。その奥に夕刻に抱き寄せられたときの匂いがまだかすかに残っている気がする。どこかで嗅いだことのある匂いだった。いつ、どこでとは思い出せない。ずっと昔に囲炉裏の煙と一緒に胸いっぱいに吸い込んだような。
 そこまで考えたところでこめかみの奥がつきりと痛み、天鬼は思考を投げ出した。どうでもいい。今は利鬼の匂いの出所などどうでもいい。問題はあの男がいったい誰を見ていたのかということで──いや、それもどうでもいいはずではないか。天鬼夜着の端を掴んだ。
「……ずっと見ていた、だと」
 くぐもった声が、布に吸い込まれて消えた。
 ずっと見ていたとは、誰のことだ。なぜいま目の前にいる私を見ない。浮かびかけた言葉を天鬼は奥歯で噛み殺した。そんなことを考える理由など自分にはない。それでも悔しくて仕方がなかった。利鬼は軽率だ、と天鬼は思った。
 衾の中で、夕刻の光景がまた勝手に立ち上がる。逃げ道を塞ぐように文机へかけられた手。額と額のあいだの指一本の隙間。耳元に落とされた甘く沈んだ声──。役に乗せただけだと頭では分かっている。だがあの距離で、あの目で、あの声で迫られて、これは手習いだと涼しい顔をしていられる者がいるのだろうか。自分でさえ危うく原稿を投げ出すところだったのだ。
 好いた相手がいながら、目の前の者に勘違いさせるような真似をするなど不実にも程がある。もし自分があのままその気になっていたらどうするつもりだったのだ。翌朝何事もなかったように粥を運んできて、昨日は良い資料になりましたね、とでも言うつもりだったのか。
 勘違いさせるような──。
 ふと天鬼の指が、衾の上で止まった。
 勘違い。
 その言葉が、頭の中のどこかに引っかかった。墨の滲みのように、じわりと広がっていく。
(勘違いだと、思うのではないか)
 天鬼はがばりと身を起こした。
 衾が膝から滑り落ちる。夜気が襟元から忍び込んだが天鬼は気にも留めずに、暗闇の中で目を見開いたまま身じろぎ一つせずに座り込んでいた。
 降ってきたのだ。藁人形に書かれた滲んだ文字でも、利鬼が想う誰かの顔でもない。土井半助の気持ちが。
 天鬼はゆっくりと、頭の中のネームを最初からめくり直した。
 戸口で振り返る山田利吉。壁際に追い詰められる土井半助。そこから見開き、唇が重なり、二人は結ばれる。
 めくり終えて、天鬼は額に手を当てた。
「……率直すぎる」
 自分は至極あっさりと、二人を恋仲にしてしまってはいないか。想いを告げられた土井半助は、驚き、戸惑い、そして受け入れる。三コマで。いや、ネームを見返せば、戸惑いすら一コマしかなかった気がする。
 そんなはずがあるものか。
 女中の書付によれば、山田利吉は土井半助より七つも年下だという。土井半助は山田利吉がまだ幼い時分より知っていたとも。ならば土井半助にとって、山田利吉はずっと守るべき相手だったはずだ。袖を引かれ、背中を追われ、いつか並びたいと見上げられてきた。その眼差しを土井半助は年長者として、兄のような者として受け止めてきたのだろう。大事に、大事に。
 その相手がある日、自分を好いていると言う。土井半助はどう思う。嬉しいだろうか。嬉しいかもしれない。だがその前に、きっとこう思うのではないか。
 ──勘違いだ、と。
 幼い頃から慕ってきた者への憧れを、若さゆえに恋と取り違えているだけだ。気の迷いだ。七つも年下の青年の前には、この先いくらでも道が開けている。もっと相応しい相手が現れれば、この熱などいずれ醒める。
 天鬼は暗闇の中で、ひとつ息を吐いた。胸の奥、硯の底に沈んでいた重たいものが、わずかに揺れた気がした。
 大事な相手であればあるほど、差し出された想いを素直には受け取れない筈だ。信じて、手を伸ばして、それが取り違えだったと分かったときに壊れるのは自分だけでは済まないからだ。そうなれば相手の行く末までも巻き込んでしまう。だから土井半助は、山田利吉の熱を一時のものだと思うことにする。
 そして──。
 天鬼は膝の上で拳を握った。
 だからこそ、なのではないか。
 この熱はきっと一時で終わる。いつかこの若者は目を覚まして自分のもとを離れていく。そう思うからこそ土井半助は自分に嵌めた枷を、ほんの少しだけ外せるのだ。どうせ終わるのなら、今だけは。醒めるまでのわずかな間だけはこの熱を受け入れてもいいのではないか、と。
 否──受け入れるのではない。終わりを先に数えた上で、それでも今だけ留まることを許すのだ。雨宿りのために旅人に軒を貸すかのごとく。
 それならば唇を重ねたあとの顔も自ずと決まってくる。喜びだけではいけない。戸惑いだけでもいけない。ずっと心の奥で待ち望んでいたものを手にしながら、その手をいつ放されても構わないと最初から覚悟している顔の筈だ。そういう心の流れの方がよほど自然ではないか。
「……足りん」
 声が闇に落ちる。今の心理描写ではまるで足りない。土井半助がなぜ一度拒み、なぜ最後に受け入れるのか。その間にある葛藤があの筋書きにはどこにもない。あれでは見開きはただの接吻の絵になる。足りない。枠が足りない。頁が足りない。
 天鬼は手探りで夜具を這い出し、文机の方へにじり寄った。暗がりで膝が紙の山にぶつかり何枚かが乾いた音を立てて崩れ落ちる。構わず手を伸ばすと指先が燭台の冷えた脚に触れた。確か──利鬼が火打ち道具を燭台の脇に置いていったはずだ。机の上を撫で回し、ようやく付竹と火打石を探り当てる。
 かち、かち、と二度打って、三度目で火花が付竹に移った。小さな赤い点を芯へ寄せてそっと息を吹きかけると、灯りがふわりと立ち上がった。
 橙色の光が部屋を浮かび上がらせる。隅に積まれた反古紙の山。墨を滲ませた大ゴマの紙。部屋の真ん中にはまだ返していない藁人形が「土井」の二文字を貼りつけたまま影を長く伸ばして立っていた。
 天鬼は藁人形の顔をしばらく見つめた。墨の滲んだ「土井」の字が灯りに揺れている。こめかみの奥がまた鈍く痛んだが、首を振って文机の前に座り直した。割れた筆は脇へ除け、硯箱の底から予備の筆を取り出す。冷えた墨に水を足し、硯の上でゆっくりと擦りながら頭の中の紙をめくっていった。
 告白のあと。土井半助はすぐには答えない。山田利吉の肩に手を置いて押し戻そうとする。勘違いをしている、と言わせるか。いや、言わせない方がいい。言葉にしてしまえばそれはただの拒絶になる。黙って押し戻す手だけを描き、そしてその手が押し戻しきれずに止まる。そのコマを一つ。
 墨の香りが、夜の部屋に広がっていく。
 天鬼は新しい紙を引き寄せ、筆の先を整えた。



 翌朝、利吉が朝餉の膳を運んでいったときには、すでに手遅れだった。
「天鬼殿。朝餉をお持ちしま──」
「入るな」
 戸口から返ってきたのは、氷のように張り詰めた声だった。
「気が散る。膳はそこに置いておけ」
「ですが、昨日の夕刻からろくに召し上が」
「下がれと言っている。いま手が止まれば線が死ぬのだ」
 迷いのない冷たさで拒絶され、利吉は戸を開けかけた手を止めるしかなかった。
 板戸の向こうからは、猛烈な速さで紙を擦る筆の音と、時折ぶつぶつと低く呟かれる独り言のような声が途切れず漏れ聞こえてくる。あの狂気の再来──いや、あの時よりも遥かに質が悪い。絵巻の構想を練っていた時はまだ「腕の骨組みはどうなっている」「視線誘導が定まらん」と外側への不満や疑問を口にしていた。今の天鬼は、己の内側の暗がりへと深く、深く沈み込んでしまっているかのようだった。

 昼に運んだ握り飯も、夕餉の汁物も、戸口に置いた盆の上から指一本分すら動かされていなかった。
 気配を窺えば、息を詰めて紙を睨みつけている気配が肌に伝わってくる。忍び寄って戸の隙間から覗こうとすれば、途端に「そこに立つな。影が落ちる」と鋭い叱責が飛んできた。記憶を失ってなお、忍としての勘と間合いの把握だけは恐ろしいほど冴え渡っている。
 そうして丸二日が過ぎた。



 東の空が白み始めた頃、ことり、と部屋の中で硯の蓋が閉まる音がした。
「……入れ」
 低く、掠れた声が障子の奥から静かに響いた。利吉は息を呑んで即座に戸を引き開けた。三日ぶりに見た室内に立ち込めていたのはむせ返るような濃密な墨の香りと、底冷えのする夜気だった。
 部屋の板敷きという板敷きを、夥しい数の紙が覆い尽くしている。その中央、文机の前に天鬼が端座していた。やつれているかと思いきや、その横顔には疲労の色すら見当たらない。
 天鬼が、静かに利吉を見上げる。その双眸を見た瞬間、利吉は胸を突かれたように足を止めた。あまりにも──その瞳が澄んでいたからだ。
 あの夕刻に見せた怒りも、赤面も、修羅のような気迫も綺麗さっぱり消え去って、まるで幾重もの苦患を越えて解脱した高僧のごとき晴れ晴れとした穏やかな光を湛えている。あまりにも凪いだその眼差しは、どこかこの世の者ではないような静けさすら帯びている。
「……天鬼殿?」
「終わったぞ」
 天鬼は手元の紙束を丁寧に揃え、とん、と机に置いた。
「清書まで、ほぼ終えた。あとは女中に渡して刷りの手配をさせるだけだ」
 噂をすれば廊下を小走りに進む足音が近づき、女中がすっと姿を現した。台所の仕事を抜け出してきたのか前掛け姿のままだが呼吸は乱れていない。この女何者なのだろうか。
「描き上げたのですね」
「ああ。見てくれるか」
 天鬼が促すと、女中は無言で膝をつき、恭しく紙束を受け取った。
 一枚、二枚と頁がめくられる。カサリカサリと紙が擦れ合う微かな音だけが部屋を満たし、女中の指が頁を繰る速度が次第に落ちていくのが見える。やがて見開きの箇所に差しかかったとき、女中の指先がぴたりと止まった。
「…………っ」
 女中の切れ長の目から、ぽろりと一筋の涙がこぼれ落ち、板敷きの上に染みを作った。
「……しんどい……」
 絞り出すような、深く重い吐息だった。
「何ですかこれは。この視線……この表情……もう最初から、諦めているじゃないですか」
「よく分かったな」
 天鬼は穏やかに微笑んだ。出来の良い教え子を褒める師匠のような、どこまでも静かな笑みだった。
「土井半助は、山田利吉の想いが本物だとは信じておらん。若い身空の一時の気の迷い、幼少の憧れの延長だと割り切っている。いずれ醒め、己のもとを去っていくと知っているのだ」
「知っていて……受け入れるんですか」
「そうだ。どうせ去るのなら、今この刹那だけは、その熱を身に受けても許されるのではないかと己に言い訳をして、終わりを先に数えながらその身を差し出すのだ」
「……しんどい……」
 女中は再び最初に言った言葉を繰り返し、原稿を両手で挟んでじっと目を伏せた。──が、ふと我に返ったように原稿から目を上げ、天鬼を見た。
 天鬼は相変わらず、仏の如き穏やかな笑みを浮かべて宙を見つめている。何ものにも執着せず、すべてを受け入れて諦めきった者の顔。
「あ~~~……」
 新人が作り終えた数十人分の配膳の仕方が丸ごと違っていたかのようなやっちまったな感のある声を上げて、女中はすっと立ち上がった。原稿を文机の端に置き、傍らに立っていた利吉の袖をついと引く。
「利鬼様……少々」
 低い声でそう告げると、利吉を促して部屋の外へ連れ出した。

 廊下の角を曲がり、天鬼の部屋から十分な距離を取ったところで女中は立ち止まり、背後の気配を確かめた。いつもの落ち着き払った様子ではなく少々焦りが感じられる顔で、正面から利吉を見据える。
「利鬼様……まずいことになりました」
「何がですか? あんなに褒めていたではありませんか」
「原稿の出来栄えとは別の問題です。利鬼様、天鬼様をお慕いしていらっしゃるでしょう?」
「なっ……そっ……」
 利吉の喉が詰まった。不意を突かれて耳の奥までじわりと熱が広がる。女中はそんな利吉の様子に構わず淡々と続ける。
「隠す必要はありませんよ。お二人を見ていれば誰でも分かります。ですが、このままだとその想いは永遠に実りません」
「……えっ」
 だれでも分かるのは忍としてどうなんだというツッコミも忘れ、利吉は思わず言葉を失った。永遠に実らない──その冷たい断定が妙に鋭く胸に突き刺さる。
「天鬼様……どうやら完全な憑依型のご様子で」
「ひょうい型……?」
「ええ。物語を描く際、登場人物の感情を我が身に降ろし同化することで表現するアーティストのことです。ぶっちゃければ思い込みが激しいと言うか」
「あーてぃ……? 天鬼殿の思い込みの強さは痛いほど知っていますが」
「今あの方、土井半助になりきっておられます」
「なりきって……」
 利吉は眉を寄せた。
 なりきるも何も、あの男は正真正銘の土井半助本人なのだ。記憶を失っているだけで魂の根底にあるものは紛れもなくあの人自身である。だが女中の指摘は、それとも少し違う話のようである。女中は頭が痛そうな様子でなおも続ける。
「天鬼様の中で、土井半助という男は『山田利吉の愛をいずれ終わる夢として諦めながら受け入れる男』として完全に完成してしまっています。丸二日飲まず食わずで、その境地を頭の中で完璧に作り上げてしまった。このままだとあの原稿のように山田利吉を諦めたままくっつく気分になってしまいます。そうしたら利鬼様の想いも実りません」
 何故自分が天鬼とくっつく前提になっているのか。言いたいことは山程あったが女中の言葉は利吉の胸の奥深くに重く沈み込んだ。
 ──諦めたまま、くっつく気分。
 もし、天鬼の意識がこのまま固まってしまったらどうなるのだろう。やがて記憶が戻り、ドクタケの軍師から忍術学園の教師へと立ち返った時、土井半助の心までこの「諦念」に染まったままになったりはしないのだろうか。いやむしろ──と、利吉は思考を巡らせ、戦慄した。
 そうではない。天鬼がこの短期間で完璧にその心理を組み上げられたのは、土井半助という男が元からそういう男だったからではないのか。あの人は自分をきっと特別に大事に、弟のように大切に思ってくれている。それくらいの自負は利吉にもある。けれどもそれゆえに、もし利吉が本気の恋情をぶつけたとしても土井は決して対等には受け止めないのではないか。あの物語の筋書きのように最初から終わりを数え、諦念の仮面を被って、一時の戯れとして自分を差し出すのではないだろうか。
(冗談じゃない……!)
 利吉の奥歯がギリと音を立てた。
 そんなものはご免こうむる。
 七つ年下だからと子供扱いされ、届かない背中を追いかけ、ようやく対等な男として並び立てる腕を磨いてきたのだ。それなのにそんな諦めと慈悲の皮を被った壁で隔絶されてたまるものか。記憶を失っていようが戻っていようが、そんな結末など死んでも受け入れたくはなかった。
「……どうしたらいいのですか」
 利吉は低く絞り出すような声で女中に問うた。
 女中は重々しく頷きながら、事も無げに言った。
「当たって砕ければよろしいかと」
「砕けてはいけないのでは」
「砕ける覚悟で踏み込むという意味です。先日の夕暮れは『原稿』という大義名分で逃げられましたが、もうあの男に逃げ道はありません。今ならまだ傷は浅い。口説き落とすなら今です」
 見てたんか? というツッコミを、利吉はまたも喉の奥で押し留めた。見られていたことに全く気付いていなかった。女中は文机の方を顎でしゃくった。
「私は刷りの準備と称して、版木の手配で半日は戻りませんので、あとはご自由にどうぞ」
 そう言うだけ言って、女中は音もなく踵を返して廊下の向こうへと去っていった。

 一人残された利吉は、深く息を吸い込んだ。板戸の向こうには、己の想いを一時の気の迷いと決めつけ悟りきった顔をしているかの人がいる。
 利吉は無言で拳を固く握りしめ、静かに天鬼の部屋へと歩みを進めた。


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