シドニー郊外のバス停にて



 九月のある朝、シドニー郊外の山間にある小さな停留所でバスを待っていた。辺りは長い一本道と雑草と、あとは木柵に囲まれた家々が立ち並んでいるだけだった。バスが来るまであと十分か十五分くらいの時間があった。
 そのうち一人の男がやってきて、私に時間を尋ねてきた。私が「〇時です」と答えて腕時計の文字盤を見せると、時計を覗き込んでふんふんと頷いた。ゆったりとしたサイズのグレーのスーツを着ていて、赤毛のもじゃもじゃの長いひげを生やしていた。
 私はなるべく彼のことを気にしないようにしていたが、あちらはこちらにとても関心がある様子だった。
「いいジャケットだね」と男は私の着ていたジャケットを褒めてきた。
「どうも」と私は返事をした。すると彼はサッと私のジャケットの端をつまんで、それから自分のジャケットをつまんだ。布地の感触を比較しているみたいだった。
「ベロアです」と私は言ったが、相手には通じなかった。
「学生?」
「はい、そうです」
「高校生?」
「いえ、大学生です」
「大学生? 本当に?」
「はい」
「シドニーの大学に通っているの?」
「いや、ここではなくて、日本の大学に通っています」
「じゃあ、この街には観光しに来ているの?」
「そんな感じです。でも先日まで隣町の語学学校に通っていました」
「ふーん、なるほど」と男は頷いた。「じゃあ、今は日本の大学は休みなの?」
「はい、夏季休暇で」
「夏の休暇か。そっか、日本は北半球だものね」
「ですね」
「ということは、君はせっかくの長期休暇にまた学校に通っているってこと?」
「そう、ですね」
「ひゃあ」と相手は大袈裟に目を見開いた。
 そんな受け取り方をされると、なんだか自分がすごく真面目な人間のような気がしてきた。
「日本の大学では何を専攻しているの?」
「えーっと、ヨーロッパの文化についてです」
「というと?」
「具体的には視覚芸術です。私がいる研究室には絵画とか彫刻作品に興味がある人が集まっています。私は映画に興味があります」
「ふーん」と男は長いあごひげを指先で撫でつけた。「ヨーロッパの視覚芸術に興味があるのに、冬の南半球に来てるのか」
 そう言われると、今度は自分が相当に変わっている人間のような気がした。
「この街に来てどのくらい? 一週間? それとも一ヶ月?」
「もう少しで一ヶ月ですね」
「そっか。じゃあだいぶここでの暮らしにも慣れただろうね」
「そうですね」
「しばらくこの国で暮らしてみて、最も印象に残っていることは何?」
「最も印象に残っていること?」
「そう」男はニッコリと笑った。
「最も印象に残っていること?」と私は繰り返した。「この一ヶ月で?」
「そう。君にとって一番楽しかったこととかでいいんだよ」
「えぇーっと……」一瞬のうちに色んな情景が頭の中に思い浮かんだが、これという納得のいく答えが見つからなかった。
「そんなに難しく考えなくてもいいよ。ビーチ、ビール、バーベキューとかでいいんだよ」
「あ、ビーチはとても好きです。すぐ近くにあるところが特にいいなと思いました」
「ビーチかぁ。ビーチはいいよね」と男は言いながら、体を折り曲げて山のほうからバスが来ているかどうかを確認していた。私も見た。バスは見えなかった。この道の先は海へと繋がっていた。私はこれからその海岸線を通るバスに乗って、隣町にあるショッピングセンターに向かう予定だった。
「カンガルーは食べた?」
「カンガルーを? いいえ。えっ、というかカンガルーって食べられるんですか?」
「そうだよ」
「知りませんでした」
「そっか。私たちはカンガルーが大好きで、マスコットにしているくらいなんだけど、カンガルーを食べるんだよ」
 苦笑する以外にどう返したらいいのかがわからなかった。
 やがてバスが来た。男が私に先に乗るように勧めた。そうしてバスに乗り込んで椅子に腰を下ろした時、男が乗車していないことに気づいた。彼は時刻表の隣に立ったまま、私に向かって手を振っていた。乗車口の扉が閉まってバスが出発した。

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