書を捨てよ、夢に行こう

 その日、空から青年が降ってきた。

 雲は遠く、薄く星が輝き始めるその直前の事だった。空の半分を埋める透き通った月の前を素通りして、真っすぐに彼は目の前の海に落ちてきた。
 それを見ていたのは彼一人だけだった。「――親方~、空から人が……」と、彼はひとりでぼそりと呟き、そして冗談を言っている場合ではない、とすぐに立ち上がると、落ちていった青年の傍へ走っていく。まだ浅瀬ではあるが、気を失っていればそのまま溺れてしまいかねない。そもそも生きているのか? 一体どこから落ちてきたんだ、と彼は混乱しながらもざばざばと波を掻き分け青年の元へ走っていく。
 波間にしばらく漂っていた青年は、少しずつ呑まれていくように視界から消えそうになる。身体を水が覆い、波間に静かに吸い込まれていく。
 水飛沫は上がらない。藻掻いている気配もない。意識がないのだ。彼は慌てて大きく息を吸い、肺を膨らませ水の中に潜った。
 視界は曇りガラス、音は鈍く、体は勝手に浮き上がろうとする。幸いだったのは波が穏やかで、水の透明度が高く、砂が白く、溶けだした視界の中でも容易に空から落ちてきた青年が見つかった事だろう。彼は足と手を大きく動かしすぐに青年に近寄る。沈んでいくばかりの青年の後ろから腕を回して、水面に引っ張り上げる。
「――ッ、っぱ!」
 ざば、っと大きく立った水飛沫と水音の後、すう、っと音と冷たさが頬と耳を通り抜ける。ちゃぱちゃぱと揺れる波にこのまま漂っているわけにはいかない。浮きの類はないから、服に空気を入れて浮かせようとしたのだけれど、生憎青年の着ている服は体に沿ったもので余裕がない。仕方がなく、彼は自分の服の胸元に空気を入れ、気を失っている青年の顎を上向け、少しずつ砂浜まで波を蹴った。
 ちょん、ちょん、と爪先が砂に付くようになる。彼は次第に浮力を失くし重くなっていく青年に肩を貸すようにして前へすすむ。飛び込むように砂の上に二人で倒れて、すぐにずるずると波が来ない位置まで青年をひきずった。この辺りの砂が細かく、柔らかく、堆積した貝殻や小石があまりない場所で助かった、と彼は漸く一度息を吐く。――さて。
 ぺちぺちと軽く青年の頬を叩いてみる。肩を揺さぶり、大丈夫か、と大きく耳元で声をかける。だがやはり気を失っている。もしかして呼吸も止まっているのか、と彼はどっどっ、と急に騒ぎ出した自身の鼓動を落ち着けるように、もう一度深く息を吐いた。こういう時はあれだ、ええと、……人工呼吸。
「って、……どうやってするんだっけ……?」
 確か記憶ではくちびるを合わせて、そこから空気を中に吹き込んでいたような気がする、と彼は自分の記憶を思い出そうとする。近づいてくる影がぼんやりと頭の中に浮かび上がる。気道の確保もしなければいけないのに、ただくちびるを近づけるだけなんてただの口付けだろう。鼻先からぽたぽたと落ちてくる僅かな雫がくすぐったい。彼は青年を見下ろしながらふと考えた。
「……どこかで」
 逢ったような、気がする、……ような。
 鼻先が触れ、冷たくなったくちびるが近づく。触れたその柔らかな肉の感触もまた冷たく、すぐに放してからこれじゃあただの口付けだと気付いた。眠り姫を起こすためのものではなくて人命救助をするはずだったのに。いけないいけない、と彼は何故自分がそうしたのかもよくわからないまま、もう一度顔を青年へ近づける。大きく息を吸いこんで、そのくちびるに口付けようとした途端、んむ、と何かに遮られぐい、っと押し戻された。
「ッ……! げほっ、……」
 途端、大きく咳込んで、青年がむせ返る。どうやら気が付いたようだ。ほっとして、彼はそっと覗き込んでいた青年の上から体を離し、青年の呼吸が落ち着くのを待った。青年は大きく咳込んだ後、呼吸を深く何度か繰り返して、漸く自身が置かれた状況を把握しようとする。砂浜の上にゆっくりを起き上がり、彼の方へと視線を向けた。
「……あなたは、」
「えーと、……」
 何から話すべきか、と彼は一度口ごもる。だって、ついさっき空から急に降ってきたのは青年の方だ。聞きたいことがあるのは彼ではなく自分の方。彼はどうしようかな、と逡巡して、それから、「ッ……くしゅん!」と大きくくしゃみをした。目の前の青年に思いきり唾をかけてしまった。青年は驚いたように目を丸くして、それから自分と、彼が頭から爪の先までしとどに濡れていることに気付く。あの、と口火を切った少年は、彼におずおずと尋ねた。
「……どこか落ち着いて話せる場所へ移動しないか」



 黄金の時の広場周辺の喧騒から離れ、さらに奥まったところへ進むと、しんとした静けさの後、また一際人の声が多くなる。穹はもうちょっとだけど大丈夫、と後ろを付いてくる丹恒に、そう尋ねながら先へ進んだ。その言葉に丹恒がきょとん、とする。
「? 何がだ」
「いや、さっきから結構煩いとこばっかり歩いてるだろ。疲れてないかなって、思って?」
「疲れるも何も、先ほど夢境に入ったばかりだ」
「でも、丹恒って賑やかなところ苦手だろ? なら、いるだけで疲れないか?」
「……賑やかな場所すべてが苦手というわけではなく、ただあの時は――、……いや、いい。とにかく、お前が気にするほどまだ疲れているわけではないし、この程度の喧騒であれば問題はない」
「そう? じゃあもうちょっと頑張ってくれ」
 これ以上何かを言うことを諦めたかのような表情を一瞬浮かべていたが、尋ねるのはやめて目的の場所へ向かう。見えてきた見えてきた、と穹は迷うことなく、広場の噴水を通り過ぎ、片隅に埋まる大きな瞳の前に向かった。――Dr.エドワード。この夢境の中で人の夢を買い取ったり、人の夢を売ったりしているキャストだ。
 この夢境ショップは、夢境で人々の夢を買い、そして売っている場所だった。彼の名は名付け親の昔のアイリス家の当主が好きな映画の重要人物らしい。彼は近づいてきた穹と丹恒に気付くと、ようこそ、夢境ショップへ、と大きな瞳をぎょろりと動かす。
「このエドワードがご用件を承ります! 本日はどのような味わいの夢境を体験したいですか?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「はい、何なりとお申し付けください」
「夢の泡を抽出したいんだけど。出来る?」
「お客様の夢の泡を……でしょうか? もちろん! 我々が誇る夢境技術によって抽出された夢の泡は、お客様のお望み通りに没入感等も調整できます。例えば映画のようにただ夢の泡を再生することも可能ですし、夢境に入った時のように、その夢の泡の中を動き回ることも可能ですよ」
「どれくらいかかる?」
「ふむ……そうですね。抽出した夢の泡をそのまま私どもの夢境ショップにお預けくださるというのであれば、それは夢の買い取りとなりますのでお代はいただきません。ただ夢の泡を抽出し、それをお客様自身のみでご利用されるというのであれば、……ふむ、そうですね、ルーサン幣千五百万程度でいかがでしょうか?」
「千、五……、足元見てないか?」
「はは、とんでもない! あなた方はピノコニーの盟友である星穹列車の方々です、アイリス家当主からも便宜を図るように申し付けられておりますから、これでもかなり破格でのご案内なのですよ。先日いらっしゃったお嬢さんは、どなたかと夢境を回られるつもりだったのか、ルーサン幣三千万ほどをぽんとお出しになって、ご自身のためだけに夢の泡を抽出なさっておりましたし……」
「そりゃ、ここにくる奴らの殆どがどこぞの星の王族だとか富豪だからだろ?」
 いくら星穹列車がピノコニーの株の一部を保有することになったとはいえ、一日のお小遣いは千信用ポイントのまま変わらないのだ。そんな金額どうしたって捻出できるわけもない。ちなみに聞くけど丹恒は持ってる、と隣へ尋ねると彼はあっけらかんとして、「売ればいいだろう」と返してきた。
「そっか、売ればいいよな? じゃあ……って――え!? いいのか!? 俺のじゃなくてお前の夢だぞ!?」
 穹は驚いて丹恒に尋ね返した。彼は表情一つ変えず、むしろ何故そんなにも驚くのか、とばかりに首を傾げている。
「……? 構わない。夢は夢だ。それに、俺のあの、ただ旅をしているだけの夢に価値があるとは思えないが」
 そんなことないだろ、と言いかけた穹を遮るように、丹恒の話を聞いたエドワードが急に声を大きくした。
「とんでもない! あなた方ナナシビトの皆さまは、あらゆる星域、星海を漂い、彷徨い続ける根無し草、それゆえに多くの方が立ち寄ったことのない場所へも訪れています。つまり、その夢の泡一つで、未踏の地へと移動もせずに向かうことが出来るのですよ! しかも、その夢からあのナナシビトの一員になったような没入型の夢の泡も作成できます。これは大変価値のあるものです。ぜひとも買い取らせていただきたい!」
「まった。そういう貴重な夢だっていうのは俺もわかってるんだ。……で、いくらで買い取るつもりだ?」
「ふむ……少々お待ちいただけますか。何分、ナナシビトの夢というのも大変珍しいものでございますから――上に掛け合ってみましょう。――、……、……――ルーサン幣五千万でいかがでしょう?」
「信用ポイントじゃないのか?」
「ここは夢境ですので。夢から覚めてしまえば価値を持たない物に、貴方は支払いが出来ると言うのですか?」
「それは一理ある、……わかった。じゃあ八千」
「六千でいかがでしょう」
「七千。これ以上は譲れない」
「……畏まりました。ではルーサン幣七千万でそちらの方の夢を買い取らせていただきましょう」
 何を勝手に、と話を進めた穹に丹恒は呆れた表情をしている。こっちはカンパニー幹部仕込みの交渉術でなるべく高値をつけたっていうのに、と穹はその表情になんだよ、と不服そうにくちびるを窄めた。はあ、と一度息を吐いて、丹恒は癖のように体の前で組んでいた腕を解く。
「で、夢を売るにはどうしたらいい」
「難しい工程はありません。もうすこしこちらに来ていただければ、私があなたの夢から夢の泡を作らせていただきますので」
「それだけでいいのか? わかった」
 丹恒はエドワードの言葉に頷くと、大きなその眸の前に立ち尽くした。リラックスして、静かに目を閉じていてください、とエドワードは言い、ぎょろぎょろと僅かにその虹彩を動かしながら丹恒を見つめる。そのうち、彼らの間に湯が沸き立つようにぽこぽこと小さな泡の群が出来始めた。泡の群はそのうち、微細な泡から繋がり、大きくなって、シャボン玉のように七色に光を照り返しながら膨れ上がっていく。一度雲のように青白い泡沫が丹恒の周囲を囲んだ後、それらは急激に萎みだし、そのうち、よく見かけるサイズの夢の泡になった。魅入っていた穹は、エドワードの声でふっとこちらに引き戻される。
「お疲れさまでした。こちらが抽出した夢の泡になります」
 エドワードが言う。丹恒は夢の泡を前にして、これが自分の夢なのか、とどこか不思議そうな表情をしていた。夢の泡は夢境技術によりこの夢境に記憶され、望む者がいれば何度でも、いつでもその夢の泡を覗くことが出来る。丹恒はその不定形の夢の泡に手を伸ばし、ほら、と穹へそれを押しやった。
「これでいいんだろう。……この夢の泡はサンプルで一つ持ち帰っていいな?」
「ええ、もちろんです。ああ、お持ち帰りの前にカスタマイズ等はご入用ですか? 鑑賞型、没入型、憑依型、お好みの形にしてお渡しいたしますよ」
「じゃあ没入型!」
 丹恒が答えるより先に穹が答えた。丹恒は穹を一瞥するだけで、まあいいか、と小さく息を吐いてそれに頷く。それで頼む、と彼が言うと、畏まりました、とエドワードが頷いたのとほぼ同時に、穹の手元にあった夢の泡の周辺にまた幾らかの小さな泡沫が浮かび出した。小さな泡は夢の泡と重なり、ほんの少しだけその色や形を変えていく。変化が止まった後、夢の泡は再び、宙に留まる不定形に戻っていった。
「これでいいのか?」
「はい。夢の泡の使用方法は既にご存知でしょうが、没入型の場合は――」
「はいはい、まあ大体どれも同じだろ。前にホタルと一緒に似たような夢の泡に入った事ならあるし。ありがとな。あ、そうだ。買い取り額のルーサン幣は……」
「ああ、既にそちらの方の元へ振り込んでおきましたよ。この度は夢境ショップのご利用、誠にありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
 今にも崩れてしまいそうな心もとないその夢の泡を手に、穹はさて、と夢境ショップから踵を返し、行こう、と丹恒を促した。黄金の時へはこの夢の泡の抽出のために訪れただけで、既に用は済んだのだ。親友はこの騒がしい街の中に居続けることを好みはしないだろうから、この夢の泡を使うのはもっと静かな場所の方がいいだろう。
 あのどこからが夢かすらわからない――長い長い夢から覚めると、ピノコニーで起きたすべての出来事が終わってしまっていた。
 気持ちよく寝ていたから、と起こさずに寝かされていたため、穹はすべてがひとまずの終結を迎えるまで、随分長い時間一人ですやすやと夢の中を気持ちよく彷徨っていた。起きてなのかに状況を尋ねると、星核は封印され、様々な物事はなるようになり、それぞれが見ていた夢からすっかり目覚めた後だった。一時開催が危ぶまれた調和セレモニーも、ロビンの尽力により無事に済んだところだ。
 ピノコニーを発つまでにはまだ少し時間があり、穹はその間、丹恒がみた夢の話を聞いて、ふと思いついたことがあった。
 彼の夢は、様々な星を星穹列車で旅する夢だったらしい。
 その夢の中には、実在する星もあれば、恐らく丹恒の知識から作られた夢の中だけにしかない星々もあったようだ。夢の中でどんな星に行ったのかを尋ねても、もうあまりよく思い出せない、と彼が言うから、ならばすべてを忘れる前に、と言いくるめてあの場所まで連れて行ったのだ。丹恒が見たものを俺も見たいから、丹恒の夢の泡を作って、そこに一緒に行こう、と。
 丹恒の夢の中での自分は、丹恒の夢で作られた存在で本当の自分ではない。だからこそ、夢の泡の中に入って、夢の中の星間旅行を二人でしてみよう、と。暉長石号でひそやかに行われたピノコニーを振り返るあの上映会にも来なかったんだからいいだろ、と少し強く我儘を言ってみると、丹恒はわかった、と穹の提案に頷いて、黄金の時までついてきてくれたのだ。
 永遠に続く夜の街から離れ、穹は夢境のホテルまで戻ってきた。夢境にやってきたピノコニーの客人や観光客たちは、大抵ホテルから別の夢境にすぐに移動し、各々甘美で愉快、享楽的な美しい夢の中で過ごす。だからと言えばいいのか、ホテルのロビーは他の夢境よりもずっと静かだ。
 ただ今は、丁度オーク家の当主がいなくなったことによる混乱で、従業員のロビーにも人が溢れている。そういうことなら、と穹はそのまま、勝手知ったる、とばかりにホテルの中を進み、ゆったりとしたジャズが流れるフロアに丹恒を連れていった。
 少し前にこのフロアに設置されたバーを手伝った後、随分客足が増えたが、今日のところはぽつぽつとモクテル、或いはカクテルの入ったグラスを傾ける客がカウンターの近くの席にいるくらいだった。カウンターでグラスを磨いていたシヴォーンが、足音に気付いて顔を上げ、ああ、と穹を見て僅かな緊張を解く。
「いらっしゃい。今日は友達と?」
 磨いていたグラスを手元に下ろし、シヴォーンが尋ねてくる。穹は彼女の傍に近づき、椅子には座らないまま、カウンターに軽く寄りかかった。
「あのさ、今日は別に、モクテルを呑みに来たわけじゃないんだけど……席、使っていいか?」
「もちろん。今は――御覧の通りだから。空いている席なら好きに使っていいわよ。話をするなら奥のソファー席の楽器たちにも移動するよう言ってくれたらいいから。……それは夢の泡?」
 シヴォーンが穹の手にあった泡に視線を落とし尋ねてくる。そうそう、採れたてと軽く答えると、彼女はふふ、と小さく笑い、楽しんでね、と再びグラス磨きに戻ろうとする。彼女にじゃあ奥の席使うな、と一言断ってから、穹は丹恒、と後ろを振り返った。
「奥、使っていいってさ」
「……すまない。本当に邪魔じゃないか?」
「いいのよ。今日は暇な日みたい。こういう日もあるのよ。むしろ賑やかしになってくれて助かるくらい」
「人がいるとこに人って集まるもんだしな~。じゃあ遠慮なく! あとでモクテル飲みに来るから作ってくれ」
「ええ。その時はまた声をかけて」
 夢の泡はピノコニーで利用されているよくある娯楽の一つだ。シヴォーンも見慣れているのだろう、特に何かを気にする素振りもなく小さく手を降ってくる。穹は奥の席、と彼女に案内されたソファー席へと向かい、そこに誰もいないのを確かめると、奥の方へ腰掛けた。丹恒が何故か向かい側に座ろうとするので、そこに座ってたら夢の泡に触れられないだろ、とちょいちょい、とこちらへ来るように手招く。
 宙に浮かせたままその場に留まる夢の泡は、利用者の好きなタイミングでその中を覗くことが出来る。ヘルタに漂う憶泡に触れた時は、自分がその記憶を持っていた誰かに成り代わり、その場に居合わせたような感覚を覚えたが、夢の泡はそう言った立ち位置をある程度自由に操作できる。その点はさすが夢、と言ったところか。
 じゃあいくか、と穹はそっと丹恒へ手を伸ばした。彼は急に握られた手に何故、とばかりに少し困惑したような顔をしていたけれど、「こうしないと同じ夢を見れないだろ?」と穹が当然のように答えると、そういうものなのか、と疑問符を浮かべたままではあったが、納得したように手を繋いだままソファの上に降ろした。まあ、こうでもしないと同じ夢を見れない、だなんて確信はなかったのだが、こうした方がそれっぽいし、と丹恒には手を繋いでおく本当の理由を黙っておく。
「もう夢の中にいるのに、別の夢を見るのってなんか変な感じだな?」
「夢の泡に触れたことはないが、別の夢境に行くようなものなんじゃないのか」
「んー? どうなんだろ。聞いた気もするし聞いてない気も……」
「で、いつ始めるんだ」
「ごめんごめん、やるやる。じゃあ丹恒もリラックスしてくれ」
 穹は空いたもう片方の手で夢の泡に強く触れた。泡の中に指先を差し入れ、その夢の泡の中に意識が引き込まれるのを少しだけ待つ。こういう時は体の力を抜いて、何も考えずに、暗い空間の中、まるでハンモックに寝転がるように揺蕩う自分を想像すればいいのだっけ。数なんかも数えたりして。一、二、三、――……そうやって、穹は指先だけの感覚を残して、その暗がりの中に自分自身を放り込む。深い眠りに落ちていくような心地で、始まる旅は初めてだった。



 列車の汽笛が遠くから鳴り響く。近づいてくるその音に足を止め、穹はおっと、と自分が今立っている場所を確かめるように周囲を見回した。見慣れたホーム。見慣れた宙。見慣れた青い星。――宇宙ステーション『ヘルタ』だ。
 模擬宇宙の実験を最近は手伝ってないから夢の中でもヘルタがせっついてきたのかな、と穹は数秒考えて、あれ、と首を傾げる。――「夢」って、何のことだっけ?
 穹はホームに入ってきた列車が静かに止まるのを見ていた。止まった列車のドアから、しばらくして人影が見える。ふう、っとぐっと伸びをしながらまずはなのかが列車から降りて来た。そして穹の姿に気付き、あ! と声を上げてこちらに近づいてくる。
「穹! アンタここで待ってたの?」
「え? あー……うん?」
 いや、たまたまここにいただけだけど、とは言い出せないまま、穹はなのかの問いに曖昧に答えた。彼女は寂しかったの、とまるで揶揄うように尋ねてくる。ドアからさらに人影が下りてくる。姫子。それから――。
「丹恒!」
「……穹」
 荷物を抱えて姫子の後についてきた彼は、近寄ると一旦その荷物を床に下ろした。どこ行ってたんだ、と穹は彼に尋ねる。姫子がそれに、あら、と首を傾げた。
「ウェンワークよ。出発前に伝えたはずだけれど……」
「え!? 聞いてないけど」
「何言ってんの。ウチもその話一緒に聞いてたよ? アンタ、もしかしてここで留守番してる間にヘルタの実験に付き合って記憶飛ばしたりしてない?」
「わ、……わかんない」
「だが連絡は問題なく取れていただろう」
「じゃあここ数時間のうちに何かあったってこと?」
 どういうことだ、と疑問符を浮かべる穹に、三人もまた不思議そうな顔をする。そこへ、列車からおい、とぶっきらぼうな声が聞こえてきた。
「なんだ? こんなとこで。何かトラブルか」
「……ぶ、――ブートヒル!?」
「……? なんだあ? 兄弟、しばらく会わねえうちにまるで今日初めて会ったような顔するじゃねえか」
「いやそんなこと……っていうかなんでブートヒルが列車から出てくるんだ? お前……」
「何言ってんの? もー、本当にヘルタの実験に付き合って記憶失くしてる? ブートヒルはピノコニーから列車についてきて、しばらく列車にタダ乗りしてるじゃない」
「タダ乗り」
「オイオイ、ラブリーなことを言うなよ。ちゃんと運賃分は働いてるだろ?」
 今回もオレがいなかったらどうなってたことか、と彼は続けて言い、列車から降りてくる。彼の機械化された腕が片方すっかりなくなっていることに気付き、穹はさらにぎょっとした。
「ちょっ……腕は!? どうした!?」
「あ? ああー……ウェンワークから帰ってくる途中でちょっとな。まあ、大したことはねえよ。それで、ここにたまにスクリュー星の王が立ち寄るって聞いたんだが、そいつはいつここにくるんだ?」
 おい、そこの兄ちゃん、とブートヒルは――いつの間にかそこにいた研究員の男に尋ねる。彼はびくっ、と肩を震わせ、ちょ、丁度いらっしゃっています! と彼に答えた。なら丁度良かった、とブートヒルはそのままその研究員の肩を掴み、案内頼む、と有無を言わさず研究員を連れていく。彼の顔が酷くぼやけて、ヘルタに居る研究員の顔は何人か知っているはずなのに、その誰にも当てはまらない。違和感を覚えながらも消えていくブートヒルたちを見送り、じっとこちらを見つめていた丹恒の視線に気付く。
「……? 丹恒?」
「お前、本当に何ともないんだろうな」
「何って……何が?」
   一体何を尋ねられているのか全く分からない。疑問符を浮かべる穹に、丹恒もなのかも姫子も、どうかしたのだろうかとばかりに少し訝しげに眉を顰めた。なのかが訊ねてくる。
「やっぱりヘンだってば! ねえ、ちょっとヘルタを呼んで! 主悪の根源かもだけど! 検査してもらおう? 逢った時みたいにぽやぽやしてるじゃん」
「そう? 穹はいつもこんなものじゃなかった?」
「丹恒はおかしいと思うよね!?」
「……様子が変だというのは同意するが、そもそもこうだった気もしてくる……」
「ちょっと!?」
「は? ええ……?」
 何だなんだ、と疑問符を浮かべているうちに、ほら行くよ、とあれよあれよと強引になのかに背を押され、穹は気付けばヘルタのメディカルルームに連れてこられていた。
 スキャン結果は問題なし、少し体調が悪いのはいつも通り。健康といえば健康だし、前後の記憶の欠如は模擬宇宙でいつもより負荷がかかり、意識がシステムに影響されすぎたのでしょうとスタッフはいい、心配ならば点滴でも打っていきますか、と穹を脅してきた。いらないいらない、とぶんぶん首を振って列車に退散してきて、ようやく一息吐く頃には深夜を回ってしまっていた。
 なぜ自分がここ最近あったこと、その前後を思い出せないのかはわからないが、診断を信じるなら模擬宇宙での負荷の所為でまあ間違いないだろう。実際模擬宇宙で時たま創られた存在であるはずの星神に近づきすぎて精神汚染の寸前までいくこともある。その時は大抵、モニタリングをしているヘルタが強制的に演算を終了してくれて事なきを得ているのだが、それでも時たま、テストを終えた後に妙な感覚を覚えることはある。今回はそれがたまたま記憶障害として現れたんだろう。模擬宇宙で再現した星神の中には「記憶」の星神もいる、もしかするとその影響かもしれない。
 ヘルタに詳細を聞こうとしたのだが、人形がスタンドアロンで館内のいたるところにいるだけで、どんなに呼んでも彼女からの返事は一貫した事務的なものだった。大事な実験パートナーへの返事すらできないほど自身の実験が忙しいか、もう休んでいるかのどちらかだろう。まあ急いでいるわけでもないし、と穹は結局、彼女に尋ねることは諦め、今日のところは早々に休むことにした。本当に妙なこともあるものだ。ピノコニーでの出来事の後のすべてを、今の今の分まですっかり忘れてしまうだなんて。
 いつもの夜のルーチンワーク。シャワールームで十数分過ごして、髪を乾かさないまま端末片手に丹恒の部屋――ではなく、資料室へ。もはやここで寝泊まりしているので実質丹恒の部屋のようなものだが。ノックもなしにドアを開くと、ちょうど帰ってきたばかりでアーカイブの整理が溜まっているのか、丹恒は忙しそうにコンソールを操作していた。ちら、といつものように入ってきた穹に気付いて、髪くらい乾かせ、といつものように小言を言う。丹恒がやってくれ、とそれに穹もまたいつものように返して、勝手知ったる、とばかりに丹恒の布団へそのままとびこんだ。うつぶせになりながらゲームのデイリーをこなそうとする。今は確かログインボーナスが、といつものようにゲームを立ち上げようとしたのだけれど、一瞬視界がぶれた気がして手を止める。違和感。
「……?」
「どうかしたのか」
「んー……いや。なんかやっぱ、変だなって」
「診察してくれたスタッフも言っていただろう。模擬宇宙のテスト影響が色濃く体に出ている。今日は何もせずにこのままおとなしく寝ろ」
「えー?」
「部屋へ戻れ。俺はまだしばらくアーカイブの整理に時間がかかる」
「それも明日でよくないか?」
「いや。今日中にしておきたいんだ。もうあと十五システム時間後にはすぐに別の場所へ発つからな」
「え。そうなのか?」
「ああ。姫子さんからはそう聞いてる。お前には……すまない。伝えそびれていた」
「おい」
 通りで聞いてないと思ったよ、と穹はくちびるを軽く窄めて丹恒に言った。彼はすまない、と軽く謝ってから、漸く一度コンソールから顔を上げて穹へ視線を向けてくる。大事はないか、とその視線だけで尋ねられているようで、気持ちだけはすこぶる元気なんだけどな、と穹は先に丹恒へ答えた。
「まあ、今日のところはもうちょっとしたら寝る。……それでさ、丹恒」
「なんだ」
「ウェンワークってどんな感じだった?」
 アーカイブをかいつまんで閲覧したことはある。海がある自然が豊かな星だ。以前は原住民などが住んでいたが、彼らは戦争を繰り返し、その結果、生態系からいつの間にかはじき出されてしまった。
 その昔、そのウェンワークですべての種の源である大樹サイスタンと呼ばれていたものが、実際は高度文明による種復元システムであり、それが無数の生命方程式を解読して放出することで、星の生態系を回復させていたと今は広く宇宙に知られている。未だ大樹の種復元システムは正しくなった種の生態系に合わせ、細々と動き続けているらしい。中にはすでに絶滅したと言われていた動植物も復元システムの中に保存されていたようで、あの星では今も、外から来た研究者たちが生態系を乱さないように注意しながら生態調査を行っている。丹恒は列車の護衛であり、アーカイブの管理人であるが、さらに生物学者でもある。彼にしてみれば、かの星は絶好の研究スポットだろう。
「……何度か行ったことがあるが、」
「俺はない」
「研究目的の学者ばかりで娯楽はほぼないから、お前は退屈かもしれないな」
「でも俺は行ったことなーいー!」
「次は一緒に行けばいいだろう」
 そもそもどうして俺は行かないなんて言ったんだ? となくなってしまった記憶に問う。丹恒はその時の事覚えてないのか、と穹が訊ねると、彼はあの時は、と何かを言いかけて、なぜかそのまま言葉を止めた。「丹恒?」と穹の声にはっとしたように、丹恒は緩く首を振る。
「すまない。俺もよく……覚えていないんだ」
「覚えてない? 丹恒が?」
「ああ。あの時は……、慌ただしかった、だろうか、……いや、すまない。なぜか思い出せない」
「お前も検査受けた方がいいんじゃないか?」
「……いや、体調が悪いわけじゃない」
「けど変だって。今日は丹恒もさっさと寝ようぜ? アーカイブの整理は朝早く起きてやろう」
 丹恒は逡巡するようにしばらく黙り込んでいたが、結局はそれもそうか、と納得したように短く息を吐いた。丁度切りのいいところまでアーカイブの整理が済んだようで、コンソールを落とし、仕方がなく作業の手を止める。穹は満足げな笑みで彼を迎え、上着を脱いだ彼がすでに寝ころんでいた寝床の上、自身の隣に当たり前のように横になるのを見て、おやすみ、と足元に追いやっていた布団をそっと引き上げた。



 プルスミル星系に位置する海洋惑星ルサカ、ヘルタの真下に位置する惑星ブルー、それから、つい昨日向かったばかりのウェンワーク。
 それらの惑星の海水を採取したサンプルを並べ、ヘルタはもう一つ透明なガラス管の中に入った水を軽く揺らす。ため息を吐いた後、「昨日もらったサンプルを加えて、再度分析にかけた。それぞれ水質は違うけど、原因の特定になるようなものは入ってなかった」と姫子に言う。それを聞いて、なのかがヘルタに尋ねた。
「つまり、ウチらが苦労して手に入れてきた水も役に立たなかったってこと?」
「別に水を採取してくるだけなら苦労はしてないでしょ。あとからついてきたトラブルはあなたたちの才能のようなものなんだから。で、まあ端的に言えばそう。けれどこれで別の側面から原因を特定していく指針にはなった。私がこの件で立てた仮説は残り一つ。そこの学者さんの見解も一応聞いておくべきかしら? 現地にすべて足を運んだのはあなただけですものね」
 ヘルタはそう丹恒に尋ねる。別に地学研究者というわけじゃない、と彼は自らが目の前の天才に遠く及ばないことを重々理解した上で、「やはり星核が原因だろう」と彼女に答えた。
「成分分析やありとあらゆる検査を掻い潜った、このデータ上はただの『水』が星核に汚染されてる、って?」
「確定事項ではないが、可能性としては十二分に考えられることだろう。説明がつかないことが多すぎるからな」
「そうねえ……。ま、博識学会の皆々様も今血眼で研究をしているところでしょ。なら私の方は今回はこのあたりで手打ちで、十分依頼は果たしたと思わない?」
「ヘルタは引きこもって研究してただけでわざわざ遠くまで水のサンプル取りに行ったのはウチらじゃん」
「あら。あなたも旅先で結構楽しんでいたと聞いてたけど?」
 からかうように言ったヘルタに、なのかはぐぅ、と言葉を失う。というわけで調査協力の件はこれで完了、約束は果たすわ、とヘルタはそう姫子に言い、人形と繋いでいた通信を一方的に切っていった。沈黙したヘルタの人形を前に、姫子が静かに、「じゃあ、次の停車駅を決めないといけないわね」という。
 ナナシビトの元へは大小さまざまな依頼が、それこそ個人や組織、星や船からひっきりなしに飛んでくる。今のこの話し合いの最中ですら、穹の端末は――静かだった。あれ、いつもなら数件依頼が並んでるのにな、とそれを不思議に思いながら、穹は一旦取り出した端末を上着に戻していく。
 お前は忘れているかもしれないが、とこの話し合いの前に丹恒から説明を受けた。ピノコニーを出てから最近は、ヘルタのもとに転がり込んできたカンパニーからの調査依頼の協力をしていたのだと。
 なんでも、最近カンパニーが支援を始めたある星域の小惑星の海で、妙な異変がたびたび起きているらしい。
「該当の小惑星は、居住可能区域が星の七割を占める海に囲まれ、原住民と外からの遭難者が移民して出来た民族が暮らしている。そのため住民たちはその食事の多くを海で採れる海産物に依存して生活しているが、その海に異変があり、相次いで住民が行方不明、もしくは海難事故にあい消息不明になっているそうだ」
 カンパニーが支援を始める遥か前、小惑星は星核による影響で地殻変動が起き、領土の大半が海の底に沈んでしまった。そのため、その小惑星の水底には当時の旧文明が遺跡としてそのまま残っている。
 星核は何代か前のナナシビトによって取り除かれ、その時に汚染されていた物たちはほとんどが今は正常に戻っている。はずだった。ところが人々の文明がいくらか発展し、カンパニーがその支援をはじめ、海の底に沈んでいた海底遺跡に調査の手を伸ばした直後から、異変が起き始めたらしい。
「一度星核に汚染された星は星核を封印しても、しばらくはその影響が残る。長い年月をかけて本来あるべき姿に戻るのが常だが、該当の小惑星はまだその途中だった、ということなんだろう。海に近づくと幻覚を見たり、夢遊病のように意識のないまま体だけが動き続ける人が相次ぎ、波間に足を取られてそのまま浅瀬で溺死。船を出せば、船にトラブルが起きたと急に【思い込み】、皆船が沈む幻覚に急かさせて船から飛び降り、海洋生物に襲われる、もしくはそのまま溺死や消息不明になる。空っぽの船が何隻も出、漁師のほとんどが岸からほど近い場所ですら船を出すのをためらうようになった。カンパニーの調査団もそれに巻き込まれ消息不明が出始めたため、カンパニーの持つ伝手を総動員して原因の究明に走った」
「で、結局は星核の影響ってことか」
「海底都市に、星核を封印した後もその残滓が残っている可能性、もしくは、第三者が関与して、再度星核による汚染がなされた可能性をミス・ヘルタは示唆した。博識学会やほかの識者もそう変わらない結論を出している」
「丹恒もだしな」
「ああ。もし後者であれば、そう遠くないうちに星穹列車もそこへ向かわないといけないだろうな。星核ハンターもすでに動いているかもしれない」
 だから次の目的地が海洋惑星とは真逆の砂漠の惑星でも気を落とすことはない、と丹恒は続けた。そんなこといったってさあ、と穹は項垂れながら彼に答える。
「海と砂漠じゃ全然違うじゃん!?」
「そうだな」
「なんでそこで真逆なんだ? むしろ全く別の文明の惑星とかの方がまだ諦めがついた気がする」
「そうはいっても、星核の被害が懸念されている星だ、優先すべきだろう」
「それはそうだけど……」
 それにしてもブートヒルはまだ腕修理してもらってんのか、と穹は思い出したように車窓の向こうへ視線を向ける。ヘルタとの会議が終わって列車に戻り、ラウンジで暇を持て余していたところ、姫子から次の行き先についての話を本格的にされた。出発まであと六システム時間。
 全く余裕がないわけではないが、そう悠長にしている時間もない。どうやら航路の問題で、この時期にだけその星域に現れるデブリ群と衝突を回避するにはなるべく早く出なければいけないらしい。だのに、昨日腕を一本失くしてスクリューガムを尋ねどこかに消えたブートヒルが未だ戻らないのだ。
「このままじゃヘルタで留守番だぞ、あいつ」
「それもいいだろう。そもそもブートヒルはナナシビトになったわけでもない、ただ彼の事情があってしばらく星穹列車に身を寄せているだけだ。そろそろ降りて、また別行動をする可能性の方が高い」
「けど、ブートヒルがいないなら帝垣美玉のプレイヤーの頭数が減るだろ」
 頭の中にぱっとある少女の姿が思い浮かんだ。彼女も今頃羅浮で元気にやっていることだろう。この間のことできっとうまい話にも懲りたはずだし。そう頭をよぎった考えに、穹はまたうん? と首を傾げる。この間って、なんのことだっけ。
 どうやらまだ、昨日の模擬宇宙での副作用を引きずっているらしい。忘れた記憶が時々ちゃんと起きた出来事だ、とばかりにない記憶を主張してくる。今となってはそれが本当の事だったのかすら自分には確かめるすべがないことまで。どうやら直近で青雀と会ったようなのだが、どこでだったか、他に誰が一緒にいたのかを全く思い出せない。
 なぜそこで帝垣美玉の話になるんだ、とばかりに丹恒が本から顔を上げ訝し気な眸でこちらを見ている。穹はそれをごまかすように、ヘルタにいるうちに持ってくおやつでも吟味するか、とおもむろに立ち上がった。
 パムは次の跳躍に向けて慌ただしく列車の整備に奔走している。姫子はそれを受けて物資の準備を、ヴェルトはその補佐を、なのかは終わらない荷づくりをしているところだ。
 穹もまた荷造りをしなければいけないのは変わらないのだが、ラウンジに丹恒がいたので吸い寄せられるように隣に落ち着いてしまった。ブートヒルの様子も気になるし、と戻ってきたばかりの列車をふたたび降りて、穹はヘルタのホームを横切る。エレベーターへと向かう通路に、ふと人影が二つ並んでいるのに気付いた。――姫子とブートヒルだ。
 珍しい組み合わせだな、と思いながら、穹は彼らに近づいていく。彼らの会話がようやく耳に届く位置にきて、「――世話になったな」とブートヒルが言ったのが聞こえた。
「あら。こちらは同行分の仕事はちゃんとしてもらったし、そうかしこまることでもないわ」
「まあ、そりゃそうなんだけどよ。一応ケジメっつうかな。とりあえず列車の連中には今から言いに行くが――っと。そこにひとりベイビーがいるじゃねえか。丁度良かったぜ」
 ブートヒルはそういうと、続けてこのヘルタで一旦星穹列車とは別れ、別の星へ行く用事が出来たこと、その途中まで機械星の王の護衛を買って出たこと、何かあればすぐにまた駆けつけることを穹に告げ、おそらくは列車にいる丹恒やなのか、ヴェルトやパムにも話をするために、じゃあな、とさっさと歩きだしていった。彼のしばらくの同行を許したのは姫子だから、彼女に真っ先に伝えたんだろう。図らずしも先ほど丹恒が言ったとおりになってしまった。
 もともとは丹恒が先に彼と知り合った。兄弟、と言ってブートヒルも丹恒を弟分としてかわいがっているようだったし、丹恒も俺という親友がありながら新しく出来た友達と別れるのはきっと寂しいだろう、と穹は思う。星穹列車にはいつ招待客として遊びに来てもいいとはいえ。
 あとで慰めとかないとな~、と穹はぼんやりと考えながら、また五人とパムでの星間旅行だ、と少し上機嫌に歩き出す。ほかの友人がいても楽しいことには変わりないのだが、やはり何となく、この五人での旅が一番しっくりくるような気がして。
 その後しばらくして、送別会もないままに、ブートヒルは颯爽とスクリューガムの船に乗り込んでいった。星穹列車も準備を終え、規定の時間通りにヘルタを発つ。砂漠の惑星へ向かい、そこでまた未知なる道を開拓し、冒険を終え、新しく来た連絡をもとに姫子が次の行き先を提案し、全員で決める。
 旅はそんな風に続く。続いていた。終わりなんて何一つ予感させないまま、どこまでも。いつまでも。車輪は回り続けていた。



「丹恒が優しい」
 献上品のチップスを一枚くちびるで食み、なのかは穹の言葉に一度顔を上げ、それが一体何だ、とばかりに眉を顰めた。それから、「え? もしかしてアンタの相談事ってそれ?」と穹に尋ねてくる。
「そうだけど」
「なーんだ。もうちょっと深刻な相談だと思ってたからちょっと拍子抜けしちゃったじゃん! ええ……? ていうかそんなのいつもの事じゃない?」
 丹恒ってアンタには甘いし、いやウチにも甘いんだけど、となのかは畏まった雰囲気で話を聞かなくてもいいのだとわかると、露骨に態度にそれを出し、抱えていた足を崩して、ベッドの背に頭を少し凭れかからせた。
「いや……ただ優しいんじゃない。いつもとちょっと違うんだよ」
「どのへんが?」
「優しいっていうか……――優しすぎる?」
「惚気ならプリン追加」
「パム特製プリンは俺のだ! 惚気じゃないし! っていうか惚気って何のことだ?」
「何の事って……自覚ないわけ?」
「自覚?」
 えー、となのかは疑い深くじとりと穹を見つめる。なんだよ、と答えた穹に、んん、と一つ咳ばらいをしてから、少し芝居がかった口調で、ではひとまず続けたまえ、と献上品に手を伸ばそうとした穹の手をぺし、と払いつつなのかは言った。
「アンタが違和感感じるっていうくらいなら、まあ、よほどいつもと様子が違うのかも? 具体的には?」
「俺の……言うことなんでも聞いてくれる……」
「いつもじゃない?」
「俺が……変なことしても特に何も言ってこないというか、なんかすごいじっと見つめてくる」
「……最近はいつもそうしてない?」
 そもそもアンタの奇行が言っても一向に治んないからウチはできる限り止めてるけど丹恒は諦めて何も言わないじゃん、となのかは答える。違う、そうだけどそうじゃないんだ、と穹は続けた。
「怒らないんだ……」
「怒られたいの?」
「そういうわけじゃない。それからなんていうか……こう……優しくて」
「それはもう聞いたって」
「俺が言うことなんでも聞いてくれるっていうか……」
「だからそれもう聞いたよ」
「じっと見てくるし」
「ウチもう寝ていい?」
 ループしてるんだけど、となのかは呆れた表情でまたひとつ真夜中前の罪を頬張り、開けた袋の口をつまむと、くるくると巻いていった。今日はこれくらいにして残りは明日たーべよ、ととっとと先に話を切り上げようとする。
「おい! ちゃんと献上品分は話聞いてくれ!」
「もー。アンタもしつこい! ちゃんと話聞いてあげたじゃん。丹恒が優しくて、なんでも言うこと聞いてくれて、怒らなくて、じっと見てくる。でしょ?」
「うん」
「じゃあお休み。ウチ歯磨きしてくるね」
「全然解決してないんだけど!?」
 立ち上がったなのかの足首を掴んで穹は彼女を引き留める。もーなに、とそれを鬱陶しいと隠しもせずに顔に書いて、なのかは穹を見下ろしてくる。
「解決も何も……アンタはそれが嫌なの?」
「いや……じゃないけど」
「嫌じゃないならどうしろっていうの? 解決っていったって、そうやって優しくされるのをやめてほしいかほしくないかって話じゃないの?」
「違う違う……俺はただ、丹恒に何かあったんじゃないかって、思って……?」
「アンタが感じてるようなことはウチは感じてないからわかんないよ! 姫子とかヨウおじちゃんには聞いたの?」
「まだ……」
「ていうかそれ、丹恒本人に言えばいいじゃん」
「だ、だってさー!?」
 何を渋っているのか全く分からない、となのかが穹を少し睨みつけてくる。とにかくウチもう寝るから! となのかは結局、穹のゆるい足首の拘束を解いて、さっさと歯を磨きに向かって行ってしまった。残された穹はしばらくなのかの部屋の床にそのまま転がっていたが、確かになのかのいうことにも一理あるか、とひとまずむくりと起き上がる。
 感じた違和感はあるものの、それをやめてほしい、とは言い出せない。何故なら嫌ではないから。何かがあったのだろうという違和感すら、話を聞いていないから、結局はただの推測に過ぎない。だが、何というか。あの違和感をどう言葉にすればいいのか。穹には未だよくわからないのだ。あの、くすぐったい、としか言いようのない彼の声や、態度や、言葉や、視線が。どうしようもなく、ただ、くすぐったい。
 星穹列車が降り立ったのはヘルタの友人からの採取依頼――その指定地であるカンパニー傘下のある惑星だった。
 数百年前には、かなり発達した文明があったようだが、よくある部族戦争だか、天変地異だとか、それこそ星核による被害でその高度な文明は滅び、今はそこそこの文明水準で人々が街を生成している。カンパニー傘下に入ったのは旧文明が滅んだあとのことで、彼らの助力による再開発が未だ及ばぬ領土も多い。採取を依頼されたのは、その旧文明の遺跡にあると言われているある植物だった。
 旧文明遺跡がそのままにされているのは、その地域が汚染からまだ浄化されず、再開発をしようにも人体への影響が懸念され、なかなか手を出せないからだ。もちろんその地域にも部分的に安全区域はあるが、大体が汚染区域に囲まれているため、人は住んでいない。
 開拓の加護を過信してはいけないが、それでも通常の人間よりは場の異変に強い。防護服は一応着ていってね、と姫子に言われ、穹は丹恒となのか、それからヴェルトと共に、小一時間汚染区域を進行し、予定通りに安全区域までたどり着いた。あらかじめ頼まれていた採取のほか、ついでにわざわざ汚染区域を越えていくのだから、と追加の調査依頼も急遽用意された。なのかはヴェルトと植物の採取、それから、丹恒は穹と共に現地調査だ。
 丹恒は植物の採取の方じゃなくていいのか、と尋ねたのだが、採取を頼まれていた植物の特性から、丹恒は姫子に採取から外されたのだ、と穹に答えた。「三月はデリケートな植物を凍らせて運ぶのに必要だし、お目付け役であれば、まあ自分よりはヴェルトさんに軍配が上がるだろう」と。
 特性って何、と続けて訊ねた穹に、丹恒は歩きながら「幻覚作用がある」と答えた。「……正確には、ある特定の状況下で植物から散布される花粉によって、重度の酩酊状態になる可能性がある。そしてその幻覚は個人差があるが、大抵、当人にとってはあまり気分の良くないものを見てしまう、らしい」
「良くないもの?」
「大雑把に言えば、幻覚で悪夢を見るんだ。……姫子さんは『念のため、アンタは採取から外れて穹と一緒に現地調査をしてちょうだい』、と。大丈夫だとは言ったんだが、もし俺が幻覚を見てしまったら、三月が狼狽する、というから、納得して聞き入れた」
「俺たち三人とヨウおじちゃんに分かれてもよかったけど」
「ヴェルトさんとはいえ、何があるかわからないからな。二人ずつの方がいいだろう。三月もヴェルトさんの前なら妙なことはしない」
「そうか? なのって結構やる時はやるだろ」
「お前が三月より破天荒だからまだマシに見えているだけだ。……このあたりにも例の植物が生えている可能性はある。念のため、あまり草花には近づくな」
「うーい」
 さりげなく穹を気遣うように、丹恒は進行方向を気にして周囲に目を配る。だが、草花には近づくなっていったって、周囲は長らく放置されていたせいで緑に覆われているのだ。無理がある。初めから採取班ではなかったから、説明されていた植物も碌に形を覚えていない。花は全部ダメって覚えておけばいいか、と考えることを諦めて、穹は丹恒に近づいた。
 しばらく歩いていくと、ふと足元が急に固くなる。割れたコンクリートの道だった。ところどころ、崩れてへこんだ場所に雨水が溜まっており、その周囲に雑草が根を張っている。半円形の広場のような場所だ。その奥に、少し上に上る石段があり、その向こうに何か光るものがある。なんだろ、あれ、と穹は首を傾げながら、丹恒と共に先に進んだ。
 旧文明が滅んだあと、当時の資料は軒並み〇と一にすらならずに霧散し、壊れたメモリとしてほぼただのゴミに変わってしまった。紙に印刷されたものもいくらか残ってはいたが、資料が少なく、有用な情報を再構築するには至っていない。そういうわけで、この周囲の地図すら、今は持ち合わせていなかった。姫子が貸してくれたドローンで遠くから大体の地形は把握できたが、汚染区域は電波状況が悪く、この上空までは飛ばせなかった。
 汚染区域は丁度、大気の色が少し異なって見える。だから境界線がなくとも自分がどこにいるのか判断するのは簡単だ。穹はすっかり周囲の空が赤から青に変わっていることに気付き、先に防護服の頭部を取った。すう、っと通り抜けていく風が心地よい。空気も澄んでいるようだ。
「おい。勝手に外すな」
「平気だって。丹恒も外して大丈夫だと思うぞ。赤くなってなかったし」
 防護服の頭部には、周囲の環境をリアルタイムでモニタリングし、数値化したものが投影されていた。防護服を貸してくれたヘルタによれば、人間が活動するのに何ら問題がない場合は、表示された数値の横のバーが緑に、危険であれば黄色に、防護服なしで過ごせそうにない場合は赤になるらしい。先ほどからずっと、視界にちらついていた色は緑だった。丹恒ももちろんそれには気付いていただろう。しばらくして、彼も無言で防護服の頭部を取った。
「違和感は」
「ん? ないない。とりあえずそこの階段上ってみようぜ。奥に何か見えてるし」
 穹はそういうと、先導して先に石段を登って行った。そう急な階段ではない。スロープのように、階段の間に弾のない坂が設けられている。階段の幅は広く、上って、後ろを振り返ってみると、まるでその場所が中央の広場を見下ろすための観客席のようにも見えた。視線を前に戻して、わ、と穹は思わず声を上げる。
「……明かり、ついてる」
 旧文明が滅びてからすでに数百年。当時の建物は古びて、ところどころ錆付き、苔むし、劣化して脆くなっているはずなのだが――その場所は、なぜか未だそこに人々が集っているかのように、周囲に明かりを灯していた。「……なんか遊園地みたいだな?」と、穹はこぼす。それこそ、いつか映画で見たような、寂れる寸前の古い遊園地。
 ゲートの看板は色あせて、電飾が壊れ、ちかちかと部分的に残った明かりが瞬いていた。近づくと、かすかにどこかから陽気な音楽が流れてくる。誰もいないと聞いていたが、もしかして誰かいるのだろうか? そこはかとなく感じる不気味さに少し緊張しつつ、穹はそのまま歩いていきそうな丹恒を一度待って、と引き留めた。
「歩きにくいし、ここで一旦防護服脱いでこ」
 幽霊から逃げるにしても、機動力は大事だ。穹のそのわずかな怯えを感じ取ったように、丹恒は「お前が思っているようなことにはならない」と答えつつ、提案には賛成だったようで、彼もすぐに防護服を脱いでいった。俺がいるから、とその言葉にしない言葉まで聞こえた気がしたから、知ってるよ、と穹は彼に返す。
 防護服は、その仰々しい見た目とは裏腹に、ヘルタ製の特注なので、脱いだ後はかなりコンパクトになる便利な代物だ。ポケットの中に入れられるくらい小さくなってしまったその物量法則を若干無視した防護服をしまい、穹はこの辺りの様子を都度端末を操作して計測している丹恒の手の代わりに、相棒のバットをぎゅっと握りしめた。
「……どうやら、生体反応は俺たちだけだな」
 端末に表示されていた情報から、丹恒がそうつぶやく。むしろ誰かがいてほしかったな、と穹は思った。
「幽霊ならレーダーには映らない」
「それはそうかもしれないが。……汚染区域のほうがよほど危険だったんだ。何を今更怖がる必要がある」
「幽霊の方が危険かどうかもわかんないんだから怖いに決まってるだろ!? それにさ、なんていうか、こう……、本来は賑やかなはずの場所が、人っ子一人いないとなると逆に怖いっていうか」
「どこがだ。陽気な音楽も鳴ってる」
「逆にシリアルキラーとかが出そうだろ!? マジで怖くなってきた。手握っていい?」
「それは幽霊じゃなくて人間だが」
 映画の見過ぎだ、と丹恒は小さくため息をつきつつも、端末の操作を一旦止めて、伸ばした手をちゃんとつないでくれる。やはり優しい。いつもならすたすたと先に行ってしまいそうなものを。やっぱりこの違和感は、正しい違和感だよなあ、と思いつつ、穹は丹恒と同じように周囲に目配せた。
 ところどころ錆びついているように見えるが、放置されているはずの年数のわりに施設の設備は綺麗だ。電球は古いもののはずだが、まだフィラメントが切れていない。給電は兎も角、電球の方はとっくに切れていても不思議ではないはずなのだが。
 生体反応は自分たちの他にないとはいえ、周囲を警戒しながら歩いていると、物陰から、ぬっ、と何かが飛び出してきた。咄嗟の事に穹は心臓が飛び出そうになるほど驚き、思わずひゅっと息を呑む。驚きすぎると悲鳴も出ないものらしい。
 咄嗟に丹恒が片手に槍を握ったが、よくよくまろびでてきたものをみてすぐにその鋭い警戒を少し緩めた。呆然としたままの穹に、「……ただの遊具だ」と丹恒は言う。
「アライグマ」
「……の、子供用の車のようだな。通常時は自動運転で動くようになっているんだろう」
 座席にある程度の重量があるとロックがかかって止まるが、コインを入れると一定時間再度稼働する。丹恒は話しながら、穹の手を握ったまま引っ張って、槍の柄でそのアライグマを模したペイントが施された小さな車の座席を押した。言った通り、ぴたりとその瞬間車が止まる。
「なんで知ってるんだ? そんなの」
「……以前見たことがあるだけだ。コインはこの星の通貨だろう」
「シールドならあるけど。それでいけるかな」
「やめておけ。戻ってこないぞ」
 柄で押していた座席から丹恒が槍を離すと、再び小さな車が動き出す。ピロピロとした音の限られた機械的なメロディーと共に、四角いアライグマは静かに足元を通り過ぎていった。よく見ると他にも、数種類、犬や猫、兎、虎にライオン、カバなど、動物を模した小さな車が園内を走っている。
 中央奥にゴンドラが十二個付いた観覧車。短く、さほど緩急のあるコースではないが、ジェットコースターがぐるりと園の外周を回るようにひとつ。カップを模した二人掛けの椅子が数個、円形のステージの上で今もぐるぐると回っていて、振り子のように揺れるであろう船は、乗り込む者がいないので静かに停泊中。丸いサーカステントを模したステージには、繋がれた金属製の馬が時を止めたまま、ゆっくりと走り続けている。アイスクリームを提供していたと思われる絵が描かれたワゴンが残っていたが、中はすでに溶けて蒸発してしまったのか、ケースの中も空っぽだった。頭に付ける耳付のカチューシャ、お面はまだ陳列されたまま、野ざらしのはずなのにさほど汚れては見えない。
 遊具の座席だってそうだ。記憶では随分長い間ここには人が立ち入っていないはずなのに、土埃も少ない、むしろ綺麗な方だ。誰かが手入れをしたのか、もしかして本当は誰かがここに立ち入っているのではないかと疑ってしまうほど。
 そう広くもない園内を見回り、穹は丹恒と共にやはりどこにも残っている人の姿はないし、動物やそれに近しい外来生命種の類も存在しないことを確かめた。実体を持たない生命体の反応も感知できない。
 穹も歩きながら少しは慣れて、いつの間にか落ち着いた恐怖と共に丹恒の手を離していた。この遊園地の奥にも、まだ安全区域は続いている。いくら物珍しいからといってここにばかり滞在するわけにもいかないだろう。
 それにしても、と穹はふと立ち止まり、周囲を見回し、響いてくる賑やかな音に静かに耳を傾けた。この空間そのものが誰かが遊びにくるのを、その誰かがもう恐らく来ることすらないのを知らずに待っているような気すらしてくる。時を止めて待ってたのにな、と近くにあったメリーゴーランドの馬の頭を撫でながら、穹は丹恒が自分を呼ぶ声に顔を上げた。どうやらこの周囲の調査の記録が済んだらしい。ならば、ポイントを別の場所に変更する頃合いだろう。元々調査目的でここまできたのだ。このまま遊んでいくわけにはいかない。
 そういうわけで、穹は丹恒と共に、無人の遊園地を出、さらに安全区域を奥へ進んだ。遊園地の外にはいくらか小さな町があったが、そのどれもが瓦礫の山が目立つ廃墟となっており、あの無人の遊園地の異質さが際立っていくばかりだった。



 形や数、光の色は違っても、やはりどこに行ってもあるものなのかなあ、と穹はふとぼんやりと浮かび始めたそれを、空を見上げながら思う。崖の上から遠く海渡せる開けた場所で、「戻るぞ」と丹恒が声をかけてくるまで穹はその場に佇んでいた。
 この星から見える月は四つある。それぞれの名前は忘れてしまったが、四つ合わせてクワトレイン・ムーンと呼ばれているらしい。元は一つだったそうだが、ある時その月が四つに割れたまま空に残ったのだという。
 聞けば丹恒は何でも教えてくれるなあ、と思いながら、穹は右から左へその話を聞いていた。疲れをなかなか覚えないナナシビトであるからか、穹は丹恒と共に、気付けば二時間近く歩き通してこの場所に辿り着いていた。途中見つけた廃墟を越えた後は、ただ何もない丘が広がるばかりで、念のため行ってみるか、と見えていた岸辺に向かって辿り着いたはいいものの、ここまで来るのに随分と歩く羽目になってしまった。
 崖から海は少し距離がある。きらきらと光を照り返し、青や紫、花の色、白銀や金色に輝く海は美しかったが、近くまで降りて行けるような道はないようだ。それこそ飛び降りでもしない限り。何を考えていたのかすっかり悟られてしまったかのように、丹恒は飛び降りるなよ、と穹に続けて言った。
「はいはい。わかってるって。で、通信は?」
「ここで漸く拾えた。……二人はもう列車に戻ったらしい」
「マジ?」
 丹恒がその違和感に気付いたのは丁度一時間ほど前の事だ。調査内容についての報告をグループ宛てにメッセージとして数回送っていたようなのだが、姫子やヴェルト、それからおしゃべりのなのかすら何も言ってこない。こちらからのメッセージは送られているはずだが、既読が一向につかなかった。
 試しに、穹と丹恒の間でメッセージのやりとりをしてみたが、互いのメッセージが届いたのは目の前にいるのにそれぞれ十分後の事だった。何らかの通信障害が起こっていると気付いたことには既に遅く、歩きながら列車の皆に連絡を取れる場所を探し歩いていた。結果、その時の位置のこともあり、戻るより進んだ方がいい、とここまで来てしまったのだが。
「ヴェルトさんが俺達を探しにここまでくる直前だったそうだ。定期連絡は送ってたんだが、向こうに届いたのもついさっきらしい。こちらに連絡をしても一向に返事がないから戸惑っていたようだ」
「あはは。でも別にロストしてたわけじゃないんだろ」
「ああ。だからこちらからの連絡を信じて待っていたらしい。何かトラブルに巻き込まれているのであれば、返事をする余裕もないだろうからと。……まあ、それにしても、少し奥まで来すぎたようだ」
 だな、と穹は丹恒に答える。この分では、戻る頃には陽も落ちてしまっているだろう。明かり持ってる、と念のため尋ねると、持ってない、と丹恒が緩く首を振った。
 ここに来るまで、敵性のある動植物には遭遇していない。人どころか動物すら見かけないため、たとえ暗くなったとしても誰かに襲われる心配は低いだろう。もし陽が落ちてしまい、明かりが手元になくとも移動には問題なさそうだ。端末のライトもしばらくは使える。
「本当にあの遊園地以外何もなかったな~。逆にあの遊園地の状態が不可解なくらいだったし」
「そういうこともあるだろう。もしかすると何らかの影響で長い間時間の干渉を受けていないのかもしれない」
「どういう意味?」
「あの場所だけ時間が止まっているか、遅くなっているか、そういう可能性もあるんじゃないか。詳しい事は調べてみないと分からないが――いずれにせよ、今はどういった原因でああなっていたのかはわからない」
「ふうん。丹恒でもわからない事あるんだなー」
「あるさ。……それこそ、山のように」
 平坦で何の障害もない来た道を引き返すだけだったから、帰り道は調査目的で周囲を観察していた時ほど時間はかからなかった。それでも、歩いているうちにすとんと光が落ちていくように周囲は夜を迎え、空に浮かぶ月だけが周囲を照らす唯一の明かりになった。
 四つの月はどこも欠けていないようだったが、そう明るくはない。その代わり星は映え、薄くかかる星雲まではっきりと見ることが出来た。目印の一つなく、ただ真っすぐに道を戻っているだけだからか迷うこともないはずだが、周囲が暗くなっていくにつれて、方向感覚を見失っていく。丹恒よりはきっと俺の方が迷わない、と穹は少し前を歩いていたけれど、そのうち、少しずつ胸の奥がそわそわとし始める。本当にこの方向で合っているんだろうか、と不安に思い始めたところで、ふと前方に光がちらつき始めた。
 はじめは強く光る恒星だと思っていた。だが少しずつ近づいていくにつれ、それが星ではなく、あの無人の遊園地の光だと気付いた。
「うわー! 方向合ってた! よかった!」
「急に叫ぶな……」
「だって! こんだけ暗いんだぞ!? 目印もないし!? ハア……深夜にまだ営業してる店とか自販機見ると落ち着く理由が分かった」
「……よくわからないが、よかったな」
「うん」
 これで少なくとも自分たちの位置は把握出来た。まあ問題は、遊園地に来るまでの道を今日戻れるか、ではあるのだが。既に周囲は日も落ちて、あの遊園地の周辺以外に明かりもないから、ただでさえ肉眼では区別しにくい汚染区域との境目が分かり辛い。同じことを考えていたのか、「……あの場所のどこかで休んで、明るくなってから戻るべきだろうな」と丹恒が言った。
「同じこと考えてた」
「ゲートの手間まで道を戻れば、通信も少しは回復するはずだ。そのあたりまでは通信状況に問題がなかったからな。今日はここで一泊すると姫子さんたちには伝えておこう」
「うん。……念のためだったけど、食糧、ちょっとは持ってきててよかったな」
「ああ」
 明かりが見えて丹恒も少しは気が緩んだのだろうか? 先ほどよりも雰囲気が少し柔らかくなった気がする。そういえばなんで最近優しくするんだ、と今なら何の気なしに尋ねられるだろうか。やはり気のせいではないと思う、のだけれど。
「なんだ」
 穹の視線に気付いて丹恒が尋ねてくる。穹はなんでもない、とわざとらしくならないようにゆっくりと首を振った。
「んー……いや。もうちょっと後でいい」
「……? そうか」
「歩きっぱなしで疲れた! 事務所みたいなとこにソファとかクッションとか残ってないかな」
「さあな。探せば何かしら見つかる可能性はあるだろう」
 さもなくば、硬いベンチで身を寄せ合って眠るしかない。各アトラクションの座席の硬さってどうなってたっけ、と穹は碌に乗り心地も確かめていなかったことを思い出す。漸く明かりが目前まで近づいて、穹はこのまま一旦園内を越え、境目付近まで戻り姫子達に連絡を取ってくるという丹恒をそのまま送り出し、自分は休めそうなところを探しておく、と遊園地の中に残ることにした。
 周囲の明かりがないからか、自分以外の人影がただの一つもない遊園地が、酷く眩しく、輝いて見える。
 ピノコニーの黄金の時、その終わらない夜と煌びやかな光の中を少しだけ思い出す。あの場所と違い人の声はなく、ただ陽気な音楽が誰のためとも知れずなり続けている以外には音もない。明かりや音はこんなにも賑やかなのに、佇むこの場所は酷く寂しく感じる。まあ元々こういうところって人がいるのが普通の場所だもんな、と穹は目に入ったメリーゴーランドに近づき、動き続けるその馬の一頭に近づくと、そのまま足場を使って馬の背に跨った。
 馬に乗ったことはなかったが、思ったよりも安定感がある。冷たさは塗装のお陰か少し半減して、寒さを感じるほどではない。乗った瞬間にぐるぐると視界が上下しながら回り始める。周囲の光もそれに合わせて回る。ぼんやりと身を任せていると、ふと、いつの間にか光の中に黒点が増えている。何をしているんだ、とばかりに少し呆れたような顔をして、丹恒がメリーゴーランドの前に立っていた。どうやら戻ってきたらしい。
「丹恒」
 跨った馬の上から軽く手を降って見るが、丹恒の反応はない。腕を組んだまま、いつ降りてくるのだとばかりに無表情だ。「手くらい振り返せよ!」というと、漸く軽く手を上げた。すぐに降ろす。まあ丹恒のノリが悪いのは今に始まった事ではないのだが。
「おい。いつまで遊んでるんだ。休める場所を探すんだろう」
「これって降り時わからなくない? あと目回ってきた」
「……そこで一晩明かしていていいぞ。俺はそこのベンチにいる」
「あーうそうそ俺もせめてベンチがいい! ごめん丹恒! 乗ったはいいけどマジで今目の前ぐるぐるしてて降りれないかも!? 助けて!?」
 本来は定期的に止まって人を乗せるはずのものなのだろうが、止める者もいないから回り続けている。そもそもどうやってよじ登ったんだ、と回り続けるメリーゴーランドの上にため息混じりに丹恒は近づいてきた。足場も回っているから、ぐらりと傾きつつ、ポールを掴んで傍に寄ってくる。ほら、と手を伸ばされた。
 穹はそれで安心して、落ちるようにずるりと硬い馬の背から体を滑らせた。どうしたって抱き留めてくれると確信していたので。思っていた通り、丹恒は落ちてきた穹をしっかり抱き留めると、そのまま歩かせるより運んだ方がいいと思ったのか、ひょい、と抱え上げてメリーゴーランドから降りて行った。降りた後もまだ、ぐるぐると目の前が回ったままふわふわとする。元に戻るまで目を閉じていろ、と丹恒は言い、近くのベンチの上に穹を降ろしていった。
「気分は」
「気持ち悪いとかは……ない」
「そうか。――姫子さんたちにはここで夜が明けるまで休んでから戻ると伝えてきた。食糧も明日の分まである、下手に汚染区域に足を踏み入れるよりはその方が安全だろうと納得してもらった」
「わかった……」
「野宿は慣れてないだろう。穹、お前はここで休んでろ。横になって休めそうなところが他にないか探してくる」
「けど、俺が」
「確かに言い出したのはお前だが、俺も何か報告ついでにこの場所の状況を説明できるようなものがないか、探そうとは思っていた。気にしなくていい」
「……じゃあ、甘えとく」
「ああ。三十分ほど経ったら一度戻る」
 そういうと、丹恒は何故かくしゃりと、穹の頭をぽんと撫でてからさっと踵を返した。彼が離れて、影と光の向こうに彼が消えていくのを穹は一瞬呆気にとられながら見送る。何があったのか理解出来るまで、感触を確かめるように手はしばらく宙へ浮いていた。すでになくなった手を追いかけるように、穹もまたぽん、と自分の頭に手を置く。
 触れることに戸惑っているわけではない。これくらいなら気にするほどの事でもない。それでも何か、何と言えばいいのか――穹はそれに違和感を感じている。あくまで自然なのだけれど、これは、何と言えばいいのか。
「ん~……? なんだ、これ……」
 どうにも言葉にするのが難しい。だって、傍から見たら可笑しなところはないのだから。なのかだって気付いていない。他の、きっと姫子やヴェルトだって気にしていない。でも、穹にはそれが何か「妙だ」という確信がある。――だって、まるで。
「……いつ、」
 このまま別れても大丈夫とでもいうように、丹恒が触れてくるものだから。
 穹には丹恒がそんな風に触れてきたり、自分と共に居る際に時折見せる表情や優しさが、嬉しい反面少し寂しい。触れられたり優しくされたりすることが嫌ではないのに、違和感を覚えるのはその所為だ。ぶっきらぼうな優しさや触れ方じゃない。いつもうこんな風に接することがなくなったとしても、それで構わないとでもいうような触れ方に思えた。
 そのことを尋ねてもいないし、あくまで憶測の話ではある。言葉にしないものをあれこれ勝手に考えたところで、彼が違うと言ったらそれを信じるしかない。でも、少なくともこの間まではああじゃなかった。自分たちはそれまでずっと、楽しく旅をしていたし、別れの気配なんて微塵もなかった。
 ナナシビトが列車を降りる時。それは名前を持たなかった自分自身に、何かしらの名前を付ける時だ。
 どこかの研究者でもいい。どこかの事業家でもいい。どこかの統率者でもいい。名を持たないまま銀河を彷徨い、ただあてもなく前へ進むことより、その名前の前に立ち止まることを決めるのは当人の自由だ。それを誰も縛らないし、縛ってもいけない。本当は一度羅浮に向かった時に、丹恒がそのまま羅浮に留まるかもしれないと考えたこともあった。けれど彼は羅浮の龍尊ではなく、その過去すべてを抱え自分の物として、なおナナシビトの丹恒であることを選び、旅を続けることを選んだ。
 自分だってそうだ。何になるのかすらわからない。自分の終着もまだはっきりと思い描けない。行きつく先が分からないままなら、曖昧なままなら、輪郭を持たないままなら、その形が定まるまで、どこかに落ち着くまで自分たちはきっと旅を止めない。それでも、いつか別れは当たり前のように訪れる。すべてのものが過ぎ去っていくことだけは変えられない。
 けれど、それはまだ片鱗すら見せなかったはずで、だから丹恒が何故それを予感させるような触れ方をするのか、表情をするのか、穹にはその理由が何もわからなかった。思い出そうとしても、これまでの度に丹恒との別れに繋がるようなことはなかったし、彼がどこかの駅で降りる気配だってなかった。いつもと変わらない。変わっていない。なのに、どうして。
 ――だってまだ、見ていない。
 この宇宙は広すぎて、到底存在するすべての星に足を運ぶことは出来ない。何も知らずに目を覚ました自分にとって、未知が怖くないものになったのは丹恒の言葉のお陰だった。旅は確かにいつか終わるのだろうけれど、まだ一緒に見たいものが山ほどある。やりたいことだって数えきれないほどある。ピノコニーの遊園地にだって、あの時丹恒はまだ行けるような気分ではなかったから列車で留守番をしていて、呼んだら来てはくれたけれど――いや、あれは結局夢の中の話だったのだっけ? いずれにせよここと同じような場所で彼と遊んだ記憶はない。乗れるものだって限られているし、面白いか面白くないかで言えば大したアトラクションは周囲にはないけれど、今度は同じ時間を過ごしてみたいと思っていたのに。
 いつ切り出すのかわからない。わからないことは怖がるほどの事ではないはずなのに、この未知は明確な不安になる。先に気持ちを置いてこないでほしい。今ここにいる自分と彼は、そうやってこの場所に置いて行かれるものになるのか?
 その予感を確かめたわけではなかったけれど、そうやって、気付けば独り歩きしていた思考がもやもやと胸に掛かって気持ち悪い。丹恒が何故全部受け入れたような表情をしているのかわからない。悲しくないのか? 寂しくないのか。この旅がまだ続くと、まだ続けたいと思っているのは自分だけなのか?
 いない間に膨らんだ気持ちが、再び視界に彼を入れても萎んでいかない。事務所のような場所を見つけた、と穹を呼びに来た丹恒は、ベンチの前でもう大丈夫か、と顔を覗き込むようにしゃがみ込んでくる。そうやって真っすぐに見つめられながら、穹は気付けば彼の手を取って、強引に引っ張っていた。
 駆けだした瞬間に、一瞬光が消え、再び眩しく燈り出す。人がいなくても回り続けるコーヒーカップに丹恒を引っ張って行って、自分は目の前のカップに乗り込んですぐに手を離した。目の前で離れた手を追いかけられないまま、ぐら、と丹恒はおぼつかない足元を立て直そうとして、目の前に飛び込んできた別のカップに転がるように入り込んだ。あはは、と何が起きているのかまだ頭が追いついていないその表情を少し離れた所から見て穹は笑う。笑い声にさすがに少しはかちんと来たのか、お前、と丹恒はすぐにカップの中で立ち上がった。
 ぐるりと回り続けるカップの中で、次第に平衡感覚が奪われていく。丹恒がそこから飛び降りてこちらにやってこようとする前に、穹は転がるようにカップから降りて、くらりとした頭のまま柵を転がるように飛び越えた。逃げても彼が追いかけてくるという確信はなかったけれど、ちら、と後ろを振り返ると、同じように丹恒も巨大なカップから飛び降りて柵を乗り越えたのが見える。
 丹恒の方が足は速いから、追いつかれるのはきっとすぐだ。でも遊びなら自分の方が慣れている、と穹は確信している。だから真っすぐに、先ほどぐるぐると視界を回すだけだたメリーゴーランドの中にもう一度飛び込み、流れる馬たちを飛び越えた。丹恒が円形ステージの前で立ち止まるのが分かる。呼吸を整えながら、穹はどうやったら丹恒がまだ自分を追いかけてきてくれるだろう、と少し考えて、ふと視線をゆっくりと大空を回り続けるゴンドラに向けた。
「……――おい、穹、お前……」
「一体何なんだって? んー……なんか、たまには丹恒と遊んでみたいなって、思って」
「遊ん……」
「そういうの柄じゃないと思うけど。ピノコニーは一緒に遊べなかったじゃん。遊園地」
「あれは、」
 丹恒が鬼なー、と答えながら、穹はひょい、っと仔馬の背を飛び越えメリーゴーランドを通り過ぎた。真っすぐに観覧車の方へ向かっていく。観覧車のゴンドラはどれも扉が開いたままだ。軽く錆びついているが、一つも下に落ちていないから、まあ大丈夫だろう。穹は構わず目の前に降りてきていた観覧車に飛び乗った。後から追いかけてくる丹恒が、ぎょっとしてそれを見上げながら近づいてくるが、ゴンドラはすでに上に向かって上がりつつある。そのまま下で待ち構えているかと思ったのだが、丹恒は少し諦めたように一度深く息を吐くと、穹のすぐ後ろのゴンドラに乗り込んだ。
「え! そっち乗るのかよ!」
 思わず開いた扉から身を乗り出し、斜め下に問いかけていた。丹恒は少し呆れたような顔をして、頭を扉から傾ける。
「俺が鬼なんじゃないのか」
「そうだけど」
「なら、そっちに乗り込んでお前を捕まえた時点で終わるぞ」
「付き合ってくれんの?」
 黙りこんだ丹恒に、やっぱり優しすぎるんだよなあ、と思いながら、穹はふ、っと笑いかけた。それに落ちるぞ、と答え、丹恒はゴンドラの中に頭を引っ込めていく。
 すでにゴンドラは静かに回りながら宙へ浮かび出していた。ぎいぎいと、先ほどからゴンドラの接続部から鈍く軋んだ音がする。乗り込んだ時の揺れがまだ微弱に続いている。うお、っと揺れるゴンドラの中で、穹はすとんと尻餅をつくように座席に座り込んだ。
 曇ったガラスは霧のようで、下を見れば丹恒の人影だけが夜の中に薄く影になって見えている。どうせなら一緒に乗りたかったな、なんて思いながら、穹は曇ったガラスではなく、空いたままのドアから外を見下ろした。
 小さな園内に橙色の明かりが落ちている。周囲が真っ暗だからか、光は一際眩しく輝いて見えた。煌びやかな夜景には少し見劣りするけれどこれはこれで綺麗だ。吹いてくる風が冷たく心地よい。ゆらゆらとゴンドラを揺らすくらいの――強い風ではないのだが。
 妙な予感がして、穹はふと、先ほどからぎいぎいとずっと鳴りやまない金属音を見上げるように視線を上に向けた。ゴンドラの上部、接続部はさすがに透明ではないため、ゴンドラの内側からは状態が分からない。だが、いくらなんでも少し揺れすぎる。ピンボールだってもう少し乗り心地はよかった。まさか、と自身の想像に、がくん、っと重力が先に答える。うおっ、と思わず穹は扉の縁に手をかけて体を支えた。座っていたはずの座席が、急に傾いて背中がどんっとゴンドラの側面にぶつかる。
「お、おお……?」
 いつの間にかゴンドラが頂点に近づきつつあるが、同時に穹自身の体もひっくり返るところだった。どうなってんだこれ、と数秒考えて、ガゴンッ! と鈍い音と衝撃にまたゴンドラの内部で頭を軽く撃つ。その頃にはすっかり体もひっくり返っていた。
「……落ちるなこれ」
 こういう時の予感は往々にして嫌な方で当たるものだ。穹はすぐ、ひっくり返った体をなんとか起こし、ゴンドラの扉に手をかけた。幸いゴンドラの扉は開いているから、ゴンドラごと落下する前にどこかに移動出来れば――。そう思いながら身を乗り出すと、穹のゴンドラの異変に気付いていた丹恒もまた、同じように開いたままのドアから身を乗り出していた。一瞬視線を交わす。穹が先に声を張り上げた。
「丹恒。そっちの乗り心地いかが?」
「悪くない」
「こっち、なんか急に九十度傾くし頭ぶつけて最悪なんだけど」
「そうか。それは災難だったな。……来るか?」
 丹恒がドアから片腕を伸ばし、こちらを見上げながら尋ねてくる。よく見ると、槍をゴンドラの内側にひっかけて、身を乗り出して、穹を受け止め支える準備を既に済ませていた。その提案に穹は口角を上げて、何の躊躇いも、怯えも、不安もなく、「行く!」と答えて、ゴンドラから勢いをつけて飛び降りる。
 当たり前のように手を伸ばしてくるし、助けようとするし、助けてくれる。穹は自身を抱き留めた腕が、そのままぐい、っとゴンドラの中に自分を引っ張り込むから、転がるように中に飛び込んだ。ガタガタと衝撃にゴンドラが酷く揺れ、ギイギイと大きく軋む。このゴンドラから聞こえている音の他に、重なるように外から重い音がした。視界の端で、先ほどまで乗り込んでいたゴンドラが、接続部から外れ、そのまま落下していく瞬間をとらえる。一瞬の後、ドン! ドン、ガン、ガシャン! と、低すぎるファンファーレが外から聞こえてきた。
「間一髪……」
「いや、多分これも落ちる」
 ふう、と安堵する間もなく丹恒が淡々と言った。ギイギイと鳴りやまない金属の軋音が酷くなっていき、ぐらぐらと体もゴンドラと共に揺られている。ゴンドラの底で寝ている場合ではないらしい。穹の下敷きになっていた丹恒は、穹ごと体を起こすと、「もう真上だ。満足したか」と、後ろへ倒れそうになっている穹の背を支えながら尋ねてきた。
「満足っていうか……――あ!」
 ふと穹は今になって気付く。逃げようとしたが、すでに強く腕が回されていた。
「鬼は俺だったな。捕まえたからお前の負けだ。自分から飛び込んでくるとは思わなかったが」
「来るかって聞かれたら、そりゃ行くっていうだろ」
「……、そうか」
 お前は断ることもあるけど、と穹は胸の中で呟く。がくん、とまた体が傾きそうになったが、次の瞬間、それまであった床がすっと掻き消え、浮遊感が背中をふわりと包んだ。何が起きているのかはわからなかったが、目の前の親友が大して焦りもしていないので、まあ大丈夫なのだろうとそのまま空を仰ぐ。割れた月に照らされて、すう、っとその額から水のように透き通った角が伸びて、反射できらきらと光るのを、夢みたいに綺麗だな、と思いながら穹は見つめていた。夢、みたいに。……ゆめ、みたいに。

 ――ああ、そうか。

「思い出した。……もう夢だった、」
 ここは、丹恒の見ていた夢の中だ。
 何故、どうして今まで忘れていたんだろう? ついさっき――いや、どのくらい前なのかはもう夢の中ではわからないのだけれど――丹恒が見たという旅の夢を、夢の泡として買い取ってもらった。そしてその夢の中に、二人で入って、彼が経験した旅の追体験をしていたのだ。今の今まで、自分たちは。
 あまりによく出来た夢だった。おそらくは、丹恒がこれまで見てきたもの、聞いてきたもの、触れてきたもの、それらすべてがこの夢を構築している。自分よりも少し先に旅をしてきた彼だから、こんな風に鮮明に、「旅の記憶」をもう一度再構築できたのだろう。
 落ちていくその一瞬に呟いた声は、恐らくこの距離でも丹恒には聞こえていなかったと思う。穹を抱え、丹恒はふわりと宙に浮かんで、もう一つ転がっていったゴンドラが、真下の光を飲み込んでいくのをぼんやりと見下ろしていた。ごろごろと転がりながら、跳ねて、ゴンドラの一つが近くのメリーゴーランドにぶつかっていく。ばりばりと音を立て、あれだけ丈夫に見えた作り物の硬い馬たちが、まるで砂糖菓子を崩したみたいに粉々になっていく。飛び散った粉は、そのままきらきらと光り出して、はじけたスラーダの泡のように空に向かって飛び出していく。
 穹はふと丹恒を盗み見た。彼はじっと、自分たちの真下で、果実が落ちていくように転がっていくゴンドラが、先ほどまで夢のように輝いていた黄金の空間を蹂躙するように壊していくのをただ見つめていた。穹はその時漸く、これまで感じていた違和感の「本当」に気付いてしまった。
 丹恒は、自分よりずっと前に、自分たちがいるこの場所が、見えているすべてが、『一度自分が見た夢』なのだと、とっくに気付いていたのだ。
「……もう終わり?」
 あんなに――こんなに楽しかったのに。ぽつりと尋ねた言葉に、丹恒は少し早いが、と静かに答えた。彼もまた、穹がこの夢の泡に没入するあまり、「これが夢であることすら忘れていた」ところから、目を覚まし、これが夢であるということを思い出したと気付いたようだった。
 何故ずっとこれが夢の泡の中だということを、彼は言わずにいたのだろう。いつも眠っている自分を起こさずにもう少し寝かせて、自分はさっさと目覚めていく時と同じようにしただけなのかもしれない。それに、夢だということを知らないままでいた方が、この夢の旅を、きっと心から楽しめるから。
 急に夢の泡が消えてなくなって、いつ夢が終わってもいいように彼はあんな顔をしていたんだろうか。穹はふと思う。これは、終わることが分かっている夢だった。丹恒はそれを知っていた。本当の自分たちの旅はこの夢の外にあり、夢のようにずっとは続かない。丹恒はこの夢を見た時、それが分かって目覚めたと言っていた。本当はずっと五人で旅を続けたいけれど、それは決して叶わないことなのだと。
 丹恒はきっと、そうやって、変わらない五人の旅が終わるまでに、まだいくらか猶予がある、と思っている。けれど本当のところは、彼が思っているよりもずっと早くにその時が来てしまう可能性に気付いていない。彼が人より少しだけ長く生きるから、いつかはくるはずの別れをわかっていながらも、少しだけ遠くに置いているのだろう。けれどきっと、その予想よりずっと早くその時は来てしまうかもしれない。
 いずれにせよ、先に終点に向かうのは自分だ。そういう確信がある。いやだなあ、と穹は静かに、細かな泡になって消えようとする周囲を見ながら、丹恒にしがみ付くように首に腕を回した。せめて、夢を見ている間くらいは、彼の願いを叶えてやりたかったのに。この夢は彼の夢から作った泡だから、どこで終わるかなんて、もう丹恒はとっくに承知している。
 今度は自分が旅をする夢を見ればいいのだろうか? 今までいった星は少ないけれど、いろんな人から話を聞いたから、想像力には自信がある。存在するかもわからない夢の中だけにしかない星なら、いくら旅をしたって未知の連続だ。きっと丹恒も気に入るだろう。
 なんだか急に、体が重くなる。夢の中にいるはずなのに、瞼がずん、と鉛のように重力を持つ。長い間夢の泡の中にいたから、夢の中でも疲れてしまったんだろうか。「……穹?」と尋ねてくる声に、穹はん、と短い返事しか出来ずにただ、ぐずる子供のようにその肩に額を擦りつける。
「……丹、恒」

 おかしいな。なんだかすごく、すごく、……眠いんだけど。




 ふ、っと意識が水底から引き上げられたような心地で、丹恒は静かに瞼を開いた。ここは、と未だ覚醒しきらない頭でぼんやりと周囲を見、憶質のプールの中でちゃぷちゃぷと水面を揺らす。
 どうやらここはホテル・レバリーの客室のようだ。随分長い間夢を見ていたのか、少し体が凝り固まったような倦怠感がある。どうしてここに来たのだったか、と数秒、眠る前の事を思い出そうとして、ふと肩にかかる重みが、ずる、っと滑っていきそうになるのを丹恒は反射的に支えて引き留めた。ざば、っと水音が大きく響く。
「穹」
 まだ深く眠ったままなのか、穹は起きていないし、体をこちらへ預けて微動だにしない。同じ夢の泡を見ていたはずだが、どうやら先に目覚めてしまったようだ、と丹恒は気付いた。
 夢境に入るためのドリームプール。眠った後で待ち合わせ場所が分からないと困るからついでだし一緒に入ろう、と眠る前に穹が無理矢理ここに丹恒を引っ張ってきた。ものの数分で夢に入れたのはいいものの、一体どのくらい眠っていたんだろう。
 憶質の小さなプールから穹を抱えて立ち上がり、丹恒は彼を一旦部屋のソファの上に寝かせた。自分が夢の泡から出てきたのだし、そのうち彼も続けて目を覚ますだろう。今はまだ眠っているようだからもう少し寝かせておいて、今のうちに飲み物と、軽い食事を用意しておこう、と丹恒は一度部屋を後にする。
「あ。丹恒」
 VIPルーム近くのバーになのかとヴェルトの姿がある。穹と夢境へ行く、と二人にも既に伝えてあった。姿が見えない穹を探すように、なのかがきょろきょろと周囲を見回す。
「あの子ってばまた寝坊?」
 本当にいつもぐっすり寝てるんだから、となのかは少し呆れたように丹恒に言う。よく眠っているのなら起こすのは可哀そうだろう、とヴェルトもなのかに苦笑する。丁度二人は今から列車に戻る所だったらしい。
 自分たちも後から戻る、と二人には返し、帰っていくその背中を見送り、丹恒は二人分の飲み物と軽食の用意を待った。用意が済んだ軽食を前に、長い夢を見ていた疲れか、空腹を覚えたので一人で先に食べだしたが、自分の分を食べ終わっても、穹は一向に起きる気配がなかった。
 起こすのも忍びないが、かといって、同じ夢の泡を見ていたはずなのに、こうも起き出す時間に差異があるものなんだろうか? まあ、夢境のことは資料や文献の知識は頭に入っているものの、実際触れた回数は穹よりもずっと少ない。体験が己の知識と異なることもあるだろう。
 前もそうだったし、これまでもずっとそうだった。穹はよく眠る。大抵、列車の中でも起き出してくるのは最後だ。どこかに泊まった時にも、寝付くのが遅いからか起き出すのも遅い。だから無理に起こさず、自然に目が覚めるまで放っておくことなんて茶飯事だ。せっかく買ってきた軽食と飲み物だが、まあ起き出すまで置いておいても問題のないものばかりだった。冷蔵庫に仕舞っておけばいいだろう。
 そうやって、丹恒は一度飲み物と軽食を備え付けの冷蔵庫に放り込んでから、もう一度穹を見下ろした。寝息は静かで、本当に深く眠っているのが見てわかる。じっと彼を見下ろし、自分でも感じた違和感と予感に、何故かそれまで感じたことのない焦燥を覚えた。どうしても気になって、穹の傍にしゃがむ。軽く「穹、」と呼びかけながら肩を揺する。返事はない。起きる気配もない。今度は「穹」と呼びかけながら軽く頬を叩く。だがそれも反応はない。
 深く眠っているだけならばいいのだ。けれど、丹恒は予感が確信に変わりつつあることに焦って、さっきよりもずっと強く穹の肩を揺さぶった。頭がぐわんぐわんと大きく揺れたが、彼の瞼は微動だにせず、指一つ動かないままだった。

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