あたら夜

終わりの見えない長い夜を、もう幾度はやく明けてくれと願っただろうか。
酷い悪夢に飛び起きて、丹恒は自らの胸を掴むようにして項垂れる。冷たい脂汗と乱れきった息、そして苦しいほどに胸を叩く鼓動をどうにかやり過ごそうと、彼は固く目を閉じて力無くかぶりを振った。
言葉も道理も通じはしない、ただ己という存在が罪に問われる。仙舟で牢獄に鎖で繋がれていた頃と地続きの悪夢が見せるそのような一面には、良くも悪くももう慣れたはずだった。記憶の澱を執拗に掻き回し、飽きるほどに繰り返している群像劇に真新しさなど皆無だ。——だというのに、悪夢は何度でも彼の胸を引き裂き、罪人に烙印を焼き直すようにそれぞれの夜に鮮烈な痛みを彼に与える。時に眠るのが恐ろしくなるほどのそれは、まるで逃げることも束の間の安息を得ることも決して許しはしないと、彼を呪い続けるように。

今夜はもう眠れそうにないと、水を取りに行った帰りだった。アーカイブに戻る前になんとはなしに立ち寄ったラウンジに先客を見つけて、丹恒は思わず足を止める。
列車はとうに寝静まった深夜だ。既に消灯されたラウンジのソファ席に上がり込んだその人は、背もたれに肘をつき、一人窓越しの銀河を眺めているようだった。
ここではないどこかに思いを馳せるようなその横顔に声をかけることを彼は一瞬躊躇する。きっと普段なら、迷った末にそっとしておくことを選んだだろう。けれど今夜はどうしてかそれができずに、丹恒はその背中に声をかけた。

「星。こんな時間に何をしているんだ」
「ん? あれ、丹恒じゃん。何って言われても、……さあ、何してるんだろうね」

問いかけにまともな返事をしない星は、丹恒の登場に特段驚く様子もなく、お世辞にも褒められたものではない行儀でだらりとソファにもたれかかったまま彼を振り返った。

「もしかしてここで寝るんじゃないぞって言いにきたの? それならちょっと前にヴェルトにも同じこと言われたよ」

丹恒が何か言うより先に、耳にタコ、と肩を竦めてみせた彼女は、どうやら随分前からここにいるらしい。
普段から星は列車に帰ってきてもあまり自分の部屋に寄り付かない。結果としてその辺でしばしば電池が切れたように寝落ちするせいで、休むならきちんと部屋に戻って休めと彼女が方々に嗜められているのはこの列車の日常茶飯事だ。丹恒とてもう何度、外では絶対にやるなと言い含めたかわからない。

「丹恒こそこんな時間にどうしたの。悪夢でも見た?」
「…………そんなところだ」

素直に認めると星の目が少し丸くなる。
それ以上は特に何も言わずに、丹恒はそのままなんとなく星の隣に腰を下ろした。

「大丈夫?」

そっと丹恒の耳に届くのは、何気ない、けれど率直な心配の言葉だった。
ソファに座り直した星が、言って彼の顔を覗き込む。

「ああ、大丈夫だ」

治らない傷をそうする他ないように、たとえ痛みがどれほど酷くとも、悪夢の夜は一人でやり過ごす以外手立てはない。それでなくとも自身の抱える問題に不用意に他者を立ち入らせるべきではないのだ。
誰かの手を、借りる術などいつもなかった。列車に乗る前も後も、丹恒はずっとそうしてきた。だから彼はいつも通り努めて冷静に頷いてみせる。いま真っ直ぐ注がれる星の視線からは、逃れるように目を逸らしながら。

「ふうん。それ私の目を見て言える? 丹恒」

いまいち感情の読み取れない顔で星が首を傾げる。きっと彼女は思ったことをそのまま口にしているだけだろう。だからこそ厄介だった。
逃げも誤魔化しも通用しない、常闇にあっても光を見失うことのない彼女の目に見つめられると、なんだか何もかも見透かされているようで居心地が悪い。
そうして丹恒が押し黙っているうちに、星は続けた。「まあ、顔を見ればなんとなくわかるけど」

「私にできることはある?」
「……大丈夫だ。これは俺の問題だからな」
「よし、あんたの問題なら私の問題でもある」
「気持ちだけ受け取っておく。この件でお前に頼めることはないんだ」
「じゃあ今夜は傍にいる。そしたら頼めることが見つかるかもしれない」
「……待て星、何が『じゃあ』だ」
「なんか文句でもあるの? ほら行こう、添い寝してあげるって」

速戦即決を地でいく星が立ち上がり、俄然目を輝かせて丹恒の腕を引っ張る。
両脚に力を入れてそれに抵抗しながら、空いている片手で顔を覆って彼は呻いた。「どうしてそうなる……」

「俺は大丈夫だから、お前はちゃんと部屋に戻って休むんだ」
「部屋にはいつでも戻れるんだから、まずはものは試しだよ」
「試さなくてもわかる」
「私はわかんない」

一向に動こうとしない丹恒の腕を引く手を片手から両手に変え、いよいよ猛攻を仕掛けにかかりながら星は続けた。

「わかったとしても、大丈夫じゃない丹恒を放っておくわけない」

手の借り方すらわからずにいる丹恒に、彼女は真正面から手を差し出してみせる。差し伸べられた手を取ることを躊躇い続ける丹恒の手をいっそ強引なまでに掴んで引いて、迷いなく彼女は言う。
離せ離さないのしばらくの膠着状態の末、結局根負けしたのは丹恒のほうだ。ようやく腰を上げた彼を連れ出すように、星は迷わず歩き出す。

「そんなに遠慮しないでよ。私も寝付けなかったし丁度いい」
「……はあ。さては部屋に戻るのが面倒になっただけだな」
「否定はしない。あの部屋は私には広すぎて、夜中に目が覚めると銀河に一人きりみたいな気分になるし」

引っ張られるがまま後ろを歩く丹恒を特段振り返らずに、淡々と彼女は言った。
脳裏をよぎるのは、ラウンジや廊下の椅子で平然と眠りこける星を回収するたび立ち入る、最低限の調度品とガラクタがいくつか放置されているだけの殺風景な彼女の部屋だ。
「もう少し部屋に物を増やしたらどうだ」もし私室というものが持ち主の心象風景を表すとするならば、星の部屋は気掛かりなほど何もないのは確かだ。当の本人はといえば、丹恒の助言にも「そのうちね」と気のない声で頷くだけだったけれど。

「まあつまり眠れないのはお互い様ってこと。だからいいじゃん」

同意を求めるように星が振り返った。
何もよくないが、と丹恒が言いかけたところでふとまともに視線がかち合う星は、眠れないと言うわりには随分と嬉しそうに笑う。
何がそんなに嬉しいのか、丹恒は皆目理解できない。理解できないが、——でもそんな星の顔を見てしまうとなんだか水を差すのも躊躇われて、喉まで出かかっていた言葉は勝手に飲み込まれて消えていく。

「駄目と言ったところでお前は聞かない」

結局は星のペースに飲まれて腰を上げてしまった時点で負けなのだ。
我ながらどうかしている、とは思う。誰も寄せ付けず何も打ち明けず、注意深く息を殺して一人ひたすらに暗い夜が明けるのを耐えて待つ。容易いことだ。昔からずっとそうしてきたはずだった。幸いアーカイブには時間潰しに困らないだけの資料がある。星だって状況判断が出来ない人間では決してない。もし丹恒が今ここで本気で手を振り払って拒否すれば、彼女はちゃんと引き下がってくれるだろう。
そう頭ではわかっているのに、今日はどうしてもそんな強情を通すことができないまま。

「わかってないなあ丹恒。だってとりあえず一緒にいとけばさ、眠れなくても寂しくないよ」
「……もう好きにしろ」

どのみち今夜は眠れそうになかったのだからと、彼はそっと息をついた。
どうせ占領されるだろう布団は端から星に譲る覚悟だ。少しのあいだ彼女の寝物語に付き合って、その後は星が列車に持ち帰ったここ最近の記録類を念のため再整理すると丹恒は心に決める。
思えば明日いなくなると言われたほうが納得できるほど物の少ない彼女の部屋と、丹恒が話しかけるまで一人所在なさげにぼんやりしていた星のほうが、自身の悪夢などより余程気に掛かり始めたからだった。

***

「……一応聞くが、お前は本気でこれで眠れると思っているのか」
「え、うん。余裕で寝れると思うけど」

言い切って丹恒を映す星の瞳は常よりずっと近い場所にある。一人用の布団に二人で潜り込めばこうなるのは誰がどう考えても自明のことだ。資料室に入るや否や始まった再びの攻防の末に、丹恒は星によってここに引き摺り込まれて今に至る。
常日頃バットを振り回す細腕は強力に丹恒を拘束し、逃げ出そうと身じろげば星はますます密着を強めてくる。丹恒はもはや思考を放棄したい。

「なのともよくやるよ」
「俺は三月ではない」
「同じようなもんじゃん」
「その認識は今すぐ改めろ」

大雑把にもほどがあると丹恒が思わず顔を顰めると、一応その苦言には聞く耳を持ったのか、星は何やら思案顔になって付け足す。「確かにちょっと言い過ぎだった」

「だってなのは守りたい美少女。丹恒は美少女ではない。多分」

そういう話をしているんじゃないだとか、そのわざわざ付け足した多分はなんだとか、脳裏を過ぎった様々な言葉は全部まとめて沈黙になる。
星が冗談なのか本気なのか判断のつかない顔でわけのわからないことを言うのは、別段今にはじまった話ではない。どこから指摘するべきかを逡巡しかけて、丹恒は結局そのまま受け流すことにする。言って聞く相手ならそもそもこんなことにはなっていないのだ。

「…………お前たちは仲がいいな」
「どういう意味? 私たちも仲はいいでしょ」

そんな彼を微塵も気に留めない星がおもむろに伸ばした手が、むに、と丹恒の片頬を摘む。脈略のない彼女の行動に、丹恒は無言のまま思わず半眼になった。その間も星の指先は彼の薄い頬を好きに摘んだり伸ばしたりし続ける。丹恒はされるがままだ。「…………なんの真似だ」

「いや。あんたの仏頂面、なんかいつもより近くにあるなって」
「本当に今更だな」

「ごめんごめん」笑いまじりの声と一緒に、少しの遠慮もなく頬を引っ張っていた気安い指先がふと離れていく。

「まあこの通り、丹恒は美少女ではないんだけど」
「二度も言わなくていい」
「でも、守りたいのも力になりたいのも一緒だよ」

一度は離れた白いその手は、やがてさっきまで触れていた場所をなぞるようにするりと丹恒の頬を撫でる。「どんな夢を見たのかなんて、別に聞かないけどさ」

「もし悪夢で眠るのが怖いなら、私が丹恒のために百年でも羊を数えてあげる」

笑うでも憐れむでもなくただ静かに、その心根を表すような金無垢の瞳が彼に向かって衒いなく瞬く。

「……できもしないことを言う」

呆れたように丹恒は呟いた。
星にとっての百年と丹恒にとっての百年はわけが違うことを、きっと彼女は考えてもいないのだ。

「さすがに盛りすぎたか。やっぱ三年くらいにしとこう」
「それは少し、……短すぎるんじゃないか」

別に星はそんなつもりで言っていないとはわかっていても、口を挟まずにはいられない。
「そうかなあ。まあなんでもいいけど」何を言っても彼女は飄々と笑って肩を竦めるだけだ。「知ってる数字がなくなったら、数えるのをプーマンに変えるからね」

「眠れなくても私がいるって思ったら、眠れそうな気がするでしょ?」
「その自信はどこからくるんだ……」
「なんで? 私は丹恒がいるしって思ったら眠れるような気がするけど」
「……」

当たり前のように示されるのは、呆れるほど無根拠な自信と信頼だった。そうして星が丹恒へ無条件で手渡すそれらを否定も肯定もできないまま、彼は複雑な顔で口を閉ざす。返す言葉を探そうにも、密着する人の温もりや呼吸が聞こえるような距離に星のを感じる今は何をするにもやりにくい。

「お前が眠れそうならいい」
「丹恒は? やっぱり一回プーマン数えとく?」
「やめろ。俺も、——お前がそこまで言うなら試してみる気にはなる」

それで眠れるかと聞かれれば甚だ疑問だが、と付け足した丹恒の話を聞いているのかいないのか、星はまるで自分のことのように目を輝かせる。

「よし。じゃあ大人しく目を瞑りな!」
「おい星、」

人を寝かしつけようとしているとは思えない覇気で、ぐっと丹恒へと身を乗り出して星が言った。慌てた丹恒が星を押し留めようと思わずその肩に力を置くのもお構いなしに、距離はほとんど鼻先が触れ合うほどに、やがてこつりと額と額がぶつかり合う。

「丹恒。夢でだって私が守るよ。大暴れしてやるから安心して。——だから、今夜はここにいていいでしょ?」

もう幾度となく丹恒を叩きのめした悪夢を見越したように、星が囁く。いつだってその肩にいくつもの他人の荷物を引き受ける彼女が、今その瞳に丹恒だけを映し、丹恒のためだけに特別なおまじないを授けるように目を細める。

「……ここにいるのは構わない。その代わり大人しくしていろ」

半ば全てを諦めた顔になって、それでもひとまず丹恒は大人しく目を閉じる。
星と一緒にアーカイブへ戻るときに立てた計画は、彼女によって布団に引き摺り込まれた時点で総崩れだ。そしていくらどこででも寝れるのが特技だろうと、この状況下ですやすや眠れるほど丹恒の神経は図太くない。
それでもこうしなければ星が納得しないのは目に見えていたし、——ともすれば今は、この温もりを己の傍に許しておくことのほうが余程重要なのだと彼の直感が告げていた。

***

資料室を満たす低い機械音のなかに微かな寝息が混ざる頃、そっと丹恒は瞼を持ち上げる。
丹恒を抱き枕のようにして丸くなった星は、羊を数える云々はなんだったのかと思うほどあっさりと、彼より先に夢の海へ旅立っていた。今はもう丹恒が多少身じろいだくらいでは起きる気配もないほどぐっすりだ。

(……眠れず困っていたのなら、最初から素直に頼ってくればいいものを)

いっそ心配になるくらい無防備な寝顔を目の前に丹恒は何度目かの息をつく。
眠れない苦しい夜の長さなら丹恒も十分理解できる。今日はたまたま彼が起きていて、ラウンジに立ち寄ったからよかったものの、そうでなければどうするつもりだったのだろう。あるいはもしも今までにこんな夜が星にもあったのだとしたら、彼女は一体どんな風にしてそれをやり過ごしてきたのだろう。
ここで一人考えてみたところで、答えどころか具体的な理由さえわからずじまいだ。アーカイブに来てからも星はずっと丹恒のことばかりで、自分の話は何もしなかった。

「お前はいつも、自分のことは何も話さない」

ラウンジで一人、表情の消え失せた顔で茫漠と宇宙を眺めていた横顔がどうしても脳裏を過ぎる。自室を持て余し、持っているものといえば無いに等しい記憶と星核、そしてバットを含むいくつかの武器が精々の星と、彼女がこの夜にどこか自分に言い聞かせるように口にした言葉の断片を繋ぎ合わせることで見えてくるものに、丹恒はそっと目を伏せる。
守りたいのも力になりたいのも、こちらだって同じなのだ。星が丹恒にとってそうであるように、丹恒は星にとっての拠り所でありたい。それは決して何かの見返りなどではなく、どんな時も、どんなことがあっても、——なぜなら彼にとって彼女はただ一人、自らの心の最も奥深くを許した特別なのだから。

「お前の居場所ならあっただろう。ちゃんと、ここに」

——俺の居場所がまた、そうであるように。
言えば星は「わかってるよ」とわかっていない顔で笑い飛ばすだろう。だからこれは百度同じことを言い聞かせるより、同じ数その腕を引くほうがいいのだと彼は思う。
口を開けば呆れた迷言ばかりが飛び出す彼女も、眠ってしまえば静かなものだ。丹恒は既に体温が完全に同化するほどに密着する星をぎこちなく抱き寄せて、なんとはなしにその灰色の髪をそっと指で梳く。もうどんな距離が本来あるべきそれだったのかも彼には判然としない。これもまた星のペースに呑まれた結果なのだろう。
それでも、このままでいいと思った。このままがいいと思った。身体に纏わりつく慣れない温もりが、不思議と嫌ではなかった。

「おやすみ、星。いい夢を」

寄る辺のない銀河の隅に二人きりのような夜だ。こんな夜が続くなら、あるいは星となら百年羊を数えることになってもいい。
思いとは裏腹、温もりと混ざり合ってゆっくりと全身を包み込んでいく眠気に身を任せて、丹恒は束の間ただ眠るために目を閉じた。

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