焼酎


窓辺に近い席から、クリスマス風に飾られた赤や緑の電飾が見える。
そもそもまだ来月の話だというのに、街は既に、冬の一大イベントの支度を終えてしまっていた。譲介が電飾よりずっと美しいと思う人の眼を見ながら「その酒、どうですか。」と尋ねる。
「ん、」もそもそと手元に皿に箸をつついていた彼は顔を上げた。出会った頃は既に大人だったこの人のことを、このところは可愛いと思うことが増えた。
この先、彼と共演する機会が失われてしまえば、こんな風に彼を正面から見る機会もほとんどなくなってしまうのかもしれないな、と譲介は思う。
「そのうち留学することになりました。」と譲介は言った。
突拍子もない譲介の発言に、なんだその曖昧な言い方は、と言わんばかりの顔でTETSUは眉を寄せた。
間髪入れずに「いつからだ。」とこちらに目を合わせてズバリ切り込んでくるのは、譲介との別れが辛いから心の準備をしておきたいと言う訳ではないだろう。
それでも、中学の頃から、脇目も振らず追いかけて来た人からの第一声が「そうか、なら行ってこい。」という話でなかっただけ良かったと思う。
少なくとも、多少なりと心の準備は出来た。
本題に切り込む心の準備が出来ない自分の弱さをなじりたいような気持ちを抱えながら、譲介は年上の人に勧められた芋焼酎の入ったグラスを傾ける。
礼儀をわきまえずに本心を言ってしまえば、いつからだなんて言葉も聞きたくなかった。
寒さに弱い今日の彼は落ち着いた灰緑色のハイネックのセーターを着ていて、譲介は彼の首元を隠す襟を引っ張りたいような気分で、おかわりを頼んでいいですか、と彼に言った。


ネオンの看板が立ち並ぶ街の喧騒から離れた場所にある裏路地の店は、譲介が見つけた、最近のTETSUのお気に入りだった。
壁には店主が趣味で集めたという、ウィリアム・ターナーのレプリカが飾ってある。小さな店だというのに、不景気も相まってか、他に人もおらず、二階は貸切同然だ。
二十歳を過ぎた頃から、この年上の人の好きそうな店を探すのが譲介にとって一種のルーティンのようになっていて、先に気にするのは、料理ではなく酒の品揃えの方だった。
家主の冷蔵庫を漁って出て来た漬物や豆腐、果てには塩をつまみに回される日本酒の一升瓶。
駆け付け一杯は必ず干せと言われるビールの中ジョッキと色とりどりのサワー。
プロデューサーがキープした洋酒のボトルの水割り。
TETSUが若い頃通って来たこの世界における酒というのは、そのいずれかであることが多く、そうしたカテゴリから外れた酒を飲むような機会はさしてなかったという。今ではおっかない大先輩であるこの人にも、ペーペーの時代があったという話だ。
酒のラインナップがそれなりで、その上で料理を気に入ればTETSUと譲介の「いつもの」店に昇格することもある。それでもまあ、快適に過ごすことが出来るのは譲介のファンにバレるまでの話だけれど。


飲み物のメニュー表を見ていると、譲介、おい、と話の続きを促される。
普段から機会があれば許されるだけ彼の姿を見つめているせいか、不自然に酔いが回ったフリは、すぐに気づかれてしまう。さして時間稼ぎにはならなかったな、と譲介は舌打ちをしたい気分だった。
さあ、適当に放り投げた球をどんな風にはぐらかそうか。
もし失敗すれば、圧力鍋の蓋を吹き飛ばすほどの勢いで怒るこの人と対峙することになる。それだけはどうにか回避したいところだった。
譲介はTETSUの質問に「時期はまだ決まってなくて。」と答える。
彼が今日譲介に勧めたのは、それまで名も知らなかった芋焼酎だ。普段飲みつけている酒よりずっと度数は高いのに、妙に飲みやすい。TETSUが好む日本酒は、口にしただけで頭が痛くなることもあるけれど、今日の焼酎にはその手の二日酔いの前兆が感じられないのも有難かった。譲介は二杯目も同じものを頼むことに決め、ウェイターをボタンで呼んだ。
「はぐらかさずに、今年か来年かくらい教えとけよ。そもそもおめぇももう大学は卒業してんだろうが。エージェントに任せて入学するってんなら、仕事の切れ目になるにしても、そもそも何月かくらいは決まってんじゃねえのか。」
その言葉に譲介がただ肩を竦めると、TETSUは「で、ロンドンなのか?」と身を乗り出して聞いて来る。普段の雑談はほとんど右から左へと流すことが多い人が、妙に食いつきが良くて笑ってしまった。
譲介にとっての海外と言えば、まず思い浮かぶのはもうほとんど記憶もない頃に親に連れられて行った台湾やハワイだ。世に知られた観光地ばかりで、日本語が通じない場所には、まだ行ったことがない。
英語は、彼に借りた英語字幕の映画でヒヤリングをしていたくらいで、中高時代の授業では、ほとんど寝ていた。演劇を学ぶために言葉が通じない場所へ海外留学するというのは、どのような心持なのだろうか、と譲介は思う。
これまでに何度も彼と一緒に見に行った映画や演劇――時には台詞の無いバレエやダンス、聾者演劇と言った形――で、日本語以外の言葉で語られる芝居に触れたことがあった。そして、彼の見せてくれた演劇の広い地平に比べて、譲介の今いる世界は、確かに狭い。
役名が変わったところで演じる役柄は変わらず、ステレオタイプな芝居を求められることが多かった。
――あの男、お前ならどう演じる。
肩を並べて芝居を見る度、いつものドラマのオファーでは望むべくもない役柄を演じる俳優を指して、TETSUは何度となく譲介に言った。
昔から、大人の望む無垢な子供を演じることが得手だった。それは同世代の他の子どもより巧くこなせるというだけで、自分が本当にそうした役柄に向いていると思ったことはなかった。
TETSUは、譲介に、自分が苦手だと思う人間を演じてみろと言う。
野卑な男、無学な男、自分の人生に自信のない男。
そうすれば、自分の輪郭がくっきりと見えて来ると。
ただの観客であることを許さない、と言う訳ではなく、譲介がひとりで作品に没入したいというのであれば、面倒がらずに様々なディスクを貸してくれた。
彼と出会った頃に見た、京劇の女形を演じる男の映画は、感傷的な美意識で鮮やかに彩られた世界観で、譲介の心を掴んだ。
パソコンで初めて見た映画だった。
芝居の中で彼とかりそめの師弟を演じることほどの強烈さはないものの、ふわふわと心がどこか遠くへ彷徨うような経験というのが初めてで、人に好かれると同時に、妬みや嫉みを受けやすいような顔で生まれて来たせいか、恋愛を含めた他人の感情というものへの想像力についてを、亀の甲羅ほどの硬さの壁で自分から切り離して来た譲介にも、恋と言うのはどうやら酷く辛いものであるらしい、ということが分かった。それから、自分の中に、映像の中で見つめた片恋の男と似たような感情が育ちつつあるらしいということにも。
今となってはたとえ話だが、もし、彼と出会ったばかりの頃の自分がこうした留学の話を現実のものを考えていたら、渋々でもこの世界からあちらへと飛び込んでいったかもしれなかった。今日のようなアーガイルのセーターを身に付け、彼の役柄上の特徴を真似た黒のロングブーツで闊歩するには、ロンドンはいい街だろう。
一度くらい、僕のことを追いかけてくれたらいいのに、という期待も、待っていてくださいという勇気も、きっとあの頃の自分にはあった。
半分は若さゆえの蛮勇だとしても。
今の僕じゃ、もう無理だな、と譲介は思う。
この人が、この人なりに僕のことを受け入れてくれると知った今では、離れがたいという気持ちだけが募って行く。自分の意思が介在しているとしても、強制的に距離が離れるとしたら、それはきっと、身を切るほどの辛さだろう。
「イギリスにしとけば間違いねぇんだがな。」と呟く年上の人に、譲介は、すいません、と謝りながら「行き先はイギリスじゃなくてアメリカなんです。それから、行くのは僕自身の話ってわけじゃなくて。」と正直に答える。
まだ事態が呑み込めていないような顔をしたTETSUは、どういうことだ、と譲介を睨んだ。臍を曲げる三秒前のような顔をしている。
「一也のヤツか?」
「惜しいけど違います。」
「行くのが誰かは知らねえが、どうせ行くならロンドンにしとけと言っとけ。言葉が英語なのは同じだ。それでもあっちはLAPACかHBスタジオがいいとこだぞ。今から変えらんねえのか?」と身を乗り出して言った。
具体的な校名を出して反対して来た彼の様子に、譲介は笑いながら「僕たちが出てるドラマの話ですよ。今はまだ詳細なタイミングは知らされてないですが、いわゆる『和久井譲介』の卒業の話です。」とネタばらしをした。
ああ、と言ってTETSUは愁眉を開き、なるほどな、と得心した顔で椅子に腰を落ち着けた。
K2のドラマは長寿番組で、初回の連続ドラマとなるシーズン前の特別番組からずっと「一人先生」のパートナーだった富永さんも、僕がドラマのレギュラーとして入って来る直前に「卒業」した。
そうか、とため息を吐き、彼は皿に残った新香をつつき始める。
「おめぇが出ていくとなると、オレもまあ退場だろうな。同じ時期になればいいとこだろ。」と言ってTETSUは眉根を寄せた。
自棄酒のつもりか手元の小瓶を呷る年上の人をなだめるように「まだ先の話ですから。」と譲介は言った。
「先の話か。」という彼の口調は、妙に感情的で冷ややかだった。
「ああくそ、酔いが醒めちまったじゃねえか。」とぼやき、彼はばりばりと後頭部を掻いた。
『その日』が思ったよりあっという間にやって来ることは、僕よりもこの人の方が良く知っている。別れた人との写真を後生大事にしまってあるこの人にとって、過去の傷はまだかさぶたのままなのだろうか。
TETSUの反応を伺い、譲介は息をひそめる。
そうして、長々とした沈黙ののち、「僕自身はどこにも行かないから、安心してください。」と譲介はTETSUに言った。
「TETSUさんとこうして一緒に酒を飲むのは楽しいですし。」
努めて自制的であろうとしたが、譲介にはそうすることが難しかった。

――少しは、あなたも寂しいと思ってくれましたか?

野卑な男にも、無学な男にも、自信のない男にもなりきれない和久井譲介と言う男は、目の前の大事な人の手から、空になる前の酒瓶を取り上げて「今日はもう帰りましょうか。」と言った。時計を見なくても分かる。今日は譲介のスケジュールの都合で集合時間が遅くなってしまったので、終電手前とはいかないが、もうすっかりいい時間にはなっているだろう。
「おめえの家じゃねえぞ。」と拗ねたように言うTETSUの顔を見つめ、あなたにとってはそうかもしれませんが僕にとっては、と考えながら、譲介は「それは残念。」と笑った。
「ラストオーダーの時間です。」とひと際大きな声が階段の下の方から聞こえて来る。
「おあいそ!」と叫ぶ年上の人は、財布の中から出した万札を勘定書きの上に置き「足りなかったら、おめぇが出せよ。」と不服そうに言って立ち上がる。椅子の背には、マフラーが掛かったままだ。
その背中を目で追いかけた譲介は「TETSUさん、マフラー。」とひとこと、いつものように椅子から腰を上げ、手を伸ばして取った明るいオフホワイトのマフラーを彼の首に一巻きして、端のフリンジ部分を一度奥に通してから首から下げた。
自分で出来るっての、と苦々しい顔つきのTETSUに「いつものあの巻き方で、何度帰るまでに地面に落としたと思ってるんですか。」と譲介は微笑んで、行きましょうか、勘定書きを挟んだ小さなプレートを持ち上げる。
一瞬、居心地が悪いような顔をした男は「今日はお前がいるから、どんな巻き方をしようがまあいいだろ。」とひとりごちるように言って、帰るぞ、と譲介の肩を抱いた。
「!」
ドクドクと心臓が跳ねる。
譲介は、さっきと言ってることが違うじゃないですか、と笑いながら軽口をたたき、ふらつく彼の身体を支えるふりで隣の体温を感じていた。
目の前の階段は狭く、ふたりの身体は密着する。
(僕の頬が赤いのを、焼酎のせいだと思ってくれますように。)
譲介はそんなことを思いながら、TETSUと一緒に狭い階段を下りて行った。

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