男子高校生の日常 その7



八月の終わり。
ガタゴトと揺れる各駅停車の列車の中で、譲介と徹郎は向かい合っていた。
熱のこもった空気を、扇風機の風が掻きまわしている。
ずっと黙ったまま外の景色を見ていた譲介が、暑いな、と言って窓を開けた。
ガタンゴトンと時折揺れる列車の中。小さなレバーを押してがたつく窓を引き上げると、風が外から吹き込んでくる。海が近いせいか、外の風が入るとマシになった。夏休みの間に妙に伸びた譲介の前髪も揺れている。譲介はこの夏ずっと同じような白のTシャツ姿で、ボトムスだけが違っている。妙にポケットの多い黒の綿パンだ。
Tシャツは、夏の間に洗濯を繰り返したせいか、襟が少しくたびれてきていた。
まるで制服のように見慣れてしまったこの姿も、九月になれば見納めになる。
「……そのままにしといたら、単語帳飛んでくぞ。」
「そうだな。」と譲介は言った。さっきまで手にしていた単語帳を、ワンカップしか置けないような窓辺の小さなスペースに置いたままで、また窓の外を眺めている。徹郎としゃべりたくないというなら、寝てもいいのに、譲介はずっと目を開けて、車窓から見える景色を見つめている。
田圃の連なりが草木の景色になり、また田圃。それが狭い家の連なりに変わり、やっと、海の音が聞こえて来る。青い色が見えて来て漸く、こんなに晴れるとは思わなかった、と譲介は言った。


熱射病からの昏倒で始まった夏休みの間、曜日を決めて、何度か譲介の住む町の隣の駅にある図書館や、高校のほぼ中間地点にある駅近の複合施設で落ち合って勉強をするようになった。譲介が使っている六か月定期が使える場所という限定的な範囲だ。
腹が減ったらファーストフードの店に移動して、そこで学習を終えた範囲の確認をする。
譲介は、数学はともかく、英語と古文が壊滅的だった。
お前は中学で何をしてたんだと思う次元の会話になることもあって、ひたすら構文と単語を覚えるようにと説教する傍ら、おふくろが良い感じに整頓している物置を家探しして、兄貴が昔使っていた問題集を出して来て、譲介に課題を出した。中学三年の範囲は、三分の二がほとんど真っ白だったが、譲介は何も言わずに黙々と解いてきた。
この夏はずっとそんな感じで、バイトも夜遊びらしい夜遊びもせず日々真面目に勉強していたせいで、盆を迎える前にはすっかり課題がなくなってしまった。
徹郎は、三学年違いでカリキュラムが多少異なる兄の使っていたテキストと教科書の設問を抜き書きして譲介に小テストを作り、その後は、二学期の勉強を予習しておくようとに言った。
寝不足になるくらいなら予習をしなくてもいい、その代わり真面目に授業を聞けと言う教師も何人かいるが、先に予習を終えておいた方が記憶は定着する気がする。聞くところによると、帝都大の理Ⅲを目指すような都会の予備校では、三年の一学期が始まる頃には、高校三年のすべてのカリキュラムを終えてしまうのだという。同じレベルに到達するまではいかないとは思うけれど、それなりに目標を立ててやっていかないと、徹郎のいる高校の出身でも通えるような偏差値の県内の国立大にすら通うのは難しいだろう。
秋になれば体育祭も文化祭もある。部活もしていない帰宅部には関係ない話と素通りしたいところだが、譲介ほど足が早く、顔が良ければ、何かと引っ張りだこになるはずだ。
そこまで考えて、いきなり何もかもが馬鹿らしくなってきたのだ。
予定が白紙になった夏休みが数日残っているというのに、せっかくのこの自由時間を勉強漬けで終えるのかと。
徹郎は、譲介に電話を掛けた。
茶番だ、と思ったが、夏風邪でも引いて約束の曜日に行けない時は連絡する、というありきたりの口実で譲介から連絡先として施設の番号を本人から「聞き出した」のだ。連絡が必要な時は、朝食の後か、食事時間と消灯の時間の間が一番都合がいいと言われて、夜に電話をすることにした。
徹郎がこれまでの付き合いで学んだのは、和久井譲介という人間に接するには、決まった手順が必要だということだった。譲介から徹郎に掛けるのであれば、いつ電話を掛けても構わないが、逆は難しい。そうした縛りがあるのは面倒ではあるが、徹郎にとっての譲介は、その面倒さに値する相手だ。
ワンコールであさひ学園の職員が出た。電話口で譲介に繋いで欲しい、と言うと、譲介君から聞いていると思うけど、長電話はなしでお願いしますね、という短い前置きの後、譲介の名を大声で呼ぶ声が聞こえて来た。
その後で呼び出し音が二分。譲介は妙に息せき切った声で電話に出た。
――徹郎、おい、大丈夫か。
――えっ、何だよ、藪から棒に。
――何って、……病気になったから掛けて来たんじゃないのか?
――オレは元気だ。ピンピンしてる。
――は?
電話の向こうで、気の立ったような声を出した譲介が、今どんな顔をしているのかが見えるようだ。
迂闊に電話番号を教えてしまった自分に腹を立てているし、ポーカーフェイスが崩れた年相応なところを間近で大人に見られたことで、徹郎にも腹を立てている。
本気で心配されたという事実が嬉しいと思う反面で、これは譲介を試したことになるのだろうかと思う。
その逡巡の合間の短い沈黙に、しびれを切らしたのは譲介の方だった。
――じゃあ、他に何の用があって電話を掛けて来たんだ。
――何って。
オレは何か理由がないと電話も出来ないのかよ、と思ったが、それを今の電話口の譲介に対して叫んだところで何の意味もない。
――海に行かないかと思って。
――今、何て言った?
――海だ、海。昨日言った範囲の予習は済んでないけど、まあいいだろ。オレもお前も、夏らしいことほとんどしてないぞ。まだ夏休みなのに。
――そんなことは、ないだろ。別に。
譲介は、歯切れの悪い口調でそう言って、口を噤んだ。
確かに、八月の頭には一度あさひ学園に花火を持って遊びに行ったし、また西瓜を食べて、譲介が洗濯物を取り込むところを手伝った。クーラーが効いた店で、夏の限定だという青色をしたレモンスカッシュを飲んだ。それは全部昨日までの話であって、明日の話ではない。こっちはどれだけ遊んでも遊び足りないくらいだと思っているのに、譲介は違うのだろうか。
――お前は明日、オレと遊びに行く。課題がもう一つあったの忘れてたとか口実付けて、いつものより一時間早い電車に乗れ。同じ時間に間に合うように起きる。
――電車で?
――そう。水着も浮き輪もなし。サンダルは…途中で買えたらオレが調達してくか。海の家も、もう閉店してるだろ。
あの駅から歩いて海に行ける、と終着駅の名前を言うと、譲介は、ああ、という声を出した。電車の何号車という必要はない。通勤時間帯を外した列車は、ほとんどがワンマンカーか二両編成になる。定期の先の電車賃は、考えてくれるなよ、と思う。その祈りが効いたのか、譲介は、分かった。明日だな、と言った。妙に物わかりのいい返事だ。
じゃあな、と言って電話を切ると、もう少し話したいことがあったような気がした。


盆が終わって雨も降り、気温は落ち着いてきたけれど、アスファルトの道を歩くのは辛い。こちらが黒のTシャツのままでいると、譲介はちゃっかり薄手のパーカーを持ってきていて、フードを被って黒い髪とむき出しの腕を隠している。
寂れたような駅舎の自販機で飲み物を買ってから、昔は漁で賑わう港町だったのだろうと思わせる寂れた商店街を二十分も歩くと、急に視界が開けて海水浴場の看板が見えて来た。
美しいとは言い難い茶色の砂浜とはいえ、目の前に広がる海は、夏の太陽光を反射した水彩画のようで、冬の憂鬱な灰色とは違う明るさを讃えている。
人の少なくなった海岸にもまばらに客はいて、遠目には、海の家も開いているようだった。
けれど、それだけだ。色とりどりのビーチパラソルも、ビキニの女も、遠泳する人間もいない。遠くに、白い日傘を差した女の人が歩いている。
「……海以外になんもないな。」
「それは、そうだろうな。」
お盆を過ぎて海に行く人間は、釣りが目的か、景色を楽しむためだ、と譲介は言った。
砂浜にある階段は、階段と言うよりは白い段差のようだった。アスファルトの上を歩くときに感じたのとは別の、気持ちのいい海風が吹いていて、遠くには山が見える。
それにしても、遠足のときといい、電車に乗っている間とその後の譲介は、普段の三倍くらい大人しい。ここまで大人しいと、腹が減った時と、機嫌の悪い時に無口になる兄貴の癖を思い出してしまって、何か気に入らないことでもしたのではないかと、妙に不安になってくる。
それでも、砂浜に降りる手前の幅の広い階段でスニーカーと靴下を脱ぎ、家から持って来たサンダルに履き直すと、少しずつ海に来た、という実感が湧いてくる。
譲介にも、兄が去年、家に残していった蛍光グリーンのサンダルを履かせる。
普段は付き合いの悪い譲介も「僕のサイズじゃない。」と言いながら明らかに一回り大きいと分かるサンダルに足を入れている。逆に、徹郎のサンダルは、去年買ったものが少し小さく感じられる。
譲介は、手慣れた様子で使い古したビニール袋をリュックから取り出し、脱いだシューズを纏めて入れて空っぽのリュックに放り込んだ。
「譲介、お前今足何センチ?」
「26、と半。」
「オレのがでかい。」と言うと、譲介は無言で腹に肘を入れて来た。
足の裏の大きさを競っても仕方がないとは思っても、にやついてしまう。
交換するか、と尋ねると、譲介は首を振って「僕はこの辺で見てるからお前は楽しんで来い。」と言い、段差のところに腰を下ろそうとする。まただ。
妙にテンションが低いその様子に、「いいから、泳げなくてもいいから来いって。一緒に行くぞ。」と駄々っ子のように手を引っ張った。
人目の少ないのが幸いしたのか、譲介はわざとのように大きなため息を吐いて「子どもじゃあるまいし、なんなんだ。」と言いながらも、こちらの手を振り払いはしなかった。
そのまま、手を繋いで波打ち際まで砂浜を横断した。
下り坂の砂浜は直ぐに終わりが来て、水平線の手前にはヨットが見える。砂浜は、屋上よりは広いが、それほど幅があるわけでもない。
もういいだろ、と譲介に言われ、波打ち際で手を離した。
指が離れた途端に、譲介が泣きそうな顔をした。
「……おい、徹郎。」
何だこれは、と譲介が言う。
何だこれは、とオレも思う。
人を抱きしめたのは生まれて初めてだった。
泣きたいなら泣け、と人に言えるほどの胸板もなく、むしろ、オレの方が泣かされている。
譲介の肩に顔を埋め、足が攣った、と言い訳をすると、それを言いたいのは僕の方だ、と言って、譲介が鼻を啜る音がした。



「思ったより遠くに来た気がしてた。」と譲介が言った。
あさひ学園は、どちらかといえば山懐にある場所だ。
遠出をすると行ったところで、海を越えた先に行ける訳でもなかった。
ひたすらに波を眺めている徹郎の横で、譲介はぽつぽつと話し始めた。
物心ついた頃から父親はおらず、三歳で大好きだった母親と、寂れた無人駅の駅舎で別れたこと。置いて行かれてから、ベンチでずっと暗くなるまでひとりで待っていたこと。
電車に乗るたびにそんなことを考えているわけじゃない、と譲介は言うけれど、心の中では、ずっと傷ついていたのかもしれなかった。
「徹郎、本当に海に入らないのか?」と譲介が言った。
「いや、別に泳ぎたくて来た訳でもねえし。」と言うと、譲介がふ、と鼻に抜けるように笑った。
「なんでそんなに行き当たりばったりなんだ。……お前、海に行くって言うのも、昨日決めただろ。」
「ノーコメント。」
足元に、着くか付かないかのところで波が寄せて、返している。
爪先は、暖かい水に少し濡れた。太平洋の近くの干潟であれば小さいカニが歩いていたりするのだろうけれど、こちらでは、動いているのはほとんど人間だけだ。
八月も終わりになればクラゲが浮くとよく言うが、そのクラゲも見えず、まだ十分に泳げそうに見える。
「おい、何かないのか?」と唐突に譲介は言った。
隣に譲介がいたのを忘れて、ぼんやりと波に見入っていたので、話掛けられてやっと顔を上げた。
「何って、何だよ。」
「砂浜に字を書くとか、砂で城を作るとか。」
「和久井譲介の馬鹿ヤロオって海に向かって叫ぶとか?」
「……ないな。」
譲介は、口に出した端から馬鹿らしい、と思ったのか妙な顔をした。
「何か叫びたいこと、あるか?」と訊いてみる。
「別に、」
正直な和久井譲介は、こちらから逸らした目で、その返事をした。
お前は、母親に馬鹿ヤロオって言ってもいいんだ、と言いたかった。
その代わりに、「海の家にでも食べに行くか。」と提案すると、「今は客もまばらだし、ああいうところは不衛生だ。期限切れの食べ物を出されるぞ。」と譲介は言った。「その辺りの店のカレーでいい。」
お前の話は二段オチか。
そもそも、この辺りの飲食店と言われても、通って来た道すがらに見た看板は、寿司屋のものしか思い浮かばない。
「歩きながら考えようぜ。」と徹郎が言うと、そうだな、と言って譲介は笑った。
泣いている顔よりもずっといい、と思ったけれど、言葉には出さなかった。

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