カレーうどんの日

「あ、そういえば今日カレーうどんの日だったわね……。」
この格好の上からエプロン着けるのもなんだかハードル高くて難しいのよねえ、と麻上さんは笑っている。
「麻上さんも食事の間だけ羽織るものを買ったらどうですか?」
「譲介くんはその恰好、確かに気楽よねえ。」
ちらりと恨みがましいような目線で見られたが、これは麻上さんの茶目っ気のあるところだ。
「さあさあ、二人とももう食ってしまわねば。」
パンパン、と手を叩いてイシさんが合いの手を入れた。
今日はさっと食べて往診に行き、予定を済ませてしまう必要があった。明日は朝一で一人先生に付き合うことになっている。
カレーうどんなら丼鉢ひとつ洗えば済むけれど、イシさんは小鉢にひじきとサラダも付けてくれる。カレーになぜひじき、と言ってはいけない。次の日のカレーがいつから凍らせていたのか分からない熊肉のカレーになってしまうからだ。
先に野菜を食べて、と言われて、もそもそとサラダを食べる。しゃきしゃきのレタスの中にはポテトサラダ。カレーの中には大体百グラム程度の豚こまが入っている。カレーうどんはそれからだ。
待合室のテレビには、イシさんがこの時間はいつも欠かさず見ている料理番組が映っている。いつもの割烹着の先生の、骨付きの肉とまるごとの玉ネギを入れたポトフ。野菜を煮込む音を聴きながら、ずるずると無言でカレーうどんを啜っていると、麻上さんもうどんを食べ始めた。
台所の方から、イシさんの片付けの音が聞こえて来る。
鍋や包丁、まな板を洗う水の音。
パラパラと雨音のような音が聞こえて来る。
夕飯は煮豆かな。
甘い煮豆は、昔は虫歯になりそうで苦手だったけど、イシさんの煮た豆は美味しく感じられた。

あの人と暮らしていた頃とは全く違う穏やかな時間を過ごしていると、ここで暮らしている自分が夢の中にいるような気がする。
それとも、あの人と暮らしていた時間の方が夢だったんだろうか。最初は居場所を与えられたと思ったけれど、それが家庭を夢見る子どもに良くある勘違いだと気づくのに時間は掛からなかった。診療所を兼ねた彼の塒に与えられた部屋も、一緒に過ごす時間も、あの人にとっては、一也と競わせるための舞台を提供したにすぎない。
そのことに気付いたとき、家族の幻想は消えたと思ったのに。
この人たちは、本当の家族ではないのに、今では、僕にとっては毎朝顔を見なくては済まない存在で、毎分毎秒そう思うわけではないけれど、一緒にいると居心地が良かった。
僕にとって、彼女たちのいない毎日が考えられないように、彼にとってそのような存在でありたかった。
こんな風に、人と関係することを、馴れ合いだと蔑むような人とは分かっているけれど。

「イシさん、このポテトサラダ、ゆで卵が入ってる?」
麻上さんはこうして三人でいるときにも満遍なく話を振るのが上手い。
「ああ。どうだ?」
「美味しいです。残ってたら夕食にも食べたいくらい。」
「そりゃよかった。」
今おかわりすればいいのに、と思うけれど、それを口にしたら藪蛇になりそうだった。
ポテトサラダのカロリーの計算は複雑だ。
締めは、麻上さんが最近取り寄せてハマっているというレモネードだ。
「ほれ、譲介。飲んでいきなさい。」とイシさんがいつものカップにお湯を注いでくれる。
レモネードは夏の間はイシさんの手作りになる。酸っぱい方が体にいいという理屈で言うならば、確かにあの自家製レモネードほど効きは良くないだろう。糖度の高い蜜柑を絞ってレモネード風にした濃縮果汁に蜂蜜を垂らし、水や炭酸で割って飲む。肌寒い日が多い春先には、麻上さんが箱買いしたこのレモネードのお湯割りは本当に助かった。
カップの表面から立ち上る湯気。
洒落た飲み物だな、と思う。
施設に居た頃は、皆それなりに好きな飲み物があったはずだけれど、甘いというだけでレモネードやココア風味の粉末の清涼飲料を有難がって飲んでいた。あの人と暮らしている間は、コーラとかソーダが多かった。もう少し病人らしいものを飲んだらどうです、と言ったら、説教をするのは百年早い、と笑っていた。昔は、きっと強い酒を飲んでいた人だったんだろう。
僕には見せないところで、悪い医者の仮面を外して。
「譲介、そんなに見てたら冷めるぞ。」とイシさんが言った。
「あ、すいません。」ととっさに謝ると、何がおかしいのか麻上さんはからからと笑った。
「名残惜しいわよねえ。もう、最後のひと瓶になっちゃったから、来週からはまたお茶ね。」
「あ、麻上さん。」
「なあに?」
「このレモネード、相当値が張りそうな気がするんですけど、」
「うーん、まあ外で飲み食いするよりは安いわよ? ここじゃそんなにお金の使い道がなくてね。」
「……先生がいてもいなくても、いつも忙しいですもんね。」
笑いごとじゃないのに笑ってしまうのは、結局のところ、彼女の言いたいことが分かってしまうからだ。TETSUに貰った通帳で引き出せるような場所に、そもそも行くことが叶わないのだ。食事と光熱費は村の供託金で賄われていて、服も着回しとなれば、残りは間食くらいしか楽しみがない。せめて菓子屋があればと思うけれど、スナック菓子を買いに行くスーパーマーケットすらない。村の年嵩の人たちから話を聞くと、余りにも侘しいから、子ども達の間では、一時期、家にあるサラダ油とじゃがいもでポテトチップスやコロッケを自作するのが流行ってしまい、何人もの子供が泣きながら先代のK先生に火傷の相談に行ったというのだから、笑ってしまうしかない。
「譲介君も、あんまり物が増えない方よね。…まあ医学書以外にってことだけど。」と彼女も苦笑した。
「僕も、そういえば先生からは貯金があるのなら本棚でも買えばいい、と言われてますけど、別にいいかな、と思ってしまって。」
ここは、いつかは一也の帰って来る場所だと思えば、あいつがいたときとレイアウトを変えたくないような気になって、気が付いたら本を床に置いたりしている。あれだけ、自分の周囲を綺麗に整頓したがっていたのが遠い昔のようだ。今は、先生といられる時間の一分一秒も無駄にせずに彼の知識を吸収し、時を惜しんでノートに学んだことを書きつけている自分がいる。

「私も、譲介くんみたいなパーカーを一枚買おうかな。春っぽい色のやつ。」
散財するぞお、と呟いて、麻上さんが大きく伸びをした。
「じゃあ、僕は往診に行ってきます。」
「今日行くあの辺りには村で一番早く花を咲かせる桜があるけど、暗くなる前に帰るのよ。」
「はい!」
扉を開けると、曇り空ではあるけれど、外は本当に春めいた陽気だった。それでも、外は奇妙に眩しかった。
あの人が、僕の行くこの道の先で、杖を付いて待っている。
今から走り出したところで、間に合うかは分からない。それでも。
診療鞄を抱えて、大きく深呼吸をする。
僕は、今日歩く長い道のりの、午後の最初の一歩を踏み出した。

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