頸と心第2部(11)手放す

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 その夜、土井はいつまで経っても寝床へ入れずにいた。教員長屋へ戻って夕餉を済ませ、翌日の授業の準備をして、溜めていた答案にもどうにか朱を入れて──それでも頭の隅に、昼間の利吉の声がずっと残っている。

『その人が死んだ場所は、どこですか』

 文机の上には採点を終えた紙が積んである。その隅には使いかけの墨と読みかけの兵法書。文箱の向こうに視線をやれば数日前脱いだまま畳んでもいない衣が押しやられていて、伝蔵が戻ってこないと分かっている時にはいつもこうして放ったらかしにしてしまうと土井は考える。片づけなければとは思うのだが、どうせまた着るものをわざわざ畳んで数日後に引っ張り出す手間がひどく無駄に感じられて、結局いつもそのままになってしまう。
 土井はその衣を見て、ふと苦い顔をした。
「……弔い、か」
 弔ったのか、と訊かれた時、自分でも驚くほどに答えに詰まった。
 弔っていない。利吉に言われるまで、それを妙だと思ったことすらなかった。墓を作ろうとも思わなかったし、経を上げようとも、花を供えようとも考えなかった。そもそもあの世界そのものがこちらとは違うものなのだから、浄土に送る作法をこちらで執るのもおかしいと感じたし、墓を立てる場所だって本当の意味では存在しない。手元に残っているのは首巻きと籠手だけで、それを捨てずに持っているだけでも充分だと思っていた。……充分だと思おうとしていたのかもしれない。
 土井は視線を文机に向けた。兎の毛を縫った籠手が、いつもの箱の中にある。使いもしないのに埃を払い、濡らさぬよう気をつけ、傷みを見つければ柄にもなく縫い直す。部屋中どれだけ散らかしていても、これだけはぞんざいに扱ったことがなかった。それで弔った気になっていたのだろうか。
 否──むしろ逆だと土井は思う。
 死者のものとして仕舞わなかったから、いつまでも触れられる場所に置いてあるのだ。思い出したくなれば手に取るし、夢を見た朝には毛並みを撫でる。今の利吉に似た仕草を見れば帰ってきて比べて、また棚へ戻す。忘れる気など初めからないのだから、わざわざ終わったものとして形を整える必要もなかった。
「……この衣と同じだな」
 苦笑して言う。着物も、書物も、使いかけの道具も。自分はあとで使う、また見る、まだ要ると、そう言って全部手の届くところへ置いておく。あの利吉にも散らかしてばかりの癖をよく呆れられたものだが、まさか死人までも同じように扱っていたとは思わなかった。あいつが聞けば、さぞ嫌な顔をするだろう。
『いい加減片づけろ』
 低い声まで容易に蘇ってきて、土井は口元を歪めた。

 死んだと──分かっている。あの男がどこかで生きているなどとは思っていない。あの爆炎のあとを確かめることさえできなかったが、あの状態で無事であったはずがない。頁が閉じた瞬間を自分は知っている。それでも土井の中では、あの日々がまだ終わっていなかった。
 利吉は死んだ。そこまでは知っている。けれどもその後を知らない。遺体を拾っていない。土を被せてもいない。別れの言葉だってまともには言えなかった。逃げろと言われて逃げただけだ。振り返れば戻ってしまうから、振り返らずに崖から飛んだ。そのまま六年前へ落ちた。
 だから自分の中だけ、あの日の利吉は未だあの山に残っている。
 土井はゆっくりと息を吐いた。今日聞いた利吉の声がまた耳に戻ってくる。
『弔っていないのなら、弔いましょう』
 随分と簡単に言ってくれたものだと思う。
 何も知らないくせに。死人がどこにいたのかも、その死人が自分と同じ顔をしていたことも、そもそもこの世界には一度たりとも存在しなかった人間だということも利吉は知らない。知らないから言えたのだろうとも思う。翻って土井自身には、あまりに多くのものが絡みついている。あの男を弔うことはただ死人へ手を合わせることではない。あの頁を終わったものとして認めることだ。あの家も、あの冬も、名を呼ばれた夜も、いつか春になったら両親のところへ連れていくと言われた約束も、待っていると伝えたどこにも行けない呟きも──この先にはもう続かないのだと自分の手で区切ることになる。
 行くかどうかを決めるのは自分だ。死地へ行くとなれば二、三日では足りない。山へ入るだけでも二日は見る必要がある。道がどれほど変わっているかも分からないし、あの場所が今どうなっているのかも知らない。そもそも同じ地形がある保証さえなかった。自分はあの頁の中でしかあの場所に行ったことがないのだから。
 そこまで考えて初めて──ふと別の恐れが形を持った。
 もし、何もなかったら。
 山へ行って、あの場所を見つけて。そこに、自分の知っているものが何ひとつなかったら。
 当然だ。この世界にはあの利吉はいなかった。自分と野良が暮らした小屋も、二人で直した屋根も囲炉裏の灰も、すべて別の頁にしかない。あれはもう二度と開かない頁の中にしか存在しない時間と記憶だ。分かっている。分かっていても──見たくないと思った。
「……情けないな」
 呟きは苦笑にすらならなかった。
 弔いに行くということは、認めに行くことでもある。
 あの男がいないことを。
 そして今ここにいる利吉は、あの男ではないということを。
 だから今までできなかったのだと、そう思った。
 思えば自分は、これまで一度も誰かを弔ったことがないのだ。父も母も、乳母も家臣たちもみな死んだ。自分は燃える家から逃げ、生き残った者として次の場所へ流れて行っただけで、墓を作った記憶も、花を手向けた記憶もない。その後忍になってからも死体ならいくらでも見たが、忍務の最中に死んだ者の傍へいつまでも残っているわけにはいかず、敵であれ味方であれ生きている自分はそこから先へ行くしかなかった。
 死んだ者を置いて、自分だけが先へ行く。置いていくことなら何度もしてきたのに、きちんと弔うということを自分は一度もしたことがなかった。そのことに今頃気づいたのが妙で、土井は籠手を文箱から取り出して紐の端を指に巻き付けては解いた。弔ったことがないから、死んだ者を置いてくることと、弔って置いてくることの違いもよく分からない。墓を作り、手を合わせたからといって何が変わるのだろう。忘れるわけではないのなら、わざわざ形をつける必要がどこにあるのかとも思う。
 けれども利吉は──まるで当然のことのように弔いましょうと言った。
 あの子は自分とは随分違う。使ったものは手入れをして元の場所へ戻し、必要なものと不要なものを分け、終わった仕事は終わったものとしてきちんと片づける。自分ならどうせまた使うのだからと机の端へ積み上げておくようなものまで、利吉は毎回きちんと仕舞い込むのだ。おそらくあの子にとって、仕舞うということ自体が大事に扱うということなのだろう。
 けれども自分は、それがどうにも苦手だった。
(……何か埋めるものがあった方がいいんだろうか)
 土井は籠手を持ったまま長く息を吐いた。遺体はない。あの頁が閉じられた以上、墓へ入れられる骨などどこにもない。ならば代わりになるものを置くべきだろうか。形見を一つ、土へ返す。それくらいなら弔いらしいことになるのかもしれない。
 籠手に再び目を落とす。
 これは、黒のために作られたものだ。
 寒がる黒の手を見て、あの利吉が兎を獲り、皮をなめし、毛を縫い込んで作ってくれた。本人は余ったからなどと言っていたが、本当は毛皮が余ったからでも使い道がないからでもなく、最初から黒の手に合わせて作られたものだ。今となってはそれが分かる。
 これを埋めるのは、違う気がした。
 土井は籠手を文箱へ戻し、その下に畳んであった布に指を掛けた。引き出したのは古い首巻きだ。色は随分と褪せている。何度も洗った布は薄くなり、端には小さな擦れもある。元は利吉が自分で使っていたものだ。黒が利吉に、初めて貰ったものだった。
 土井は布を両手で広げた。鼻先へ近づけても、もうあの頃の匂いなど残ってはいない。乾いた布と、長く仕舞われていた木箱の匂いがするだけ。それでも指先で撫でれば、首に巻いていた時の感触だけは身体の方が先に思い出した。
 厚すぎず、薄すぎず、冬の山道で冷えた風が襟元へ入り込むのをこれが塞いでくれた。黒の首を温めた布だった。
お前の頸はちゃんと重い、と、あの声がひどく鮮明に戻ってきて、呼吸が一度浅くなる。
 土井は首巻きを握り込みかけ、途中で力を緩めた。皺になるのが嫌で、親指の腹で布を伸ばす。伸ばして、またそっと撫でる。元の持ち主に触れるように。
 この首巻きをくれた男が、最後に自分の頸を重いと言ってくれた。
 それを、埋める。
 弔いなのだからそれでいいはずだ。元々これはあいつのもので、籠手と違って黒のために作った品でもない。死んだ男へ返すものとして考えればこれほど筋の通るものもななく、それなのに指が離れなかった。もらった心ごと手放すかのようで。
「……馬鹿馬鹿しい」
 吐いた息が、少し掠れた。
 布一枚だ。何年も使っていない。もう首に巻くこともないし、冬が来れば他のものを使うだろう。これがなければ困る理由など何一つない。それなのに土井は首巻きを膝へ置いたまま、しばらく手を引けなかった。
(……手放したくないんだな)
 そう気づいて、少し可笑しくなった。
 籠手は残すのだからいいではないか。記憶まで埋めるわけでもない。首巻きを一枚土へ返したからといってあの男との時間が消えるはずもない。
 分かっている。
 分かっているのに──胸の内側のどこかが狭くなる。
 土井は首巻きの端を指で摘み、何とはなしに自分の首へ当ててみた。少し厚いだけのただの布だ。それでも首筋へ触れた瞬間、身体が記憶を引きずり出した。
 冷えた朝。
 野良の声。
 起きたら枕元にこれがあり、使え、とだけ言われた。
 黒は礼を言ったのだったか。思い出せない。たぶん、まともには言っていない。
 土井は首巻きを外し、膝へ戻した。
 どうすればいいのかはやはり分からない。弔ったら何が変わるのかも、首巻きを埋めてしまった時に自分がどう思うのかも分からず、ただ手放すことを考えただけで指先が布を惜しむように撫でてしまう。その動きを眺めていると、いっそ馬鹿らしいほどだった。
 それでも意を決して、土井は首巻きを畳んだ。一度折ったところで端が少しずれたので、珍しくそれをそのままにはせず土井は指先で丁寧に揃えてからもう一度折り直した。きちんと畳んでしまえば急に何かが終わってしまうような気もしたが、だからといって乱雑に丸めて押し込む気にもなれなかった。
 畳み終えた首巻きの上へ掌を置く。昼間、死地はどこですかと問うた利吉の顔が浮かんだ。
 あの男の死を知って、あの子は自分のためにそこまで行こうとしている。邪魔だからだなどと生意気なことを言っていたが、本当に邪魔なだけならわざわざ死人の墓参りに何日も付き合おうとはしないだろう。生意気で、一途で、優しい子なのだ。知っている。あの男もそうだった。
 ありがたいのだろうか、と考えたものの、土井にはやはりよく分からなかった。ただ一人で行けと言われなかったことには少しほっとしているらしい。
 そこまで認めたところで考えるのをやめ、土井は首巻きを籠手とは別に机の脇へ置いた。持っていくと決めたのだから、今夜はもう箱へ戻さない。
 それだけのことなのに文箱の蓋を閉じた時、胸の奥に空いた僅かな隙間が妙に気になって、しばらく首巻きから手を離せなかった。



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