5years after

 三回目の呼び出し音で電話は繋がって、久しぶりの声が聞こえてくる。
「もしもし? どうしたんですか、いきなり」
 そういう彼の声は昔よりも落ち着いて低くなっていて、私はなんだかどぎまぎしてしまう。それを隠すように努めて明るく言った。
「少年~、元気にしてる?」
「その呼び方、久しぶりですね。でも、僕はもう少年と言ってもらえる年じゃないですよ?」
「少年は少年じゃん~~」
 むくれながら言ってやると電話口からため息が聞こえてくる。あの頃――五年前には同じ屋根の下で過ごし、毎日のように聞いていたそれと寸分違わない息の吐き方だ。たとえ声がどんなに変わっても、彼は彼なのだと分かって、私はようやく落ち着きを取り戻した。
「それで、一体どうしたんですか、あげはさん」
「うん。私の働いてる保育園で、今運動会の準備をやってるんだけど、それに合わせた教室装飾のデザインが思い浮かばなくって。ツバサくんには昔壁画を手伝ってもらったし、何かいい知恵貸してもらえないかな~って」
 ほんと突然こんなことごめんね、と付け加えるけど、聞こえたのはまたため息。あれ? 私なにか間違ってる? 数年前にも子どもたちと歌う歌のことを話して、色々意見をくれたりしたし、私の仕事絡みの相談ってこれまでにもしてたはずだけど。
「あの、ツバサくん、もし忙しいんなら――……」
「……どうして僕なんです?」
「え?」
 ややあってスピーカーから重い声がした。
「それ、ボクでなくちゃいけませんか」
「ええっと、昔壁画をやった時のこと思い出して、ツバサくんの顔が浮かんできたからなんとなく。久しぶりに話してみたいっていうのもあったし」
「そうですか。ならいいですけど……」
「いいですけどって何? 他に何かある?」
「いえ、壁画なんて随分前の話ですし、保育園の装飾なんてボクよりもっと相談するのに適任の人がいるんじゃないかと思ったんです」
「そうかなー?」
「はい、たとえば――……」
 その瞬間、その後に続く人の名前がなぜが急に察せられて、私は声を上げてしまった。
「あっ、ごめん、待って、言わないで」
「ましろさん、とか」
「言わないでよ! なんで……」
 私の声は情けなく揺れる。胸の中に久しぶりにこみあげてくる何かがあった。電話口の彼は黙り、私もそれ以上言葉を紡げない。
 確かに、言われてみればそうだ。一緒に壁画を完成させたのなんて随分昔の話。ツバサくんは今、ヨヨさんの口利きでスカイランドの研究者として活躍しながら、ソラシド市の大学にも通っている。気候や自然現象、植物のスケッチや標本作りなんかはよくやっていると前に言っていたから、基本的に何かを表現したり造形したりするのは得意だろうけど、それにしたって保育園の装飾向きではない。
 さっき彼の言った通り、今は絵本作家を目指して独学で絵の勉強をしながら、大学で児童心理学を学んでいる彼女の方がよほど適任なのは確かだった。その名前が全く思い浮かばなかったわけじゃない。むしろ真っ先に思い当たったのに、いやいやましろんだって忙しいし! とすぐに候補から外したのだ。
「あげはさんは、昔と変わってないですね」
 沈黙を破ったのは彼の方だった。しかも昔よりも更に痛いところをついてこれるようになったみたい。
「そうだね。私は今も逃げてばっかりだなぁ」
 自嘲気味に笑うと、電話口からたっぷりと長いため息が聞こえてくる。それから、苦笑しているのがこちらにも伝わってくるような声音で言った。
「言っときますけど、ボクだって全然変わってませんからね。あげはさんからの電話、嬉しかったです。すごく、すごく……」
 噛みしめるようなその言葉は、あの時私に告げてくれた時と同じように優しく耳に馴染んだ。
「ごめん、私、相変わらず無神経で……」
「謝らないでくださいよ。あげはさんはそれでいいんです。それはそうと、知ってますか? ソラさんが」
「そうそう。この前私も連絡もらったよ。ほんと、よかった」
 そうだった。昔の顔を思い出したのはあの連絡を受けたからだ。
 アンダーク帝国をすっかりプリキュアの力で浄化した私たちは、やがて力を失っていった。プリキュアは平和を守るための正義のヒーローだから、プリンセスを狙う悪の力が蔓延っていたようなあの頃のように闘う必要はもうない。だからみんな完全に日常に戻ってそれぞれの進路へ進むのは自然なことで、以前は頻繁に連絡をやり取りしていたけれど、就職や進学が重なって今は時々、思い出したようにというくらい。
 ソラちゃんは、太陽のようにいつも真っすぐ正義に突き進むあのヒーローガールは、当然だけどスカイランドで青の護衛隊の一員として活躍していた。でも離れ離れというわけでもなくて、護衛隊の任務が休みの時にはましろんの家で変わらず過ごしていた。
 だけど三年前、長期の遠征任務で旅立つことになってしまった。国境付近で発生した災害の救助活動で、任期は半年くらいのはずが想定以上の被害が出ており、更に長期化。あの頃のましろん、ソラちゃんのことすごく心配していて、寂しそうだった。
 そんなソラちゃんがようやく戻って来られる。任務は無事に終わり、今は城下の警護に戻っているらしい。えるちゃんから連絡を受けて、ヨヨさんがみんなに知らせてくれたのだ。
「ソラちゃん、城下の警護は来月には終わって、長期休暇を取ってソラシド市に来るんだってね」
「ええ、虹ヶ丘のお家に」
「ほんと、よかった」
「あげはさん、それ本心ですか?」
「なっ、何言ってんの! 当たり前じゃん!」
 ぬるりと胸のうちを探られて声が裏返ってしまう。突然そういうこと言うのはやめてほしい。本心に決まってるじゃん、そんなの。だってソラちゃんがあの家にいない間、私はずっと安心できなかった。
 三年前、ソラちゃんが任務について一か月が経ったころ、私とツバサくんとましろんでヨヨさんの畑を手伝って、途中で止みそうにない雨が降ってきたあの日。家に戻ってお茶を飲んでいる時に、ましろんは窓の外をじっと眺めながら言った。
「ソラちゃんも雨に降られてないかな」
 それで寂しそうに笑ったんだ。
 思わずその華奢な肩を抱き締めそうになって、湧き上がってきた衝動を私は必死に堪えた。幸い、ヨヨさんがスカイランドとこちらの天候は全然違うから、絶対にとは言えないけど、きっと大丈夫よとましろんにあたたかい言葉をかけてくれたおかげで、ましろんにいつものまぶしい笑顔が戻った。
 もし今度ましろんに会った時、一人で寂しそうな顔をしていたら、私は今度こそ抱きしめてしまうかもしれない。だけど私にはそんな資格はないから、ましろんにあんな嫌な思いをさせて取り返しのつかないことをしてしまった私が、触れるなんてありえないから。ましてソラちゃんがいない時にだなんて、それは罪だから。
 あの日から私はあの家に行っていない。正確には、行かないようにしている。ずっと逃げてる。
 だからよかった。ソラちゃんが戻って来てくれるなら安心だ。
「それじゃ、来月は来るんですね、ソラさんおかえりなさいパーティー」
「うん、絶対有給取って行く!」
「わかりました。じゃあ、また」
「うん、またね」
 電話が切れて、自室に静寂が戻った。
 職場に通いやすい場所にあるワンルームマンションが今の私の住処だ。ちょうど専門学校を卒業して就職が決まったタイミングで虹ヶ丘の家を出てここに越してきた。本当はソラシド市にも、初めて実習に行った保育園とか、その他にも素敵で働いてみたい保育園はあったけど、今の職場を選んだ。それも全部逃げるため。ましろんの顔を見なくても済むように。
「はぁ。結局運動会の飾りつけはなんにも浮かんでないな~。学生時代の子に聞いた方が早いか……」
 机に突っ伏して、再び端末の画面に視線を落とす。
 立ち上げた連絡アプリの連絡先一覧を指でなぞって電話をかけて、すぐに出てくれた相手から無事に運動会についてのアイデアをもらえた私は、数日後、再びその旧友から連絡をもらい、素っ頓狂な声をあげてしまった。
「ええっ!? い、今、なんて……!?」
「だから専門学校の1日特別講師。卒業生に今の仕事のこと簡単に話してほしいんだって。実習指導してもらった先生、覚えてるでしょ? 昨日連絡もらって、それであげはがどうしてるかも聞かれて。あんた随分気に入られてたもんね。私この前あの子から電話きましたよーって言ったら、それなら声かけておいてって頼まれたの。特別講師、やるでしょ?」
「いや、仕事もあるし……」
「なんでよ、運動会ならもう少し先じゃないの? 今はまだ余裕あるんじゃない?」
「う……さすが同業者」
「先生も久しぶりに会いたいって言ってたよ。あげは、絶対ソラシド市の保育園に就職するって言ってたし、みんなもそう思ってたからさ。卒業の前後バタバタしてちゃんと顔合わせらんなかった子もいるし。みんなあんたのこと気にしてるんだよ。私だってあげはとは卒業以来になっちゃってるんだからね?」
「分かった、分かったから!」
「オッケーってこと? ありがと。先生に言っとく」
「あ……」
 そんなわけで数週間後に母校である保育専門学校に行くことになった私は、心の準備もできないままソラシド市に再び足を踏み入れることになってしまったのだった。

***

 大学のキャンパスを出て駅に向かう。七月の午後は外を少し歩いているだけでも汗ばんでくる。街路樹があるのが救いだ。見上げると木々の間から真っ青な空が見えた。夏のはじめの眩しいブルー。そんな空を見るたびに私はあの子を思い出す。
 ソラちゃん。今まで私が生きてきたうちのほんの一時期しか一緒にいなかったのに、特別に大切で、信頼し合っている相手。
 だってプリキュアなんて正義のヒーローに変身して一緒に怪物と戦ってたんだもん。他のクラスの子とは全然違う、特別な友達だった。
 そう、友達。私の大好きな親友。
 ソラちゃんとはついこの間まで連絡も取れなかった。ソラちゃんはスカイランドっていうソラシド市とは別の世界で護衛隊をしていて、遠隔地での長期任務のために会うのはおろか、連絡だってできなかったんだ。
 最初の間はあんなにずっと一緒だったから、ぽかり穴が空いたみたいな気持ちになってたけど、郵便配達をしている鳥さんから報告の手紙が運ばれてきて、様子が分かるようになってからはほっとして、ソラちゃんの活躍ぶりを心から応援するようになった。
 ソラちゃんも頑張ってるんだから私だって頑張るぞって、いつしかソラちゃんは私の中でそんな勇気をくれる存在になっていたよ。
 だからソラちゃんがもうすぐこっちに帰ってくるって聞いて、ちょっとソワソワしてるんだ。だって記憶の中のソラちゃんは三年前のあの時のまま。今はきっと立派な護衛隊員になっているんだろうな。背とかも伸びてるのかな。
 それに、私もソラちゃんに負けないくらいかっこよくなれてるかな? よく分からない。だって今の私はまだ大学生で、日々の授業や課題に追われながら絵の勉強もして、このまま本当に夢を叶えられるかどうかだって分からない。まだまだ途上、道半ば。このままの私で会うのには少しだけ気が引けた。
 そんなことをグルグル考えている間に、気づいたら駅前まで出てきていた。人通りは格段に多くなって、ぼんやりしてると通行を妨げてしまいそう。えいやっと人波の流れに乗って商業ビルの向こうにある改札を目指した。
 『今、あなたはどこにいるの? 何してる? あなたに触れたい miss you いつも』
 不意に聞こえてきた曲にハッとした。見れば、それは頭上にある巨大なモニターから流れてきている。新しいアイドルユニットのデビュー曲のCMみたい。お揃いのビビッドなピンクの衣装を身に纏った女の子たちーー私と同じくらいだったり、もっと幼く見える子も含んでいるその五人組は一糸乱れずダンスを踊っていた。クオリティの高いパフォーマンスに思わず見入ってしまう。辺りには私と同じように他にも立ち止まっている人がたくさんいた。
 『今、あなたはどこにいるの? 何してる? あなたに触れたい miss you いつも』
 モニターの中で彼女たちはまたサビのフレーズを繰り返している。鮮やかなピンクのリボンが胸元でひらひらと揺れていた。まるで蝶々みたいに。そうして私はあのひとのことをまた思い出す。
 彼女は、あげはちゃんはいつの間にか私の前からいなくなってしまった。
 いつだってそうだ。子どもの時だっていなくなった。でもあの時はあげはちゃんが行きたくないって泣いてくれたから、だからまた会えるって信じられたんだよ。
 だけど今度は違う。だってあげはちゃんは私に会いたくないみたいだから。確かに五年前うちにやって来た時も突然だったけど、あの日、三年前の春先、あなたはなんにも言わずに出て行ってしまった。就職先もソラシド市の保育園じゃなかった。
 それでもその少し後までは時々申し訳程度にはうちに来てはくれてた。ソラちゃんの長期任務前にみんなで壮行会みたいなパーティーをした時も来てくれたし、少し経ってからおばあちゃんの野菜の収穫だってツバサくんが連絡すれば手伝いに来てくれた。なのにある日何故だかぱったり来なくなって、今の今まで顔を見ていない。律儀に年賀状と暑中見舞いだけ送ってくるのはあなたらしいけど、明らかに文章がよそよそしいよ。
 ソラちゃんのおかえりなさいパーティー、来てくれるのかな。また突然現れたりするのかな。ツバサくんなら知ってる? 今度聞いてみよう。
 私の頭の中はあげはちゃんでいっぱいで、さっきのアイドルソングのサビの部分が何度もリフレインしている。会いたいってこんな風に思うのは、もうずっとあなただけなのに。

 何駅か電車に揺られて、最寄りのホームに降り立つ。車内の冷房で冷えた首元を今度は外の生ぬるい風がさらっていった。まだ夕方とは言い難い午後の中途半端な時間、降りたのは数人だけで私はのんびり歩いていく。いつものように改札を出て自転車に乗った。この間バイト代を貯めて買ったこの電動自転車は高台にあるうちまで帰るのにはもう必須アイテムだ。ぐんとペダルを踏みこんで、商店街を抜けていく。
 今日はこのまま家に帰るんじゃなくて、目的地はバイト先だ。授業が終わってから閉店までの四時間、週三回入らせてもらっている。
 見えてきたパステルブルーのひさしには夏の太陽がまぶしく反射していた。爽やかなストライプの上でお店のロゴ、アルファベットのPをおしゃれに崩したそれが相変わらず可愛らしくおどっている。みんなのほしいが詰まった素敵な空間、プリティホリック。ここが私のバイト先だ。店の裏手に自転車を停めて、通用口から中に入る。
「店長、お疲れ様です」
「ああ、ましろちゃん。お疲れ様。今日も暑かったでしょう。まだ時間もあるし、休憩室の冷蔵庫に麦茶が冷えてるからまずはそこで休んで」
「ありがとうございます」
 バックヤードには新作コスメのポスターがたくさん貼られていて、見ているだけで気持ちが弾んだ。
 大学生になってはや数か月。両親やおばあちゃんはお金のことは心配しなくていいって言ってくれたけど、やっぱり自分のものは自分で買いたいし、それに社会勉強だってちゃんとしておかないと。そう思って始めたバイトだったけど、職場の人はみんな優しいし、好きなものに囲まれてお給料ももらえるなんて、こんなことで大丈夫なんだろうかとも思ったりする。確かに長蛇の列が出来てレジ対応の終わりが見えない土日のシフトの時は時々心が折れそうになるんだけど、悩んでいるお客さんに似合う商品を選んで喜んでもらえたり、自分が担当したディスプレイを褒められたりするとそれまでの疲れが吹っ飛んでしまう。ありがたいなあと思いながら麦茶を飲んで、時間になったから店内に入ることにした。
「お疲れ様です」
「ましろちゃん! お疲れ~」
「今日は平日ですけど、お客さん結構入ってますね」
「そうだね。中高生は期末テストが終わって、帰りが早かったみたい」
 確かにあちらこちらに、制服を着た女の子たちがいて、うきうきした様子でコスメを見比べている。つい数か月前は私だって同じようにそこにいたというのに、今は『期末テスト』なんて言葉すら少し懐かしいくらいだ。なんだかおかしくなって吹き出しそうなのを堪えていると、隣にいたバイトの先輩が、でもと奥の方に視線を向けて言った。
「あっちにいるお客さん、随分長いこと悩んでるのよね」
「えっ」
 私は思わず声を上げてしまった。つややかなブラウンの髪、目を引くビビッドなシャツワンピースは胸元が大きく開いていて、セクシーだけどかっこいい。胸元にはシンプルな蝶のネックレスが揺れている。そして、アメジスト色の瞳は新作リップの棚にあるすべてのリップを手にとっては戻し、戻しては取り、真剣に見比べていた。
「うそ……なんで」
「あの人、さっき声をかけたら、プレゼントを選んでるんだって。もう少し自分で考えますって言ってたけど、それからかなり時間が経ってるの。よっぽど大事な人へのプレゼントなんでしょうね」
「あげはちゃん!」
「え?」
 隣にいた先輩と、それからリップを戻そうとしたあげはちゃん、二人が同時に私の方を見た。
「ましろん、なんで……!」
 あげはちゃんが一歩、足を後ろに引く。それから目線を下に落とした。
「あのお客さん、ましろちゃんの知り合いなの?」
「はい、私の幼馴染の聖あげはちゃんです」
「いつも話してた年上の幼馴染の?」
 黙って頷いた私の背中に先輩は優しく手を添えてくれた。温かい手だった。
「今日はもういいから、行ってきたら?」
「でも……」
「店長には私から言っておく。土日ほどじゃないから大丈夫だよ」
「それでも……」
「今もしこの後もずっとここにいて、それでましろちゃんは後悔しない?」
 私はハッとして顔を上げて、真っすぐにあげはちゃんを見た。今、話をしなかったら、きっとあなたは夏の蝶々みたいにまたどこかに飛んで行ってしまう。ソラちゃんも帰ってきて、たとえまたあなたも含めてみんなで集まれるようになったとしても、きっとあなたは私に作り物みたいな笑顔しか見せてくれないんだろう。それじゃ嫌だ、絶対に。
「すみません、シフト、頼みます」
「OK」
 先輩に背中を押されて、私は会いたかったその人のそばまで駆け寄っていった。

 ひらひら、くるり。
 あげはちゃんは本当に蝶々みたい。近づいた私からきれいに身をかわしてプリティホリックから出ていってしまう。軽い身のこなしで街のアーケードをひらりと駆け抜けていく。電動自転車なら絶対に追いつけるけど、今店に戻って取りにいったら見失ってしまいそう。とにかく一歩でも二歩でも近づかなくちゃ。待ってたらだめだ。今度は私から捕まえないと。
 だから走る。走る、走る、走る。
 汗がこめかみを伝ってだらだらと流れ落ちてきて、鎖骨から胸元に入り込んでいく。下着がじんわりと湿っていくのが分かる。あげはちゃん、なんで逃げるの。どうして私を避けてるの。そう言いながら追いかけてるつもりなのに、私の口からはゼエゼエとした荒い息しか出なかった。そうか、私中学生の頃はプリキュアやってたし、ソラちゃんと一緒に走ったりしてたけど、時々ランニングはしてたとはいえ、運動量もかなり落ちてしまっていたんだ。しかもここ1年くらいは受験勉強ばっかりですっかり運動不足。っていうか元々運動苦手だし。
 あげはちゃんは元々体育も得意だったな。それに保育士さんって走り回ったりする子どもたちといつも一緒に遊んでるから、体力があるって聞いたことがある。
「も、だめ、かも……」
 強くなってきた日差しで頭は沸騰したみたいに熱くて、足はふらふら。ついに私は段差につまずいて、思いっきり転んでしまった。もし私が絵本の中の登場人物だったら、すってんころりんなんて間が抜けた効果音がついたかもしれない。
「ましろん!? うそ、大丈夫!?」
 すぐに私は長い腕に抱き起こされた。
「ましろん聞こえてる!? 頭打ってない!? 痛いとこない!?」
「膝はちょっと痛いかな……」
 エヘヘと苦笑する私をあげはちゃんは泣きそうな顔で見つめている。
「ましろん……」
「あげはちゃんだ」
「ましろん、私……」
「捕まえたよ」
 膝の痛みは無視して、ぎゅっと彼女に抱き着いた。あげはちゃんの匂い。優しくて、あったかくて、ちょっぴり大人びたコスメの香りがまじったそれを私は胸いっぱいに吸い込んだ。

 あげはちゃんに支えられたまま、すぐ近くにあった公園に移動した。水道で傷口を洗って、たまたまあげはちゃんが持っていた絆創膏を貼ってもらった。幸い傷口は浅いみたいで痛みもそこまで強くない。
「昔と反対だね」
「え?」
「あの頃はあげはちゃんの方から私に抱き着いてきてくれて、私はびっくりしてジタバタしちゃって、でもさっきは反対だった。私があげはちゃんを捕まえて、でもあげはちゃんはびっくりして慌てていて」
 目の前の彼女は私の言葉に答えてくれない。さっきから目も合わせてくれなくて、私から距離を取ろうとしている。
「あげはちゃん、元気だった?」
「う、うん。ましろんも元気そうでよかった」
「お仕事忙しい?」
「それなりかな。年度末と年度初めは大変。だんだん慣れてきたけどね。もう四年目だから」
「そっか。どうして連絡、くれなかったの?」
「それは――……」
 それきり、あげはちゃんは口をつぐんでしまった。
 長い沈黙。さっきまで向こうの遊具で遊んでいた子どもたちもいつの間にかどこかに行ってしまって、私たち二人だけになる。
「私ね、今プリティホリックでバイトしてるんだよ。大学に入ってからすぐ。バイト先を探そうって思った時に一番最初に思いついたのがあそこだったんだ」
「うん」
「あげはちゃんも昔バイトしてたよね。今日あそこにいたのは何で?誰へのプレゼントを選んでたの?」
 もしも今、あなたに誰かもっと別の相手がいるなら、諦められるのかもしれない。でも、それならどうしてあなたの紫色の瞳はそんなに切なそうにうるんでいるの。
 そっと、あげはちゃんの長い指に私の手を重ねる。
「あげはちゃん」
「だめだよましろん。私は、私はましろんに触れてもらう資格なんてない」
「どうして?」
「ましろんに、取り返しのつかないことを、したから」
 私たちの間を風が吹き抜けていく。

 あの日吹いていた風は、夏の始まりの今みたいなぬるいものではなくて、秋も終わる頃の風。どこか冬の気配が感じられるようなひんやりとした温度で、うっすらかいていた汗もすぐに乾いてしまったのを覚えている。
 中学生活最後の文化祭が終わったその日、クラスの出し物の片付けもすっかり終わって帰ろうとしたら、ソラちゃんが後輩たちに声をかけられていた。その時既にソラちゃんはこの学校からは転校して、今は外国にいることになっていたんだけど、みんなが文化祭に招待したので久しぶりに一緒に学校に来ていた。
 ソラちゃんはクラスの子だけじゃなくて、部活の助っ人なんかで違うクラス、色んな学年の人たちとも交流がある。記念に写真を撮りましょうと誘う後輩たちを前にして、スカイブルーの瞳は困ったように私を見た。私はある絵本のコンテストに応募しようとしていて、〆切が迫っていてできれば早く帰りたかった。だから気遣ってくれたんだと思う。私は一人で帰るからいいよ。ソラちゃん、みんなともう少し楽しんで。そう言うとソラちゃんには幾分か明るい笑顔が戻って、また家でって言って私たちは手を振った。
 いつも授業が五時間目まである日より早めの帰宅。まだ夕日は沈んでいなくて、ソラシド市は金色の光で包まれていた。
 家まで帰り着くと、大きな黄色の車、確かハマーっていう車種なんだっけ、あげはちゃんの車があったから帰っているんだなぁって思った。玄関には鍵が掛かっていて、持っている合鍵で開けて入る。リビングのソファでおばあちゃんとえるちゃん、それに鳥の姿のツバサくんが身を寄せ合うようにしてお昼寝していた。こういうことは時々あって、不用心だからお昼寝の前にはおばあちゃんは鍵を閉めるようにしていた。すやすや眠っているみんなを起こさないように静かにリビングを抜ける。
 あげはちゃんはお部屋にいるのかな。私は階段を上っていく。自分の部屋を通り過ぎて、奥にあるあげはちゃんにあてがわれているその部屋へ。あげはちゃんは実習や課題のために色鉛筆やクレパスなんかの画材を色々と持っていて、私は絵本のためにそれらを借りたりすることがある。その日は森の場面を描きたかったので、緑のクレパスか絵の具があれば借りたいなと思っていた。
 部屋の前でドアをノックしようと思ったら、私の手の甲が触れる前にそれはひとりでに開いてしまった。
「あれ?」
 すっかり開いてしまったドアの向こうにカーテンが躍っているのが見える。きっとドアがきちんと閉まっていなくて風のせいで開いたんだろう。びっくりしたけどただそれだけみたい。
 部屋の中はやけに静かで、あげはちゃんはいつものように椅子にも座っていない。あげはちゃんの方が帰りが早い日、大抵は夜になるまで課題をしているのに。中にはいないのかなと思って踵を返しかけた時、それは聞こえた。
「ぁっ……しろん……っ」
 とても小さくて押し殺したみたいな声だったけど、それは間違いなくあげはちゃんの声で、あげはちゃんやっぱりいたんだって思った。でも何かがおかしい。
「ふ……っ、う……ンッ……!」
 あげはちゃんの声は苦しそうで、切なそうで、まるで助けを求めているみたいだったから、私は慌ててベッドまで駆け寄った。
「あげはちゃん、大丈夫!?」
「んぁッ……ましろん……――――ッッ!!」
「え……?」
 あげはちゃんはいつもと同じようにジュアルで可愛い部屋着姿で、でもその手はズボンの中に押し込められていて、顔を真っ赤にして目を潤ませながら肩を震わせていた。
「ましろん!? な、なんで……っ!?」
「えと、あげはちゃん、どうしたの……?」
 近寄って声をかけたら、あげはちゃんはぐるりと身体を反転させて、私に背を向けて、ごめん、ごめんと何度も言った。そして、お願いだから出て言ってと、すすり泣くような声で言ったのだ。

 記憶の中のあげはちゃんと、今ここにいるあげはちゃんが重なる。
「ましろん、あの時のこと、忘れてるわけ、ないよね?」
 言われて、私はゆっくりと頷いた。あげはちゃんは私の方を見ないままで言葉を続ける。
「あの日あったこと。それが私がましろんにしてしまったことで、私がましろんに触れる資格がない理由だよ」
「でもあれは……その、事故、みたいなものだし」
 同じ屋根の下にいればいくらでも起こりうることだと今では思える。たまたまタイミングが悪く重なってしまっただけなのだと。でもあげはちゃんは首をふるふる横に振った。
「違うよ、問題はそこじゃない。あの後から、ましろんは変だった。私を見る目が変わったと思う。違う?」
 あげはちゃんがやっと私の方を見た。だけどそこには私の好きな弾ける笑顔はなくって、あなたは悲しい表情を浮かべている。どうしてなんだろう。どうして私たちはこんなにもすれ違ってしまうんだろう。
「ちがわないよ。私はあの日から、変わってしまった」
「だよね」
「あげはちゃん聞いて! 私、あげはちゃんのこと、好きだよ」
「……っ、なんで……」
 項垂れる彼女をじっと見つめながら、なんだか何もかも話してしまいたくなってきた。
 好きだって言ってしまったらなんだか急に気持ちが楽になった感じがする。そうだ、私はあげはちゃんが好き。あの日からずっとずっと、そういう意味で好きなんだよ。
「私ね、あげはちゃんの、してるところ見た時にね、クラスメイトが読んでいたマンガのことを思い出したんだ。あの頃女の子たちの間でエッチなマンガが流行ってて、一回貸してもらったことがあって」
「……」
「ヒロインが好きな男の子と付き合って、やがて初めての夜を迎える。好きな人に触れてもらってヒロインは幸せで、いっぱいすっごく乱れた姿を見せるんだけど、男の子は可愛い可愛いって言うの。そのこと思い出して、最初は変だなあって」
「変?」
「うん。だってマンガを読んだときはすごく過激に思えて、あんまり意味が分からなかったのに、あげはちゃんのこと見てからは、急にそれがよく分かるような気がしたから。それで私その頃から、あげはちゃんがしてたのと同じように――」
「そうだよね。私がましろんをおかしくさせちゃった。あの頃のましろんは、私のことを見ると時々、どこかぽーっとして熱に浮かされたみたいになってた。私のことをそういう対象にしてるんだって気が付いて、早く距離を取らなくちゃって」
 あげはちゃんは俯いて唇を噛んで、まるで自分に罰を与えているみたいに言う。
「どうして? なんで距離を取ろうって思ったの?」
「当たり前じゃん、あの時ましろんは中学生で、私は運転免許を持てる年だったんだよ!? そこから何も生まれちゃいけない」
「あげはちゃん、私は」
 彼女は手のひらをこちらに向けて、私が発しようとした言葉を制してしまう。
「もしかしたらましろんに、性的なトラウマを与えてしまったかもしれなくて、ましろんの変化もそういう、被害の影響かもしれないとか、そんな可能性のことも考えてた……だけど私はずるかったんだ。結局私はそのことを他の誰にも打ち明けられないまま、ましろんに必要かもしれない色んなフォローやケアだって誰かに頼むこともしないまま、逃げてしまった」
 あげはちゃんの長い睫毛を伝って雫がぼたぼたと零れ落ちてきた。
「わた、私はっ、うぐっ、ほんとに、最低でっ、ぐすっ……ましろんに触れる資格、なんて、好きでいる資格なんて……!」
「そんな風に思ってくれてたんだ」
「ましろん、ごめん、ごめんなさい……っ」
「謝らないであげはちゃん。聞いて」
 涙でぐずぐずになっているあなたの頬を両側から優しく包んで目を合わせる。次から次へと溢れてくる雫を、その度に親指で撫でるように拭った。
「私は大丈夫だよ。もしもあれがトラウマみたいなものだったら、その反動の性衝動なんだとしたら、きっと私はもっと苦しんだはずだし、そんな風にはなってない。今笑って過ごして楽しくバイトなんかできてないと思うよ。私ね、高校時代に男の子と付き合ってみたんだ。手を繋いだり、キスしたりもしてみた。だけど思い浮かぶのはいつもあげはちゃんのことだったんだ。きっかけはどうであれ、私はいつだって触ってほしいって、触ってあげたいってそういうことを思うのはあげはちゃんだけなんだよ」
「でもそれじゃ、ソラちゃんは……」
「なんでそこでソラちゃんなの? ほんっとあげはちゃんって昔っから全然分かってないんだから。ソラちゃんは友達。私の大事な親友で、あげはちゃんとしたいことをソラちゃんともしたいなんて、思ったことないよ?」
「じゃあ、私は、ましろんを傷つけたり、そのことで付き合ってるソラちゃんとの仲を壊したりはしてなかったってこと……?」
「してない、してない。もう、考えすぎだよぉ」
 せっかく止まりかけていた涙がまた彼女の瞳から溢れてくる。ほんと昔から泣き虫だったよね。
「私ね、もうあの頃の中学生の私じゃないんだよ。明日、あの頃のあげはちゃんより一つお姉さんになっちゃうくらい、もうオトナだよ」
「ましろん……」
「ずっと会えなくて寂しかった。あげはちゃん、私のこと抱きしめて……?」
「うん、うんっ……!」
 手を伸ばせば彼女はようやくそれに応えてくれて、昔みたいにめいっぱい抱きしめてくれた。でも決して昔とまるっきり同じなんかじゃない。背中を撫でる手つきは優しいだけじゃなく、どこか熱っぽさを帯びている。それから私たちは一度腕を離してから見つめ合って、唇を重ね合わせた。柔らかい彼女のそれは味なんて別段しないはずなのに、とびきり甘いように感じられて、私は舌で舐めとるようにして味わう。背筋に電流が走ったみたいになって全部気持ちがよすぎて、夏の日差しの中であなたと一緒に溶けていくような気がした。

***


 夜、明かりを消した部屋の中で私とましろんは抱きしめ合ってそのままベッドに倒れ込んだ。今日はきれいな満月で、窓から金の光が淡く降り注いでいる。
 以前私が使わせてもらっていた部屋はそのままの状態で残されていて、あの日、私がましろんを思って自分自身を慰めていた時と同じベッドに今は二人で横たわっているのがなんだか不思議な感じがする。
 薄暗がりの中、あげはちゃんと呼んでくれたましろんのその唇を私はじっと見つめた。形のいいきれいな唇がまた私の方に寄せられてくる。
 
 今週の終わり、久しぶりにソラシド市に足を踏み入れて、金曜日に母校の特別講義を終えて、その夜は旧友たちと飲みに行って懐かしい話をたくさんした。学生だった当時はそこまで交友関係が広いわけではなかったのに、色んな子が連絡を受けて集まってくれてびっくりした。聖さんは学校だけじゃなく一緒に住んでた子たちのお世話もしてるって聞いて昔からすごいなって思ってたよ、なんて、そんな言葉をかけてもらう度、少し心苦しくなった。今の私はその子たちになんにも言わないまま一緒に住んでいた家からも出たんだよなんて言えなくて適当に誤魔化した。
 飲み会の後、適当に探したビジネスホテルの一室で何となくSNSを見ていたら、誕生日が近い人の欄にましろんの名前を見つけて私の胸はいよいよざわめいてしまった。
 翌日は特に予定がなくて、そのまま帰ってしまってもいいのに私はどうしてもモヤモヤがおさまらないままだった。ましろんに誕生日プレゼントを渡そう。何か一つ、素敵な贈り物をして、これまでのことを謝ろうと思った。
 なのに、思いもかけず本人がそこにいて、その姿を目にした途端、怖くなって逃げた。普段の私は大抵のことでは動じない方なのに、ましろんのこととなるとどうしようもなく臆病で弱腰になってしまう。昔からそうだ。
 それでもましろんは私を捕まえてくれて、正面からぶつかってきてくれた。いつだってましろんには敵わないって思うよ。

「あげはちゃん、どこに泊まるの? うちに来る?」って言ったのはましろんだ。
 今日、虹ヶ丘家には誰もいない。ヨヨさんとツバサくんは遠くの山間の地域で行われる星の観測会に行っているらしい。こちらの世界ではギリギリ成人年齢に達していないツバサくんはヨヨさんという付き添いを得て、珍しくはしゃいで出発したそうだ。
 この家がこんなに静かなことがあっただろうかと記憶を遡ってみるけれど、なかなか思い当たりそうにない。
 私たちはお互いの心音が聞こえるくらいの静寂の中で顔を寄せ合っている。明かりを消したこの部屋の中ではよく見えなくなってしまったけれど、今ましろんの唇には私からプレゼントしたリップが塗られていた。鮮やかでオトナ可愛さも兼ね備えたベイビーピンク。
 公園で最初のキスを交わした後、涙をぬぐい合った私たちはプリティホリックに向かって、ましろんに選んでもらってこのリップスティックを一本買った。ましろんのイメージとは違うかと思ったんだけど、本人がこれがいいって言うからその言葉に従った。でもとっても似合っていると思う。ちょっとびっくりしてしまうくらい。
 優しくて純真で、なんの汚れもない白を私の手で汚すわけにはいかない、なんて思い込んでいた。けれど今のあなたはもう十分にベイビーピンクが似合うオトナで、その唇で今、私の肩口に赤いシルシを残している。
「ぅンッ、ましろん……っ」
「あげはちゃん、かわいい。すっごく、かわいいよ……っ」
 そうしてお互いに触れあって、求め合って、どうしようもなくなっていく。
 一緒にいられなかった時間を埋めるように、向き合えなかった過去を塗り替えるように、ぎゅっとお互いを抱きしめてまた口づけを交わした。

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