【ディルガイ】カウンター・ギャンビット

 この屋敷に初めて招かれた日から変わらない。薪の爆ぜる音というのは、どうしてこうも心地いい。
 暖炉から届く子守唄に耳を傾け、ベッドに寝転がって本を読んでいるうちに、いつの間にか眠りこけていたらしい。浅いうたた寝から目覚めた時、読みかけの本の間に指を挟んだままだった。
 栞がわりの手をブランケットの下に引っ込めて。シーツの波間をもぞもぞ泳ぎ、収まりの良い体勢をさぐる。そうして軽く背中を丸め、穏やかに目を閉じた直後、暖炉の傍らからことんと小さな音が聞こえた。なんて許しがたいタイミングだ。
 つむったばかりのまぶたは錆びついた鉄扉よりも重たかったけれど、不審な物音を無視して眠りにつくほど意識を滲ませてもいなかった。寝ぼけ眼を擦りながら渋々ベッドから体を起こす。
 薄暗がりの中で数度まばたき。鮮明になった視界のもと暖炉の近くへと目を凝らせば、ソファの背もたれのその先に揺れる赤色の髪が見えた。

 
「こんな夜更けに一人遊びなんて」
 髪から覗く耳の縁に悪戯っぽくくちびるを寄せる。ガイアがソファの後ろから声をひそめて囁くと、男の手は宙に浮いたままぴたりと止まった。
 ソファの奥のテーブルの上。置かれているのは見慣れた古いチェス盤だった。盤上の戦況は白黒互角で、彼の手の中には今しがた討ち取られたポーンが一駒握られている。
「つれないじゃないか、旦那? 俺も誘ってくれたらいいのに」
「……、ガイアさん。起きていたのか」
 一瞬声を詰まらせたのち振り向いたディルックは、思いのほか目を丸くしていた。声をかけられるまでガイアの気配に気づいていなかったらしい。
 確かにこっそり忍び寄りはしたが、ディルック相手じゃ本来こんなの子ども騙しだ。それほど深く盤面に集中していたか、はたまた他の考え事でもしていたか。
「そう言うお前は? まだ眠らないのか」
「じきに暖炉の熾火が尽きる。君は先に休むといいよ」
「ふ、俺が居座ってたら気が散るって?」
「そうではなくて。君……、」
「なんだよ。言ってみろ」
「……とても、くたびれた顔をしているから」
 そんなことはない、と。反論すべく口をひらきかけ、すぐに思い直してやめた。代わりにおどけた調子で肩をすくめる。
 鏡を見ることは叶いやしないが、ディルックの指摘はおそらく正しい。だって今日はとりわけ忙しない一日だった。酒場に顔を出す余裕もないほどに。
「皮肉だと思わないか? 遠征部隊が帰還して人手が増えたのはめでたいことなのに。そのぶん目を通すべき書類と残業が増えた」
「なるほど。騎士団がいなければモンドの平和は保たれないし、騎兵隊長がいなければ騎士団はうまく回らない。君も根を詰めすぎず、ほどほどに」
 いやいや、待て。まさに今こそ「まったく効率的じゃない、これだから騎士団は云々」とお馴染みの小言を連ねるべき場面じゃないのか。ディルックが少しずつ騎士団に信頼を置いてくれるようになったのは素直に喜ばしいが、いかんせんこちらとしてはなかなか慣れない。
 騎士団への敬意やら騎兵隊長への労りやらを平然と口にしたのち、ディルックは何食わぬ顔で再びボードに視線を戻した。
 動揺しているのは自分だけ。気恥ずかしさを紛らわせながら、その頭越しに同じく盤上を覗き込む。
「オープニングだな。ルールは?」
「二人で指すのと変わらない。白も黒も、ただ最善だと思う手を選び続けるだけだ」
「ふむ」
 であれば、ひとまずナイトを中央に寄せるか。ガイアがそう思ったのとほぼ同時、ディルックの手が一方のナイトへと伸ばされた。
 こつん、と盤面を蹴る馬の脚。騎士は軽やかに歩兵を飛び越え、思い通りのマスへと降り立つ。まるで思考を共有しているみたいだ。戦術を二人で分かち合う、なんとも懐かしい心地。
「次の黒は……定跡に従うのなら、ここで一旦防御を固め直すべきだろうな」
 独りごちるように呟けば、「うん」とひどく気のない相槌が返った。ディルックの意識はすっかり盤上に傾いていて、どうやらこちらの声をちゃんと聞いてはいない様子だった。差し詰め、頭の中のもう一人の自分とでも会話している感覚なのだろう。
「だが、ポーンを犠牲にしてクイーンに攻め込ませるって手もある」
「うん」
「賭けだな。どうする?」
「うん」
「……騎士団に、」
「うん」
「戻らないか」
 う、とほんの短い音。それきりぴたりと途切れる声。ああ惜しい。罠にかかりやしなかった。
「……ガイアさん。どういうつもりだ?」
 顔を上げて振り返ったディルックは、じっとりと湿った眼差しを携えていた。この卑怯者、とでも罵りたげの。
「いやなに。お前があまりにもチェスに没頭してたもんだから」
 出来心でつい。へらへらと笑ってはぐらかせば、男はさらに目を狭めてガイアを薄く睨んでみせた。
「ファルカさんが帰還して以降、君は僕に対して些か大胆になったな」
「まあな? 勧誘活動を行う際、人手は多ければ多いほうがいい。ファルカ直伝、騎士の極意のひとつだ」
「君たちは店で酒を飲みながらそんな馬鹿馬鹿しい話ばかりしているのか」
「時に執務室でもな。ふふん、素面だぜ」
 仰々しく得意げに胸を張る。すると荒っぽいため息に乗せ、「くだらない」と一蹴された。ああやっぱり、時には雑にあしらわれるのも気楽でいい。
 ディルックは今度はすぐにゲームの続きに戻らなかった。ソファに片膝を乗せたまま俯きがちにぽつりとこぼした。
「正直、君がどこまで本気で言っているのかは量りかねるけれど」
 ソファの背もたれを離れ、ガイアのもとへと滑る視線。胡乱げに歪められていた双眸が、今度は推し量るようにそっとひそめられた。
「客観的に見て、騎士団は今完璧に統率が取れている。ファルカさんの采配に隙はない。仮に戻ったとして、僕に務まる職務なんて何もないさ」
「そんなの当然。騎兵隊長に決まってる」
 言い終わると同時、暖炉の中でぱちぱちっと一際大きく音が鳴った。薪木が灰になる間際の声だ。空気も読まずやたら賑やかな暖炉の傍ら、互いの間にだけ重たい沈黙が横たわる。
 したたかに輝く眼光を浴びる。心のうちを探られる。そうやってまじまじ見据えられると、どうにも疚しさが溢れて参った。別にもう、この男相手に隠し事などありはしないのに。
「ガイアさん。君は、自分の──」
「待った。先に俺に言わせてくれ」  
 今しがた指したチェスの一手と同じ。ディルックが果たして何を考えているのか、おおよそ理解できてしまった。相手の言葉の先を読み、少々強引に声を遮る。
「お前は騎士団の規則書って覚えているか」 
「規則書?」
 出し抜けに何を言い出すのやら。そんな表情を浮かべ、ディルックが怪訝に眉を寄せる。
 ガイアは口元を少し綻ばせながら、ディルックの隣へと腰を下ろした。
「ほら、入団して真っ先に叩き込まれただろう? 騎士団の歴史や理念、組織体系なんかが記された辞典みたいに分厚い本。内容を完璧に覚えるまで、実戦訓練はお預けだった」
「……そんなもの、とうに忘れたな」
 と呟きながらぼんやり遠くを眺める眼差しは、明らかに当時の光景を懐かしんでいた。むしろディルックのことだ、今だってきっと本の中身を諳んじられるに違いない。
「あの本には騎士団の指揮系統や役職についても事細かに記されていたが、どこにも|こう《・・》は書かれていなかった」
「何」
「騎兵隊長が二人いたら駄目だなんて」
 にっと歯を見せて無心に笑えば、一方の彼は目をぱちぱちと瞬かせた。まったく予想外の言葉を耳にし、相当驚いているらしい。ディルックは滅多にこういう隙を見せないからなかなか悪くない気分だ。「それにな、」と少々躊躇いがちに続ける。
「俺は騎兵隊長としての自分の仕事ぶりを存分に誇っているし、いっそ慢心じみた自負すらある。……騎士団史上もっとも優秀と謳われた前任にも、決して劣ったりしないって」
 ボードの上、キングを守る二騎のナイトを一瞥し、まばたきとともに隣の男へ視線を戻す。身じろぎひとつせず、ただこちらを見つめるばかりのディルックと、まっすぐ眼差しを重ね合わせた。
「お前はどうせ、俺が騎兵隊長をお前に譲って身を引くつもりなんじゃないかとか、そんな心配しているんだろうけどな。まるで見当違い」
 自惚れるなよ。冗談めかして男の額を軽く小突けば、彼は我に返ったように瞳を揺らした。
 はじかれたばかりの額に指を置き、数秒静止。それから何を思ったか、その手をガイアの元へそっと伸ばした。
 仕返しを警戒して一瞬身を硬直させる。けれど男の手のひらはほんの穏やかに頬をかすめた。
「……つまり、君は、」
 恭しく耳の輪郭を撫でる指先。次いでこそこそと耳朶をくすぐられれば、こそばゆさともどかしさが混じり合い背筋にむずりと震えが走った。くちびるからこぼれた空気の塊は、おのずと甘く熱っぽい。
「騎兵隊長をもう一人増やして、面倒な書類も半分押しつけてやろうって魂胆?」
「ん、ふは、当たり……」
「ふ、なかなか愉快な発想だね」
「だろう? お気に召したか」
「とても。何故なら君が自分自身を尊重し、正当に評価していることを知れた。僕にとってはその事実が他の何よりも喜ばしい」
「そっちかよ……」
「うん。僕は君を誇りに思うよ。やはり君こそ、モンドを守護する騎兵隊長に相応しい」
 耳元を弄っていた手がそのまま頭の後ろへと滑り、髪をくしゃりとかき撫でられる。まるで幼子を褒めて甘やかすみたいな手つきだ。
 触り心地を楽しむように、男の指が幾度も髪を漉いてみせる。心地よさに思考がとろんと溶け落ちていく。この体はいつだって、彼の手のひらに抜群によわい。
「なあ、ディルック」
 くちびるを噛み、眉根にくしゃりと皺を寄せた。たった名前だけを口にして視線で思いを訴えかければ、ディルックは無邪気に微笑んだ。
「疲れてるんじゃないのかい」
「確かそのはずだったんだけどな」
「そろそろベッドに戻ったらどう」
「くそ、この期に及んでまだ邪魔者扱いか? いいかげん、義父さんのチェス盤に嫉妬するぞ……」
「ふふ、冗談だよ。もちろん、僕も一緒に」
 ディルックは苦笑をこぼして、「行こう」とガイアの手を取った。
 散らかしっぱなしの机上をほんの横目で見やりつつ、促されるまま重たい腰を持ち上げる。本来なら、「まず遊んだ玩具を仕舞え」と嗜めるべきところだが、そんな一瞬ですら惜しかった。明朝片付けさせる、絶対。
 手を引かれながら向かうベッド。はやる鼓動に掻き消され、次第に遠のく暖炉の音。名残惜しいけれど今夜の子守唄はこれで聞き納めだ。次意識を傾ける頃、熾火はとうに燃え尽きている。

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