蝉の音、夏
狭山湖の奥を、住まい兼仕事場にしたのは数年前。あの厄災が旧東京駅前で凍りついてから十年と少しが経った頃。一線から身を引いて、研究と論文書きに専念したいと申し出たところ、あっさりと受諾された。まあ、文科省にとって俺が頭痛の種であったのは、厄災が発生するしないに関わらず、だったということだ。
元上司の矢口さんはその過程と結果に納得がいってないようだったが、某大学の研究所に籍を置くことは決まっていると伝えると、少しホッとしたような顔をしていた。文科省とは関係を維持していた方が仕事がやりやすいことは、お互いに暗黙の了解だからだ。
わずかながらの退職金で、空き家に手を入れた。サーバールームを作り、対策本部との高速直通回線を引き込んだ。それに関しては矢口さんの根回しがあってことだった。機密費とかいうやつの有効活用だ。
機材の準備はひとりで行った。扱っている情報が情報だけに、人に任せることはできなかった。とにかく建物の改装と設備増設だけは金に糸目をつけずに行い、全ての整備が終わってから鍵を受け取った。それからは完全にひとりだけ。軽トラに乗せてきた機材を組み立てるところから、山奥の研究所生活がスタートしたのだった。子どもの頃にテレビで見ていた特撮番組の秘密研究所。そんなものを自分が作ることになるとは思わなかったな、というのが足を踏み入れて最初の感想だった。
空には太陽が燦々と照っている。蝉はうるさい。森の中には風は吹いているけれど、それでもまだ自分にとっては暑い。絵に描いたような夏真っ盛り。入道雲がかき氷みたいに見える手前で、風鈴が静かに揺れている。尾頭さんからの引っ越し祝い、未確認飛行物体が牛を吸いあげているていのユニークなものだ。尾頭さんなりのジョークだと受け取ったが、もしかすると海の向こうの辣腕長官からかもしれない、と言ったのは誰だったかな。
ただそれは窓の外の光景で、年中サーバーをぶん回す仕事をしているため、我が家は三百六十五日冷房がつけっぱなしだ。電気代は先ほどの話の通り、国から出ている。ありがたく思いながら、真冬になると流石に身体にくるものがあり、こたつで仕事をしている。今はこたつ布団を片付けてちゃぶ台にしているが、結局仕事場になっているのには変わりない。本来の書斎には寝に戻っていて、ベッドルームは服を積む場所になっている。役割がドミノ倒しになっているのが、今の研究所兼住居の状況だ。
そんな中、滅多に鳴らない呼び鈴が響いた。最小の音量にしているのに、耳には最大音量のように聞こえてくる。蝉の音よりでかい。年単位でかなり久しぶり。鳴らしているひとを待ち侘びていた俺は、慌てて立ちあがろうとしてちゃぶ台に足を引っ掛けてしまった。
当然、上にあるものはひっくり返る。ド派手な音を立ててしまったが、幸いなことに水物はなかったので、被害は積み上げていた書籍と書類の雪崩で済んだ。しかしながら量が量だけに、被害は甚大。来客用にあけていたスペースが埋まってしまった。
「だ、大丈夫ですかっ!」
どんどん、とノックするのが聞こえている。これだったら合鍵でも先に送っておけばよかった。勝手に入ってきてもらった方がまだマシだ。後悔は先に立たず、は文字通り。
「大丈夫ー多分小指打っただけ……いててて、あとちょっとで行く」
「本当に大丈夫なんです?」
電話かテレビ会議、デバイスを通じてしか聞けなかった声が扉の前にいる。そんな時に限って足を痺れさせてこのざまとは情けない。いつものことだけれど。
「痺れてら。立ったから、あと十秒で……いててて」
「実況中継しているくらいならその分ゆっくり来てください、年なんですから余計に心配なんですけど」
「年齢は禁句って言っただろ……あー今開けるから、退いて……って、あれま」
「ご無沙汰しているな」
目の前にいたのは、見たことのない微笑を口元にたたえている元官房長官様だった。
「何でいんのアンタ」
「職場巡視だ」
一応労働安全衛生は守らせないといけないからな、と飄々と口にする顔は悪戯めいていて、何だか少しムカつく。俺が会話していた肝心の元上司の元秘書官は、その後ろで複雑な表情をしていた。
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