バスタブ



新しい家は二階建てにした。
二人暮らしで、平屋でもなんらの不都合もないのだけれど、二階には二人分の書棚がおける書斎、そして一階にはデッキチェアが置けるベランダとふたりで入れる大きなバスタブを作った。

「おい、譲介。元気か?」と耳元で尋ねる声がする。
譲介は「あのですねえ、徹郎さん。」と小さくため息を吐いて、この馬鹿げた茶番に対する感想を述べる代わりに、濡れた後頭部を愛しい人の肩に預けた。
無駄口を叩けば互いに摩擦が起きるが、濡れた髪なら、静電気を起こす代わりに譲介の甘えたい気持ちを伝えてくれるだろう。
「何だよ。返事をするのが億劫か?」と言う言葉と、ちゃぷり、という水音がバスルームに響く。
「これ、楽しいですか?」
愛しい人は、なかなかその右手を譲介のペニスから離してくれなかった。
握るでもなく、擦るでもなく、ただ触っているだけ。
「さして楽しいもんでもねぇな、……とでも言うと思ったか?」
あからさまでわざとらしく、しかしながらひどく悩ましげな吐息が、譲介の耳元をくすぐる。
僕の息子が元気にしてるかどうかなんて、触ってるあなたの方がよく分かるでしょうに。
そう思ったけれど、今の譲介は、そんな生意気な切り返しが出来る立場でもない。
普段なら、この人の大きく硬い掌がするすると幹を擦れば、直ぐに角度と硬さを取り戻すはずだった。
そんな譲介のペニスは、彼に触れられるまま、水の浮力に揺られている。
「まだ四十になってもねえのに疲れマラになってんじゃねえよ。」と呆れたような声を出して、譲介の愛しい人は右の耳たぶを噛んだ。


この新しい湯船で、譲介が迂闊にも寝入ってしまったのは、先週のことだ。
普段シャワーばかりの男が長湯をしているのは珍しいと、論文の素読の手伝いに飽きてしまったこの人が、面白半分に酒を持ってバスルームに乱入して来たのが幸いした。
腕を組んで、ラベンダー色に染まる湯船に沈んでいる譲介を発見し、半分気絶していた身体を慌ててバスタブから引き上げ、冷たい床に寝かせたのはこの人だ。
譲介がリビングの床の冷たさに驚いて目を空けたとき、目の前には全裸のまま肩で息をするパートナーがいて、ほとんど滝のように目に涙を溢れさせていた。
驚き過ぎてうっかり心マをするところだった、と泣き顔を取り繕って笑おうとして失敗して、子どものように声を上げて泣く人の顔を見て譲介の胸はギュッと掴まれたように苦しくなった。
いつものようにキスをして慰めようとしたら、手を振り払われて拒否されるに至り、仕事の過密スケジュールに流されるまま流され、身体を休めようとして風呂場で目を瞑ったことを、譲介は大いに反省した。
『次からは、疲れたらちゃんとベッドで寝ますから。』
譲介は、世界で一番愛しい人に許されたい一心で、そんな風に約束をした。
それからだ。
この二週間というもの、二十数年ぶりかの八時間睡眠を励行する羽目になったというのに、あの日の彼の涙が心に堪えたせいか、はたまた、自分にしては厳粛な誓いの言葉に自縄自縛されてしまったのか、譲介はすっかり起たなくなってしまった。
その気になんねえのか、とあの手この手で誘われても、中に入るまでの硬さにはいかないのだ。
手だけではなく、口でも、とお願いしてみたが、やはり起たない。
ひとりでしてるところも見せて貰った。両手を使ってペニスを握っているTETSUの可愛い顔を堪能した。
ローターに、玩具の手錠に、白衣を着たまま。
キッチンで、リビングで、彼の書斎で。所謂パイズリという、彼の胸で擦ることも試みた。
男心というのは複雑怪奇である。眉間に寄せられた皺と半開きの唇、潤んだ瞳から目を離せなくなると、途端に、あの日の彼の、子どものような泣き顔がオーバーラップする。
頭の中は、彼の柔らかな肉にペニスがゆっくりと吞み込まれていくあの快感を待ちわびているというのに、下半身は、全く反応していない。
そこで、すっかりことは終わりになってしまう。
譲介のモノは硬くはならないし、どうにかなりそうだと思っても、角度を保ってもいられない。
彼が譲介とのセックスに慣れてからはほとんどやっていなかったドギースタイルを試してもみたけれど、そのどれもが不発に終わった。
彼にアイスクリームを乗せて食べながらするというのは夏以外には向かないので保留にしているが、他に試してないのはスリーサムくらいだ。
当然、当てがないのと、この人の可愛い顔を他の男に見せる羽目になるのは絶対嫌なので、それくらいなら一生起たなくていいです、と泣いて喚いて思いとどまって貰った。


「さっさと元に戻らねぇと、浮気しちまうぞ。」とTETSUは言う。
「嫉妬に狂った若い男が世界にひとり増えても、いいことなんてないと思いませんか?」と譲介は慌てた心の中が愛する人に見えませんように、と思いながらも彼にそう伝えてみる。
「さぁて、どうすっかな。」と言って、彼は口笛を吹いた。
ちなみに、今のこの人の本命は譲介の右手の指で、浮気相手と言うのは、買って来たばかりのローターのことである。
今の状況を面白がっているようなセリフに、拗ねたような響きを感じ取ってしまうのは、きっと譲介自身の希みもあるのだろう。
譲介は、今は仕事量を多少調整して、学会への出席もオンラインでの参加に切り替えた。朝倉先生に相談して――ちなみに夜の事情についても、まるでついでのような顔で問い質されたが、完全黙秘を貫いた――出張の予定も当面は取りやめになった。
そうして空いた時間を有効活用して、譲介は寝る前に毎晩、好きなだけ彼の身体を探検することにしている。
かつての彼は、男盛りで、逞しく厚みのある身体をしていた。
譲介は、あの頃とは肌の張りも違って来た身体にまたがって、その隅々を撫で、さすり、ひっくり返して、引き締まった尻肉を掴み、狭い穴をくすぐり、指先を動かしてみた。
自分にとって誰よりもセクシーで魅力がある肉体であるという事実が、今も変わっていないことをそうやって確かめた。
キスもした。
舌を吸って、絡めて、角度を変えて。
唾液が口の端からこぼれるまで、毎回、初めてのセックスのときのように唇を触れ合わせた。
TETSUの手が伸びて来て譲介のペニスに触れようとすることもあるが、毎回不発に終わると分かってからは、背中や腰を撫でてくれた。
重ねた胸、重なる鼓動。
気恥ずかしさからか、彼が先に譲介の顔から視線を逸らすと、譲介は、逆に追いかけるようにしてTETSUの腿や腰の辺りをなぞった。膝からまた腿へ。ゆったりとした水の流れのように手を滑らせ、彼の肉体の感触を味わう。
手を伸ばせば触れられる場所にある暖かな身体は、譲介が求めれば与えられた。
達する前に声を漏らし、身体をびくびくと震わせる彼の姿を、これまでだってセックスをするたびに見ていたはずなのに、いつもの百倍くらい可愛らしく見えた。この人に僕は、恋をしていると思った。
そう思うと、いつものように身体を繋げるよりも、ずっと相手の身体の反応が良く分かるようになった。
今も、バスタブから出た後のことを、こうして考えてしまう。
譲介は、足の間にゆらゆらとたゆたうペニスで遊ぶ彼の手を両手で包み込み、「愛してます、徹郎さん。」と言った。
途端に、背中から感じる気配が固まるのが分かった。
「………のぼせたから、出る。」
「え!?」
ギクシャクとした口調でそう言って、やおら立ち上がったTETSUのせいで、湯船の湯がざばりと外に溢れる。
譲介が、もうすこしゆっくりしましょうよ、と伝えようとして彼の方を振り向くと「譲介、今夜はおめぇがベッドに連れてけ。」と言って、TETSUは頬を赤く染めた顔を、こちらに向けた。
その顔に、ずくん、と下半身が反応する。
今だ、と思った。
譲介は、「徹郎さん、したいです。」とそれだけを言って、同じようにバスタブから出るや、バスルームの冷たい壁に、彼の身体を押し付けた。
「おい、譲介、……んっ、」
彼の尻に、昂った譲介のペニスが望ましい形で密着しているのが分かった。
これまで身体の奥でゆっくりとくすぶっていた熱が、性急に鎌首をもたげてくる。
強引に彼の身体の向きを変えて、こちらに向かせた。熱に浮かされるようにして、彼の胸を揉みしだくと、TETSUは熱い吐息を吐いた。
うなじや首筋に顔を埋めて、愛しい人の纏うシトラスの匂いを吸い込みながら、譲介はさっきまで湯船の中で反芻していたようにして、彼の身体に触れた。
幸せだった。
強引な口づけを、彼は拒まなかった。
二度、三度、とキスを重ねるうち「おい、……入れてぇのか?」といささか乱暴に問われて、そりゃあ、と返事をしようとした譲介は、彼の話のポイントに気付いた。
「……ゴム、取って来た方がいいですよね?」
「直ぐそこにあんだろうが。」
脱衣所には、スペアのゴムが置いてあるが、最近はずっと、指専用だったので補充をしていない。今日いきなりで何回出来るかは分からないが、ベッドサイドにストックしてある分と比べたら、到底足りない気がした。
(一回くらい……生で、とか。言ったら怒られるかな。)
「徹郎さん、あの、身体を拭いて、今夜はちゃんとベッドでしませんか?」
久しぶりに、と言って譲介がおずおずと微笑むと、TETSUは、譲介の唇に噛みつくようなキスをして、その返事の代わりにした。









Fuki Kirisawa 2024.1.31out

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