花火




タワーマンション最上階に住むことの最大の不便は、夏の盛りに暑すぎるところだ。
高校主催の夏期講習の初日を終え、マンションにたどり着いた譲介は、高層階向けのエレベーターを使って二十七階へと昇る。低層階用のエレベーターとは違い、若干血の気の退くような移動にも慣れた。オートロックを開けて中に入り、真っ直ぐにリビングに向かう。
南東向きのリビングは、エレベーターの中よりも暑い。譲介は、外出前に緩く二十九度に設定していたエアコンの温度を、一気に二十一度まで下げる。
あの人が外で診療している間、この部屋には基本的に来客はない。
一階の空調で汗はすっかり引いてしまったとはいえ、顔や腕のべたつきは妙に気に障る。ぬるま湯のような水で洗い、制服のシャツとスラックスからTシャツと綿パンに着替え、リビングのテーブルで夏期講習のテキストを開く。
寝ていた時間のノートは真っ白だった。ずっと寝倒していた数学Ⅲと古文は一からやり直しとなることは目に見えていて、明日の範囲の予習すら難しい。
――一也のいる泉平まで行けたら転校はもう仕舞ぇだ。これからは医大の受験のことだけ考えろ。一位になる必要もねぇよ。
編入試験を終えたあの日の夜、あの人が何の気なしに放った言葉は今も譲介の中に残っている。
そうかもう一位を取る必要はないのか。
譲介の中では、彼との初めての契約であり、目指すべき目標であり、新しい暮らしの中の強い軛でもあった。その目標がなくなってしまった途端に、加速度的に高校という狭いフィールドで課される課題への興味もテストへの情熱も薄れてしまい、これまでの集中が保てなくなった。
泉平に通学するようになった今はもう、学力面では大丈夫と思ったのか、TETSUもこれまでのリミットを外し、何度か外での診療にも連れ出して、病名や治療法、医療関係の用語を譲介に叩き込んでくれている。
そのことが、なおさら学校での「お勉強」から自分を引き離している要因になっていると、彼はまだ気づいていない。
担任から、成績が下がったことへの連絡は行っているのだろうか。
これまでのように三者面談などがあれば、そうでなくとも、テスト結果でバレてしまう可能性がないでもなかったが、同居を開始して一年を経た今、本来の彼の仕事量なのだろう、以前に比べても多くの患者を抱えるようになった彼は、本業に手一杯の様子だった。譲介のほころびに気付くのはもう少し先のことだろう。
譲介は、段々と冷えて来た部屋で、解けなくなった問題を投げ出して、ため息を吐く。
集中しなければ、と思えば思うほど、集中できないのは、自分の心がここにはないからだ。
席を立ち、冷蔵庫から清涼飲料水のボトルを取り出してコップに移す。経口補水液の代わりに常備してある市販のレモネードで、甘ったるいそれに、塩を足して飲み干す。
味は好きではないけれど、熱中症で倒れないようにしろ、とは言われている。
保護者の顔をしたあの人の顔を思い出すと、少し笑ってしまう。
ここにこうしている闇医者として知られている彼の手技は、迷いがなく明晰だった。自分に見せる顔は、あの顔だけでいいと思ってしまうのだ。
冷徹な彼の本性がむき出しになったようなその天賦の才に間近で触れ、こうして思い出していると、譲介は、医大などという回り道をせずに彼の技を盗んで自分のものにしたいという欲が出て来たのを感じていた。
本来のゴールは大学受験だ。もう目前に迫っている。帝都大の理Ⅲは、譲介にとっては遠回りの道でしかないが、今は彼の助手という肩書しかない自分に、薄っぺらでも箔が付くことは分かっている。泉平でもどこでも、帝都を目指していると言えば教師の対応も違う。国公立最高峰の大学に行くというのは、それだけのことなのだ。そのことは分かっていて、それでも譲介は今目の前に示されている道にショートカットして、医学だけを学ぶことは出来ないかと考えている。
自身の手で、あの人のように手術を成功させてみたかった。
(今はまだ、簡単な手術ですら彼が自分で行っている。彼に任せれば大丈夫だという安心感に、人はあれだけの金を積むのだということくらい、子どもでも分かる。)
譲介は、二十七階からの景色を眺めた。
自分の手でこの部屋のような場所を手に入れられるのはいつだろう。その時自分はまだあの人と一緒にいるのだろうか。


甲高い着信音で、譲介は目覚める。食卓で、勉強をしながら寝てしまっていたのだ。
テーブルに置いておいたスマートフォンに手を伸ばし、ロックを解除して着信を取ると、おい、今どこだ、と声がした。
「……家です。」
ここは本来、半分はあの人の職場で、譲介が泉平という「場」に通うために作られた仮の巣に過ぎない。自分にとって、本当には家とは言えない場所とは分かっていても、今はその単語でこの部屋を表すしかない。
譲介はのろのろと立ち上がり、灯りを付けようとした。
通話は続いている。
家か、と彼が言い、外を見ろ、と言った。その時、パン、というやけに大きなバックファイアに似た音が響いて、二十七階が照らされる。
外。
譲介が窓に近づくと、明るい花火が夜空を彩っていた。
丸く円を描く花火が、空に上がっては消えていく。
「あなたはどこにいるんですか。」と譲介は聞いた。
オレはまだ外だ、と彼が答える。耳をすませば、確かに人のざわめきが聞こえて来る。
車が動かねえから、近くに停めて歩いてるところだ。そっちに向かってる。メシは食ったか?
「いいえ、まだです。」
譲介は、地上にいれば、首が痛くなるほどに見上げる必要がある花火を見つめていた。
彼はきっと、譲介が『これ』を見ていないと思って、こんな風に電話を掛けて来たのだ。
コツコツという音がくぐもっているが、小さな杖の音を、譲介の耳は聞き分ける。
「僕も、外に出てもいいでしょうか。」
止めとけ。暑いぞ。そこからも、見えんだろ。
「ええ。」とその声に応えながら、なぜ自分がここまで落胆しているのか、と譲介は思う。
人出はそこまででもねぇが、わざわざ出て来てなんかあったらコトだ。
「……そうですね。」
心配から出て来た言葉とは分かっているが、譲介は、自分を彼の黒須一也のライバル、という鋳型に嵌めようとする彼の身勝手を思った。
こんな夜に、外に出て何かあるのは彼の方だろうに、彼は譲介の心配などは歯牙にもかけない人だ。
「わざわざ、電話をありがとうございます。気を付けて来てください。」
そう言って電話を切ったが、譲介の胸の中には何かがくすぶっている。
この花火がいつ始まって、いつ終わるかは分からない。それでも、と。
譲介は、パーカーを羽織り、鍵だけを持って外へ出た。
川からの風が吹いてはいるが、屋外はまだ、むっとする熱気に包まれている。
パン、パン、という景気のいい音と、建屋部分の陰になったところから、切り取られた花火が見える。
タワーマンション最上階に住むことの二番目の不便は、エレベーターの待ち時間が長いことだ。
譲介は、まるで永遠のようなその時間を待って、狭い空間に漂うビールと焼き鳥の匂いに耐えながら、一階へと降りた。
こんなマンションに住んでいて、人に揉まれ暑い中を移動して花火を見ようという物好きは譲介の他にはいないに違いない。エントランスでも、我先に部屋に戻ろうとする何組もの人間とすれ違った。
僕はきっと、あの人とは会えないだろう。
そのことは分かっている。
譲介は、近くにあるコインパーキングの位置をいくつか思い出し、ままよ、と川縁に向かって歩き出す。
パン、パンと断続的に空を彩る花火を、譲介はもう見ていない。
いつも走っている土手の近くには、どこから集まって来たのと思うほどの人はいるが、その多くは外灯に照らされている土手の道からは離れた場所で、めいめいに場所を見つけて陣取っていた。帰り支度を始めるにはまだ早いとあって、動いている人間は多くない。ここは東京とも埼玉とも違うのだな、と譲介が意識するのはこういうときだ。
譲介は、いつもの道を早足で歩いた。
一際大きなパン、パン、という音が響いた後、突然、花火が消えた。
どこからか、大きなマイクの音で、第五十七回花火大会はこれにて終了です、皆さんお気をつけておかえりくださいというアナウンスが聞こえて来る。
まばらな拍手が聞こえて来る中、譲介は真っ直ぐ前だけを見つめていた。
道の向こうから、白いコートを着た人影が見える。手には、いつもの診療鞄を持って。
なんて見つけやすいんだろう、この人は。
譲介の姿を視界に入れた彼は、離れた場所で、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「………家に居ろ、っつっただろうが。」
その、怒ったような、腹立たしいような声。
「家にいますとは言ってません。僕は……花火を、あなたと見たかった、」
譲介がそう答えると、彼の眼の奥で、何かが揺れたような気がした。
「そりゃあ残念だったな。」と言う言葉に、ええ、と譲介は答える。
「帰るぞ。」と彼が言った。
「分かりました。」と言って、譲介は彼の隣に並ぶ。
何組もの家族連れの中に混じって、家族のような顔をして家に帰る。
一緒に夕飯を食べましょう、と譲介は言うと、そうさな、と彼は言って、そうして、外灯の灯る中を、並んで歩いた。

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