涙雨と傘

 仕事の帰り道、体に力が入らなくなりちょうどあったバス用のベンチに座っていた。すると地面にいくつか丸い点が増えていき、ざあざあ音を立てて雨が降り始める。
 体中が濡れていく。私は、折りたたみ傘を差すでもなく、それを受け入れる。
 薄暗い空を見てため息を吐く。頭はぼんやりとしていて霧がかかっているみたいだった。

「なんでこんな仕事ができないんだろう」

 勤めてから何年が経っただろう。自分なりに頑張ってきた。壁にぶち当たる度に落ち込んだが、それを色々なやり方を考え改善していった。
 これが社会で、皆それを乗り越えているし、自分もそれを出来て当たり前の人間にならないといけない。と呪文のように唱え続け、必死に自分の心を奮い立たせた。
 しかし、今日の一つのミスで不安定に積み重なったそれはあっけなく崩れたのだった。

  ――もういっそのこと、消えてしまいたい。
  
 そう考えた時だった。雨が地面を叩きつける音はそのままなのに、雨が止んだのだ。
 ゆっくり顔を上げると、そこには見知った人が自分の傘を私に差していた。彼女の明るいブラウンの長い髪が揺れ、優しい目を私に向ける。

「風邪ひくよ。……大丈夫? 遥香」
「有里……。なんで、ここに?」
「ん~。友達センサーかな? ……なんて、たまたま帰り道だったんだ」
「……有里が風邪ひくよ」
「それもそうだね。じゃあ、一緒に帰ろうか」

 有里は私に手を差し伸べる。私は手を伸ばす。有里はニッと笑って伸ばした手を強く握って私を立ち上がらせる。伝わる温度が冷たいものから温かいものへ変わっていく。
 大きいとは言い難い傘の中で有里と同じ目線になった。カツンと靴のヒールの音が雨の世界の中で響き渡る。
 なぜだろうか、有里の笑顔を見た瞬間、私の視界がぼやけた。そして一つ、また一つ頬に雫がつたっていく。「ごめん」と言って必死に止めようとするが、次々に溢れていく雫は私の意志を無視する。
 ――ああ、違う。今まで、私が無視していたんだ。これは、私の心の初めての反抗なんだ。
 有里はただ私を見つめる。その瞳がキラキラと揺れていた。

「もう、いいよ。遥香は、十分頑張ったよ」
「――えっ」
「まーかせなさい! 私の家に来なよ。一回してみたかったんだよね。友達とシェアハウス的なやつ! ああ、お金は気になさらず。それより出来れば家事お願いしたいなあ」
「あの、有里?」

 話の展開についていけない私を置いてきぼりにして有里は話を進めていく。
 私の困惑した声に、口を閉じてから何か考えてから優しく私の背中を叩いた。

「消えちゃうなら、仕事なんか辞めて私の傍に居てよ」

 その言葉にハッとする。心で呟いていた思いは言葉になっていたようだ。そして、有里の声がわずかに震えているのをその時理解した。

「……いいの」
「うん」
「そんな風に、逃げてもいいの?」
「逃げじゃない」

 ハッキリと言われて私は我慢できずに声を出して泣き出す。「もう限界だった。無理だ。もう頑張れない」壊れたおもちゃのように繰り返される言葉は、聞いていて心地良いものではないはずだ。
 しかし、有里は繋いだ手を離さないで歩き出す。

「帰ったら遥香の好きなミルクティー淹れるよ」

 有里の優しさが私の心の中にゆっくりと落ちていく。それは、あまりにも温かく胸を苦しくさせる。しかし、いつも夜に明日を迎えなければならない恐怖に襲われてやってくるものとは違い、嫌ではない。
 冷たい世界の中で、この傘の中だけは私を守ってくれていた。

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