海に行く話/悪犬(2023.7.12)
音にすれば、ざぶん、ざぶーん、といったところだろうか。こういった自然音をサンプリングしても楽しそうだ、と思い立ったが、波の音はあのまばゆい路地には穏やかすぎるかもしれない。
「おい、冬弥ー?」
「ああ、すまない、彰人。すぐ向かう」
ざくざくと砂浜を進んでいた彰人が振り返る。冬弥が海に見惚れている数秒で、ふたりの間には子どもたちがすり抜けていけるくらいの距離が空いていた。きゃらきゃらと笑いながら走る少女を、もうすこし年上の少女が追いかけていく。姉妹だろうか。
「さすがに人が多いな……」
「夏休みだからだろうか」
「だな。ちょっと歩いたら人も減るだろ」
そうしよう、と頷いて、彰人の隣へと寄る。夏休みは練習時間もいつもより増やせるんだから、ビビッドストリートにこもってばかりいないで海にでも行ったらどうだ、とは謙の提案だった。あまり遠出をしたことがない冬弥を慮ってくれたのだろう、確かにそういった経験も必要かもしれない、と初めに興味を惹かれたのも冬弥だ。
チームメンバーがいてくれた方がきっと楽しいだろうと誘ったのだが、杏とこはねは急遽ふたりでイベントに出ることになり、その練習で来られなくなってしまった。別の日にみんなで行こうか、とも思ったが、冬弥が海に行くことを楽しみにしていたことをふたりとも知っていたから、彰人と二人で行っておいで、との言葉に甘えることになった。
「さっき、何考えてたんだ?」
「ああ、波音をサンプリングして、作曲に使えるだろうかと思っていたんだ」
「へぇ。面白そうだな」
思い浮かんだアイデアを話すと、相棒は興味深そうに口元に手をやった。どうやら彰人にとっても良い案らしく安堵する。
「彰人もそう思ってくれて良かった。だが、この盛況ぐあいでは録音は難しそうだ」
「確かに。人の声まで含めての音源になるな……」
「それに……、海はとても綺麗だな、と思って」
「ふは、お前それ中学のときも言ってただろ」
確かに、そうだったかもしれない。当時、一度だけ逃げるように海へ行ったことがあったけれど、そのときはタオルも何も持ち合わせておらず、浜辺を歩いただけで帰ったのだった。それでも冬弥にとっては大切な思い出だ。
彰人は何度か家族で海にきたことがある、と今日の電車の中で聞いた。海星を触っただとか、絵名が日焼けで大変なことになっただとか、後半のエピソードについては鬱陶しそうにしながら教えてくれた。そのせいか、彰人は冬弥にもしっかりと日焼け止めを塗るようにと忠告してくれたし、冬弥はそれに従った。
「以前と違って、今日は濡れても平気な服装で来たからな。本当は泳げるようになりたかったんだが……」
「まぁ、泳げなくても水に足だけでも浸ければ夏っぽいだろ。ほら、ちょっと空いてきた」
しばらく歩いているうちに、あまり人がいないエリアに来ていたらしい。彰人が指差した先に足を向けて、白く泡立つ波に近づいてみる。
「……! 彰人、海に入ってみてもいいだろうか?」
「いいけど、一旦荷物置こうぜ」
「そう、だな。すまない、気が逸ってしまって……」
「別に構わねぇよ。こことか、濡れないだろうしいいんじゃねぇか?」
水筒やタオルなどの荷物を下ろし、買ったばかりのビーチサンダルの爪先を海に浸す。ちょうど大きい波がきて、冷たさが足首まで攫ってきた。びっくりして彰人の手首を掴むと、相棒は目を瞬かせてから笑う。そのあいだも、波は寄せては返しふたりの足元を掠めていく。
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