手一杯
「シノブ、今日妙に機嫌ええなあ? なんかええことでもあった?」
僕よりおかみさんの方が数倍機嫌がええように見えますけど。
東京は深川土産の浅蜊の佃煮と油揚げの味噌汁という粗食で師匠を送り出した人が作った、出来たてほかほかの暖かい朝食を眺めた。
炊いたばかりの新米に、バターの匂い。いかにもオムライスを作るためのオムレツだった。事前準備のオムレツは卵液が滲んで来ている。
何かの記念日かしれへんけど、これで夜はオムライスですかと聞いたら野暮やろな。そのまま機嫌良う兄弟子の話に流れでもしたら、藪蛇でもあるし。
それにしても、美味そうにオムレツを頬ばるおかみさんと来たら、妙に肌つやはええし、顔つきも明るい。
かつての母親の様子を見てたら分かるけど、男と上手く行ってるときの女は、ときどきこんな風になる。
付き合うてる女相手なら、その時々の会話の流れで化粧水でも変えたんかと聞くこともあるが、おかみさん相手ではまあ無理や。師匠の連れ合いでもある人と朝から妙な空気になるかもしれへんと思えば、これも妙な口は閉じて無難な話題を選ぶ方がええやろ。
「僕の機嫌、良いように見えますか?」
「なんとなくやけど。もしかして、あの九官鳥、元気なん?」
ああ、明らかに普段は気に掛けてへん相手を気に掛けるこの余裕。
「あいつなら元気です。あいつが元気な分は、僕が寝不足ですけど。」と口に出したら途端にあくびが出た。
鳥の世話は手間が掛かる…水や餌やりを忘れたら嘴で突かれるのだ。当たり前だが、階下は飲食店で、放し飼いは難しい。
「家族やもんねえ。」
「家族とはちゃいます。九官鳥ですから。」
そう言って味噌汁を啜った。
煮干しを切らして昨日から顆粒だしにしたせいか明らかに味が濃い。
「でもただのペットとは違うやろ。」
「……そうかもしれません。」
家族なんてもんは、この先も作る気はないが、それを口にすれば、逆に、世話したがりがどこからともなく湧いてくるのがこの世のおかしなとこや。
「仁志なんか、どんだけ縁日の金魚ダメにしたか分からへんよ。」とおかみさんが微笑む。
「金魚、ですか?」と問うと、おかみさんは、そう、と頷いた。
その顔を見れば、これは師匠の三番弟子の徒然亭小草若の話ではない、おかみさんと師匠との一粒種の子どもである、吉田仁志の話であると分かる。
「餌やりも、水換えるのも、最後は全部わたし任せになってまうの。あの子と違うて、シノブはそういうことなさそうやね。」
「そうですね。」
生返事をしながら、昨日の兄弟子の悔しそうな顔を思い出していた。
自分の世話すら良く出来とるとは思われへん年下の男は、大卒の弟弟子の前で落語の出来を叱られて、普段のように元気な振りすらも上手く出来なくなっていた。
すっかりしょげてしまったあの時の兄弟子の顔に、昔の自分が重なった。
あきらかに今の精一杯を出し切っているのに、まだ今のは全力やないと威勢のいい声で口にする、子どものような意地っ張り。あれでもう二十歳を過ぎているのである。
まあ、僕にはあれが可愛いとは、一生思われへんやろな。
「僕も、しばらく生き物はあの九官鳥だけで手一杯です。」と返すと、そうか、とおかみさんは言って、何が楽しいのか、ころころと幸せそうに笑った。
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