【名夏】名取さんと野良猫の話②
仕事から帰って来て、早々に部屋の電気を全部つける。
動物を飼うことなど久しぶりで、家を空けている間にその子の命が失われていないか、それだけがあまりにも心配だった。
その子はまだ出会って間もないが粗相をするような子ではないとなんとなく確信しており、心配していたのはそのことではなくてごはんをちゃんと食べられたか、変なところに入って出られなくなったりしていないかなどの命に関する心配だった。
玄関にはいなかった。
廊下、いない。
足早に部屋に向かって進んで行く。
トイレにもいない。脱衣所、浴室。いない。
リビングまで進んできてキッチン、寝室、と進んでやっとその姿を見つける。ベッドに居た。それも枕元。
「君、ずっとそこに居たのかい」
昨日からうちの同居人(仮)になったその猫は朝と変わらずベッドの上の、枕元に丸まって寝ていた。
もしかするとおれの匂いが色濃く残っているからじゃ、と勝手に想像して照れたりしてしまった。もしそうなら、数時間の付き合いだというのに随分懐いたものだなと嬉しく思う。
抱きかかえてやると眠そうに目をしぱしぱさせてこちらにやっと視線をくれた。猫のくせに危機感が感じられなくて少々心配にもなる。
「ただいま」
軽いその身体をもちあげたまま頭を撫でる。固い頭蓋骨の上の柔らかい毛並みはとても触り心地が良い。
耳を片方ずつ撫でてやるとほこほこしておりよく眠っていたのが手のひらから感じられる。きっと、やっと安心できる場所に辿り着いたのだろうと想像してしまった。うちにやっと辿り着いて、やっと心から休めるところに。
どうやって、どうしてうちに来たのかはわからないが運命なのかもしれないとロマンチストのようなことを思ってしまう。
そもそも、この子がここにいることがあまりにもしっくりきており飼うことに何の違和感もなかった。あるとしたらこの子のためのトイレやごはんを改めて買いそろえなくてはいけないと今やっと思い至ったことだ。あまりにも手がかからない子過ぎて世話をする道具が必要なことを失念していた。
それから。
「名前が必要か」
うちの子になるなら名前が必要だろう。
猫は眠そうな顔をしながら頭をこちらの撫でる手に自ら擦りつけてくる。忘れていたのか今頃喉を鳴らして見せており少し抜けているような態度にも可愛いとすら思った。
銀のような毛、緑色の目。
「そっくりだね」
そう言えば、最近あっていない。この猫によく似た友人は。今何をしているのだろうか。
「タカシ……って、猫に付ける名前じゃないね。ナツメかな」
ナツメと呼んだその猫は腕の中で尻尾を大きく揺らして目を細める。
「いいってことかな」
ごろごろと喉を鳴らしたままこちらを見てゆっくりと一度瞬きをした。まるで「いいよ」と言っているようだ。
この子はその友人にそっくりだった。
「ナツメ」
その綺麗な尻尾を振りながら、ナツメは嬉しそうに顎を上げて返事をする。
この子がここにいることに違和感を感じないのは、夏目に似ているせいなのだろうか。人と猫を重ねるなんておかしいことだとは思ったが、これがあまりにもしっくりくるのだからそうせざるを得ない。
だから、大切なことを確認し忘れていた。
「君、そういえば……女の子? 男の子?」
名前を与える前に本来なら気にかけてやる部分だろうが、あまりにも友人に似ているせいで雄だと脳が決めつけていたことに気がつく。
まあ、もうどっちでもいい。
「女の子でも男の子でも、素敵な名前だよ」
腕の中の小さくて温かい可愛らしいその子はまるで嬉しそうな顔でこちらを見ているように見えた。腕を伝ってきた喉を鳴らすくるくるした音が、間違いなく喜びを表していた。
▽
かしかし、と聞きなれない軽い音が続く。
流していたシャワーを止めて周りを見渡すと風呂の扉の方から音がすることに気が付いた。扉の前に小さい影が伸びている。
身体を流してそこを少し開けてやると、案の定同居人……いや同居猫が鼻先を押し込むようにして顔を押し込んできている。
「風呂に入るの、嫌じゃないの?」
頭が通らずこちらに入ってこれないのを見て扉をもう少し開けてやると、肉球を濡らしながらも浴室に入ってきてしまった。
「あら……濡れちゃうよ」
あら、なんて普段言わないようなことを自分で口にしたのが耳に入ってきてまた笑ってしまう。この子には沢山振り回されるんだろうなと一瞬で想像が出来た。
珍しく溜めた浴槽の、半分閉じた蓋の上に華麗にその子は飛び乗った。つられるように自分も湯舟に入り、目線を同じくする。飼い主が見えなくなってまた置いていかれるかもと心配してここまで来たのだろうか。真意は分からないが湯の熱で温かくなった蓋の上を数回足踏みして回り、そこに腰を下ろした。
丸くなってくれたおかげでちょうど顔とお尻がこちらを向いていたので少し濡れている手で申し訳ないが尻尾をそっと持ち上げる。
「あ、やっぱり男の子」
声をだしたのとほぼ同時にフーッと威嚇するような小さな声を上げられてすぐ手を離した。突然尻尾を掴まれてそれは嫌だっただろう。
「ごめんごめん」
威嚇様の声を上げて、鼻筋に皺を寄せたが体勢はそのまま目の前で丸くなったままだったので本気で怒っているわけではないとすぐ分かった。皺の寄った鼻筋の短い毛をしょりしょり撫でてあげるとすぐ気持ちよさそうに目を細める。ちいさくくるくる喉が鳴るのも聞こえた。
こんなに小さくて触れられることに慣れていなくて、でも離れてはいかない。本当に出会って一日程度の存在なのだろうか。もっと前から懐にこうして入ってきているような気がする。小さくて守ってあげないといけないようなふわふわな存在だからなのか。
すぐ不安になったり、威嚇してみたり、その相手に心をすぐ許したように喉を鳴らすなんて、なんて。庇護欲だろうか。その言葉で表すには足りない気もする。
撫でていた手に自らの鼻先を擦りつけてきて、開いた瞼の奥の瞳と目が合う。ゆっくり瞬いた。
あまりにも可愛いらしくて自分の身体が濡れていることや髪から水が滴っていることなども全部放ってその丸まった体躯を腕で囲うようにして抱き、その鼻先に顔を寄せる。猫吸いとか鼻ちゅーの単語が頭を一瞬で駆けて行く。
湿った鼻先とこちらの鼻が触れて、一呼吸おいたあとにナツメは我に返るように目を見開いて大きく後ろに飛び退いていってしまった。
「あ、ごめん、濡れるの嫌だったかい」
シャワー後だったので髪から落ちた雫が綺麗な背の毛並みを滑り落ちていく。猫なんだから水は嫌いだろう。……そこに自ら入ってきたのはこの子だが。
猫がキスを嫌がるわけはないと勝手に思ってしまっていた。今後ろに下がったのは、濡れたのが嫌なのだと勝手に思い込んでいるのは飼い主の都合のいい解釈だろう。
「せっかくここまで来たんだし、お風呂はいっちゃえば……」
と退いた身体を再度掴もうとしたところで逃げようとして蓋の上から足を踏み外し浴槽の外に置いてあった湯の溜まる桶に運よく、または運悪く落ちてしまった。
あ、と声を上げて立ち上がったのと桶がカコンとひっくり返る音が浴室に響く。
「え」
「え?」
目は開いたままで居たのに、何が起きたのか全く分からない。
ひっくり返った桶の横に全体的に肌色の夏目が見える。
「え?」
「えっ」
見てはいけないものだとすぐ判断し視線を天井にすぐ投げた。
意味が分からない状況なのにこういう時こそ何故か頭の中は冷静で、そういえば先ほど飼い主が猫にキスするくらい普通かと思って流れるようにキスしてしまったなあなどとこちらも裸のまま棒立ちで天井を見ながら考えていた。
猫じゃなかったのか。夏目だったのか。
他の人には見えない、妖なんてものが存在する世界なんだから人が猫になったりしてもおかしくはないのかもしれない。そういう術があってもおかしくないじゃないか。
それよりナツメ、君が猫じゃないんだったら。
「夏目、さっきキスしてごめ」
「こっち見ないでください!!」
気を遣って天井を見ていたが謝罪は目を見てするべきだと混乱した頭で考えた結果、夏目の裸を不意にまた直視するところだった。いつもより赤くなった肌が見えたところで、顎に下から上へと鈍痛があり、突然の衝撃で無残にも自分の舌を噛んでしまい言葉をすぐに発せなかった。
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