誕生会
日暮亭の夜席が終わって、人の引けたロビーは静かだった。
喉も乾いたし、つぶつぶオレンジの缶でも買って帰るか、と思って自販機の前でぼんやりと立っていると、草々に呼び止められた。
「おい、草若。」
「なんや草々。」
相変わらず目付きの悪いやっちゃな。
「今年、四草の誕生会どうする、やるか?」と聞かれて、あ、と思った。
「……もうそないな時期か。」
あれは忘れもしない……いや、師匠が亡くなりはる前やったから……。
「ここしばらくはバタバタしてたけど、そろそろええやろ。十周年とかの格好付けんでも、師匠がもうおらへんからこそ、時々は口実付けて集まった方がええんやないか、て草原兄さんに言われてな。」
「あれからもう何年や?」と尋ねると、目の前で、ひ、ふ、み、よ、と草々が長い指を折っていく。その仕草を、オレはぼんやりと眺めていた。
「ま、何年前でもええか。とにかく、お前もどうするか考えとけよ。」
普段なら、命令すんなボケ、と返すところだが、オレの口から出て来たのは「その日は開けとく。」という言葉だった。
春である。
花粉も飛び、黄砂も乱れ飛ぶこの時期に、一足先に世に生まれ出た弟のことを思い浮かべる。四草の誕生会の話が出たのも、そういえば草原兄さんの言葉がきっかけやったな、と思い出した。
二月の寒い日だった。
当時、四草は「僕、ちょっと落語会の前座に呼ばれていまして。」と言って、その落語会の名前も場所も時間も明かさずにそそくさと出て行く日があって、あの日もそうだった。まあ、名前が付かないような、そば付の小さな落語会なら、ここ大阪では珍しくもない話だった。ひとつひとつの名前なんか憶えていられないのもあるやろうと思って、草原兄さんもオレらも気にしてなかった。
常々ミーハーなファンにモテるやっちゃ、とは思っていたが、そのミーちゃんハーちゃんパワーもえらいもんで。なんと師匠も預かり知らぬとこで、四草には私設ファンクラブのようなものが出来ていて、そのファンクラブの面々が徴収した頼母子講のような会費で、難波に近いコミュニティセンターの会議室を貸し切って、『四草会』という謎の落語会が開催され始めていたのだった。
四草は前座で出ると言っていたが、当初は前座もやるがトリも務めるという完全なひとり独演会で、他の一門の師匠方が聴いたら、大仰な会の名前と合わせて「そないな独演会、あってたまりますかいな。」と眉を顰めそうな話だとは思うが、普通はアイドルのコンサートに流れるような筋が打ち立てた落語の会だからして、落語界の常識などは、全く関係がないのだった。(聞くところによると、チケットは完全にファンクラブの会員の間とその三親等内の紹介者の販売で、毎回完売御礼だったというのが恐ろしい。)
そのうち、口コミで話が広がる頃には、草々も創作落語で前座を務めるようになっていたが、広くも狭くもない会場で、皆四草を見に来たはずなのに反応もいい客ばかりだったと言っていた。まあ、四草の前座になってもいいという奇特な人間以外では、話が掛からんやろうなと思う。
ちなみに草原兄さんもタコ芝居の練習がしたい、と言う口実で、そのけったいな名前の落語会の前座にねじ込んだことがあったらしいが、オレが呼ばれたことは一度もない。
新しい草若ちゃんはそんな嫉妬深い男とちゃうで……。
「四草が入門してきたときは、こないに長く一門に居付くとは思ってませんでしたね。」
あの冬の日の稽古終わりに草原兄さんがそないにして切り出して、「そういえば、あいつがオレのとこに顔を出してからもう十年か。」と師匠が思い出したように言ったのだった。
兄さんの後ろで並んで稽古の様子を聞いていたオレと草々は、とっさに顔を見合わせた。「若狭姉さん」はひとり、ひっきりなしのテレビの仕事で外に出ていた頃の話だ。
師匠の方にこらえ性がないせいで、あいつも師匠のとこに顔を出してから一年経たんうちに入門してきたから、つまりは今年の十二月で入門十周年、と草原兄さんが気付いて、それから師匠が「十二月ではいつもの一門会や若狭の誕生日と被るで、そないに連日酒を浴びてはオレの胃がもたん、四草も誕生会にしたらええやないか。」と言い出してからが早かった。
下手したら花見の時期や、この辺の店も予約でいっぱいに違いないと寝床に場所を移して夕飯を食べがてら相談してたら、寝床の大将が「草若さん、うちなら空いてるで!」と手を挙げてくれたのだった。これで料理の心配もなくなった。
元々誕生会企画が持ち上がったわけやのうて、誕生会にしたらええやないか企画やったわけや。
あの後は、オヤジが死んでなんやそういうお祝いムードでもないか、とお流れになったり、オレ自身が落語を止めたいと思ってふらふらしてたりしたこともあって、その間に若狭の出産、日暮亭のオープンとバタバタしているうちに、随分と間が開いてしまった。
「オレは暇やからええけど、そっちはどうやねん。子育てひと段落したと言っても、喜代美ちゃんにとってはまだまだ忙しい時期ちゃうんか?」
「若狭はなあ……まあ今年も確定申告でひいひい言ってるわ。」と頭を掻いた。
「出れるんか?」
「それがなあ、なんやもうオレが話を切り出す前から無の顔でな、『そっちで勝手にやっててください、ボーイズだけの方が四草兄さんも気楽やと思います。』と、こうや。」
草々が肩を竦めるポーズをする。喜代美ちゃんがするなら可愛げがあるが、草々では冬眠から目覚めた熊だ。
「ボーイズて。」
もうオレらもそんな年でもないやろ。
「『面白い話あったら聞かせてください、後で創作落語のネタにします。』て言われたら、オレもそうかぁ、て、そないな風になってしまってな。」
「そうかぁ。」とオレも気落ちしてしまう。
「草々兄さん! 何小草若兄さんに全部バラしとんなってですか。私、ちゃんとオブラートに包んで伝えてくださいねて言うたやないですか!」
「喜代美ちゃん、聞いてたんかいな!」
しかも小草若兄さんになってんで。
おっちょこちょいなとこは、おかみさんになっても変わらんなあ。
「今日はお疲れ様でした、草若兄さん。」とかっちり一礼して「草々兄さん、私がこないして草若兄さんに挨拶に来るの分かってて、聞こえるように言ったんですよね?」と草々に迫っている。
草々は、その喜代美ちゃんの迫力に気圧されて「そうかて、どうせ場所は前みたいに寝床に頼むことになるし、一晩くらいなら、子どもの面倒見んのは小草々に任せといたらええやないか。」と若干引き気味になっている。
「そうやで、喜代美ちゃん。一門の、皆が揃わんと、四草やって寂しいやろ。」
「いや、四草兄さんは末っ子の私おらんと、いくら誕生日でも兄さんらぁには雑用頼みにくいからやと思いますけど。」とあの頃によく見た顔で遠い目をしている。
「そらちゃうで、四草はなぁ、あれでいて……。」
可愛いとこあんねんで、というのもなあ、と口を濁す。
オレが分かりにくいくせに分かり易い四番弟子のフォローをできずに口ごもってる横で、草々が(そら一理あるな)の顔をしている。
この夫婦、ほんまに割れ鍋に綴じ蓋やな……。
「四草の誕生会の日程、前みたいに前日からにするか、当日にするかも相談せなならんから、草原兄さんに声掛けとくわ。」
「選ぶんなら、日取りが良い方にしたらどうですか? 大安吉日とか、一粒万倍日とか。」
「喜代美ちゃん、……宝くじ買う日とちゃうんやから。」とオレが言うのも聞かずに、肝っ玉なおかあちゃんになったかつての五番弟子は、週末の夜席の客を見送るための和装のままでたったと歩いて行って、ロビーの別の隅っこに貼ってあった壁掛けのカレンダーを見上げた。
「あ、四草兄さんの誕生日、今年は金曜日でも土曜日でもないですね。番組作る前で良かった~!」と嬉しそうに言って、オレと草々のいるところに戻ってくる。
「師匠がおらん代わりにはならんと思いますけど、今年は私も出席させてください。」
「よう言った若狭!」と草々がハグするのでオレもオレも「喜代美ちゃ~ん!」と寄っていくと、「お前はあかん。オレの嫁や。」と草々に遮られた。
「草々兄さん……。」と喜代美ちゃんが潤んだ目で草々を見上げている。
いつまで経ってもこの夫婦は……。
「オレ、うちに帰るわ。」
「おい、草若、またな!」
「草若兄さん、また夜席来てくださいね! 皆ぁで待ってますから!」と大きな声が掛かる。
「しゃあないな、またトリで出たるわ。」と片手を挙げると、「稽古せえよ!」と草々の声が被る。
デカい声で言うなや、と振り返ると、ふたりが並んで笑っているところが見えた。
はは、なんやオレも笑顔になってまうな。
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