夜明けの天使。
ウィリアム・ボールドウッドはたった一人で屋敷に帰った。ボールドウッドは元軍人ひとりを銃殺したが、彼の功績と村人の信頼、それから背景も考慮されて数年のうちに自由の身となった。驚いたことに、彼を取り巻く環境はほとんど何も変わっていなかった。ボールドウッドが所有していた農地もまったくそのまま。土地も、勤めていた人間すら同じだった。投獄されたボールドウッドの代わりにガブリエルとバスティバが管理してくれていたからだ。
ボールドウッドの帰還は喜ばれた。誰もが彼の心を労り故人の話はしない。フランクの評判が既に落ちていたのもボールドウッドにとってはいい風向きだった。そしてボールドウッドはまた土地の管理者となり引き続き広大な土地と農地を管理し、穀物を育て、人間を雇った。
しかし村人たちの信頼や期待を他所に、ボールドウッドは滅多に屋敷から出てくることがなくなった。大きな屋敷にたった一人で住み続け品評会にも顔は出さない。比較的経験と信頼のある人間に品評会も農地の管理も任せて屋敷の中に閉じこもっている。
一日に一度、教会へ行くことを除いては。
ボールドウッドは誰も来ない、まだ夜も明けない早朝にたった一人で教会へ行く。誰にも姿を見せず、誰とすれ違うこともない。村の人間はそんなボールドウッドの噂を聞いては、罪と向き合っているのだ、と彼を評価した。
実際、ボールドウッドは教会で自身の気持ちと向き合っていた。ちっとも楽にならない気持ちを陰鬱に抱えて毎日教会へ向かう。ただし彼の気持ちはシンプルだ。素直に心中を告白すれば、フランクを撃ち殺した罪の意識など欠片もなかった。その代わり毎日神に乞うていた。罪の許しではなく、自身の愛の行き場を乞うていた。
ボールドウッドは愛に満ちた人間だった。誰かを愛することを望んでいた。ひとたび愛を感じれば彼の愛情は際限なく大きく膨らんでいく。ボールドウッドはその愛情の行き場を探していた。バスティバはもうここにはいない。オークと一緒にアメリカへ行ってしまった。ボールドウッドを気の毒に思う女性はいくらでもいる。屋敷を訪ねてくる美しい女性たちが。しかしボールドウッドは窓からそれを見下ろすだけで姿を見せることすらしなかった。誰にも心が動かない。きっと目の前にバスティバがいてもボールドウッドの破裂間際の愛は救われない。胸中に渦巻く彼の愛は行き場を失ってボールドウッドを苦しめた。
陽も昇らぬ早朝、いつものようにボールドウッドが薄暗い教会に入るとそこには珍しいことに先客がいた。村の誰とも関わり合いになりたくないボールドウッドは日課である礼拝を戸惑った。すぐに引き返さなかったのは、薄暗い教会の中に見える人影に違和感があったからだ。真っ白なコートを着ているせいで輝いて見える人影は村の誰とも違うようだった。こんな小さな教会に村の外からわざわざ誰が来るというのか。
ボールドウッドが引き返すべきか迷っていると白い人影は真っ直ぐに立ち上がってボールドウッドを振り返る。ボールドウッドに負けていない陰鬱な昏い眼球が彼をじっと見つめ、やがて静かに一筋の涙で頬を濡らした。
「ずっと君を待っていたのに、神は君を許さなかった」
ぐず、と泣いた人影は恨めしそうにボールドウッドを睨みつける。何の話かさっぱり分からなかったが、神が許さなかったということだけはすぐに理解ができた。村や役場の人間はボールドウッドの罪を許したが、神は彼の罪を許さなかったらしい。
意外なことではなかった。ボールドウッドは柔らかい微笑みすら浮かべて「そうか」と言った。
「そうか、だと? 君は分かってない。それがどんなことを意味するのかを」
「なら、どうなる?」
「地獄に堕ちるんだ。僕はずっと君を待っていたのに、君は地獄に堕ちるんだ。地獄に堕ちて永遠につまらない事務仕事をさせられるか、それとも永遠に穴を落ち続けるか。蛇に頭を食われ続けるかもしれないし、永遠にインクの補充をさせられるかも。……もしかしたら見た目がいいから卑猥な仕事に就くかもしれない。君、地獄ってところがどんなところか知らないだろう。……僕もよく知らないけれど」
昏い表情をしているが元は明るい性格だったのだろう、よく回る口からは澱みなく言葉が溢れ、その声の抑揚は心地がいい。じっとりとボールドウッドを見つめる眼球はすっかり陰気だが、その端々ではたまに星が輝くように光が弾けた。
「私のせいで泣いているのなら涙がもったいない。今すぐ泣き止んだ方がいい」
「僕はどうすればいい。君を、ずっと待っていたのに」
拭ってやらなくてはいけない気がしたボールドウッドは指先で彼の涙を掬い上げる。肌は柔らかく涙は熱い。非現実的な話をしてはいるが、彼はただの人間のように思えた。俯いて困惑し、グズグズと泣く男の頬を捕まえて顔を覗き込む。
「泣いてはいけない」
「僕の勝手だ」
「あなたはきっと人を間違えている」
ボールドウッドの言葉に彼は機嫌を悪くした。自分の服で乱暴に涙を拭い目を擦り上げボールドウッドの手を払う。一人で長椅子に座ってしまうと一度だけ鼻を啜って再び話を続けた。
「少しだけ昔、僕は仕事中に君を見かけた。僕は反射的に君のことを呼ぼうとしたんだ。けれど呼ぶ名前が思い出せなかった。たしかに君を呼びたいはずなのに、懐かしい君に声をかけたかったのに、僕は声を失ったみたいに何も言えなくなった。僕には昔の記憶がない。地上勤務になる前の記憶がないんだ。前にしていた仕事のことや機密記録を覗く方法は覚えているのに、誰と会ってどんな話をしたのかがさっぱり思い出せない。でも僕は君のことを呼ぼうとしたんだ。覚えてるんだよ、君のことだけは。君のその魂の形を忘れたくなくて、僕は忘れなかったんだ。なのに、」
「申し訳ないが私はあなたを知らない」
「僕は君の魂の形に反応した!間違えるはずがない」
ボールドウッドはこれほどまでの熱烈な告白を受けたことがなかった。いいや、これは告白なんて甘いものではない。まるで責められているような心地になったボールドウッドは戸惑いに眉を下げた。
ボールドウッドはどうしていいか分からなかった。彼の言う事を鵜吞みにすることも出来ず、かといって無下にする気にもなれない。どこかで頭を打ってしまったのだろうか、と思わず男の頭頂部を見下ろせば、彼の髪が赤く燃えているように見えた。
ボールドウッドは、はっとして教会の窓を見る。いつの間にか夜が明けていた。朝陽が窓から差し込んで男の髪をいっそう赤く照らしているのだ。
「すまない、私はそろそろ、」
言い終わる前に教会の扉が開かれる。ボールドウッドの知った顔だ。しまった、とボールドウッドが表情を曇らせたその瞬間、訪れたばかりの礼拝者は扉を開けた格好のままピタリと動きを止めてしまった。木々が揺れる音も、鳥のさえずりも聴こえない。
「ウィリアム・ボールドウッド」
呼ばれて男を振り返ると、彼は真っ白な、まるで天使のような羽を広げてボールドウッドを見下ろしていた。冷たい視線の中に深い絶望を滲ませている。この絶望はたった今ボールドウッドが与えたものだ。神に再び見放されたボールドウッドとその魂が、男を絶望させた。
「君を愚かな人間にした神を僕はまた嫌いになった。どうしてこんなことをするんだと質問もさせてくれない神のことを、僕はとびきり嫌いになった。もう天使でいたくない。誰でもいい、僕を彼と同じ地獄に堕としてくれ。僕は彼と一緒にいたいんだ」
これほどまで美しい存在は後にも先にも見ることはないだろう。頬を静かに流れ落ちていく絶望の涙、深い孤独に苛まれた昏い眼球、キリスト像の前で神を嫌い、地獄を乞い、そのくせ不釣り合いなほどに白い羽。ボールドウッドは無意識に男へ手を伸ばしていた。
「そんなことを言うものじゃない。あなたはあなたのままでいればいいんだ。私がきっとあなたを見つける。今度は私が、地獄の底から這い出してでも、必ず、」
濡れた陰鬱な眼球の奥が輝いてボールドウッドを見る。
「クロウリー。僕はクロウリーだ。約束してくれ、ウィリアム。絶対に僕を見つけると」
縋るように伸ばされたクロウリーの腕を引き寄せ抱きしめる。その感触は間違いなく初めて抱く男の身体だったが、まるで触れ合った場所から溶けて一緒になるような心地がした。
きっとそれは、彼の言う魂というものが溶けた感触なのだろう。
ウィリアム・ボールドウッドの屋敷にあるとびきり大きなベッドの上でクロウリーは屋敷の主に抱き締められていた。ボールドウッドは悪魔になってからというもの滅多に眠らなくなったが、眠るクロウリーを腕の中に閉じ込めておくのは好きだった。クロウリーも閉じ込められることに賛成している。まだ人間だった頃の温かさを残したボールドウッドの腕の中は心地がいい。たまに低く歌う声がクロウリーは堪らなく好きだった。
ボールドウッドは半年前に病で倒れ、地獄へ堕ちた。古びた藁半紙片手にやる気のない顔で罪と刑を告げる悪魔を目の前にしながらボールドウッドはクロウリーのことを思い出していた。隣に座る死にたての男はついさっき「永遠に鳥に啄まれる刑」を告げられていた。
自身の番が来たときボールドウッドは悪魔をきつく睨みつけ「何年かかってもいい、自分を地上勤務にしてくれ」と言った。生まれた時から人の下についたことがない。緊張も相まってボールドウッドは酷く高飛車になっていた。けれど悪魔は構わなかった。まるでボールドウッドのことなど見えていないかのように順番を飛ばした。
「待ってくれ、私は、」
「元天使を雑用に使うほど悪魔は余ってない」
蠅の王がいつの間にかボールドウッドの真横に立っていた。ボールドウッドは顔をなぞられ股間を鷲掴みされてから「地上がいいなら誘惑部門へ」と蠅の王から告げられた。
元天使だと言われたことには未だ疑問と違和感があるが、無事に地上勤務を得たボールドウッドはすぐにクロウリーを迎えに行った。クロウリーはずっと村の教会にいた。ボールドウッドはもう教会には入れなくなっていたが窓の外からクロウリーを呼んだ。感動の再会を期待したボールドウッドだが、クロウリーはボールドウッドがあまりにも早くに迎えに来たため酷く戸惑った。偽物かと疑うクロウリーに「元天使だと言われた」そう言えば「ああ、そうだった」と納得された。そしてようやく感動の再会。クロウリーはボールドウッドの腕の中。
「もう昼を過ぎるぞ、クロウリー」
「時間はあるって何度も言ってるだろ、ウィリアム。早く天使時間に慣れろよ」
「私は悪魔だけどね」
シーツの海に潜り込もうとするクロウリーの顔を捕まえ引き出し、ボールドウッドは柔らかい唇にキスをする。
「それから、もうウィリアムじゃない。アジラフェルだよ、クロウリー」
終
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