またトラックで



 寝返りを打とうと体を|捻《ひね》る。すると途端に痛みが足を駆け抜け、トガシは、大きくため息を吐いた。
 肉離れは深刻な痛みをもってトガシに療養を強いてきた。
 今年の大会はもう何も出られないとして、来年も間に合うかどうか。しばらくは丁寧に治すようにと口酸っぱく医者に怒られ、そうでなくともただ座るのでさえ|儘《まま》ならない痛みを抱えてトガシは大人しくベッドで寝転がる毎日を過ごしていた。
 自室で横になっているだけなのは、あの鮮やかな勝負の後だと、より一層苦痛だった。

 毎日、スマートフォンにはトガシの快挙に|方々《ほうぼう》から祝いの連絡がひっきりなしにくる。
 それだけでなく、契約終了の噂を聞きつけた実業団からもいくつかオファーの連絡があった。もちろん、その中には契約終了の手続き中である元所属会社からの再契約の打診も含まれている。
 知り合いからの返事は適当に返せばいいが、契約となると、じっくり考えなければならなかった。雇用形態についてや、いろいろな条件をつけれるのかどうか。走りだけに集中できた試合は終わり、将来に目を向けねばならない辛い時間が始まってしまった。
 それ以外でいうと、メディア関係者からの連絡も多くあった。
 今や取材はオンラインでも受けることができる。こんな状態なので断ろうかと思っていたが、足が動かないと、考える時間ばかりが残る。
 キャリア以外を見つめる時間を求めていたのもあり、しつこく頼まれてしまえば頷くしかなかったので、今日の午後はビデオ会議でインタビューの予定を入れていた。

 トガシはふとスマートフォンを手に取って、記者の名前を検索した。午後に顔合わせする予定のその記者だ。
 たまに見かける人なので顔は知っていたが、調べてみると数年前に陸上競技担当になったようだった。そういうわけで、トガシと同世代の選手の名前ばかり含まれる記事が検索結果に並んでいる。
 先日の日本陸上では走り終わった後すぐに倒れてしまい、車椅子で運ばれたため、ミックスゾーンで報道陣と相対することもなかったが、その後取材を受けていないわけではなかった。
 スポーツ紙にはトガシと小宮の写真が並んで掲載されたし、小宮もインタビューを受けているのを、テレビで時々見かける。
 ふと、そのほとんどがはいかいいえの答えばかりだったのを思い出して、トガシは笑った。
 あんな受け答えでも彼の態度は昔と違って貫禄があり、だからこそ久々にメディア対応をする自分の方がより浮ついて見えた。
 陸上の練習もできない今、記者の傾向を予習でもして、メディア対策をした方がマシかもしれない。

 そうしてしばらく記事を漁ったり、記者の著書まであたってみると、その記者は選手と関係を築くのがうまい人柄のようだとよくわかってきた。
 トップ選手陣の大会期間のプライベートな過ごし方までしっかり把握している。
 はからずしも小宮の半生を記した文章を読む羽目にもなり、そんなところにまで記者の手腕が発揮されていた。メディアに対してもほとんど打ち解けていない小宮から、高校時代のこのことまで聞き出していたのだ。

 ──「高校は、部員数は多かったが話す人はいなかった。それでも陸上をやる上で問題のない環境だった」そう小宮は話す。実際彼が本格的に指導を受け始めたのは実業団に入ってからで、孤高の姿は十代から完成されていた。

 どこまで彼が話した言葉かは定かではないが、それは確かにトガシが見た光景と一致している。
 実態は排斥に近いように感じたが、それを小宮が話すこともないだろう。

 その小宮の記事を全てを読み終わったあと、トガシはスマートフォンを枕元に置いて、天井を見上げた。
 そこに自分の名前は一つもなかった。





 トガシは、どこかそれに安心している自分にも気がついていた。
 小宮を作り上げたのは小宮自身だ。彼の走りに未来を見出せなかった自分の前で、彼は彼の走りを見つけた。
 彼にとってトガシは一体なんなのだろう。
 ただ勝負した存在、それだけだ。そんなちっぽけな関係を世間に晒されていないことはむしろ幸いだった。
 今二人は同い年ということで注目されている。
 急に記録を叩き出したトガシには、この大会だけ調子が良かっただとか、着実に積み上げた努力で才能が開花しただとか、もうあの怪我では復帰は叶わないだとか、種々雑多な声が寄せられている。
 ここで走りを始める前からの知り合いなのだと、かつてフォームを教えたことがあっただと、そんなことが一つでも漏れてしまったらさらに望まない方向で騒がれてしまうだろう。
 自分がプレッシャーに弱かったことを思い出してくる。なんだか胃が重く感じた。
 やっぱり、早く走りに戻りたかった。



「それで次の質問なんですが、小宮選手とトガシ選手は同じ小学校だったというのは本当でしょうか」
 歪んでいる。自分の顔が。
 トガシはモニターに映るカメラ映像越しで、自分の笑顔が引き攣っているのを、しっかりと見た。
 こういう顔を晒さないようなフィルターはないのかと、咄嗟に会議アプリにあたってしまうくらいあからさまだった。
 ゴホン、と咳き込み、仕切り直す。
「はい、そうですね。彼が引っ越してしまったので数ヶ月だけでしたが」
 こういうのはどこから漏れるのか、きっと同級生がどこかで話題に出したんだろうが、メディア関係者というのは耳が早い。
「それはすごい縁ですね。連絡は取り合っていたんでしょうか?」
「いえ、幼かったもので連絡先もわからず、引っ越しを知った時は驚いたものです」
「トガシ選手は小中と全国一位でしたが、その頃小宮選手は大会には出場していませんでしたね。それでも当時から小宮選手は足が速かったのでしょうか?」
 小宮に聞けない分、こちらに回ってきているな、とトガシは感じた。
「ええ、そうですね。走りへの熱意が当時から素晴らしかったです。どんどんタイムも更新していっていました。あっでも、すみません、今話したことを掲載される場合は、小宮選手に許可をいただいてからでよろしいですか?懐かしさから勝手に話してしまって、いや申し訳ないです」
「もちろんです、いやあ、こちらこそすみません。二人の歴史に興奮してしまって、次は小宮選手とトガシ選手の対談をぜひ実現しましょう!」
 勘弁してくれ、とトガシは思ったが、我慢して笑った。
 今度の笑顔は引き攣ってはいなかった。

 午後に予定していたインタビューはそうやって滞りなく進み、インタビューという体をなさない雑談も交えて明るい雰囲気で終了となった。契約先がまだ決まっていないことを伝えると、それぞれの企業の内情やコーチ陣の特徴、他の選手の事例を教えてくれたり、トガシにとってもかなり実りがあった。





 しばらくすれば、松葉杖なしでも歩けるようなり、負荷のかからないトレーニングを再開できた。筋肉が落ちていく不安から解消されたのと、やっとできることが増えて、精神的にも楽になった。
 松葉杖を使って、それこそとてつもない痛みを我慢して死ぬ思いで通院したり、買い物をしたりしていた頃は、出かけるたび写真を撮られて辟易していたが、今なら多少笑顔を作れそうだ。

 トガシは、その日、精密検査のため病院に来ていた。
 関係筋から紹介してもらった大きな病院で、一般には診察を開放していない。大会前のトガシであればここで受診はできなかった。
 こうやって定期的に診察を受けることができているのは、連盟側が大会の結果を踏まえてトガシを強化選手に選抜したからだった。
 いま最も専門的に診てくれる病院はここの他になく、つまりそこの医者の言うことを信用しないわけにはいかないということだ。
 そしてその医者はトガシに今日
「ま、これなら思ったより早期にまた走れますよ」
 と言った。
「あ、ほんとですか」
 思わず、気の抜けた声が漏れる。
 専門医がいう|走《﹅》|れ《﹅》|る《﹅》というのは、ただ治るわけでなく、|タ《﹅》|イ《﹅》|ム《﹅》|が《﹅》|出《﹅》|る《﹅》|速《﹅》|度《﹅》|で《﹅》|走《﹅》|れ《﹅》|る《﹅》を意味している。
「次の大会のスケジュールにそって治療計画も再度調整していきましょう」
「はい。ありがとうございます」
「くれぐれも焦らないでくださいね。ではまた次の検診で」

 焦るも何もない。トガシは|人気《ひとけ》のない病院の待合室で、ソファに体を沈めた。
 いや、やはり自分が気づいてないうちに焦っていて、それが|側《はた》から見ればまるわかりなもので、医者はああ言ったのかもしれない。

 次の記録が大勢の人々の期待するものを出せるかわからなかった。引退なんて気にせず走ったのに、いまでは不確定の将来をできるだけマシなものに確定させるために、慎重に選ばなければならない。不自由さが足から頭まで迫り上がってくるようで、大きく息を吐いた。
 早く走りたかった。痛みも、メディアも、契約も、ほとんど話したことのない人たちからの連絡も、全て後方に置き去りにして、速く、もっと速く走りたい。
「はあー……」
 トガシがそうやって待ち時間を潰していると、ふと気配がする。
 ぼすん、と隣に誰か座る音がした。
 こんなに空いているのに、わざわざトガシの隣にだ。
 訝しみながら横を見たトガシは、すぐに目を丸くした。
「小宮くん」
 久しぶり、というのは十年の月日にその挨拶を使ってしまったことを思うとそぐわない。
 それよりここに彼がいることに違和感があった。
「え、どこか悪いの?」
「ううん。病院じゃなくて、隣の施設に練習しにきただけ」
「へえ」
 じゃあなんでここにいるのかと疑問が残った。わざわざトガシを見つけて、それでここまできたのだろうか。
 トガシと横並びになった小宮は、そのまま前を向いて話し始めた。
「トガシくん、景色が見えたよ」
「……ああ、価値があっただろ」
「それで考えたんだ。僕がこの十年、君の言う幸福感を目の当たりしなかった理由、それは見ようとしてないものが多くあったからだ」
 トガシは姿勢を起こして座り直した。
 十年ずっと表情を一切変えてこなかったような、小宮のかたい横顔を覗き込むためだ。
 彼は真剣に話している。そして、それは自身にも影響を与えそうなことだと感じ取れた。
「走りが人生を変えた。でも誰かがそれをやったんだ」
「君だよ。君が君の人生を変えたんじゃないか」
「そうだ。そうでもあるし、そうじゃないとも言える。僕の目の前に現れた大勢の人が、僕の人生に影響を与えてきた。僕は他者に内面を決して明け渡さず、記録を塗り替えることだけを目指してそれ以外は全て排除してきた。でも、そうすると記録すら手元には残らなくて、虚しさだけがただ居座るものだとわかってきた。人生なんてくれてやるつもりだったけど、人生はいくら渡してやっても、なくならないんだよ。僕はもっと他に目を向ける必要があった。人にはそれぞれのやり方があるが、他人を遠ざける対処法は、自分のやり方が何かを見えなくさせた。他者と比較してこそ自分の輪郭が見えてくる」
 小宮はふい、と顔をトガシに向けた。
 ばちり、と目線がぶつかる。
「ある人が、対戦相手だけが、僕に一位を生み出させると言った」
「……なるほど、確かにそうかもしれない」
「トガシくん。僕は本気で走るよ。君はどうするの」
「…………」
 トガシを真正面に捉える小宮の目には、ものすごい力が宿っていた。
 ギラギラとしていて、トガシは息を飲んだ。その熱が目線越しにトガシの方までうつってくるようだった。
「そりゃまあ、うん」
「トガシくん。うちに来なよ」
「……は?」
「僕の所属先」
 急な話題の転換だったが、その企業名が大会のすぐ後からメールフォルダに確かにあったことをトガシは覚えていた。規模が大きい陸上部を持つ実業団で、自前の設備の良さも伝え聞く。
「君の怪我の頻度と専属コーチの不在は再発の可能性を示唆している。日々身体のデータを測定して、そこから練習内容を調整することで防げるものは増えてくる。これは個人でできる範囲が限られているし、設備やサポートチームが必要だ。僕の所属先はトレーナーやコーチの層が厚いから、君に合う人もいるだろうし、いなければ外部から合う人を連れてこれるコネクションもある。故障をなくすことはできなくても僕はそういった外部リソースを利用して故障の確率を減らすようにしている、たとえば左右の筋肉量の少しの差でも普段のトレーニングが過剰な負荷につながりかねないけど、そういったことにも難なく対処ができる」
「……まさか、他に目を向ける必要を感じて、他人に目を向け始めたの?驚いたな。俺の怪我の頻度まで知ってるなんて」
 トガシはその勢いに、昔を思い出した。
 もはや昔の面影が薄いと思っていた小宮が、急にあの頃のようなのめりこみを見せてくるから、懐かしさも感じるし、ある意味の新鮮味も感じるし、あとちょっと怖い。
「記事を読んだから」
「記事?まさか、あれもう掲載されたのか?」
 先日トガシがオンラインで受けたインタビューで、確かに今までの怪我の様子も記者に話していた。他の選手の故障頻度と比較して盛り上がったのもあり、つい話すぎてしまったが、油断すると何もかも載せられてしまう。
 それほどボリュームのある記事ではないとは思うが、勝手に半生を記されていたらどうしようと、トガシの悩みがまた一つ増えた。
「掲載はまだだけど、記者から連絡があって、載せても良いかって聞かれたから読んだんだ」
「……本当に許可をわざわざ小宮くんにとったんだ」
「うん。別にいいって答えたら、来週の記事で載せるって言ってた」
「へえ、……あ、よかったの?聞かれたから答えたんだけど、昔の話を」
「別に。僕は聞かれたことがなかったから、話さなかっただけだよ」
 そんなことはないだろう、とトガシは思った。自分が記者でも高校から突然現れた無敗のスプリンターの経歴をなんとか聞き出そうとする。
「小宮くんが十代をどう過ごしたかなんてみんな気になるだろうから、答えてくれると分かればこれからめちゃくちゃ聞かれるぜ」
「トガシくんも気になるの?」
「ん?うん、中学時代なにしてたんだろうと思ったことはあるけど」
「そう」
 しばらく小宮は無言になった。一辺倒だなと、トガシは苦笑する。
 そうしているうちに小宮が、椅子から腰を上げた。
 去っていくのかと思い
「じゃあね」
 とトガシが声をかけると、小宮は立ち去らずに、じっとトガシの方を見つめる。
「なに?」
「君のことを聞かれた時、僕も話してもいいの」
 何を聞くのかと思えばそんなことだ。トガシの方が先に話してしまったのだから、ここで話すなと言うのもフェアじゃない。
「なんでもどうぞ」
「わかった」
「お手柔らかに」
 今度こそ小宮は「またね」と言った。
「ああ、またトラックで」
 トガシのその返事に口角をあげ、小宮は踵を返した。

 トガシはまた待合の椅子に体を沈めた。
 早期にスプリンターとして再度走れるようになると言った医者。トラックで、という一言に満足げに笑う小宮。
 今日のトガシはきちんとアスリートだった。周りがそうさせた。
 怪我の具合もマシになり今日の検査の結果が出そろえば、それをもってそろそろ本格的に契約先を探さなければならない。
 他人を遠ざけようとするのをやめた小宮が、トガシの契約先を提案するなんて、なぜだか笑えた。
 今トガシの足は不自由さを忘れて、うずうずしていた。
「まずは、小宮くんのところに連絡するかな」

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