卒業

「えっ」
 という僕の声は、ちゃんと外に出ただろうか。もしかしたら口の中でとどまって、誰の耳にも届かなかったかもしれない。そもそも頭で思っただけだったかも。
 わからないまま数秒経って、テーブル越しの師匠が訝しげに首を傾げた。「モブ? 聞いてっか?」やっぱり声には出てなかったみたいだ。僕は膝の上に置いた手を拳に握りしめて「はい」と答えた。
「ええと……あの。もう一回お願いします」
「だーかーらぁ。高校決まったんだろ? そしたらここも卒業だなって」
 言ったんだよ、と続けながら師匠はたこ焼きを頬張って、熱かったみたいですぐに両手で口を押さえた。噴き出すのは我慢できたらしい。正直助かった、超能力で受け止める余裕もなかったのだ。
 あれ。どうして? 僕は今日、結構めでたいことを報告しに相談所へ来たはずだ。志望校受かりました、って。師匠も勉強見てくれたおかげです、あんまり役には立たなかったけど。いやそうじゃなくて、試験のときに緊張しないコツとか。要領よく問題全体を見る手法とか。そういうのはすごく――なんて。そんな話を。しようと思っていた、のに。
 合格しました、と告げた僕に、師匠は最初からわかっていたかのように『そうか、よくやったな』と笑って。それから言ったのだ。
「ここも、卒業……って、どういう……」
「おいおいなんつー顔だよ。高校生になったらおまえも他のバイトしたいだろ? 自分で金貯めて服買ったりとかさ」
「ふく……」
 服。も、ほしいけど。
 俯く僕の様子をじっと見て、師匠はたこ焼きを飲み込んでから「おいモブ」と言った。ああ、このたこ焼きだって僕が来る前から用意されていたものだ。全部ぜんぶ師匠は準備していた。きっともっと、ずっと前から。
「何も二度と来るなって言ってるわけじゃない。節目とか区切りとか、あくまでそういうもんだよ。そいつが俺からの卒業証書だと思えばいい」
 そいつ、と言いながら爪楊枝で示すのは、僕の目の前にも置かれたたこ焼きの舟だ。こんな卒業証書があってたまるか。
 まだ湯気の立つたこ焼きを睨みつけていると、おもむろに師匠の手がこちらに伸びてきた。刺しっぱなしの爪楊枝でひとつ持ち上げ僕の口に問答無用で突っ込む。熱い。
「中学卒業するのと同じだ。卒業したってたまに遊びに来てもいいし、なんなら教師として赴任するかもしれない。縁が切れるわけじゃないんだぜ?」
「それは……そうかもしれないですけど……だからって、」
 卒業、しなくても。
 続く言葉は音にもならず、たこ焼きと一緒に飲み込まれた。そんな僕に師匠は「ははーん」と顎に指を当てていつもの顔をする。僕の心の内を言い当てるあの顔だ。
「さてはモブくん。寂しいんだろ? わかるぜ、青春を過ごした場所を離れがたい気持ちはさぁ」
 立ち上がった師匠は僕の座るソファに無理やり尻をねじ込み、僕の肩に腕を回す。ぽんぽんと肩を叩く手は遠慮がないようで、ごく優しい力加減だった。
「ましてやここには俺っていう――ごほん。俺がいるんだからな。そりゃ卒業なんて言われたら寂しくなっちまうよなぁ」
 ひとりでうんうんと頷く師匠の動きにつられて、僕の身体もぐにゃぐゃ揺れる。肉改部で鍛えたはずの体幹はちっとも働かなかった。こんにゃくにでもなった気分だ。
 師匠は不意に動きを止め、「でもな、モブよ」と僕の肩に触れる手に力を込めた。
「それも“卒業”だ。誰もが経験するし、誰もが経験しなきゃならんことなんだ。……ずっと同じ場所に留まってるなんてできないんだからな」
 おまえもよく知ってるはずだろ?
 そう言う師匠の視線がこちらを向いているのがわかる。わかるけれど、僕は顔を上げることができなかった。当然だ。こんな顔見せられるわけがない。
 でもどうせ、師匠には全部見えているのだ。僕の顔も、僕にはわからない僕自身の心の内も。師匠は最後にぽんと一度肩を叩いてソファから立ち上がった。
「今すぐ納得しなくてもいい。いくらでも時間はあるさ」
「……時間なんてないでしょ。卒業式、もうすぐなのに」
 減らず口のように言う僕に、師匠はデスクにもたれかかり首を傾げて笑った。窓から射し込む陽光を背負った無邪気な笑顔は何かを思い出す。
「それもまた、“卒業”だ。……モブ」
 別れ際の友達みたいだと、僕は思った。
 
 
 ---
 
 
 月明かりだけが照らす暗闇の中、畳んだままの布団の上に頭を預けて考える。最近は夜もずっと机に向かっていたから、こんな時間にリラックスしているのはなんだか奇妙な感覚だった。冬の夜の住宅街が静かなこと、勉強に必死だったときには気づかなかった。なんの音も聞こえてこない。
 リラックス。とも、違うか。お風呂上がりで温まった手足は冷えていくばかりなのに、早く布団を敷いて眠るべきなのに、僕の頭は昼間のことでいっぱいでリラックスとは程遠い。師匠の言葉は跳ね回っては僕の目の前で立ち止まり、試すように微笑みかける。『それもまた、“卒業”だ』。
「意味不明だ、師匠……」
 師匠の言葉が難解なのは今に始まったことじゃない。わかるようで、わからない。わからないようで、なんとなくわかる。そんなものの間を行ったり来たりして、最後にはいつのまにか人の心を解きほぐしているのが師匠なのだ。
 だからいずれは、あの言葉の意味もわかるときが来るのだろう。……でも。
「……やっぱり腹立つな……」
 だって。だって。僕はおめでたいことを報告しに行ったはずなのだ。あんな展開、まったく想定していなかった。おめでとうって、志望校受かるなんてやるなって、おまえもついに高校生かって、そう――――。
「……あ」
 褒めてもらう、はずだったのだ。
 そう気づいたとき、胸につかえていたものの一部がふっと落ちるのを感じた。そうか、僕は師匠に褒めてもらいたかったのか。
 なるほど、とひとりごちた僕はもたれていた布団から起き上がり、おもむろに布団を敷き始めた。身体はずいぶん冷えてしまったが顔だけは熱い気がする。
 恥ずかしい。子供っぽい。もう高校生になるっていうのに。
 でも、やっぱり。
「――褒めて、もらいたかったな」
 
 
 
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 陽気な音楽と一緒に明るい声でそんな文言が流れていくのを、僕の耳は呆然と聞き取っていた。静かな冬の夜の住宅街? なんの音も聞こえてこない? そんなものとは対極の場所だ。電気もつけていなかった暗がりから一転、煌々と明るい蛍光灯に照らされ目が眩む。
 僕は布団を敷こうとしていた中途半端な中腰の姿勢で、突如まったく別の場所に現れていた。目の前にいるのは――ああ、言うまでもない。ぽかんと口を開けた師匠が、レジカウンターに向かって手を伸ばしたまま僕を見ていた。
 コンビニ店員が師匠に渡そうとしていたビニール袋が音を立ててカウンターに落ちる。重さと大きさからしてお弁当だろうか。店員の視線もまた僕に釘付けなのを見て、僕はようやく状況を理解した。やってしまった。布団ごと来なかっただけいくらかマシだが、そんなもの慰めにもならない。
 謎の姿勢で固まる僕と、弁当を取り落としたまま固まる店員と、弁当を受け取ろうと手を差し伸ばしたまま固まる師匠と。陽気な音楽がそんな三人の間を虚ろに通り過ぎていく。地獄のような空気の中、最初に立ち直ったのは当然というか師匠だった。
「――あざっした!」
 早口でそう言ったかと思うとカウンターに落ちた弁当の袋をわしづかみ、ついでに僕の腕も掴んで師匠は風のようにコンビニを後にした。閉まりかける自動ドアの向こうから「……ざっした」と小さな声が追いかけてきて、それきり辺りは再び夜の住宅街の静けさに包まれる。
 しばらく無言で歩き続ける間、師匠は痛いほどの力で僕の腕を掴んでいた。きっと余裕がないのだ。珍しいなと思いながら早足に引きずられるまま歩いていると、不意に師匠が「あっ」と声を上げて立ち止まった。
「おっまえ、裸足じゃねーか! 言えよ!」
「ああ……ほんとだ。気づきませんでした」
 ぺたりと持ち上げた足裏はすっかり汚れていた。「ったくよー」とぼやく師匠はおもむろにコートを脱ぎ始め、ビニール袋と共に僕に持たせる。それから背中を向けてしゃがみ込んだ。
「どうしたんですか、師匠」
「冬の夜中に裸足で外歩かせられるか。それ着ておぶされ」
 持たされたコートは僕には腕も丈もずいぶん長い。弁当はしっかり持ってろよ、と言われ、もたつく袖の中で滑らないようぎゅっと持ち手を握り直した。そのままおそるおそる師匠の背中におぶさる。
「もっと体重かけろって。バランス取りづらいから」
「はっ、はい」
 よっと、と軽い掛け声と共に師匠が身体を起こす。肉改部のみんなやエクボほどではなくとも、意外と安定感のある背中だった。
 思えば誰かの背中に運ばれたことは何度かあれど、こんなふうにごく普通の体調のときに背負われるのは初めてだ。怪我もしていないしフラフラなわけでもない。いいのかな。
 不安はよぎったが心地よさのほうがまさってしまい、結局何も言わなかった。
「気づかなくて悪かったな。なんか踏まなかったか?」
「いえ。踏んでたら気づいたと思います」
「そりゃそーか」
 弁当の袋が師匠の胸の前でかさかさと揺れる音がする。革靴が地面を踏み締めて歩く音も。師匠の頭越しに前を見てみれば、見慣れない景色を等間隔に並んだ街灯が照らしていた。僕の知らない、師匠の帰り道。
 ……帰り道、だよな? そういえばどこに向かっているのかわからないということに今更気づき、僕はひとり焦り始めた。このまま僕の家に行かれちゃ困る。
「……おまえさぁ」
 僕が頭の中で保身に走っているとも知らず、師匠はぽつりとそう漏らした。平静を装って「はい」と返せば、一瞬の考えるような間のあと普段通りの声音で師匠は続けた。
「それ、悪霊とかのせいじゃないんだよな?」
「それ……」
「今のだよ。テレポート? っていうのか?」
「ああ。そういうのじゃないです」
「そういうのじゃないか。ならいいや」
 ならいいのか。いいのか?
 師匠はそれきり口をつぐみ、僕も話しかけたりはしなかった。どこに向かっているのかわからない不安よりも、やっぱり心地よさのほうがまさってしまったのだ。
 寒いのに暖かい師匠の体温。露天風呂ってこんな感じだったな、と頭の片隅で考えつつ、僕はもっと昔のことを思い出していた。
 出会ったばかりの、今よりずっと小さい頃。こうやっておぶってもらったことがあったっけ。
 理由までは思い出せない。転んだのかもしれないし、眠くなったのかもしれない。でも少なくとも、そのときの僕も今と同じだったのだ。今この瞬間が、この心地よい感覚が、ずっと続けばいいのにって――――。
「着いたぞ」
 いつのまにかウトウトしていたようで、不意にかけられたその声に僕はハッと目を覚ました。前後がわからないような寝ぼけた視界で辺りを見回すが、どう考えても僕の家ではない。
 カンカンカン、と軽快な音を立てて師匠は階段を上る。それからある部屋の前で立ち止まり、「あーしまった」と声を上げた。
「モブ、ポケットの中に鍵があるんだが。取れるか?」
 師匠が言っているのはコートではなくスーツのポケットのことだった。僕の両手は弁当の袋ともたついた袖で塞がっており、そうでなくともおぶさった状態では手が届かない。あっさり諦めて超能力で鍵を引っ張り出し、鍵とついでにドアも開けた。
「サンキュ」
 室内に入った師匠の背後でドアがひとりでに閉まる。見る人が見ればこれも怪奇現象なんだろうか。でも見ている人はいない、この場には僕と師匠しかいない。
 僕と師匠、ふたりの当たり前しかここにはない。
 師匠は三和土に放り出されていたサンダルの上に僕を下ろし、「ちょっと待ってろ」と言い置いて部屋の中に消えた。ゴソゴソ何かを物色する物音と、少しして蛇口から水が流れる音。びしゃびしゃシンクを水が叩く音のあと、師匠は手拭いを持って玄関に戻ってきた。
「これで足拭いて。こたつ、まだあったまってないだろうけどとりあえず入っとけ。飯食ったか?」
「あ、はい。お風呂も入って寝るところだったので」
「そうか。悪いが先に俺の夕飯食わせてくれ。家まで送るから」
 拭った足裏でぺたりと師匠の部屋を踏み締める。ひんやりとしたフローリングは僕の家と同じようで少し違った感覚だ。こっち、と手招きされた洗面所で手を洗ってうがいをして、それから言われたとおりリビングのこたつに両足を突っ込んでみた。ぬるい。けど、冬の夜の外気にさらされて冷え切った身体には火傷しそうなほど熱い。
 弁当を取り出しているらしい師匠の声がキッチンのほうから聞こえてくる。「げえ。やっぱダメだったか」落とした弁当はやはり大惨事だったらしい。レンジを開け閉めする音や温め完了を知らせる音がしたから、弁当を持ってこちらに来るのかと思いきや師匠はそのままキッチンで立ち食いし始めたようだった。
 五分も経たないうちに師匠はキッチンから出てきて、今度はクローゼットを漁りだす。あれでもないこれでもないと引っ張り出してきたのはダウンジャケットだった。
「何年か前に着てたやつ。おまえにはデカいだろうけどそのコートよりはマシだろ。あとこれも履いとけ」
 新品だから、と厚手の靴下を投げて寄越される。タグには赤と黄色の目立つ文字でSALEとでっかく書いてあった。
 タグを外していそいそ靴下を履いていると、次は玄関のほうに消えた師匠が「げっ」と「あっ」の中間くらいの声を上げた。“やっちまった”ときの声だ。
「靴はさすがにねえな……サンダルならギリいけるか……?」
「あっ、ししょお、あの」
 慌てて靴下を履ききってダウンジャケットも着込み、転げるように玄関に走る。「あの、これで」見えない力が自分の身体をほんのわずか浮かせ、僕は師匠の目の前に立った。
「これで大丈夫です」
 床との距離は一センチもないくらいだ。サイズの合わないダウンジャケットを着て丸々とした僕の全身をぽかんと眺め、師匠は呆然と呟いた。
「……おまえ、それ……さっきもやれよ……」
 
 
 ---
 
 
 外に出て鍵をかけるなり、師匠は急いで両手をコートのポケットに突っ込んだ。
「いやー、さっみぃなあ!」
 その格好で大丈夫そうか? と問われ、ダウンジャケットに半分埋まった頭でこくりと頷く。もっと着込めばいいのにと思うほど、師匠は普段どおりだった。スーツとコートは防御力が高くないだろうに。
 早足に階段を降りる師匠の後ろを、ほんのり浮いた僕がついていく。状況も格好も何もかも落ち着かず、僕は手持ち無沙汰な気分で空を見上げた。
「そういや、家に連絡しなくていいのか?」
 不意に師匠が振り返ってそう声をかけてくる。「あ、はい。今――」言いかけ、なんとなく口をつぐんだ。こちらに顔を向ける師匠の、その表情を見たからだ。
 いつもどおりの、何も変わりない師匠だった。あまりにも。
 僕はもう一度空を見上げてひとつまばたきをした。師匠が「今?」と怪訝そうに首を傾げている。
「今、なんだ? テレパシーでも送ったとか?」
「テレパシーは使えないって言ったでしょ……だから、師匠、」
 師匠を通り過ぎてその前に立つ。立ち止まった師匠はやっぱりいつもの顔をしていた。
 この“いつも”に、いつまでも甘えていることはできない。心地よさに身を委ねて、このままでいることは。
「アンタが何を言いたかったのか、教えてください。言ってくれないとわかりません」
 テレパシー、使えないので。
 見上げる師匠の瞳に僕の姿が映っている。僕を浮かせる超能力のプリズムが、陽炎のようにゆらゆらと揺れているのが見えた。力の揺らぎが示すものは明らかだ。
 それが見えているのかいないのか、しばし黙り込んだあと師匠はぽんと僕の肩に手のひらを置いて歩き出した。
「ま、とりあえず歩こうぜ。寒いし」
「師匠、」
「ごまかすつもりはねーよ」
 安心しろと、師匠は言った。今まで何度も僕を勇気づけてきた言葉だ、ざわついていた心が無条件に落ち着いてしまう。立ち止まる様子もなくどんどん遠ざかっていく背中を、それでも恨めしく睨みつけてから、僕は師匠を追いかけた。
 隣に並ぶなり僕の前髪を師匠の指がぴんと弾く。突然のことに目を丸くしていれば、師匠は「はは。眉間のシワ」と言って笑った。
「――師匠っ」
「たぶんさ。わかってるんだと思うぜ、おまえは」
 唐突な言葉に今度はぱちくりと目を瞬かせる。そんな僕を横目に見下ろす師匠の眼差しははっとするほど優しい。
「俺が何を言いたいか。何を言いたくないか、何を察してほしがってるのか……何を甘えてるのか。全部ぜんぶわかってるよ、おまえは」
 師匠が連ねるそれらはまるで立場が逆だった。言いたくない? 察してほしい? 甘えてる? すべて僕が師匠にしていたことだ。そのとき自覚はなくとも、きっとずっとそうやってきた。僕が感じていた心地よさの正体はそれなのだ。
「……あ」
 そう思い当たった瞬間、周囲の何もかもが逆さになったような感覚がした。言いたくなくて、察してほしくて、甘えていて。それができるこの人との時間と空間を心地よく思っている僕。
 僕がそうなら、師匠だって。
「な?」
 くすぐったがるように笑った師匠はくしゃくしゃと僕の頭を撫でる。髪の毛をかき混ぜられて首をすくめるが、師匠の手は止まる気配がなかった。「ちょ、やめてくださいって、」仕方がないので更に浮き上がり手から逃れると、僕を見上げる師匠は見たことのない顔をしていた。
 ゆるく細めたまなじりと、ほんの少し力を込めた口元。それでも唇は笑んでいて、瞳はどこか遠くを見ているような気がした。視界に映っているのは僕だけのはずなのに。
「ほんとはさ。卒業しなきゃなんねえのは俺のほうなんだ。さっきおまえがテレポートしてきたとき、真っ先に何考えたと思う?」
「……わかりません」
「“そんなに俺から卒業したくなかったのか”って。そりゃ驚いたけど、絶対どっかで喜んでた。そういう大人なんだよ、俺は」
 いつのまにか止まっていた師匠の足が再び歩き出して、僕はまた宙空に置いていかれてしまった。追いかけようとしてから目線が高いことに気づき、意味もなく泳ぐようにもがいて師匠の隣に収まる。
 そんな僕を、師匠はやっぱり優しい眼差しで見下ろしていた。
「ああ、“俺から”ってのも違うか。“相談所から”、だよな。悪い」
「いえ。どっちもなので、合ってます」
「そっか」
「はい」
 ふふ、とくすぐったそうに笑う姿に、ふと昼間の師匠が重なった。別れ際の友達みたいだと思った師匠の笑顔。一緒に蘇るのはあのときの師匠の言葉。『それもまた、“卒業”だ』。
 不意にすとんと胸の中に何かが落ちる。寂しくて、恋しくて、でも待ってくれない――そうか。“卒業”って、これなんだ。
「あー! 卒業したくねえなー!」
 そう思ったのと、師匠が空に向かって高らかに叫んだのはほぼ同時だった。閑静な住宅街では喧騒が遮ってくれることもなく、師匠の声は遠くまで響き渡っただろう。キンと張り詰めた冬の空気を震わせて、あとに残るのは余韻だけ。
 へへ、と笑う師匠の鼻の頭が真っ赤になっていた。寒いからかもしれないし、恥ずかしかったのかもしれない。理由なんてどうでもいい、その赤さに気づいた瞬間、僕はたまらず再び浮き上がって師匠の前に立ち塞がった。
「アンタ自分で言ったじゃないか。卒業したからって縁が切れるわけでもないし、今すぐ納得しなくてもいいって。なのになんで、なんでアンタだけ、」
 外気に触れて冷たい両手で師匠の頬を挟む。目の前の人は今度こそ困惑した顔をしていた。“いつも”じゃない顔、準備していない顔。
「ひとりで勝手に決めて、諦めた顔、しないで」
 冷たい両手と、冷たい頬と。触れ合って、どちらからともなくじわりと熱を持っていく。
 上から見下ろす師匠の姿は新鮮だった。驚きに見開いた瞳の色がよく見える。ああ、いつかと逆だ。
「……そんな顔してる? 俺」
「してます。なんですか卒業証書って。あんなもん用意する前にやることが……」
 あるでしょ、と最後まで言う前に口をつぐむことには成功したが、察しが良すぎる師匠には慌てたところで手遅れだった。ここまで近づいていれば表情の動きはそれこそ手に取るようにわかる。
 怪訝そうに眉が寄って、それから再び丸く見開かれる。「えっ、もしかしておまえ、」かあっと頭が熱くなり、気づいたときには視界がすっかり変わっていた。今までちゃんと頭より上にあったはずの住宅街の屋根がはるか足元だ。
「うわわっ、何してんだモブ! ぜってぇ離すなよ!?」
 頬を僕の両手に挟まれっぱなしの師匠が青ざめながらそう言った。このままでいいのか。面白い顔になってるけど。
 なんだか笑えてきた僕は、師匠の身体が冷えないように薄くバリアを張ってから家に向かってふわふわと移動し始めた。酔ってしまわないかと思ったけど、この人の顔を見ていればそんな心配もない。
「おまっ、モブ! モブ――――!!」
「――あははっ」
 
 
 ---
 
 
 影山家の屋根が見えてきた頃、僕たちは空中散歩を終えて地上に戻ってきた。おそるおそる地面に足をつける師匠をそっと下ろして手を離す。
「送ってくれてありがとうございます、師匠」
「送ったっつーか……まあいいや。風邪引くなよ」
 やれやれと首を振る師匠に挨拶をして家のほうを振り返ると、二階の辺りに浮かぶ緑色の光が見えた。僕たちが気づいたことがわかったのか、合図のように身体を揺らめかせて家の中へ消える。
「ん? あれエクボか?」
「さっき師匠の家まで様子見に来てくれてたんです。すぐ戻っていったから、律にも伝えてくれたんだと思うんだけど」
 心配かけちゃったかな、とひとりごちる僕を横目に、師匠は「なるほど。便利なテレパシーだな」と片眉を上げていた。エクボがまた怒りそうな言い方だ。
「ずいぶん冷えちまっただろ。風呂入り直してとっとと寝とけ。風邪で卒業式欠席なんて嫌だろ?」
「絶対嫌ですね。そうします」
 おやすみなさい、師匠。再びふわりと浮き上がり、一礼してから背を向ける。二階の窓を目指して上昇しようとしたそのとき、僕の腕をぐいっと掴んで引き寄せるものがあった。
 言うまでもない。師匠だ。
「モブ、」
 風船みたいに抵抗なく僕の身体は引き戻される。振り返りざまのその一瞬、僕はしっかりと師匠の顔を見ていた。予想していたわけじゃない、最初から知っていたのだ。僕も。
 僕を引き寄せた師匠の手が頭の上にぽんと乗る。やわく髪をかき混ぜて、誇らしげに師匠は笑った。
「合格おめでとう、モブ。よくやったな」
 あるべきところにあるべきものがようやくぴたりと嵌まった感覚があった。胸の奥から滲むように暖かな何かが広がっていく。
 これだ。僕たちはきっと、この感覚が心地よかったのだ。言いたくなくて、察してほしくて、甘えていて。でもそれは、必ずしも悪いことってわけじゃない。悪いのはそのボタンを掛け違えたとき、言うべき言葉を飲み込んでしまうこと。
 だから僕は、笑って応える。この喜びが、胸に広がる温もりができるかぎりこの人に伝わるようにと。
「ありがとうございます、師匠。――師匠も」
 言葉も表情も足りない気がして、僕はもう一歩分の距離を踏み越えた。
「師匠も、卒業おめでとうございます。……これからもよろしくお願いしますね」
 僕を引き寄せた師匠の腕の中に勢いよく飛び込む。師匠は両腕を浮かせたまま固まり、しばらくしてからゆるゆると僕を抱きしめ返してくれた。「ふふ。なんだそれ」と笑う振動が伝ってくる。
「卒業してねえじゃんか、それ」
「しましたよ。したからって、今すぐ何か変えなきゃいけないわけじゃないんです。アンタが言ったんでしょ」
「言ったかなぁ……」
「言いました」
 僕にばっかり甘いんだから。
 回した手で師匠の後ろ頭をほんの少しだけ撫で、僕は身体を離した。「おやすみなさい、師匠。師匠も風邪引かないでくださいね」手を振って浮き上がる。そんな僕に、師匠は何度も見たあの顔で微笑みかけて言った。
「ああ。――またな」
 同じだけど、違う顔。もう諦めてなんかない。寂しくも、恋しくもない。僕たちは一緒に続いていく。
「――はい。また!」
 背を向けて離れていく僕を、今度はどんな顔で見ているだろうか。気になったけれど、やっぱり知っている気がして、僕は振り返らなかった。
 自分の部屋の窓に近づけば、向こう側では律とエクボが待っている。心配をかけたに違いないのに優しく笑って出迎えるふたりに、僕も笑顔でただいまを言うべく、冬の空気をめいっぱい吸い込んだ。
 
 
 
 了

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