湯呑


「……はあ、しんど………。」と言って宮坂が診療所のテーブルに突っ伏した。
宮坂が突っ伏している周りには、医学書と僕がプリントアウトを手伝った先行論文で紙の林が出来ていて、本にも紙にも章立てに使う箇所で分けている色とりどりの付箋が、びっしりとついている。
時計を見ると、診療所は午後八時を回ったところだ。お互い白衣は脱いで私服になっている。
八時か。
キリがいいとは言えないとはいえ、休憩は必要だ。
そう思って、一旦論文の打ち込みとコピーアンドペーストの手を止めてパソコンの画面から顔を上げた。
このところの暑さを思えば、外回りの僕より、マスクをして一日診療所で患者応対していた宮坂の方が疲労の色が濃いのも、まあ仕方がないことだろう。
今手を付けているのも、本来、宮坂本人が一人でなすべきタスクだった。しかし、目の前の元同級生兼同僚からカレーまんという人参を貢がれた上、過去に一也とバチバチに張り合っていた自分を彷彿とさせる勢いで依頼されたので仕方がないと割り切るしかない。これも浮世の義理というやつだ。
高級マンションの所謂ペントハウスに住んでいた頃、金払いはいいがしつこい患者だと言って不機嫌そうな顔で出かけていった人の背中を思い出す。
手持ち無沙汰になった指でパーカーの紐を引っ張りながら、「休憩するか?」と無難に声を掛けると、「そうね。」と言って宮坂が顔を上げた。
「コーヒーと麦茶のどっちだ? 僕は冷たい麦茶にする。暖めたいなら自分でやってくれ。」
「冷たい麦茶。」
ごめんね和久井君、つきあわせちゃって、と殊勝なことを言っているが、このタイミングで下手に『お前頑張ってるよ。』などと口を出せば「上から目線!」といつものように反駁が来るのは必至だ。いや、むしろ反論するくらいの元気はあって欲しいところだった。こういうときに殊勝な顔されたところで、こちらの調子が狂うだけだ。まあ互いに不快になると分かっていて、上っ面のいたわりを言葉にしようとすることもないか。論文を自分で書き上げるのは、読むだけの頃から大変そうだとは分かっていたけれど、症例の管理、既存の論文の参照に仮説検証分析その他論立て、やることに限りがない。いくらハウツー本が出回っていても、そこに書かれているのは一般論であって、応用して書き上げるためには時間が掛かる。大したことをしているのは素人目に見ていても分かる。
そもそも、今夜は一也が先生と連れ立ってナイターに出かけてしまったので、身体は空いていたのだ。別に賄賂がなくとも、頼まれればこのくらいの手伝いはしたはずだ。
無駄口は止め、うん、と伸びをした。
そうして、五人目の同僚となった女に茶を汲むために席を立った。
毎日毎日、こちらに噛みついてくる気配が強い相手に僕も甘くなったものだと思うが、受験の時期だけならともかく、二十代半ばの今でも落ち込んでいる気配を察した麻上さんからコーヒーを淹れてもらっている自分のことを思えば、これくらいはしてやってもいいという仏の気持ちが先立つ。
第一、体力が無尽蔵な男と働き、それを精神力だけで補っていつか勝ってやると思って毎日120%の力を出している宮坂の姿勢を、倒れないようにバックアップしてやることは、自分のためでもある。
まあ、宮坂はまだ一也自身を見ているのだから、まともな方だろう。過去、正味似たようなことをしようとしていた僕はと言えば、一也本人と張り合う気持ちがあるならともかく、同居していた大人の気を惹くためにやっていたのだ。
戸棚から、宮坂が実家から持って来たマグカップと、普段自分が使っている湯呑を出した。
泉平のどこかの寿司屋の開店祝いに先生のご両親が貰って来たという寸胴の湯呑で、戸棚の奥に仕舞われて埃を被っていたところを年末の大掃除で見つけて以来、何を飲むにもこれを使っている。
それまではずっと患者さんにお茶を出すときのいつもの紺地に水玉の湯呑のスペアを使っていたけれど、容量の大きさと、ぼんやりしたいときに眺めると魚の漢字が覚えられるところが気に入っている。全く使い道はないだろうけど、アジとカツオとマグロとイワシは漢字で書けるようになった。
ほら、と冷蔵庫のポットから麦茶を注いで出すと、宮坂は一気に飲み干して、おかわりまだあるかな、と言って立ち上がった。僕が椅子に掛けた座高とそう変わらない身長で、よくこれだけのエネルギーがあると思う。
「論文、もう終わりそうか?」
「急患が入らなければ。この調子なら明後日にはどうにか。ありがとうございます。和久井大明神!」
宮坂は、大仰に柏手をして頭を下げた。
「これで最後だぞ。それにしても、今週は予約も急病人も少ないくらいだったのに、何で捗ってないんだよ。昼に少しずつ進めたら良かったんじゃないか?」
「無理よう。自動保存機能は使ってるけど、万一急患が来て、文書の保存を忘れたまま、後でうっかり乗って書いていたところが消えたりしたら、って思うと、集中出来ないんだもん。そういうことがあると、悔やんでも悔やみきれないんだから。大学入ったばかりの頃なんて、下宿の部屋の壁が薄くて集中出来なかったから、何度ミスったことか。」
思い出したら頭痛がしてきたわ、と言って、宮坂は額に手を当てている。
良く回る口だ。
そんなにしゃべれたのか、と言いたくなるが、確かにどの家に行っても、宮坂先生は話が分かりやすい、とベタ褒めだ。僕が来たばかりの時とはえらい違いだなと思ってはいるけれど、『一也ちゃん』のファンクラブのような村の中で一応宮坂は「K先生を慕って来た」一也の「ただの」同級生という位置づけになっている。勿論かっこ付きだ。一也の方の気持ちは大体バレている。
「時間は掛かってるけど、これでも大学入ったばかりの頃から比べたら、マシになったのよ。論文のろの字も分からなかったもの。あの頃はコピーとかそういうのは手分けをして人海戦術でやってたから、今回は本当に助かりました。……あ、そうだ。和久井君のやってる分、後でバックアップだけ取らせてね。」と言って宮坂はメモリスティックを持ち上げた。
寝て起きて明日になったら忘れてるような感謝だろうけど、まあ有難く受け取ってやるか。
「そういえば、中学の頃、受験校を決める前に…っと、…和久井君、夕方のニュースに出てた高校、覚えてる?」
「ああ。」と頷くと、宮坂は茶を啜りながら、今日のローカルニュースで取り上げられていたM市にある有名校の名を挙げた。ここに来て早数年、県内の地理はまだ分からないことがあるが、そんな僕でも何度か聞いたことがある。
「あの高校に行ったら、レポートの授業があるから大学生活の準備になるし、制服がないから、好きな長さのスカートでいい、冬場の下宿代なら気にしなくていいからって母に言われたけど、遠いから諦めちゃったのよね。まああっちに行ってたら、当然ながら黒須君には会えなかったわけだけど。」
「……冬場の下宿?」
「雪で電車が止まったりするじゃない。別に家が裕福じゃなくても、大学入る前から冬だけ下宿から学校に通ってる子は少なくないのよ。」
「ふうん。」
県内と言っても、小さな県なら二つや三つは入るほどの面積を誇るN県のことだ。泉平駅から近い宮坂の家からとなると、関東であれば越県するほど通学時間が長くなる。
「中学の時はまだ卵アレルギーだったんだろ、下宿は無理じゃないか?」
「そうなんだけど、自分からは言えなかっただけで、ちょっと行きたいと思ってたのよ。自主自立の校風に、格好いいお姉さんとお兄さんがいる学校って母から刷り込みされてもいたし。まあ和久井君も薄々分かってると思うけど、小さい頃からアレルギーで色々あったから、うちって親が甘いの。子どもの頃から、何でもとは言わないけど、許す限りのことは好きにさせてもらってた。あの刺繍のお針箱だって、あれ和久井君も私に身体には大きくて不格好って思うでしょ? あれ、子どもの頃に我儘言って一番大きいのをねだったのよ。」
自分と同じ大きさの針箱を持って移動する小さい宮坂の図が頭に浮かんで来た。
ふは、と吹き出すと、宮坂は一瞬だけ眉を上げたが、そういう反応には慣れてます、という高校の頃のような澄まし顔になった。
一也がいないときの宮坂は、時々こういう顔をしていた。
進学校の泉平には、小中の頃から塾に通っているような生徒も多かった。泉平に入れば、最低ランクの成績でも地元の国公立には余裕という空気があるせいか、高三の受験期と言っても、逆に、休憩中も机にかじりついているような生徒が多数派というわけでもなかった。昼休憩の時間、譲介が学食から戻って来ると、そういった空気に逆らうかのようにがむしゃらに単語帳を開いたりチャート式を眺めて何かを書き込んだりしていた。
そして、集中が切れると窓の外を見ていた。
「そういえば、インドアの趣味なんて他にいくらもあるだろうに、どうして刺繍だったんだ?」
そう尋ねると、宮坂はうーん、と言って考え込むような顔になった。
「当時は編み物がしたかったけど、手が小さかったからか編み棒を繰るのが巧く出来なくて。刺繍は手が小さくても出来るし。」
なるほど、選択肢があって、得意な方を伸ばしたということらしい。
「選択と集中だな。」
教育方針としては、間違ってない。
「あと、身近な教師の有無ね。今よりまだ小さかった頃に、時々預かってもらってた祖母に一から刺繍を仕込まれて、やればやるだけ褒められたの。刺繍がうまくなればお嫁さんの貰い手がある、ってね。今思えばなんだかなあ、って感じだけどあの頃は……ただ褒められるのが嬉しかったし。……おばあちゃんのこと好きだったのよね。」
ずず、と宮坂が茶を啜る。
「そうだな。」
身近にいる大人に褒められることが嬉しくて張り切ってしまうという気持ちは、分からないでもない。僕もまた、親代わりに思っていた人に同じような依存をしていた。
「まあ、今こんな風にあの頃習った刺繍が役立ってるなんて思わないでしょうね。そろそろ、茄子の馬に乗って来たおばあちゃんに叱られそう。」
「叱られる?」
普通は逆じゃないのか、と眉を上げると、和久井君、そういうところは黒須君と似てる、と宮坂が笑った。
「そういえば、和久井君、その湯呑なんとかしないの?」
宮坂は、こちらが手にしている寿司屋の湯呑を指さす。
「なんとかって、何だよ。」
不自然にこっちに矛先を変えてきたな、と思ったがそれは口には出さない。自分のバックグラウンドの話というのは、自覚が戻って来ると妙に気恥ずかしくなるもので、口にするもしないも本人の自由だ。
「気に入ってるんならいいんだけど。最近はコーヒー飲むのもそれ使ってるでしょ。」
「大きい方がいいだろ?」
大は小を兼ねる、と言うと、宮坂から妙な目で見られた。
「譲介君もすっかりここに馴染んじゃって、このままだと譲介君、第二の村井さんになっちゃうかも、って麻上さんが気にしてたけど。」
「……それって。」
「うん、多分褒められてはなかったわね。アメリカに行ったら多分変わるわよね、って言ってたし……和久井君、ここに長いんだから、コーヒーとか飲むときのために自分のカップ、一個くらい買えば良かったじゃない。」
「村に一軒の瀬戸物屋もないのにどこで買うんだよ。第一、村井さんだってずっとあの水玉の湯呑だろ。」患者さんにお茶を飲んでもらうために出してあった紺色の湯呑は、今は片付けられてずっと使い捨ての紙コップになっているけれど、僕は村井さんにならってずっと同じ湯呑を使っていた。
「村井さんはああいうのが似合ってるからいいのよ。それに、薬品庫にはマイカップがあったでしょ。」
「いつもの薬品メーカーのロゴが入ってるやつな。そういえば……最初見た時ペン立てに使ってるのかと思って机にあるシャーペンと物差しとか入れて片付けようとしたら叱られた。」というと宮坂が「村井さんって怒ることあるの?」と言って妙な顔をした。
いや、お前まだ村井さんに叱られたことがないからいいけど、と口にしようとしたけど、藪蛇になりそうで止めた。
自分のカップか。
「気に入ったのがないなら、泉平の駅に出た時とか、ネットにだって色々あるじゃない。本を買うついでに探してみたら?」
「荷物になるだろ。」
「……まあそれもそうか。」
「人の心配してる場合か? 論文の締め切り前で尻に火がついてるヤツが余裕だな。」とニヤニヤすると、宮坂はまあそのままでいいならいいけど、と言ってふああ、と欠伸をした。
「やっぱりコーヒーも淹れようか。和久井君、飲むでしょ?」と宮坂は伸びをして立ち上がる。
――おい、譲介、おめぇも飲みてえのか?
「ん、……ああ。」
「何よその顔。」
「僕は元からこういう顔だよ。」
とっさに反論すると宮坂はそう、と思案気な顔をして電気ポットに水を汲み始めた。
「そういえば、先月、往診の時に、ほら、いつも注射から逃げ回ってる笹尾さんちのお孫さんいるでしょ。あの子のこと見てた黒須君が、譲介も、昔は噓泣きが上手くてさあ、ってしみじみしてたわよ。昔の方が可愛げがあった、って。」
「っ、………。」ゲホ、と空咳が出た。
お茶飲んでる時に噎せないでよ、と宮坂は他人事のように言った。
「実物は可愛げどころじゃないのに。……黒須君って変わってるわよね。ちょっと普通と着眼点が違うっていうか。」
宮坂がコーヒーの準備をしているので、その間に麦茶を飲んだばかりの二人分のカップを流しで濯いで、棚から紅茶とコーヒー兼用のカップを取り出す。来客用にか、診療所にはなぜか五客セットのティーカップがなぜか三組もあって、普段使いは一客欠けている四つしかない方を使うことにしている。
足りない茶碗。
普段は使わないティーカップ。
今使っているこの寿司屋の湯呑を見つけたとき、隣には、かつて誰かが使っていたらしい淡い水色の唐草模様のカップと、赤茶色で、水色のものより少し大きいだけの、揃いのカップが並んで仕舞われていた。K先生から聞いていた、この家から居なくなった人たちの思い出の欠片が、来歴も置き場所も忘れられた寸胴の湯呑の横にひっそりと並んでいた様子を見て、あの人が選り分けてくれた荷物の中に入っていた飯椀とカレー皿を、部屋の隅の段ボール箱に仕舞いつけたままにしていることをふと思い出した。
「………。」
しまった、忘れよう。
宮坂が、お湯そろそろ沸きそう、と独り言を言っている。
忘れよう、と思えば思うほど、記憶の箱から思い出が出て来る。
あの人が住まいを出て行くときに残した、小さな荷物がすっぽり収まった小箱だ。
まあ、引っ越しした時からそもそもの荷物が少なかった僕の部屋の物を一気にまとめようとしたのは、あの人かもしれないし、引っ越し業者かもしれない。それは分かる。
けど、どちらにせよ、無理やりこちらの荷を減らそうとして、気に入って使っていた人のカップを勝手に処分されてしまったことは今でもかなり恨んでいるし、残しておいたカレー皿など、逆に入れておいて欲しくはなかった。小腹が減ったと言ってあの人が、流しの皿立てに水を切っておいた「僕」の皿を、夜に時々自分でも使っていたのを知っている。(流しに洗って伏せてあったが、立てかける方向が違っていたりしたから分かるのだ。)
同居の最後の方は僕ももう、高校三年間で取り繕っていた体裁などはすっかりなげうっていたけれど、あの状態に至るまでのあの人がデリカシーに溢れている大人だったとも言い難い。
「テレビのコマーシャルで胸が大きい子を見てても、あれじゃ痩せすぎじゃないかな、って言うだけだし。」
「ああ。」
そもそも、勝手に要るものと要らないものとを分けられたことにも腹が立った。
新しい学校の新しい制服が来るたび、僕の分は、靴にシャツまで合わせて新調する。自分は古びたコートとブーツを大事に手入れしているくせに、引っ越しをするたび、古いものをさっさと捨てていけと言う。その矛盾に気付いていただろうか。
「プロ野球の選手のリーグ開幕前の筋肉の仕上がり具合を見ている方がよっぽど興奮してるわよ。」
「ああ。」
診療所に来るとき、まとめられた荷物には、三年間の思い出になりそうなものはほとんどなかった。あの人が僕に選んでくれた靴もネクタイも本も、その何もかもが消えて、僕が自分で選んだ服とシューズ、ノートと筆記用具以外と数少ない実用品以外は、ほとんど捨てられてしまっていた。
「医者にならなかったら野球選手になってたかもね。」
「ああ。」
それから、まあ、不在が多いことの詫び状のつもりか、ときどき作ってくれたカレーは美味しかった。
ついでに言うなら、旨いは旨かったけど、僕はあの人の作ってくれる普通の辛さのカレーに慣れるのには随分時間が掛かって、いつも食べている甘口のレトルトの味がどちらかというと好きだった。親の作る弁当がいつも同じ味だし不味い、という同級生の愚痴を聞くたびに、あいつら馬鹿だなと思っていたのに、図らずも同じ体験をさせてもらっていたわけだ。
あっという間に過ぎてしまった三年間の生活は、僕の中では消えずに残っているのに、あの人と行った場所も、食べた食事も、その時のあの人の顔も、写真にもノートにも残してなかった。
思い出すよすがは、この記憶の中以外にはほとんどない。
「……和久井君、聞いてる?」もうコーヒー淹れたんだけど、と宮坂が言った。
「え、ああ。」
「いいわよ、相槌打つのが面倒になってきたんでしょ。」
悪いな、ぼんやりしてて、と言ってカップ取り出そうとして、なぜか一也の分のカップも出さなきゃな、という考えがふと頭の中に浮かんで、持っていた湯呑が指から滑って床に落ちた。
ゴト、ゴロゴロ、と床に転がって行く湯呑を、コーヒーサーバー片手の宮坂と一緒に眺めた。
「……その湯呑、丈夫ね。」
「ああ。どこに置いておいても見つけやすいし、壊れにくいだろ。」と言って、湯呑を拾って埃を払う。
いつも使うものなら、こんな風に壊れにくくて、頑丈なものがいい。
古くても、記憶に残るものがいい。
「そういうところも気に入ってるんだ。」
「じゃあここにいる間はそのままでもいいかも。」アメリカに行って、あっちで自分の好きなカップが買えたらいいわね、と言って宮坂は笑った。



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